動くことが広宣流布
第3回の闘争は、年明けの32年1月21日から始まった。
― 32年といえば、戸田第2代会長が、「荒海の 鯱にも似たる 若人の 広布の集い 頼もしくぞある」と詠んだ“75万決着の年”である。
最後の山口闘争の期間は、わずか5日間。総仕上げをいかに戦うか。
名誉会長は動いた。動くことが広宣流布、人の心を動かすことが勝利である ―「二十一日、山口県東端の岩国市にやってきて、二十二日徳山、二十三日防府、二十四日宇部、二十五日下関と瀬戸内を西へ移動しながら、総仕上げの指揮をして組織を作っていった」(小説『人間革命』)。
■証言 (藤井秀子さん=当時・文京支部部隊幹事)
山口市の斎藤旅館を拠点にして戦いました。先生が来られると新来者を連れに飛び出し、連れてくると、「先生お願いします」とまた飛び出していく。楽しくて仕方がありませんでした。
お金がないので昼食抜きでしたが、3度の食事など贅沢だと思っていましたから、元気いっぱいでした。
文京支部は340世帯という大きな成果をあげることができました。皆が「先生!」「先生!」と、全力で先生を求めて戦った結果でした。
成果があがらず苦労していた一人に、先生はおっしゃいました。
「東京でうんと題目あげてきた人は、ここで結果が出るよ。ここで結果が出なくても、今、本気で戦った人は東京で結果が出る」
彼女は本気で祈り戦い、先生の言う通りになりました。
満天の星
京都支部の班担当員だった西村シズさん(故人)が手記を綴っている。「見知らぬ土地で一軒一軒、訪ね歩いた。ほとんどの人がそっぽを向く状態だった。辛い嫌な思いを何度もした。しかし、先生と共に戦っているという誇りが喜びと勇気に変えた。
数日後、先生が私たちの拠点に来てくださった。『学会と共に戦っていくなかに宿命転換ができるのですよ』。その先生の言葉を聞いてからは楽しくなった。弘教に弾みがついた。
ある日、先生を駅までお送りした。途中、先生を囲むようにして『人を恋うる歌』を歌った。空には満天の星が輝いていた。先生との戦いのなかにしか本当の喜びはないと確信した」
■証言 (白井登志恵さん=当時・小岩支部地区担当員)
先生を囲んでの懇談のひととき。突然、先生が「窓を開けてごらん」と言われました。窓を開けると星がきらめいていました。それまで星を見上げる余裕などありませんでした。「天地一体不二の理だ」。先生はそう言われ、身振り手振りを交えて語り始められました。
「頭の円かなるは天空にたとえ、つぶらな瞳は日月にたとえ、そのまばたきは昼夜に、髪の毛は夜空に輝く星に、鼻は渓谷に、吐く息は風を意味している。おなかが温かいのは春と夏に、背中が冷たいのは秋と冬に、体の大きな12の節は12ヶ月、小さな節は360と、1年に通じているのです。この大自然と私たちの生命は同じなのだよ」
生きることに必死だった私たちは、ロマンあふれる話に言いようのない感動を覚えました。忙しいからこそ心に余裕をもてと教えられたのです。
強い人間になるには
32年1月25日夜、山口闘争を締めくくる会合が下関で開かれた。下関旅館共同組合で開催された「各支部合同総会」であった。友人も含め400人が参集。闘争を開始した10月からは想像もできない結集であった。
司会は梅田支部の地区幹事の故・柏倉武さん。あがってしまい、しどろもどろだった。
「ああ、あなたですね。組長から一躍、地区幹事になったのは。日本で一番弱い地区幹事だったかいな」。名誉会長のユーモラスな一言に、会場は爆笑。司会も気が楽になった。
終了後、柏倉さんは名誉会長の所に行った。彼は、自分の弱さに悩んでいた。「どうしたら強い人間になれるでしょうか」。名誉会長は答えた。
「それには勇気と確信です。どんな逆境に直面しようが、信心根本に、勇気と確信をもってやり抜くことです」
■証言 (田中稔さん=岩国市・当時入会3ヶ月)
1月、先生が岩国に来られた時のことです。山口への訪問も3回目となり、経済的にも大変だったのでしょうか、先生のお食事はとても質素なものでした。
ご飯とみそ汁とかまぼこが少し。お茶を差し上げると、熱いご飯にザーッとかけて、サラサラッと見事な速さでかき込んでしまわれました。
2杯目も同じようにされたので、「先生、そんな召し上がり方では、お体に障ります」と申し上げてしまいました。「悪いと分かっていても、次にやらなきゃいけないことがあって、急いでしまうんだね」と笑っておられました。すべての先頭に立たれる先生の激務がどれほど大変なものなのか。この時初めて知りました。
■証言 (桑名義治さん=当時・志木支部隊長)
めずらしく先生が「疲れたな、きょうは」と漏らされました。当時、大学の陸上選手だった私は、先生の肩をもませていただきました。
肩は鉄板のようでした。どれほどお疲れだったか。指先から伝わりました。「イタタッ」と先生。「壊さないでくれよ」。「ハイッ」と元気いっぱい返事しながら、胸が熱くなりました。
「この1年間が大切です」
掉尾を飾った「各支部合同総会」で、多くの班長・班担当員が誕生した。名誉会長は指導した。
「この地から、高杉晋作、久坂玄瑞など日本の夜明けを告げる人材が出た。この戦いに参加した人が火の手をあげ、維新を越える創価の歴史を残してください」
翌朝、下関の彦島方面の6人が東陽館にあいさつに行った。その時、名誉会長は決意を披歴するように言った。
「この1年間が大切です。しっかり頑張りなさい。75万をやり遂げるのです。私が全責任をとります!」。
■証言 (寺井英治さん=当時・松島支部地区幹事)
山口闘争からの帰途、大阪に寄られた先生が、派遣メンバーとの懇談の機会をもってくださいました。
「歌を教えよう」― 先生が一節ごとに歌われ、あとに続いて私たちも歌いました。
「君が愁いに 我は泣き
我が喜びに 君は舞う
若き我等が 頬に湧く
その紅の 血の響き」
(沼間晶教・作詞)
それは、「嗚呼 黎明は近づけり」という歌で、後に学会の愛唱歌になった旧制・大阪高等学校の寮歌でした。
歌っているうちに、先生が伝えんとする学会精神が命の奥底に響いてきました。みんなの目から涙があふれ出てきて、涙を拭うのも忘れていました。
黎明は近いぞ! この壁を破れば広布はできる! 苦闘する同志と団結して戦え! 先生の「魂の叫び」が届きました。
弟子が歴史を残した山口闘争。この闘争の残したものは何であったか。
それは、世帯の「10倍の拡大」という誰もが驚嘆する結果であった。
だが、その偉大な結果も、目に見えた“一つの炎”であった。まだ、目に見えない“燎原の炎”が、そこには隠れていた。名誉会長と初めて出会い、薫陶を受けた派遣メンバーが地元に戻った後に、それが分かった。山口闘争は単なる「一地域のための闘争」ではなかったのだ。
「蒲田支部」「文京支部」「札幌」「第1部隊」「大阪」と、今まで限られた地域の同志がつかんだ名誉会長との“絆”“呼吸”― この壁を破る「巨大なエネルギー」が、派遣メンバーを通して、全国各地で爆発した。
「燎原の火」は、師の「75万の願業」達成への「広布の炎」となっていく ―。
第3回の闘争は、年明けの32年1月21日から始まった。
― 32年といえば、戸田第2代会長が、「荒海の 鯱にも似たる 若人の 広布の集い 頼もしくぞある」と詠んだ“75万決着の年”である。
最後の山口闘争の期間は、わずか5日間。総仕上げをいかに戦うか。
名誉会長は動いた。動くことが広宣流布、人の心を動かすことが勝利である ―「二十一日、山口県東端の岩国市にやってきて、二十二日徳山、二十三日防府、二十四日宇部、二十五日下関と瀬戸内を西へ移動しながら、総仕上げの指揮をして組織を作っていった」(小説『人間革命』)。
■証言 (藤井秀子さん=当時・文京支部部隊幹事)
山口市の斎藤旅館を拠点にして戦いました。先生が来られると新来者を連れに飛び出し、連れてくると、「先生お願いします」とまた飛び出していく。楽しくて仕方がありませんでした。
お金がないので昼食抜きでしたが、3度の食事など贅沢だと思っていましたから、元気いっぱいでした。
文京支部は340世帯という大きな成果をあげることができました。皆が「先生!」「先生!」と、全力で先生を求めて戦った結果でした。
成果があがらず苦労していた一人に、先生はおっしゃいました。
「東京でうんと題目あげてきた人は、ここで結果が出るよ。ここで結果が出なくても、今、本気で戦った人は東京で結果が出る」
彼女は本気で祈り戦い、先生の言う通りになりました。
満天の星
京都支部の班担当員だった西村シズさん(故人)が手記を綴っている。「見知らぬ土地で一軒一軒、訪ね歩いた。ほとんどの人がそっぽを向く状態だった。辛い嫌な思いを何度もした。しかし、先生と共に戦っているという誇りが喜びと勇気に変えた。
数日後、先生が私たちの拠点に来てくださった。『学会と共に戦っていくなかに宿命転換ができるのですよ』。その先生の言葉を聞いてからは楽しくなった。弘教に弾みがついた。
ある日、先生を駅までお送りした。途中、先生を囲むようにして『人を恋うる歌』を歌った。空には満天の星が輝いていた。先生との戦いのなかにしか本当の喜びはないと確信した」
■証言 (白井登志恵さん=当時・小岩支部地区担当員)
先生を囲んでの懇談のひととき。突然、先生が「窓を開けてごらん」と言われました。窓を開けると星がきらめいていました。それまで星を見上げる余裕などありませんでした。「天地一体不二の理だ」。先生はそう言われ、身振り手振りを交えて語り始められました。
「頭の円かなるは天空にたとえ、つぶらな瞳は日月にたとえ、そのまばたきは昼夜に、髪の毛は夜空に輝く星に、鼻は渓谷に、吐く息は風を意味している。おなかが温かいのは春と夏に、背中が冷たいのは秋と冬に、体の大きな12の節は12ヶ月、小さな節は360と、1年に通じているのです。この大自然と私たちの生命は同じなのだよ」
生きることに必死だった私たちは、ロマンあふれる話に言いようのない感動を覚えました。忙しいからこそ心に余裕をもてと教えられたのです。
強い人間になるには
32年1月25日夜、山口闘争を締めくくる会合が下関で開かれた。下関旅館共同組合で開催された「各支部合同総会」であった。友人も含め400人が参集。闘争を開始した10月からは想像もできない結集であった。
司会は梅田支部の地区幹事の故・柏倉武さん。あがってしまい、しどろもどろだった。
「ああ、あなたですね。組長から一躍、地区幹事になったのは。日本で一番弱い地区幹事だったかいな」。名誉会長のユーモラスな一言に、会場は爆笑。司会も気が楽になった。
終了後、柏倉さんは名誉会長の所に行った。彼は、自分の弱さに悩んでいた。「どうしたら強い人間になれるでしょうか」。名誉会長は答えた。
「それには勇気と確信です。どんな逆境に直面しようが、信心根本に、勇気と確信をもってやり抜くことです」
■証言 (田中稔さん=岩国市・当時入会3ヶ月)
1月、先生が岩国に来られた時のことです。山口への訪問も3回目となり、経済的にも大変だったのでしょうか、先生のお食事はとても質素なものでした。
ご飯とみそ汁とかまぼこが少し。お茶を差し上げると、熱いご飯にザーッとかけて、サラサラッと見事な速さでかき込んでしまわれました。
2杯目も同じようにされたので、「先生、そんな召し上がり方では、お体に障ります」と申し上げてしまいました。「悪いと分かっていても、次にやらなきゃいけないことがあって、急いでしまうんだね」と笑っておられました。すべての先頭に立たれる先生の激務がどれほど大変なものなのか。この時初めて知りました。
■証言 (桑名義治さん=当時・志木支部隊長)
めずらしく先生が「疲れたな、きょうは」と漏らされました。当時、大学の陸上選手だった私は、先生の肩をもませていただきました。
肩は鉄板のようでした。どれほどお疲れだったか。指先から伝わりました。「イタタッ」と先生。「壊さないでくれよ」。「ハイッ」と元気いっぱい返事しながら、胸が熱くなりました。
「この1年間が大切です」
掉尾を飾った「各支部合同総会」で、多くの班長・班担当員が誕生した。名誉会長は指導した。
「この地から、高杉晋作、久坂玄瑞など日本の夜明けを告げる人材が出た。この戦いに参加した人が火の手をあげ、維新を越える創価の歴史を残してください」
翌朝、下関の彦島方面の6人が東陽館にあいさつに行った。その時、名誉会長は決意を披歴するように言った。
「この1年間が大切です。しっかり頑張りなさい。75万をやり遂げるのです。私が全責任をとります!」。
■証言 (寺井英治さん=当時・松島支部地区幹事)
山口闘争からの帰途、大阪に寄られた先生が、派遣メンバーとの懇談の機会をもってくださいました。
「歌を教えよう」― 先生が一節ごとに歌われ、あとに続いて私たちも歌いました。
「君が愁いに 我は泣き
我が喜びに 君は舞う
若き我等が 頬に湧く
その紅の 血の響き」
(沼間晶教・作詞)
それは、「嗚呼 黎明は近づけり」という歌で、後に学会の愛唱歌になった旧制・大阪高等学校の寮歌でした。
歌っているうちに、先生が伝えんとする学会精神が命の奥底に響いてきました。みんなの目から涙があふれ出てきて、涙を拭うのも忘れていました。
黎明は近いぞ! この壁を破れば広布はできる! 苦闘する同志と団結して戦え! 先生の「魂の叫び」が届きました。
弟子が歴史を残した山口闘争。この闘争の残したものは何であったか。
それは、世帯の「10倍の拡大」という誰もが驚嘆する結果であった。
だが、その偉大な結果も、目に見えた“一つの炎”であった。まだ、目に見えない“燎原の炎”が、そこには隠れていた。名誉会長と初めて出会い、薫陶を受けた派遣メンバーが地元に戻った後に、それが分かった。山口闘争は単なる「一地域のための闘争」ではなかったのだ。
「蒲田支部」「文京支部」「札幌」「第1部隊」「大阪」と、今まで限られた地域の同志がつかんだ名誉会長との“絆”“呼吸”― この壁を破る「巨大なエネルギー」が、派遣メンバーを通して、全国各地で爆発した。
「燎原の火」は、師の「75万の願業」達成への「広布の炎」となっていく ―。