常勝大阪 民衆は、かく戦い、かく勝った。

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「自身の”不滅の金字塔”を打ち立てる会」  実行委員会(非公式)のブログ

「我勝てり!」と愉快に進もう!

2004年05月27日 | 未分類
 動くことが広宣流布

 第3回の闘争は、年明けの32年1月21日から始まった。
 ― 32年といえば、戸田第2代会長が、「荒海の 鯱にも似たる 若人の 広布の集い 頼もしくぞある」と詠んだ“75万決着の年”である。
 最後の山口闘争の期間は、わずか5日間。総仕上げをいかに戦うか。
 名誉会長は動いた。動くことが広宣流布、人の心を動かすことが勝利である ―「二十一日、山口県東端の岩国市にやってきて、二十二日徳山、二十三日防府、二十四日宇部、二十五日下関と瀬戸内を西へ移動しながら、総仕上げの指揮をして組織を作っていった」(小説『人間革命』)。


■証言 (藤井秀子さん=当時・文京支部部隊幹事)
 山口市の斎藤旅館を拠点にして戦いました。先生が来られると新来者を連れに飛び出し、連れてくると、「先生お願いします」とまた飛び出していく。楽しくて仕方がありませんでした。
 お金がないので昼食抜きでしたが、3度の食事など贅沢だと思っていましたから、元気いっぱいでした。
 文京支部は340世帯という大きな成果をあげることができました。皆が「先生!」「先生!」と、全力で先生を求めて戦った結果でした。
 成果があがらず苦労していた一人に、先生はおっしゃいました。
 「東京でうんと題目あげてきた人は、ここで結果が出るよ。ここで結果が出なくても、今、本気で戦った人は東京で結果が出る」
 彼女は本気で祈り戦い、先生の言う通りになりました。


 満天の星

 京都支部の班担当員だった西村シズさん(故人)が手記を綴っている。「見知らぬ土地で一軒一軒、訪ね歩いた。ほとんどの人がそっぽを向く状態だった。辛い嫌な思いを何度もした。しかし、先生と共に戦っているという誇りが喜びと勇気に変えた。
 数日後、先生が私たちの拠点に来てくださった。『学会と共に戦っていくなかに宿命転換ができるのですよ』。その先生の言葉を聞いてからは楽しくなった。弘教に弾みがついた。
 ある日、先生を駅までお送りした。途中、先生を囲むようにして『人を恋うる歌』を歌った。空には満天の星が輝いていた。先生との戦いのなかにしか本当の喜びはないと確信した」


■証言 (白井登志恵さん=当時・小岩支部地区担当員)
 先生を囲んでの懇談のひととき。突然、先生が「窓を開けてごらん」と言われました。窓を開けると星がきらめいていました。それまで星を見上げる余裕などありませんでした。「天地一体不二の理だ」。先生はそう言われ、身振り手振りを交えて語り始められました。
 「頭の円かなるは天空にたとえ、つぶらな瞳は日月にたとえ、そのまばたきは昼夜に、髪の毛は夜空に輝く星に、鼻は渓谷に、吐く息は風を意味している。おなかが温かいのは春と夏に、背中が冷たいのは秋と冬に、体の大きな12の節は12ヶ月、小さな節は360と、1年に通じているのです。この大自然と私たちの生命は同じなのだよ」
 生きることに必死だった私たちは、ロマンあふれる話に言いようのない感動を覚えました。忙しいからこそ心に余裕をもてと教えられたのです。


 強い人間になるには

 32年1月25日夜、山口闘争を締めくくる会合が下関で開かれた。下関旅館共同組合で開催された「各支部合同総会」であった。友人も含め400人が参集。闘争を開始した10月からは想像もできない結集であった。
 司会は梅田支部の地区幹事の故・柏倉武さん。あがってしまい、しどろもどろだった。
 「ああ、あなたですね。組長から一躍、地区幹事になったのは。日本で一番弱い地区幹事だったかいな」。名誉会長のユーモラスな一言に、会場は爆笑。司会も気が楽になった。
 終了後、柏倉さんは名誉会長の所に行った。彼は、自分の弱さに悩んでいた。「どうしたら強い人間になれるでしょうか」。名誉会長は答えた。
 「それには勇気と確信です。どんな逆境に直面しようが、信心根本に、勇気と確信をもってやり抜くことです」


■証言 (田中稔さん=岩国市・当時入会3ヶ月)
 1月、先生が岩国に来られた時のことです。山口への訪問も3回目となり、経済的にも大変だったのでしょうか、先生のお食事はとても質素なものでした。
 ご飯とみそ汁とかまぼこが少し。お茶を差し上げると、熱いご飯にザーッとかけて、サラサラッと見事な速さでかき込んでしまわれました。
 2杯目も同じようにされたので、「先生、そんな召し上がり方では、お体に障ります」と申し上げてしまいました。「悪いと分かっていても、次にやらなきゃいけないことがあって、急いでしまうんだね」と笑っておられました。すべての先頭に立たれる先生の激務がどれほど大変なものなのか。この時初めて知りました。


■証言 (桑名義治さん=当時・志木支部隊長)
 めずらしく先生が「疲れたな、きょうは」と漏らされました。当時、大学の陸上選手だった私は、先生の肩をもませていただきました。
 肩は鉄板のようでした。どれほどお疲れだったか。指先から伝わりました。「イタタッ」と先生。「壊さないでくれよ」。「ハイッ」と元気いっぱい返事しながら、胸が熱くなりました。


 「この1年間が大切です」

 掉尾を飾った「各支部合同総会」で、多くの班長・班担当員が誕生した。名誉会長は指導した。
 「この地から、高杉晋作、久坂玄瑞など日本の夜明けを告げる人材が出た。この戦いに参加した人が火の手をあげ、維新を越える創価の歴史を残してください」
 翌朝、下関の彦島方面の6人が東陽館にあいさつに行った。その時、名誉会長は決意を披歴するように言った。
 「この1年間が大切です。しっかり頑張りなさい。75万をやり遂げるのです。私が全責任をとります!」。


■証言 (寺井英治さん=当時・松島支部地区幹事)
 山口闘争からの帰途、大阪に寄られた先生が、派遣メンバーとの懇談の機会をもってくださいました。
 「歌を教えよう」― 先生が一節ごとに歌われ、あとに続いて私たちも歌いました。 
 「君が愁いに 我は泣き
  我が喜びに 君は舞う
  若き我等が 頬に湧く
  その紅の 血の響き」
      (沼間晶教・作詞)

 それは、「嗚呼 黎明は近づけり」という歌で、後に学会の愛唱歌になった旧制・大阪高等学校の寮歌でした。
 歌っているうちに、先生が伝えんとする学会精神が命の奥底に響いてきました。みんなの目から涙があふれ出てきて、涙を拭うのも忘れていました。
 黎明は近いぞ! この壁を破れば広布はできる! 苦闘する同志と団結して戦え! 先生の「魂の叫び」が届きました。



 弟子が歴史を残した山口闘争。この闘争の残したものは何であったか。
 それは、世帯の「10倍の拡大」という誰もが驚嘆する結果であった。
 だが、その偉大な結果も、目に見えた“一つの炎”であった。まだ、目に見えない“燎原の炎”が、そこには隠れていた。名誉会長と初めて出会い、薫陶を受けた派遣メンバーが地元に戻った後に、それが分かった。山口闘争は単なる「一地域のための闘争」ではなかったのだ。
 「蒲田支部」「文京支部」「札幌」「第1部隊」「大阪」と、今まで限られた地域の同志がつかんだ名誉会長との“絆”“呼吸”― この壁を破る「巨大なエネルギー」が、派遣メンバーを通して、全国各地で爆発した。
 「燎原の火」は、師の「75万の願業」達成への「広布の炎」となっていく ―。

戦いは、執念 勝敗は決着力!

2004年05月27日 | 未分類
 団結とは一人立つこと

 団結とは、妥協することではない。一人立つことである。名誉会長は指導している。
 「“一人立つ”ということと、団結とは、一見違うように思えるが、実は全く同じものである」。責任をもって一人立つところにしか団結は生まれない。これが勝利への力である。


■証言 (永瀬好蔵さん=当時・志木支部班長)
 志木支部の私たち6人のメンバーは、3日間戦っても成果は出ませんでした。先生は、そんな私たちの所に激励に来てくださいました。
 先生の指導を受けたその日、なんと6世帯の弘教が実りました。嬉しくて、先生に電話で報告しました。先生はおっしゃいました。
 「この成果を支部長に報告しましたか。寝ないで君たちの連絡を待っているよ」と。
 駅まで見送ってくれた支部長のことを、すっかり忘れていました。すぐに支部長に電話しました。
 連絡を心待ちにしていたとのこと。順番に報告して、みんな声を詰まらせました。先生の心が分かったからでした。団結の大切さを教えてくださったのです。


 1枚の写真

 11月16日、柳井市の開作屋旅館で撮られた一枚の写真がある。
 撮影者は、写真館を営んでいた平本ヤエ子さんの夫・勝さん。10月に入会した彼女にとって、信心反対の夫のことが悩みであった。
 そのことを名誉会長に話した。名誉会長は言った。「みんなの記念写真をご主人に撮ってもらおう」と。御書講義終了後、記念撮影会となった。


■証言 (平本ヤエ子さん=柳井市31年10月入会)
 夫は、機材を持って旅館にやってきました。先生の真心に本当に恐縮しました。
 先生は私を激励してくださいました。「ご主人は、必ず信心される時が来ます。頑張りなさい」と。そして、その通りになったのです。


■証言 (平本勝さん=柳井市32年1月入会)
 「写真を撮ってほしい」との妻の伝言で、私は出かけました。
 先生は宗教の誤りについて講義されていました。講義の途中、私が反論すると、「あなたは仏法を知らないのです」と毅然として破折されました。「紙に書かれたものを拝んで、どうして功徳があるのですか」と尋ねると、こうおっしゃいました。
 「紙に書かれてある内容が大事なのです。千円札をあなたは恋しく思うでしょう。それは、千円札に力があることを知っているからです。御本尊様も同じです。あなたには読めないが、どんな人も幸せにすると書かれてあるのです」と。
 私は納得し、写真撮影をさせていただきました。それが、あの偉大な闘争の1枚になろうとは思いもしませんでした。


 2ヶ月後の32年1月、勝さんは入会。まもなく徳山を訪れた名誉会長のもとへ勇んで駆けつけた。その折、彼は名誉会長に「地域のことで心配なことがあります」と、また質問をした。
 名誉会長は言った。「あなたが変えていけばいいのです」。勝さんは驚いた。“一介の写真店主に何ができるのだろうか”と。
 しかし後に勝さんは市会議員となり、地域社会に貢献することとなった。


 「やりましょう!」の一言

 徳山のちとせ旅館でのこと。名誉会長は一組の夫妻に語りかけた。夫は入会決意をしたが、夫人が反対していた。
 「何か質問はありませんか」と尋ねる名誉会長に、「ありませんよ、何も」と夫人。彼女の顔は喘息の薬の副作用で腫れ上がっていた。
 「どうされましたか」と名誉会長は、「病の起る因縁を明すに六有り…」(1009ページ)を引き、丁寧に話をした。
 それでも彼女は、「御書や御本尊は、後の人が勝手に書いたんでしょ」と言う。「それでは歴史を否定することになりますよ」。名誉会長は理路整然と語った。
 次の防府へ向かう列車の時間が迫っていた。玄関まで出た名誉会長は、最後に力強く言った。「やりましょう!」。その瞬間、彼女の命が揺さぶられた。「ハイ」と答えていた。


■証言 (益永初代さん=山口市31年10月入会)
 主人がひどいリューマチで苦しみ、一緒に入会しました。しかし夫はまだ疑っていました。
 先生が山口に来られた時、「科学万能な時代に宗教など必要ありません」と夫は反発しました。しかし先生は、そんな夫にも「病気は治ります!」と、すごい確信で言われました。
 翌月、再び先生にお会いしました。「病気はどうですか。この前より顔の相が良くなりましたね」と言われた先生に、「顔の相と信心とどう関係あるのですか」と、失礼にも、また屁理屈をこねたのです。そんなへそ曲がりの夫に、先生は再び真心から答えてくださいました。
 それからの夫は、生き生きとして、人が変わったようになりました。真面目に信心するようになった夫のリューマチは徐々に回復しました。以来、夫が先生にお会いできる時は、下着から背広まで新調して出かけました。


 一通の手紙

 それから5年ほど経った時であった。リューマチが再発。増永さんの夫・蔵一さん(故人)が名誉会長に手紙を書いた。しかし、指が動かないので、夫人が代筆した。
 後日、一通の手紙が届いた。名誉会長からであった。
 「本日、芳書を頂戴し、びっくり致しました。さぞ苦しいことでしょう。自ら作った罪業は、当然、今世に済ますのが道理です。いまの病も実は、護法の功徳力により、軽くすんでいる事を自覚すべきです。一点の濁りもなく、しっかり御本尊を抱きしめて、人間革命を、宿命打開をされますことを胸奥より祈っております。
 長い長い人生です。声高らかに題目をあげ、苦をば苦とさとり楽をば楽を開いて、必ず必ず来る春を待つことです。ゆうゆうと闘病生活をされ度しです。皆勉強と思って。御書に云く『法華経を持ち奉るとは我が身仏身と持つなり…さて仏身を持つとは我が身の外に仏無しと持つを云うなり』云々。成仏の出来得る大法を受持して何で病魔に負け得る事がありましょうや、大兄の元気な身体を、顔を楽しみに」
 長文の真心こもる返事に、二人は滂沱の涙。師に再起を誓った。


 「病に負けた心」を克服!

 萩での座談会でのこと。肺結核、腎臓結核、卵巣嚢種などで8年間も苦しんでいた婦人が参加していた。まだ入会1ヶ月の伊藤時枝さんである。
 「この信心で病気が治りますか」と彼女は質問した。彼女を見た名誉会長は言った。「あなたは病気ではありません。絶対に治ります」。


■証言 (伊藤時枝さん=萩市、31年10月入信)
 私は、指導の意味が分からなくて、翌朝、先生が泊まっておられた高木屋旅館を訪ねました。「本当に治るんでしょうか」。もう一度伺いました。
 先生はおっしゃいました。「絶対治ります。治る方法を教えます。折伏をすることです。信心させたい人をここへ連れていらっしゃい」。3人の友人を誘って、また伺いました。
 3人はその場で入会しました。「きょうから、この3人のお姉さんはあなたですよ」と言われました。私は大変なことになったと思いました。もう病気だと言って、寝ているわけにはいかなくなったからでした。
 後になって、「あなたは病気ではない」と言われた意味が分かりました。「私は病気だ」と病気に負けていた心を先生は切ってくれたのです。
 3年後、大阪で先生にお会いしました。「元気になられましたね」。私を見るなり先生はおっしゃいました。あれから4ヶ月後に病気が治ったことを報告しました。


 忘れた杖

 志木支部の地区担当員だった故・井桁ハナさんが思い出を綴っている。
 井桁さんは年輩の婦人を入会させた。半身不随だった婦人だが、信心すると手が動くようになり、翌日には杖をついて歩けるようになった。彼女は喜んで座談会にやってきた。
 「先生の指導が終わり、彼女を探すと、姿が見えません。玄関に行くと、そこに彼女の杖が残っていました。翌日、彼女の家に行ったら、『忘れてしまった』と言っておりました。杖なしで歩けるようになっていたのです。御本尊の功徳のすごさを感じました」


■証言 (小林宏さん=当時・築地支部隊長)
 部隊長に「山口闘争に参加しないか」と言われ、二つ返事で参加することにしました。ところが、大学4年生だった私は、就職試験と10月の山口闘争とが重なってしまったのです。当時は、深刻な就職難でした。私は悩み、闘争参加を諦めました。
 試験は不合格。就職が決まらないまま、11月からの山口闘争に参加しました。築地支部だった私は、岩国で必死に戦いました。
 闘争を終えて東京に戻った年末、願ってもない所に就職が決まりました。「自分のこと」より、「先生との戦い」に覚悟を決めて挑戦したら就職に勝利したのです。人生のあり方を教わりました。


「中途半端」を排せ! 勝利はそこにある

2004年05月27日 | 未分類
 真剣に戦った功徳は絶大

 名誉会長が出席した下関の会合でのこと。一人の壮年が質問した。
 「勝負事が好きなんですが」。名誉会長は答えた。
 「何事をするにも中途半端は負け戦です。今回の闘争を真剣に戦った人の功徳は、絶対に現実生活に現れます。御本尊への真剣な祈りは必ず叶います」。大確信の言葉であった。


■証言 (岩本和子さん=山口市31年12月入会)
 パチンコなど賭け事が好きな夫が、「真面目に仕事ができるようになりたい」と31年暮れに入会しました。翌月、夫は班長の任を受けました。
 その時、先生に「班長として、どう戦ったらいいか分かりません」と質問しました。先生は、「学会から絶対に離れてはいけない」「班長として日本一になるのです」とおっしゃいました。
 「仕事は」とも聞かれたそうです。「氷屋です」と夫が答えると、「日本一の氷屋になりなさい」と。夫は大喜びで帰ってきました。それから夫は賭け事を一切やめ、職場で信頼される存在になりました。


■証言 (桑名義治さん=当時・志木支部隊長)
 先生が山口市に入られた時のことです。山口市の派遣メンバーは1世帯の折伏も実っていませんでした。
 朝の出発で先生は、昼の1時に集合することを約しあって散会させました。旅館を出る直前、先生に呼び止められました。「みんなが集まる時に必ず新来者を連れて来なさい」。― 私は必死になりました。執念で知人の映写技師を折伏しました。入会の決意を固めさせて昼の会合に連れ出せたのは私一人でした。
 先生はおっしゃいました。「広宣流布を進めるだけではないのです。今、戦うことは皆さん方の幸せにつながっていくのです。法のために尽くすこと一切合切が功徳善根につながっていくのです。この青年は、昨日、私と来たんです。それでも今日、折伏をしました。この一念が大事なんです!」
 今の戦いが自分の功徳となる ―。やらされているような中途半端な信心を先生は鋭く指摘されたのです。足が地面にピタッと着きました。その日、30数世帯が実りました。


 旅館の女将の入会

 11月17日のことである。徳山のちとせ旅館に名誉会長が到着した。そこは梅田支部の派遣員の拠点であった。
 この日、彼らは女将の大川ツネ子さん(故人)に言った。「きょう、偉い人が来ますから話を聞きませんか」。
 夕方、到着した名誉会長は、魚を焼いていた女将に深々と頭を下げた。「女将さんですか。大勢で押しかけて、ご迷惑のことでしょう。お世話になりますが、宜しくお願いします」。
 「普通の客とは違う」と女将は思った。会合に参加してみると、先ほどの青年が中心で堂々と話していた。女将の大川さんは、その場で入会した。


■証言 (森下日出子さん=徳山市32年1月入会)
 ちとせ旅館の女将が入会する場に私もいました。
 先生が東京に帰られる時、派遣員の方に花瓶を買ってくるように言われました。買ってきた花瓶は、先生が思われていたものとは違った様子でした。
 粗末なもので申し訳ありませんが、泊めていただいた記念に女将さんに差し上げます」。名誉会長はその花瓶を贈られたのです。
 私はびっくりしました。先生は、本当はもっといい花瓶を贈りたかったのではないでしょうか。先生の誠意の深さに感動しました。


■証言 (北風達子さん=当時・福岡支部部隊長)
 防府の旅館でのことです。先生から「仲居さんは何人いるか、聞いてきてください」と言われ、調べて報告しました。
 「じゃあ、何がいいかな」と先生はつぶやかれました。先生は自ら買い物に出られ、私もお供させていただきました。チューリップ型の黒い花瓶を仲居さんの人数分買われました。
 「どうして人数分いるのですか」と伺いました。先生は言われました。「みんなが訪ねて着いた時、応対に出るのは仲居さんです。それもお付きの仲居さんだけとは限らないだろう」。
 そこまで気を配られる先生の思いの深さ、温かさ。会員のために、徹底して心を尽くされるのが先生の行動なのです。


断じて一人も不幸にしない!

2004年05月27日 | 未分類
 山陽広布の黎明の聖鐘を

 名誉会長は、11月も1日1都市という強行日程で、列車に飛び乗り、市から市へ。15日は岩国。 16日は柳井。17日は徳山。18日は防府。19日は宇部。20日は山口、そして初訪問の萩。21日は萩、夜には下関。「法華経を行ずる日蓮等が弟子檀那の住所はいかなる山野なりとも霊鷲山なり」(811ページ)。名誉会長は、奮闘する“霊鷲山の友”と「魂の交流劇」を綴っていった。


■証言 (河村文生さん=当時・向島支部隊長)
 岩国市の隣、玖珂郡出身の私は、郷里の母や姉を折伏しました。山口闘争の1年前のことです。
 山口闘争の折、母と姉が先生のおられた岩国の松秀食堂に駆けつけました。しかしすれ違いでした。残念でした。ところが、宇部に移られた先生に、その報告が届いたのです。
 「山陽広布の黎明の聖鐘を打とう 昭和31年11月19日」― 先生は、ご自身が認められた揮毫を「その人に渡してください」と託されたそうです。


■証言 (星谷弘子さん=河村文生さんの姉・岸本ミヤエさん〈故人〉の二女)
 幹部の方が先生の揮毫を持って母・ミヤエの所に来られました。その時、その幹部の方は、「この揮毫は宝だよ。今回の闘争のために先生が書かれ、泊まられた宿舎の床の間に掛けられていたものだよ」と言われました。
 タテ110センチ、ヨコ81センチの大洋紙に書かれた大きな揮毫でした。
 辺地で戦う母らをなんとしても励ましたい ― その先生の心に応え、母は頑張りました。3日後、母の家には10人以上の友が集いました。1ヶ月で40世帯の弘教をやりきりました。


 人の幸せを祈る

 徳山で名誉会長は指導した。
 「幸せになるためには、自分の幸せを祈るだけではいけない。人の幸せを祈るのです」
 そこに、1歳の子どもを連れた婦人が参加していた。婦人はちょこちょこ動く子どもに気を取られていた。
 名誉会長は言った。「あなたは子守をしに来たのですか。話を聞きに来たのなら、私が子守をしてあげましょう」。名誉会長はその子を自分のひざに抱き、テーブルにあった菓子をあげ、指導を続けた。
 人の幸せのために自分の労を惜しまない ― 参加者は、名誉会長の温かい人間味に、間近で触れていった。


■証言 (北風達子さん=当時・福岡支部部隊長)
 先生が青年部を食事に招待してくださったことがあります。先輩が食事の作法のことで注意されました。
 先輩が叱られたことを母に伝えると、母は言いました。「何も分からないお前は、まだ厳しく叱られることはないわね。退転してしまうもの」。
 あくる日、「私を叱ってください」と先生に訴えました。先生は笑っておられました。そして「指導には4種類ある」と言われました。
 一つは、純粋無垢の時は褒め称えればいい。二つ目は、ある程度、分かってきたら叱咤することも指導となる。三つは、かわいそうな人には温かく擁護すること。四つ目が信心指導。この四つを間違ってはいけない、と。
 そう語られたあと、先生は、「子どもが生まれたばかりで離婚してしまった若い婦人が、これから指導を求めてくるんだよ」と言われました。その婦人のために「果物を買ってきてほしい」と私は頼まれました。
 もう、これ以上できないというほどの先生の大激励に、婦人は頬を紅潮させて再起を誓っていました。


 志が人間をつくる

 下関での青年部懇談会でのこと。名誉会長は「青年訓」を引いて語った。
 「青年部がこれからの学会の中心です。青年は金と暇があったら駄目になる。人間革命し、人格をつくることが第一です。貧乏こそ無形の財産です。『志が人間をつくる』のです」


■証言 (阪井貞子さん=当時・堺支部部隊幹事)
 先生との懇談会でのことでした。屋台のうどん屋の笛の音が聞こえてきました。「ごちそうしよう」。先生は一人ひとりから注文を取ってくださいました。しかし、買いに走った人から「売り切れでした」との報告が。先生は残念な表情を見せておられました。
 先生は青年の成長を待っておられたようでした。その期待に応えようと弘教に拍車がかかりました。私たちは目標の50世帯の弘教を達成しました。


■証言 (早河寿美子さん=当時中学生)
 下関の東陽館での会合に、私は母に連れられて参加しました。
 先生はおっしゃいました。「僕は忙しいので、自宅でゆっくりしたことがないんだよ」。家族のことも話してくださいました。「奥さんが琴を弾くんだよ。月夜の夕べ、わが家は琴の演奏会になるんだよ」。
 熾烈な戦いをされている先生の心は、なんと豊かなんだろう。わが家では考えられないことでした。顔を紅潮させている私に、先生は名前を聞いてくださり、声をかけてくださいました。「中学生かい。明日、学校がすんだら宿題をもっていらっしゃい。見てあげるよ」。何とやさしい方なのだろう。心から感じました。


 目の悪い青年

 下関の東陽館での指導会に、目の悪い青年が参加していた。
 彼は中学生の時に目を悪くした。当時、目が悪いことが理由で失業していた。そのことを知った名誉会長は言った。
 「とにかく願いなさい。一つ一つ願っていきなさい。いきなりいい仕事につけなくても、徐々にいい仕事が見つかります。目が悪くても絶対に守られます。信じきって祈るのです。そして折伏しなさい」
 その一言が青年を支えた。その後、手術を受け、彼の視力は回復した。


■証言 (中山善次さん=当時・福岡支部隊長)
 山口で先生に指導を受けました。肺結核でピンポン玉大のプラスチックが10数個、左胸に入っていると申し上げました。
 「体は宝器だから大事にして、しっかり広宣流布のためにがんばりなさい!」と先生。すごい迫力に思わず「ハイ!」と返事をしました。
 恥ずかしながら宝器の意味を知りませんでした。“なぜ箒が大事なのか”と思いながらも折伏に走りました。あとで宝器だと分かり、深い感動を覚えました。


 一献差し上げましょう

 宇部でのこと。一人の壮年が「炭鉱で働いています」と名誉会長に報告した。名誉会長は答えた。
 「炭鉱は危険ですから気をつけてください」。そしてこう続けた。「一献差し上げましょう」と。名誉会長は自ら手配をした。
 壮年は、コップになみなみとつがれた酒を飲み干した。心を動かされた。「この人についていこう!」。人の心を動かすのは、「言葉」ではない。真心の「行動」である。


■証言 (松井義明さん=当時・松島支部地区幹事)
 防府市で戦っていた私たち松島支部の拠点・その家旅館にも先生は来られ、泊まってくださいました。
 朝食の際、2階の一室に運ばれてきたおひつを先生が取り上げられました。そして、私たち一人ひとりに、ご飯を盛ってくださったのです。おかわりをしようとすると、また先生がよそってくださいました。恐縮のいたりでした。人生最高の思い出です。


■証言 (小橋教子さん=萩市 当時・小学4年)
 パンの製造業を営んでいたわが家に、突然、先生をお迎えし、座談会を開催した時のことです。
 帰られる間際、母が私に「手伝って」と言います。母はミカン皮の砂糖菓子を必死で袋に詰めていました。それを先生にお渡ししました。先生が帰られたあと、母は悔やんでいました。「準備ができなかったので、くず菓子しかお渡しできなかった」と。
 3年後、父が先生にお会いしました。「あの時のお菓子は美味しかったよ」と先生。私たちの真心を心にとどめてくださっていたのです。


■証言 (弘 教満さん=萩市 当時2歳)
 わが家に先生が来られた感動で、母は萩中を弘教に歩きました。私も母の手に引かれて行ったそうです。
 昭和48年、私が創価大学に進学した年の暮れでした。先生から突然、句をいただきました。
 「懐かしき あの家ありて 今日の指揮」。この時、私も萩広布に生きようと誓ったのです。


■証言 (田中稔さん=岩国市、当時・入会3ヶ月)
 わが家はクリーニング屋でした。そのことを先生に報告すると、先生はご自身のワイシャツを3枚出してくださいました。
 翌日、お届けに上がった時のことです。「代金はいりません」と言うと、先生は「商売は商売。信心は信心だよ。けじめをつけて、お店を繁盛させていくんですよ」と。
 90円の代金なのに100円いただきました。人間的な先生の振る舞いに深く感動しました。


苦闘を突き抜けよ!そこに喜びが!

2004年05月27日 | 未分類
 格好などいらない

 宇部市で活動していた岡山支部の友 ― 思うように戦いが進まない。ある友は、小高い丘に立って悩んだ。眼下に宇部市街が見える。「この下に18万人の人がいるのに、なぜ折伏ができないのか」。悔し涙で唱題した。
 大阪・船場支部でも同じであった。折伏できた友の姿を横目で見ながら、折伏できない友は、自分のふがいなさを嘆いた。田んぼの稲穂に潜り込み、ひとり涙を流した友もいた。
 弘教で悩んでいる一人の青年を名誉会長は励ました。
 「青年が格好つけていては戦いは進まない。勝つためには見栄や気取りを捨て、阿修羅のごとく戦うのです。私は、銀座のど真ん中を大八車を引き、雪の降るなかをシャツ一枚で折伏をやり抜いたのです」


■証言 (田代美津子さん=当時・岡山支部部隊長)
 折伏が一向に進まない時でした。私は公園の椅子に座り、悩んでいました。
 ひょっと見ると、向こうに、寝ころんで空を見ている人がいました。
 なんとその人も折伏できずに悩んでいた派遣メンバーだったのです。私たちは腹を抱えて笑ってしまいました。
 その話を先生に報告すると、「同病相憐れむだね」と笑っておられました。そして「楽しくやりなさい!」と言われたのです。おかげで、苦しかった戦いも楽しい闘争となりました。


 足立った!

 京都支部の班担当員のところに電報が舞い込んだ ―「アシタツタ」。
 意味不明の電文を見て、発信地を電報局に問い合わせた。下関であった。
 思い出した。折伏した下関の婦人からであった。彼女は5歳の子の足が立たないことに悩んでいたのである。
 「足立った」― 班担当員は「この信心はすごい」と確信。嬉しくなった。「苦労してよかった」と。


■証言 (嶋住タミさん=下関市 当時・班担当員)
 下関の東陽館に先生を訪ねました。入信3ヶ月でした。貧乏で、体調の悪かった私は「元気になれば、なんぼでもやります」と役職を辞退するつもりで出かけたのです。2階の部屋に主人と先輩の3人で入りました。
 部屋の端にいる私に、先生は黙って畳をトントンとたたかれました。近寄るようにという合図でした。ちょっと前に出るとまたトントン。ついに先生の真ん前まで進みました。
 先生は「やればできるよ」と言われました。何も説明していないのに面食らいました。どう返事をすればいいか迷っていると「仏意仏勅で戦うのです」と凛とした声でおっしゃいました。
 家に帰り、後悔の念でいっぱいになりました。御本尊の前に座ると、涙が止まりません。「先生、申し訳ありません」。この時から、私の宿命転換の戦いが始まったのです。


 列車から手を振る

 仙台支部の班担当員が岩国市内を弘教に歩いていた。足がむくみ、足裏にはマメができた。それでも戦いきり、目標の5世帯を達成した。
 10月18日のこと。駅前を歩いていると、向島支部の幹部に出会った。名誉会長がまもなく岩国駅を通るという。一緒に駅のホームへ。名誉会長は宇部から東京に戻る途中であった。
 彼らの姿を見つけた名誉会長は列車の窓から手を振った。そして1、2分の停車にもかかわらずホームに降りて激励した。会員を励ますことが広宣流布 ― 名誉会長の信条であった。


■証言 (丹たみさん=当時・仙台支部班担当員)
 それは、岩国駅のホームでのことでした。“まさか降りてこられるとは”。驚きました。私は思わず「先生、目標の5世帯ができました」と報告していました。そのうちの1世帯は先生に折伏していただいたものでした。
 「ご苦労さま。本当にご苦労さま」。先生は私の肩をたたき、「錦帯橋で記念写真を撮りなさい」と言われるやいなや列車に飛び乗られました。そして私たちの姿が見えなくなるまで手を振ってくださいました。
 その後、錦帯橋には行きましたが、帰りの汽車賃しかなくて、写真を撮ることができませんでした。
 でも、私にとって一生忘れられない思い出です。


 自らの使命を果たせ

 宇部市では船場・蒲田・鶴見・岡山支部などが成果を競い、街はまさに折伏一色。道を歩いていると、各地の派遣メンバーに出会った。しかし、終盤は結果が伸び悩んだ。ある幹部が名誉会長に「折伏ができないのですが…」と質問をした。名誉会長は言った。
 「折伏は必ずできます。民衆を救うために来たのではありませんか。自らの使命を果たすことです」。確信の指導であった。これを機に奮起。100世帯の弘教が実った。「やればできる!」。皆、確信をつかんだ。


「一番大変な所」へ行く!

2004年05月27日 | 未分類
 辺地の拠点を訪問

 一番、苦労している人のために学会はある。広宣流布とは、一番苦労している人を幸福にすることである ―。
 京都支部の派遣メンバーが下関で戦っていた。拠点は支部員の家。不便な所であった。水道どころか井戸すらない。炊事も風呂も、遠くから水を運ばなければならなかった。いざ拠点を飛び出しても、乗り物もない。
 そんな拠点にも、名誉会長は足を運んだ。派遣メンバーのなかに、夫を亡くし、3人の子どもをかかえた婦人がいた。
 名誉会長は激励した。「『賤者なりとも少し我れより勝れて智慧ある人には此の経のいはれを問い尋ね給うべし』(1382ページ)です。信心に真面目なお母さんが大切なのです。その人が誰よりも知恵ある勝利の人です」。
 派遣メンバーは立ち上がった。10日間で18家族が入会した。


■証言 (原渕祥光さん=当時・岡山支部地区部長)
 宇部で戦っていた私たちのために、先生がバスで来られました。寒い日でしたが、手袋をはずして手に持ち、「さあ、戦うぞ!」という気迫に溢れたお姿でした。
 お金のなかった私たちは、駅裏の民宿を拠点として活動していました。そんな私たちに、先生はカニを用意され、「食べなさい」とご馳走してくださいました。もう嬉しくて…。
 一人ひとりの状況を、先生は聞いてくださいました。「何の役職をやっているのですか」。「地区部長です」と私は答えました。隣の人にも聞かれました。支部幹事でした。地区部長をやったかどうかと尋ねられました。したことがないと言った支部幹事に先生はこう言われました。
 「組織の長をやり、苦労することです。一番大変な組織を持って戦うのです。その一念が功徳と開くのです」


 「友」の勝利が「私」の勝利

 名誉会長は指導している。
 「どこそこで、あの友が苦しんでいる。かの地域で仲間が奮闘している。そう聞けば、わが事のように祈る! 自他共の完勝のため、そこへ駆けつけ、共に戦う! この熱烈な同志愛があればこそ、あらゆる大難を乗り越え、学会は勝利、また勝利してきた」


■証言 (北風達子さん=当時・福岡支部部隊長)
 教学試験の面接を戸田先生に受けたことがありました。「仕事は」と戸田先生から聞かれ、「デパートに勤めています」と答えました。戸田先生は「一度、行ってあげるよ」と言ってくださいました。その話を山口闘争の折に、池田先生に申し上げたことがありました。
 闘争の渦中の11月22日のことでした。先生が私のデパートまで来てくださったのです。「戸田先生との約束を僕が果たしに来たよ」。感無量でした。
 「師匠の言ったことは弟子が成し遂げる」との先生のお心。師弟とは何か。どうすれば師弟の道を歩めるのか。学会の魂を教えていただきました。


「私が行く!」と先頭で戦う

2004年05月27日 | 未分類
 弟子が偉かったから

 激闘の合間、名誉会長が萩の松下村塾を訪れた時のことである。名誉会長は語った。
 「吉田松陰だけが偉大だったのではない。弟子が偉かったから松陰の名が世に出たのです。弟子の私たちがしっかりしなければ、何にもならない」
 また、“政治家はずるい”という松陰の手紙を引いて、「政治というものは、ずるいものです。そうした政治を変えなければ大衆は不幸です」と。
 民衆の幸福を願う“妙法の高杉晋作出でよ”“妙法の久坂玄端出でよ”との思いが伝わってきたという。


■証言 (北風達子さん=当時・福岡支部部隊長)
 先生が松下村塾に行かれる前に、おっしゃったことがあります。「なぜ名所旧跡を訪ねるか、分かりますか。歴史を知らなければ、本当の指導はできないからです」。先生の思いの深さを知りました。


 涙ひまなし

 10倍の拡大という壁を破った名誉会長の行動の源泉は何であったか。
 それは、「私が行く!」と先頭に立つ「行動」であった。
 下関の拠点で名誉会長が御書講義をした時のこと。「現在の大難を思いつづくるにもなみだ、未来の成仏を思うて喜ぶにもなみだせきあへず、鳥と虫とは鳴けどもなみだをちず、日蓮は・なかねども・なみだひまなし」(1361ページ)の個所になった時、名誉会長は言った。「皆さん、ここですよ。ここが大事なんです」。名誉会長の思いも同じであった。
 「その時の先生の熱いまなざしが忘れられません。闘争にかける先生の一念はここにあったんだ」と、参加者の一人は語っている。


■証言 (桑名義治さん=当時・志木支部隊長)
 朝の御書講義の後、先生に呼ばれました。その日の訪問予定を説明され、「先発隊として座談会に行って、指導をしなさい」と言われるのです。当時、私は入信2年目の一学生。周囲には多くの先輩幹部がいました。
 「座談会の中心者は支部幹部では…」。その瞬間でした。先生は誤記鋭く、「できない者に僕は頼まない。なんで君は最初からできないと決めてかかるんだ!」。挑みゆく心意気を教えていただきました。


■証言 (吉井光照さん=防府市31年10月入会)
 防府のふみや旅館での座談会で、初めて先生にお会いしました。先生は一人ひとりに語りかけられました。
 「君は信心しそうな顔をしていないね」と私は言われました。私は派遣隊の熱意に根負けして1ヶ月前に入会しただけでした。その心を見抜かれました。ドキッとしました。
 「この信心は、どこまで逃げても逃げることはできません。腹を決めるのです」。先生のその一言で決心しました。「どうせやるなら徹底してやろう」。私は朝から晩まで弘教に歩きました。私の地区では3ヶ月で60世帯の弘教が実りました。


 民衆エネルギーの結集

 明治維新の揺籃の地・山口で生まれたのが「奇兵隊」。高杉晋作の創設である。なぜ「奇兵隊」だったのか。「武士の時代は終わった。門閥、格式にこだわらない新しい軍隊をつくろう」。これが晋作の考えであった。
 身分に関係なく、志のある人材を募った。民衆エネルギーを結集したのである。
 戸田第2代会長は、このことについて語った。「いばっていた武士ではなく、バカにされていた百姓や町人を集めて、みごとに幕府軍を破った」「学会もまた同じ方程式をとっていくべきである」。
 広宣流布とは観念の遊戯ではない。現実の熾烈な戦いである。


■証言 (橋本友次さん=当時・本郷支部班長)
 「5世帯の折伏をして帰ってこい」と支部長から押し出され、萩市の拠点で戦いました。4世帯できて戻ると、支部拠点の敷居をまたがないうちに「もう1回行ってらっしゃい」と。それで、2回目の11月も参加しました。
 萩市を夢中で歩き、徹して対話しました。それでも達成できない。宇部まで足を伸ばしました。先生が萩に来られたのは、その間でした。
 残念でした。しかし会える会えないより、私たちの所まで来ていただいたことが嬉しくて、目標をやりきって東京へ戻りました。
 戻ってから驚きました。家業の食料品店が忙しくなり、てんやわんや。従業員も6人になり、商売は大繁盛。7階建てのビルを持つまでになりました。山口闘争から人生が変わりました。


「次の50年」を決するのは「今」

2004年05月27日 | 師弟
 弟子の勝利が師の勝利

 歴史に燦然と輝く「山口闘争」。世帯を「10倍」に拡大した未曽有の大闘争は、極めて短期間で達成された。池田名誉会長が現地で指揮を執ったのは、わずか22日間。
 1回目の31年10月の10日間の闘争に続き、2回目は、11月15日から21日まで。そして翌32年1月21日から25日までの、3回目の指揮で幕を閉じる。
 その結果、山口は「459世帯」から「4073世帯」へ大飛躍。大阪に続く、アッと言わせる戦いであった。
 「戦いを挑んだ決戦には、すべて勝つ」― 戸田第2代会長の“本物の弟子”が戦いを起こした。それに全国の弟子が呼応した。いわゆる弟子が歴史をつくる戦いであった。弟子が総立ちになった時、新しい歴史は開かれるのである。「次の50年」を見据えた名誉会長の戦いであった。
 そこには、人知れぬ「億劫の辛労」があった。名誉会長は語っている。
 「私は山口指導を行った。大阪での大法戦に引き続いての戦いである。厳しいといえば、こんなに厳しい行動の連続もなかった。体も疲れきっていた。経済的工面も大変だった。我が家の売れるものはすべて売って、交通費や滞在費を、やりくりした。しかし、私は戸田先生の山口に対する深き思いを、何としても実現したかった」
 「そんな私の家の内情を知った戸田先生は、電話の債券だけは売るなよ、と心配してくださった。どこまでも、ありがたい師匠だった」
 電話を手放す事態となれば、諸活動に支障をきたす、と言われるのだった。


■証言 (村田岩雄さん=当時・松島支部支部幹事)
 夜行列車に乗って、防府に到着した時のことです。朝、旅館に着いて、朝食をとっている時、先生がこの地に来られていることを知りました。
 私たちは一休みしてから、先生がおられる旅館に向かいました。
 緊張感のない私たちの姿を見た先生はおっしゃいました。「戦いは中心者と呼吸を合わせることです。中心者を求めて団結しない戦いは空転です」と。私たちの油断でした。


 呼吸を合わせよ

 「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」(790ページ)― 名誉会長のこの一念に、どう呼応できるか。戦いのなかで学会精神が打ち込まれていった。
 鶴見支部の拠点に名誉会長が訪問する予定になっていた。「到着までは、まだ時間がある」と責任者は風呂に入っていた。その時、名誉会長が到着した。知らせを聞いた彼は、驚いて飛んで行った。
 名誉会長は笑顔で言った。「支部員が汗水たらして戦っているのに、大将が風呂に入っているとは結構な身分じゃありませんか」。そして、恩師から薫陶を受けた学会精神を教えた。
 戸田会長は語っている。「前線の幹部はぼやぼやするな」。幹部がボーッとしていれば、後に続く人の邪魔になる。前線では、じっとしていてはいけない ― 名誉会長は諄々と語った。責任者は猛省した。二度と失態は演じないと。
 「じゃあ、打ち合わせをしよう。早く身支度を整えなさい」。名誉会長は恐縮している責任者を、今度は包み込むようにして会議を進めていった。
 非を非と諭し、あとは包容して立ち上がらせる名誉会長。責任者は誓った。「広布のために自分が苦闘の先頭に立とう」。


■証言 (則武敬一さん=当時・岡山支部班長)
 岡山の繁華街で電気店を営んでいた私は、病気が治るなら、幸せになれるなら、と自分の祈りが中心でした。
 そんな信心が、宇部で一変しました。池田先生の御書講義を聞いたからです。
 「異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」(1337ページ)。個人の幸福を機軸として、社会へ、世界へ、幸福と平和を広げゆく大目的、広宣流布を語られたのです。
 疲れた皆の心に信心の松明がともりました。宇部の街に飛び出そうとすると、先生が「食べていきなさい!」と。大きなおにぎりとお新香が用意されていました。腹の底から力がわきました。

真心の激励に人は動く

2004年05月27日 | 未分類
 手書きの絵葉書

 学会の命運をかけた戦いにあって、名誉会長が何よりも時間を割いたのは、一人ひとりへの激励であった。
 「日の当たらないところまで光を当てて、あらゆる人を味方にしながら、新しい道を切り開く。そうやって勝利してきたのが、学会の歴史である」。名誉会長はここに勝負をかけた。
 岩国駅に名誉会長を出迎えた鶴見支部の幹部が小池旅館に案内した。
 これから弘教についての指導があると思っていた。ところが、拠点に着くなり、名誉会長はポケットから10数枚の絵葉書を出し、「これからしっかり戦うには憂いがあってはならない。留守を守る奥さんに便りを出そう」と。
 その幹部は申し訳なさでいっぱいになった。と同時に、名誉会長のもとで戦う喜びと安心感を噛みしめた。
 彼は綴っている。「広布前進の戦いに勝利するには、かけ声や号令なんかじゃない。どこまでも一人の友を思いやる心である」


■証言 (宮崎初恵さん=当時・文京支部支部常任委員)
 一日中、防府の町を歩き回り、拠点の英雲荘に帰ると先生が到着されていました。ご挨拶に行くと、笑顔で「なんだ、初ちゃん、来てたのか」。参加した私の主人の姿を見て、私が留守番をしていると思われたようでした。主人の母と私宛てに葉書を出したと先生はおっしゃったのです。先生の深い配慮が伝わりました。


■証言 (竹内加津子さん=当時・堺支部支部常任委員)
 堺支部から参加しました。支部内のわずかな縁故者を頼り、萩市に来ました。旧習深く、弘教は遅々として進みません。行き詰まると、「もう帰りたい」という人も出てきました。
 そんななか、拠点の高木屋旅館に先生がいらっしゃったのです。開口一番、先生は「皆さん、もう大丈夫ですよ。明日からは折伏できます!」と笑顔で言われました。
 そして、「折伏は、やろうと思えば必ずできます。今日は一晩、成果のことは忘れて、私と心豊かに過ごしましょう。みんな仲良く楽しく広宣流布に励みましょう」と。
 一人ひとりのことを懇談的に細かく聞かれ、指導してくださいました。私には、その場で、留守を守る夫に、葉書を書いてくださいました。
 心から思いました。“成果にあくせくするのではない。広宣流布という大使命を学会の同志と果たしていく喜びが大切なのだ”と。
 みんなの心が一つになりました。すると、目の前の霧が晴れたように、折伏先が出てきたのです。希望が湧いてきました。その後、3日間で、なんと49世帯の弘教を達成できたのです。
 自宅に帰って、葉書を見ました。「先日は奥様、萩市にて山陽広布の戦いを立派にやって御られます。何かと、お留守、不便な事と存じます。何卒、如来の使いの新支部建設の基礎である法戦たる自覚にて大いなる名誉と功徳を受けられるようお祈りします」と。
 如来の使いを迎えるようにしてあげてくださいとの先生の思いを感じたのか、夫は「菩薩さまが帰ってきはったと思ったほど、神々しかったで」と笑って迎えてくれました。


 子どもの誕生を祝福

 子どもを背負い、片手に御書と『折伏教典』、もう一方の手におむつと着替えを持って、夜汽車に乗って大阪から参加した婦人がいた。ところが、婦人が山口にいる間に、夫の経営する店のカメラが盗まれてしまった。
 「カメラを買ってあげたいが、私はこれから下関へ行かねばならないから、お金がたりないんだよ」。婦人にそういって名誉会長は、真心から激励した。
 その後、手紙も送った。どんよりとした重い雲のような心を払うように、「春です」と書き始められていた。「渇えては食を願うように、大御本尊を信じ、変毒為薬を」。慈愛に溢れていた。4ヶ月後、盗品は返ってきた。


■証言 (早河寿美子さん=下関市 当時、中学生)
 「やあ、お待たせしました」。そう言われながら先生が入って来られました。東陽館の一室でした。
 出産を間近に控えた母は先生に命名をお願いしました。「僕は会長ではないから、戸田先生に僕からお願いしてあげよう」と言ってくださいました。
 後日、先生から手紙をいただきました。「戸田先生がよろしいと言われたから喜んで下さい。出産したら戸田先生のお宅に電報を打つように」とありました。1月に弟が生まれ、電報を打ちました。すぐに返信がありました。「デンウク二五ヒオモチスルイケダ」(電話受く 25日お持ちする 池田)。弟が生まれて7日目の25日に先生に名前をいただきました。
 母がお礼の電話を先生にしました。「産後は十分にお気をつけて。体を大事にしてください」とまた温かく激励していただきました。一婦人のためにここまでされる先生なのです。


 笑顔で皆を励ませ

 「まずリーダーが、笑顔で皆を励ますことだ。いつも勇気を与えることだ。つんとして、ただ口先だけで、威張りくさった格好ではいけない。ありのままの人間性を輝かせていくのだ」。悩める友に名誉会長はいつも笑顔で接した。“人間性の光”“人間性の力”である。この行動のなかから、学会の底力が発揮される。


■証言 (赤須雪秀さん=当時・向島支部支部幹事)
 一人の青年が先生に報告しました。「仕事の都合で夜行列車で帰ります」。先生は、すぐ「お金はあるの」と。汽車賃だけしかなかったんです。「お父さん、お母さんに宜しくね」とおみやげ代を渡されました。先生ご自身も金銭的に無理をされていました。青年は感激に胸を詰まらせていました。
 また、一人の友が毎日1世帯の弘教を達成できたと報告しました。「よくやったね!」と握手された先生は、「みんなで拍手をしてあげよう」と。その友は嬉し涙でくしゃくしゃ。
 年輩の同志には、「ご苦労さま」と声をかけられていました。そして、「お嬢さんにおみやげを買っておきましたよ」と、そっと渡される先生。ここまで一人を励ますのか。忘れることができません。


■証言 (宮田節子さん=当時・船場支部部隊幹事)
 父が賭け事に走り、母との喧嘩が絶えない家庭で育ちました。母を亡くし、信心に巡りあえた私は、宿命に泣いた母の仇を打つようなつもりで折伏をしていました。男まさりで、言葉づかいも格好も、お構いなしでした。
 宇部の拠点で、初めて先生とお会いしました。先生はいきなり、「お母さんがかわいそうじゃないか」と言われたのです。手入れもしてない髪、着るものにも無頓着な姿を指摘されたのだと思います。
 私は母が亡くなったこと、これまでの家庭のことを話しました。先生は「そうか、苦労したんだね…」。そして力強く言われました。「女王のごとく振る舞えるようになりなさい」。
 驚いている私に、身だしなみを整えることなど、一つ一つ教えてくださいました。亡き母に諭されたようでした。涙がはらはらとこぼれました。
 翌朝、先生に呼ばれました。先生は「私の鞄を開けて、本を持ってきてください」と言われました。鞄を開けて驚きました。着るものから本まで、隙間なくきちっと、本当にきちっと入っていたのです。先生の奥様の細やかな気遣いが私にも伝わりました。先生が教えたかったのは、このことだと分かりました。


 皆が待っている

 山口を転々と移動する名誉会長。県内の移動は、汽車とバス。しかし、その連絡が非常に悪かった。
 徳山の拠点・ちとせ旅館で名誉会長を出迎えた婦人がこう語っている。
 「先生が着かれた時、『疲れた』とおっしゃいました。先生の顔面には玉の汗が流れていました。すでに会場には、多くの人が集まっていました。先生は汗をぬぐうと、『皆がまっている。休んではいられない』と言われ、『やあ、皆さん、お元気ですか』と張りのある声で入っていかれました。今にも倒れそうだったのに不思議でした」


■証言 (松井義明さん=当時・松島支部地区幹事)
 派遣先で先生から、「預かってほしい」とかばんを渡されました。持つと、意外に軽かった。御書や書籍でさぞ重いのではと思ったからです。
 でも、かばんのすき間から見ると、錠剤の薬ビンがいくつも入っていました。体が大変ななか、闘争の指揮を執られていたのです。


■証言 (日浅イツミさん=宇部市 当時、31年6月入会)
 10月のことでした。すり減ったゲタをはいて、三女をおぶって宇部の松屋旅館に行きました。狭いわが家から10キロ以上もあったでしょうか。
 先生が私に「おいくつですか?」と聞かれました。「28です」と答えました。ホコリまみれで、髪も乱れ、貧しかったので、ひどい格好だったと思います。先生は「信心をしたら、若くなりますよ」と言われました。その一言に自分の境涯を変えようと立ち上がったのです。


 もう一回行っていらっしゃい

 戦いは執念で決まる。名誉会長は、全国の派遣メンバーに対して、薫陶を重ねた。「師との呼吸」が彼らの命に刻まれていった。そしてそれが、彼らの地域にも脈動し、また山口の同志の信心の鍛えとなった。
 名誉会長は山口の同志の成長を念願した ―「強くなれ。強くあれ」と。
 ある時、折伏が実らず、下関の東陽館に戻ってきた山口の同志に、名誉会長は言った。
 「もう一度、その人の所へ行っていらっしゃい」
 やはり駄目だと戻ってくると、また言った。「では、もう一度、行っていらっしゃい」。本気になった。3度目にとうとう折伏を実らせた。
 名誉会長は言った。「その一念が大事なのです」。
 ―「10倍への拡大戦」が勢いに乗っていった。


「格好」ではなく最高の「知恵」を

2004年05月27日 | 未分類
 責任と使命

 名誉会長は指導している。「すべて計画どおり、連携も密であれば、勝利はしやすいであろう。だが、状況が厳しければ勝てないのか? そうではない。戦いに勝つのに必要なのは、格好ではない。どうするか。最高の知恵を出すことだ。祈りから知恵は生まれる。知恵から勝利が生まれる」と。
 山口でも、名誉会長が行くところはガラッと雰囲気が変わり、勝利へのリズムができる。なぜなのか。思うように進まない苦闘の派遣メンバーには、率直な疑問であった。ある時、名誉会長に聞いた。
 「指導会や座談会で私たちは一生懸命に話すのですが、どうしても期待するような雰囲気になりません。それに引き替え、先生が出席されると、会合は生き生きと蘇るのはどうしてですか」と。
 名誉会長は答えた。「それは責任と使命の違いです。いかに題目を唱えてその場に臨んでいるか。リーダーに活力があれば、みんなが感応します。必ず広布の歴史を刻んでみせるという責任を感じて、戦うかどうかです」。明快な答えであった。


■証言 (藤井健治さん=柳井市31年10月入会)
 入会した翌月、先生が出席された柳井市での座談会に参加しました。
 驚いたのは、先生は話し始める前に、前にあった机を見て、「この机はどけましょう」と言われたことです。周りの人々とご自身の間を詰められたのです。そして、「青二才ですが、よろしくお願いします」と何の飾り気もなく話される姿。若いとどうしても、自分を飾ってしまうものですが、先生にはそうしたところが全くなく、謙虚そのものでした。自分の目から見て、とても 28歳とは思えない迫力でした。質疑応答では、どんな質問が出ても、明快な答えが返ってきました。
 私は生涯、この人に付いていけば間違いないと確信しました。


■証言 (近江紋子さん=当時・船場支部部隊長)
 行けども、話せども、弘教が実りません。気がつけば唱題が深夜におよびました。苦しくて、苦しくて、質問会の折に、先生にその思いをぶつけました。「御本尊の功徳を知らない人に、どう説明すれば教えることができるでしょうか」。
 どう説明すれば、どう言えば、と方法を聞く私に先生は「勤行・唱題にしっかり励み、御本尊様に阿修羅のごとく戦わせてください、と祈ることです! しっかり頑張りなさい」と厳然と指導されました。一念が変わりました。念願の弘教が実りました。


 「どうすれば先生のように」

 何ものをも味方にし、前進していく名誉会長の行動を見て、福岡支部の幹部が名誉会長に質問した。
 「どんな信心をすれば先生のような境涯になれるのですか」と。すると名誉会長は言った。
 「私はいつも一番悪い地区、支部が良くなることを願ってきました」。名誉会長はいつも一番難しい地域に入ることを志願して、その地の広布を担ってきたのであった。
 “どうして私は、いつもこんなに悪い所ばかり持たされるのだろう”と思っていたその幹部は、自らの弱さを猛省させられたと語っている。


■証言 (村田岩雄さん=当時・松島支部支部幹事)
 お金がなくて、防府市のオンボロな旅館を拠点にしたことがありました。部屋は暗く、かび臭さが立ち込めるようでした。会場を訪れた先生は言われました。「戦いには勢いが大切です。明るく清々しい所には勇気が湧いてきます。その意味で、幹部は雰囲気をよく見て会場を選ばなければいけません」。
 拠点を変えた途端、雰囲気がパッと明るくなりました。戦いの意気も上がり、成果も伸びていきました。
 また、会場に張られる大書き一つにも先生は神経を配られていました。メンバーのグループ分けの張り紙がありました。そこにはイ隊、ロ隊、ハ隊と書かれていました。
 それを見られた先生は、「こんな名前では戦う元気が出ないじゃないか。“イ隊”では“痛い” じゃないか」と皆を大笑いさせながらも、戦いの雰囲気づくりについて厳しく注意されておりました。


■証言 (赤須雪秀さん=当時・向島支部支部幹事)
 山口駅に先生を迎えに行きました。山口市を初訪問された先生は、下車されるとすぐ、「山口市の人口はどのぐらいですか」と言われ、直ちに戦いの体勢に入られました。ところが私たちは、答えることができません。
 「まずは市内を回ろう」と先生は私を伴ってタクシーに乗り込みました。繁華街に来ると、先生は車を降りて、映画館の看板や八百屋の野菜の値段まで見て回られました。
 斎藤旅館での、その日の座談会には、30人ほどが集まりました。先生は参加者一人ひとりの様子や顔色に注意されながら、御書を通して話を進められました。
 驚いたのは、その話のなかに、地元で上映されていた映画や、繁華街の様子、野菜の値段など、先ほど見たことがドンドン飛び出すのです。その具体的で縦横無尽な展開に、参加者たちは目を輝かせ、膝を乗り出して聞き入っています。
 社会、生活の事象を的確にとらえることの大切さを、先生は身をもって教えてくださったのです。
 翌朝、出発前には先生の御書講義がありました。「一生成仏抄」の「仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり」(383ページ)の御文を引いての講義でした。
 「御本尊に給仕することは全部、広宣流布への戦いなのです。大聖人の御書は全て、広宣流布をするためにあります。広宣流布の功徳が認められているのです」。広布への確信が呼び覚まされました。


戦いの要諦は心を一つに

2004年05月27日 | 未分類
 常に電光石火の行動

 名誉会長は各都市を回り、派遣メンバーの激励、座談会、御書講義と、席の温まる暇もなかった。
 名誉会長に随行した幹部の一人が述懐している。徳山から宇部に行く時のことであった。
 「先生はご自分が、いつ、どこにいるかを各支部の拠点に連絡されていました。しばらくすると、近くで戦っている支部からは直接、遠い支部からは電話で、連絡・報告が入りました。それに対して、先生は電光石火に指示をされ、激励しておられました。
 ところが、報告のない支部に限って、成果があがらないのです。私は『先生と呼吸を合わせる』ことが戦いの勝敗を決することを目の前で見ることができました」


■証言 (辻仁志さん=当時・松島支部隊長)
 松島支部は、意気込んで防府市に乗り込みました。しかし、2日経っても結果はでません。気は焦るばかりです。
 3日目の夕刻、拠点に1本の電話が入りました。先生からでした。責任者であった地区部長が、状況を報告すると、その晩、先生が防府に来てくださることになりました。
 「先生が来られるのに、えらいこっちゃ」と、出かけては「アカンなあ」と帰って来て、「ほな、また行こか」と繰り返すばかり。結局、1世帯の折伏もできません。
 夜8時ごろ、先生は到着され、叱られると思っていると、「折伏ができないのは辛いことです。できている支部よりも君たちの方が苦労している。そう思ったから来ました」と言われました。悩んでいる私たちを包み込むように励ましてくださいました。
 そして、こう語られました。「君たちはなぜ下関(名誉会長の拠点)に来ないのですか。広布は折伏の師匠である戸田先生がなされる。僕はその名代として指揮を執っている。その中心に呼吸が合わなければ前進はない」。
 私たちは、ハッとしました。下関まで往復したら半日がつぶれてしまうという気持ちがあったのです。
 「明日から折伏ができるよう、御本尊に祈ろう」と先生が言われた時、一人の先輩が感極まり、落涙しました。すると、「男は戦場で泣くもんじゃない」と励まされ、朗々と勤行を始められました。「学会の魂」を教えていただきました。呼吸が合わない限り空転であると。
 翌朝から皆で下関に行きました。その日から折伏ができました。


■証言 (吉井光照さん=防府市31年10月入会)
 当時、わが家は防府で大きな荒物屋を営んでおりました。
 10月のことです。突然、福岡の学会員が毎日、折伏に来るようになったのです。あの時は分からなかったのですが、山口闘争が始まっていたのです。
 皆、貧しい身なりでした。夜行で着いて駅のベンチに寝て、日が昇ると折伏に来られる。
 防府では、松島支部の方々も旅館を拠点にして戦いをされていました。その方々もやってきました。しかし、松島支部では成果があがらず悩んでいたことをあとから聞きました。
 その時に、先生から、「なぜ下関に来ないのですか」と言われたと言います。それで、下関に行って先生の指導を受け、帰ってきたら、10世帯の折伏ができた。実は、わが家も、そうして入会した一家なのです。


■証言 (吉井直子さん=防府市31年10月入会)
 大きな屋敷であったわが家に、朝、昼、晩と信心の話をしに来られる。その方に聞きました。「どうして、うちに来られるのですか」と。すると「貧乏で入信しました。折伏したら幸せになれると聞いて、どうせ折伏するなら大きな屋敷にしようと決めたのです」と言うのです。そのすごい一念に感動しました。私たちは入会しました。


 これからは勝てるよ

 一人の責任者が悩んでいた。文京支部の責任者である宮崎正義さん(故人)であった。彼は保土ヶ谷地区(神奈川)の地区部長であった。
 文京支部の同志は岩国、防府、山口、宇部、下関に散って弘教を進めていた。しかし各地で苦戦が続いた。悩んで名誉会長に指導を求めた。
 名誉会長は語った。
 「長の一念です! 長い戦いに勝とうという強い一念がないからです。だから、だらしない戦いになる」
 「中心を忘れてはいけない! 間断なく連携を保って戦うのです。山口や防府がどうなっているかわかりますか? すぐ連携を取りなさい」
 「同志を大きく包容しながら、個人個人を激励しなければならない」
 宮崎さんはすぐに各地の文京支部のメンバーに連絡をとり、名誉会長の指導を伝えた。そして、「皆、がんばっていました」と名誉会長に報告した。名誉会長は「これからは勝てるよ」と。文京支部は300世帯を超す弘教を実らせて帰京した。


■証言 (宮崎初恵さん=当時・文京支部支部常任委員)
 文京支部のメンバーは、意気揚々と山口に来たものの、1世帯の折伏も実りませんでした。ほとほと困っていたその時に、先生が来られたのです。拠点で、勤行が始まりました。先生の力強い唱題に合わせていくと勢いが増していくのを感じました。
 勤行が終わると同時に、先生が振り向かれて言いました。「明日からは、できるよ!」。その確信の一言に、皆の気持ちが、「さあ、やろう!」と一つになりました。翌日から本当にその通りになったのです。


■証言 (白井登志恵さん=当時・小岩支部地区担当員)
 拠点で朝、先生とともに勤行・唱題をし、「がんばりなさい!」の先生の声に送られて、一斉に宇部の町に打って出ました。一日中、歩きました。話せども、話せども、そっぽを向かれました。疲れと情けなさで拠点に戻ると、先生が温かく出迎えてくれました。もう悔し涙がボロボロこぼれ、顔が上げられませんでした。
 先生は、「折伏は難事中の難事です。だから功徳もある。成仏の法なのです。今日、できなかったからといって弱気になってはいけない。明日また、がんばりなさい!」。力強い励ましに、生き返る思いでした。
 翌朝の勤行の時、先生の左斜め後ろに座りました。今日こそは! 無我夢中で唱題をしました。すると唱題している先生が振り返り、耳元でそっと言われたのです。「お題目は中心者にあわせるんだよ」。
 今、思えば赤面のいたりですが、学会員として、最も大切な指導でした。
 拠点を出るときに先生は「今日はできるよ!」と。勇気百倍、町に向かいました。執念で折伏を実らせ、最終列車で拠点に戻りました。先生に報告しようと、階段を駆け上がり、皆が集う部屋の障子を開けた瞬間、いきなり「おめでとう!」と先生。今度は嬉し涙がポロポロと溢れました。


■証言 (広岡九一さん=当時・浜松支部支部幹事)
 当時、山口に知り合いがなく、ともかく地方で折伏ができればいいということにして、地区のメンバーと四国へ行ってしまったのです。当然、折伏が実るわけもなく、疲れるだけで帰ってきました。学会の流れに呼吸を合わさなければ空転する。嫌というほど思い知らされました。


新しい人材の波を続々と

2004年05月27日 | 未分類
 波浪は障害に負けず

 山口闘争の第一歩は、31年10月9日、下関から始まった。当時の山口は、全国の26支部にまたがった入会間もない会員で構成されていた。
 名誉会長は旅館の東陽館を拠点に、活動を開始した。「一緒に勤行をしましょう」。戦いは「深い祈りから始める」であった。
 地元メンバーも集まっていたが、ほとんど入信したばかり。「御書を学びましょう」と、名誉会長は「四信五品抄」を講義した。
 「……天子の襁褓に纏れ大竜の始めて生ずるが如し」(342ページ)。御本尊を受持した人の位は、おむつをした幼い天子も天子に育つように高い位なのである。確信ある講義に参加者は奮い立った。
 名誉会長の下関滞在は4日間。その間、名誉会長は、派遣メンバーの個人指導に全力を注いだ。
 名誉会長は、この“派遣隊”こそ、今回の成否を担う存在であることを見抜いていた。しかし、彼らはまだ、自分たちの行動にどういう意味があるのか、全く知らなかった。まして、75万世帯への「広布の即戦力」として、各地域の広布を牽引するようになるなど知る人は誰もいなかった。
 名誉会長はひとり、一念を定めた行動を起こしていた。
 名誉会長は、共に戦う人材の発掘に心を砕いた。


■証言 (塩出啓典さん=当時・福岡支部部隊長)
 10月9日、九州の製鉄所に勤めていた私は、勤務を終えて、少し遅れて北九州から下関の東陽館に駆けつけました。すでに先生の話が始まっていました。この時、初めて身近で先生にお会いしました。気迫の指導にグイグイ引きこまれました。
 「世界を制覇せんとするものは、汝自身の悲哀を制覇せよ」「波浪は障害にあうごとに、その頑固の度を増す」。
 会合が一段落し、私は「第32部隊(福岡支部)部隊長の塩出です」とあいさつしました。先生は「あなたが塩出君ですか。全国に32人しか部隊長はいない。しかし、よく知らないのは、あなただけです。どんどん私にぶつかってきなさい」と語られました。
 当時、九州は東京の本部から一番遠く離れていました。しかし、心まで遠くてはいけない。その日から、先生に戦いの報告をし続けました。


■証言 (北風達子さん=当時・福岡支部部隊長)
 9日昼過ぎ、福岡から東陽館に駆けつけました。
 駆けつけた私は、先生からいろいろと質問を受けました。「あなたの長所は」「短所は」。立て続けでした。私が答えると、先生は「短所は、おっちょこちょいではないの」と言われるのです。どうして知っておられるのかと思っていると、「幹部カードに自分でそう書いているよ」と。
 山口に来られる前に、先生は派遣メンバーのことを調べておられたのです。驚きました。戦いに臨むには準備が大切である、と真っ先に教わりました。
 また、私の幹部カードの健康欄も見ておられました。私は腺病質で、「7歳までしか生きられない」と医師から言われたこと、信心して元気になったことを報告しました。
 すると、先生はこう言われました。「地涌の菩薩というのは、もともと頑健なのです。私は結核で血を吐いてきたけれども、頑健だと決めてきたのです」と。
 あの時、先生がなぜそういう話をされたのか、あとになって分かりました。それは、「病人は『私は病人』との心にとらわれてしまっている」ということでした。以来、私は「頑健」と決めました。それから、本当に健康になりました。
 先生の質問は続きました。「趣味は」「音楽と読書です」。「好きな作曲家は」「ベートーベンです」。「ベートーベンがどんな思いで作曲したの」。答えはすぐに詰まってしまいました。
 読書についても質問されました。好きな作家をトルストイと答えると、「作品を言ってごらん」と。答えると「それから」「それから」と。『罪と罰』と答えてしまいました。
 「もう聞くのはよそう」― 質問はそこで止まりました。『罪と罰』はドストエフスキーでした。「全てのことに、いい加減であってはいけない」との指摘を受けました。何事も中途半端だった自分を反省しました。
 私への訓練は、それから始まったのです。「私が下関にいる間、毎日、いらっしゃい」。当時、博多のデパートに勤めていた私は、翌日から仕事を終えて下関に向かいました。申し訳なくも、先生は私の到着を待って勤行を始めてくださいました。
 どこまでも青年の成長を願う先生の思いに、胸が熱くなりました。


 悩める自己を制覇せよ

 名誉会長を囲む東陽館での懇談会に、右腕のない一人の青年がいた。福岡支部の故・沢村義孝さんであった。
 後ろに座っていた沢村さんを名誉会長は最前列に呼び、入会の経緯などを聞いた。沢村さんは思い切って言った。「私には右手がありません。手がある人と同じ人生を送りたい。仕事ができるかどうかも不安です」と。
 名誉会長は答えた。「たとえ片手であっても、手のある人を使えるようになれば、それは手のある人以上の境涯じゃありませんか」。さらに名誉会長は名刺の裏に「世界平和、広宣流布を進めるには、まず悩める自己を制覇せよ」と書き贈った。


■証言 (北風清松さん=当時・福岡支部分隊長)
 下関での二日目だったと思います。先生の所に向かいました。
 お袋から、「手ぶらで行っては駄目よ」と言われました。「何がいい」と聞くと、「バカ」と。物じゃない、新来者を連れていくのだと。
 会社の上司の奥さんをお連れしました。彼女は結核を患っていました。下関でお袋と待ち合わせをし、一緒に行きました。
 先生は岡山土産のマスカットを私たちのために用意してくださっていました。その先生の温かさに、「先生、わが家は親子げんかが絶えません」とお袋が悩みを打ち明けたのです。当時、わが家は夫婦げんか、親子げんかで有名でした。
 そんな私たちに先生は、「けんかもいいもんだよ。しかし、御書を中心にけんかできるようになれるといいね」とおっしゃるのです。それからわが家では御書を研鑽し、活動に励みました。そして、地域の人も羨む仲のいい家族になったのです。
 また、私の上司の夫人に、「どこが悪いのですか」と先生は尋ねられました。「胸を患っています」と聞かれた先生は、「南無妙法蓮華経は獅子吼の如しいかなる病さはりをなすべきや」(1124ページ)の経王殿御返事の一節を引かれ、指導をされました。
 その夫人は入会されました。私は折伏できたことは嬉しかったのですが、それ以上に、「前三後一」「師子奮迅」という初めて聞く先生の言葉に、感動しました。「すごい仏法だ」「すごい先生と出会えた」と。
 感動し、顔が紅潮している私に、先生は「いい青年がいるね。将来が楽しみだ」と言われました。その時、私は、この方について行こうと決めたのです。


 西へ、東へ、北へ、南へ

 “要衝の地”下関に第一歩を印した名誉会長は、13日に防府市、14日に山口市、15日には岩国市、 16日に柳井市、17日に徳山市、18日に宇部市と渾身の指導を続けていった。
 「私は駆けた。西へ、東へ。また、北へ、南へ。わが激闘の間にも、瀬戸の海の光は、青年を包みて悠然としていた。日没が迫れば、海流は朱に染まり、浮かぶ小さき島々にも、金波が寄せていく」(「随筆 新・人間革命」)
 山口闘争に志願して参加した同志は、遠くは仙台支部から集まってきた。さらに、東京・関東の 13支部、浜松支部、名古屋支部、京都支部、大阪の5支部、岡山支部、高地支部、福岡支部、八女支部と、まさに全国から集まっていた。
 仙台から岩国までの鉄道運賃は、片道で1230円。そのころの初任給が平均7000円。皆、家計を切りつめ、必死だった。社会も不況の真っただ中で、大学生の就職もままならない状況であった。


■証言 (白井登志恵さん=当時・小岩支部地区担当員)
 戦争とともにわが家は没落。父は病を押して働き、母は錦糸町で仕入れた飴を駅前の露店で細々と売って、日銭を稼いでいました。どん底のわが家は少し上向きかけていましたが、私は定職もなく、今、考えると、どうやって参加したのか不思議でなりません。
 先生は私たちを地元の皆さんに紹介してくださいました。宇部の旅館でのことでした。私のことは、「この人は良家のお嬢さんです」と言ってくださったのです。― 「良家のお嬢さん」と何度も繰り返し、その言葉を噛みしめました。先生の言葉は希望の光になりました。


■証言 (田代美津子さん=当時・岡山支部部隊長)
 私は岡山から参加し、宇部を拠点に戦いました。18日、第1回闘争の最後の日でした。先生が私たちの拠点である松屋旅館に来られ、指導会が持たれました。正面の小さな机の前に先生が座られました。その後ろは出窓になっており、障子がありました。
 先生は御書講義をしてくださいました。御書を拝読するように言われました。先生の斜め後ろに座り、拝読させていただきました。
 翌朝、また御書講義があり、同じ部屋に集まりました。御書がないことに気づきました。「忘れた!」。
 私の様子を見られていた先生が、「出窓の障子を開けてごらん」とおっしゃるのです。開けると、そこには私の御書が置いてありました。「アッ」。思い出しました。昨日、出窓にちょっと御書を置いたのでした。恥ずかしくて顔を上げることができませんでした。先生は一人ひとりの行動まで見られていたのです。
 講義修了後、先生が大阪に行かれることを知った私は、先生と同じ列車の2等切符を買い、汽車に乗り込みました。
 男子部の幹部とともに3等車に先生は乗られていました。私は、てっきり2等だと思ってしまったのです。先生の座席を見つけて、「大阪まで送らせてください」とお願いしました。先生は「御書を大切にするんですよ」と言われ、私に隣の席を勧めてくださいました。
 途中で車掌が来ました。それで2等切符を買ったことが分かってしまいました。「先生は2等に乗られるものと勝手に判断し、先生とご一緒させていただきたい思って2等を買ってしまいました」と私は必死でした。
 先生は笑いながら、「財布を開けてごらん」と言われるのです。財布には、ほとんどお金は残っていません。先生は全てお見通しでした。
 それから、私の生い立ちから入信動機に至るまで、いろいろ聞いてくださいました。大阪に着くまで、じっと話を聞いてくださったのです。
 放蕩だった弟のために財産を使い果たし、入会したことをお話しすると、「弟さんが信心をさせてくれたんですね。大事にしてあげてください」と先生。当時、弟は信心に反対だったのです。さらに、「信心できて良かったね。信心だけは、どんなことがあっても生涯、放してはいけない」と。それが私の「信心の原点」になりました。


まず「勝つ」と決めよ!

2004年05月27日 | 合同研修会
 「祈って戦おう」

 名誉会長は山口闘争の準備を人知れず、進めていった。当時、名誉会長と同じ職場だった吉田顕之助さんは語る。「先生の席のすぐ近くにおりましたが、先生の口から山口闘争のことは出ませんでした。師子は伴侶を求めず。先生が全ての責任を担って、ご自身で全国と連携を取られ、準備に当たられたのです」と。
 また、鶴見支部の責任者となった故・松尾正吉さんが当時の思い出を綴っている。責任者となった松尾さんは戸田第2代会長に相談に行った。「その準備と計画については池田室長とよく相談しなさい」。それで、名誉会長を訪ねた。名誉会長は言った。「御本尊に祈って戦おう!」。
 戦いに臨む名誉会長の一念の深さを、派遣メンバーは初めて知った。


■証言 (伏木芳雄さん=当時・鶴見支部部隊参謀)
 当時、私が勤めていた会社の得意先が大阪にあったので、大阪にはよく出張に出かけました。山口闘争の時も、私は出張先の大阪から、先生がおられる山口の旅館に向かいました。
 ところが、私の姿を見た先生は、「君は帰りなさい」と言われました。私の頭は真っ白になりました。どうしていいか分かりません。部屋に引きこもって考えました。「なぜ、先生はああ言われたのか」と。
 出張の延長のまま山口に来た私の一念はどうだったのか。私はハッとした。先生とともに戦う心構えになっていなかったのです。
 食事の時、先生にお願いしました。「申し訳ありません。先生と一緒に戦わせてください」。今思えば、その時の先生の決意は、それほど峻厳なものだったのです。
 先生がこのように言われたことがあります。「廊下を歩いてくる足音で、一生懸命なのかどうかが分かる」と。以来、私はあの時の指導を生涯の指針にしてきました。



 「人によっては、厳しく言ってあげることも大事なのです。仕事も活動も両方とも戦いきってみせる、と腹が決まって本当の力が出る。心が定まっていない彼は、持てる力を出していない。力を存分に発揮させてあげてこそ、山口に来た甲斐があります」
 その話を聞いた派遣メンバーは、名誉会長の慈悲に、感動で胸が詰まったという。


 弱い一念を変えよ

 3人の班長とともに参加した杉並支部の支部幹事がいる。東京から汽車で目的地の光市に向かう途中、班長の一人が上着の内ポケットから財布をすられてしまった。
 支部幹事は徳山駅で途中下車。名誉会長が徳山の地で戦っていたからだ。闘争参加の報告をした。「よく来たね」と名誉会長。その折、班長の一人が盗難に遭ったことを告げた。
 すると、名誉会長は支部幹事に言った。「それは、あなたの責任です」と。「えっ」と訝る彼を見て、続けた。
 「あなたは心から喜んで闘争に参加しましたか」。その通りだった。
 名誉会長の指摘が、彼の惰弱な命を一変させた。仲間が待つ光市の旅館に急いだ彼は、到着するやいなや3人の班長に向かって、詫びた。「責任者の私がイヤイヤ参加したから、こういう事態を招いてしまった。申し訳ありません」と。
 すると、3人とも「私たちの気持ちも、同じでした」と言うではないか。皆、同じ境涯だったのである。4人は御本尊に真剣に唱題、闘争の成功を祈念した。12世帯の弘教が実った。
 戦いに臨む時、「腹が決まっている」かどうか。「勝敗は、その時に決まる」ことを教えられた。


 方法、手段だけではない!

 足立支部は宇部市に入った。活動は苦戦した。10日後、結局、成果はゼロ。責任者は苦悩した。帰京後、いても立ってもいられず、市ヶ谷に名誉会長を訪ねた。
 来客中のため、しばらく待った。その間、“どう報告しようか”“何かいい手段を教えてもらえるか” と考えていた。
 名誉会長が入ってきた。早速、行き詰まった状況を説明。その時、名誉会長は言った。「折伏をすると決めたら、その自分に負けないことです。信心とは決断であり、実践です」と。
 翌月の闘争。足立は、「沈着なる行動」「徹底した折伏」「納得の対話」を貫き、大勝利!


いやまして険しき山にかかりけり

2004年05月27日 | 未分類
 世帯の10倍の戦い

 「いやまして険しき山にかかりけり 広布の旅に心してゆけ」とは戸田第2代会長の歌である ―。
 昭和31年夏の「大阪の戦い」で、「1万1千111世帯」という金字塔を若き池田名誉会長は打ち立てた。世間は「アッ」と驚いた。
 名誉会長は「大阪の戦い」に勝利して戸田会長のもとへ戻った。その若き勇将に恩師は言った。
 「いよいよ険しい山にかかってきたな。大事なのは信心だなあ、伸ちゃん」(小説『人間革命』)。その日、恩師が詠んだ歌が「いやまして…」であった。
 31年9月5日の「若き日の日記」に、こうある。
 「先生、弥々事業引退のお話あり。名実共に、学会、広布の会長指揮」と。
 戸田会長は、いよいよ75万世帯への最後の陣頭指揮を決意したのである。
 「『広布の旅に心してゆけ』と警告したことに、まず彼自身(戸田)がまっさきに心しなければならないことに気づいた。そのために、彼は煩わしい雑事から、今後、一切身を退き、いよいよ広布の道ただ一筋に、限られた時間を走らねばならないと思った」(小説『人間革命』)
 その同じ日。戸田会長と名誉会長の二人は、構想実現のために、決断した。
 歴史に残る「山口闘争」である。
 当時の山口の学会世帯数は430世帯。東京が10万、大阪が6万、長野が7000世帯というなかにあって、微弱であった。山口こそ「広布の主戦場」であった。そこに、しかるべき手を打たなければならなかった。
 戸田会長は、愛弟子に、すべてを託した。名誉会長は、どういう活路を開くのか。
 若き勇将は、決戦の地・山口で「世帯の10倍」の折伏・拡大戦を展開していくのである。


 義経、晋作の如く

 ―「来月より、山口県、全面折伏の指示あり。小生、総司令…。義経の如く、晋作の如く戦うか。歴史に残る法戦」と、31年9月5日の「若き日の日記」には記されている。
 ここから「大阪の戦い」に続く「山口闘争」が展開される。期間は、31年10月から翌32年1月。わずか3回の短期決戦であった。名誉会長が28歳の時である。


■証言 (松井義明さん=当時・松島支部地区幹事)
 山口闘争には甚深の意義があることを、私は参加して初めて知りました。
 山口というのは、明治維新の人材を輩出した地であり、大陸に近く、仏法西還に通じる重要な拠点であると、先生は話されました。
 「海を越えて、アジアの人々にも幸せの光をと願うのです」― みんなびっくりして聞き入っていました。病気や貧困などの宿命を転換するための戦いと考えていた私たちにとって、それは、想像をはるかに越えるスケールの大きなものでした。
 「今回の闘争は、学会の命運を担っているのです。私は、皆さんが悪戦苦闘していることをよく知っています。しかし、方法論ではなく、あくまでも御本尊に祈りきることです」
 先生の話が終わると、目のさめるような清々しさが残りました。ちっぽけな自身の悩みを乗り越えて、崇高な使命を担える喜びが身を包んでいったのです。


 画期的な全国展開

 31年の夏といえば、戦後10年の過渡期。社会は「脱・戦後」を掲げ、政治は「日ソ国交回復交渉」を争点として、大きく揺れていた。
 また世界ではハンガリー動乱、スエズ戦争、国内でも“ポスト鳩山首相”をめぐっての醜い駆け引きと、世の中は騒然としていた ―。
 「激しい地殻変動が山をつくるように、熾烈な大闘争が偉大な歴史をつくる」。闘争に臨む名誉会長の心はどうであったのか。
 「わが屍を、この中国で埋める覚悟」(「随筆 新・人間革命」)であったのだ。
 覚悟の信心は、最高の知恵を生む。「弱体地方には組織力を動員して育成する」(小説『人間革命』)― 山口に、全国から派遣メンバーを募った。本格的な全国展開。それが壁を破る原動力となっていった。
 当時の学会は全国32支部。各支部に、「山口に縁故のある人たちの応援を」と呼びかけられた。
 日程も決定。「山陽方面の派遣闘争日程を決める。二週間にする。歴史的、先駆の闘争だ。誇り高き、前進を」(「若き日の日記」10月1日付)。第1回は、10月9日から18日の10日間と決まった。
 26支部が参加を希望し、各支部が自発的に計画を練り上げた。遠い北海道などの支部には、無理をしないよう、名誉会長は配慮した。


■証言 (中尾辰義さん=当時・船場支部支部長)
 当時の船場支部は世帯数は3万。大阪の船場か、船場の大阪かと言われた船場地域を中心として徳島、大分、敦賀、神戸に地方拠点を置き、関西7支部のなかで折伏を競い合っていました。
 そうしたなか、山口闘争の朗報に接しました。直ちに会議を開き、計画を練りました。山口闘争は、各支部の独自性を発揮した戦いでした。あとで思うと、それが力となりました。
 わが支部は、どうすれば他支部に負けない結果が出せるか知恵を絞りました。参加者は希望者を最優先。派遣先は、新興都市の宇部、下関を選択。勇んで現地に乗り込みました。


■証言 (辻仁志さん=当時・松島支部隊長)
 山口のことを聞き、私には縁故者はいませんでしたが、広布のためと、思い切って参加を希望しました。あとになって、旅費・滞在費のことや、会社から休暇がとれるかなどを考えました。
 本来であれば、とても行けるような状況ではありませんでしたが、「行く」と決めたから行けたのです。
壁を破れ 山口闘争 大白蓮華 2003/10・11月号 企画

お父さんは君の心の中に

2004年05月27日 | 未分類
 大阪のメンバーが、こう語ったことがある。「昭和32年の大阪事件、池田先生の冤罪(=無実の罪)が晴れたのは、何と4年半ののち、昭和37年の1月25日でした。公判は84回にも及び、先生は、何度も大阪に来られ、裁判所の堅い木の椅子に長時間、座られました。証言にも立たれました。
 午前中に公判があり、午後にわたることもありました。普通であれば、神経をすり減らし、打ちのめされ、倒れるほどの過酷さだといいます。
 そんななか、夜には何ごともなかったかのように、生命力あふれるお姿で会合に出られ、同志を励まされたのです ― 事情を知っていた人は、絶句する思いで感動を抑えられなかったと語っていました」
 名誉会長は、どのようななかでも「励まし」を送り続けた。どこからでも送り続けた。それは若き日から一貫して、決して変わることはない。
 平成12年(2000年)2月、香港を訪問していた名誉会長のもとに訃報が届いた。広東外語外貿(カントンがいごがいぼう)大学の名誉教授称号の授与式や文豪・金庸(きんよう)氏、世界的な画家の方召りん(ほうしょうりん)女史との会見など、多忙を極めるなかだった。関西の牙城会委員長の訃報だった。


 ◆証言(四ツ永裕子さん)
 2月18日、関西の創価学園で体育の教諭をしていた夫の義昭は、いつものように夕飯に帰ってきました。その日に届いたグラフSGIに、夫が参加した会合の写真が載っており、3人の子どもたちに「ほら、パパが写ってるよ」と笑顔で話しかけていました。
 背広に着替え、その日は滋賀の会合に車で出かけました。その途中、不慮の事故に遭ったのです。
 亡くなった夫とともに、未明に家に帰ってきました。家には、創価学園の方々をはじめ多くの同志が待っていてくれました。「追善の唱題をさせていただきました。香港で植樹をさせていただきます」。池田先生のご伝言を池田尊弘福会長から伺いました。20日の葬儀には、香港の池田先生からお歌と弔電をいただきました。翌21日には、夫の名をつけた木を香港のメンバーが植樹している写真を届けていただきました。
 そして23日、関西空港に帰着されたばかりの池田先生との懇談の席に招いていただいたのです。
 その朝、数々の激励へのお礼の手紙を書いていました。6歳になる長男の秀樹が起きてきて「何してるの?」。私は「池田先生にお手紙を書いているのよ」。「ボクも書こうかな」そう言って便箋に「せんせい いつもありがとう パパのぶんもがんばります」。封筒の裏に「よつながひでき」と書きました。
 懇談のメーン会場は3階でした。私は2階の部屋でした。
 部屋のドアが開きました。立ち上がると、池田先生と奥様が入って来られました。真っ直ぐ私の方に来られました。「今日は、あなたに会うために来たんだよ」「負けるな、断じて負けるな!」。心で受け止めました。奥様が先生に何かを手渡されました。今朝、長男が書いた手紙でした。封筒の裏の「よつながひでき」の横に先生は「いげだせんせい」と書かれました。奥様が、「“いげだ”になってしまっていますよ」と言われたところ、「関西では、“いげだ”でいいんだ」と先生。会場がパアッと明るくなりました。先生の深き深き慈愛を感じずにはいられませんでした。そして長男の秀樹に手紙をいただきました。
 「大好きなお父さんは、君の心の中に生きている。大切な大切な、お父さんは、お母さんの心の中に生きている。断じて負けるな! 絶対に負けるな! お父さんは、御本尊様の中から、君を毎日、見ている。弟たちのことも、君がお父さんに代わって、お母さんと弟たちを守ってあげなさい」
 そして、奥様が「お子さまたちに、かけてあげてください」と、キャンデーでつくった3本のレイとお菓子を三つ、手渡してくださいました。
 その夜、生まれて間もない三男の伸樹にもレイをかけてやりました。
 前へ、前へ、ひたすら前へ ― 先生の一つひとつの激励が私たち一家の、未来への希望となり、勇気となりました。感謝してもしつくせません。
 翌年、長男の通う創価小学校に入学できた二男の直樹が、6月の「父の日」に池田先生から、お歌をいただいて帰ってきました。
 「父の日に 父なき子らよ 偉くなれ」


 「励まし」という字は、「万の力」である。これほど偉大な力はない。
 名誉会長は青年に訴えた。
 「一生涯、不幸な人、悩める人の最大の味方となって生き抜いてもらいたい。
 『人間のための組織』である創価学会を大事にし、尊敬し、支え、発展させていってもらいたい。
 これは私の遺言です」