<スマトラ沖大地震・インド洋大津波>タイ;津波被災者支援のための署名活動

被災コミュニティーの土地を奪い、リゾート開発を目論む投資家、地方行政の動きに対して、「NO!」と言いましょう!

12.22「津波から一年を迎える「トゥングワー村」 phuucaukaan 11面

2005年12月24日 00時31分35秒 | ▽▽▽タイの津波記事▽▽▽
12月21日、パンガー県タクアパ郡クックカック行政区のトゥングワー村において、住居再建を祝う式典が行われた。この村では、昨年の津波によって破壊された住居を、住民みなが力をあわせ総計71件再建した。パンガー県知事で今回の式典を取り仕切るウィナイ知事は、トゥングワー・コミュニティーは津波以後に住民同士が力を合わせて村の再建に成功した村であると述べ、今後のコミュニティーの発展の方向性として、モーケンの生活と文化に関する観光開発やコミュニティー全体での収入向上の道などを奨励するべきではないかと意見を語った。とはいえ、この村はもともと公共用地であったことから、土地に関して住民は未だに不安を抱えている。現在、津波被災6県の土地問題解決委員会の決議では、住民たちは当面の5年間はもとの土地に居住することができる。知事はさらに、「政府はこの問題に対して改善策を講じているし、地方政府も恒久的に住める土地を村人に与えたいと思っている。この件に関して住民が非常に心配していることからも、今後も政府は対策を講じていくべきである。」と語った。パンガー県知事は、「トゥングワー村の住民は今後も団結し、もとの土地に暮らし続けます」という声明文を住民から聞いた後、村の名前が書かれた看板を村人と協力して設置した。67歳になるローイ・クムカムおばさんは以下のように語った。「自分は津波から生き残った一人です。そしてモーケンはこの土地にもう何十年も居住しています。津波後はまた津波が来るのではないかと心配で眠ることができません。コミュニティーが再建された今日という日でさえ、昨晩は眠れませんでした。しかし本日は知事が来てくださいました。知事が私たちの居住に理解を示してくれるだけ、、私はうれしく思います。なぜなら5年という期間だけでは、子供たちの今後が心配です。」
また、31歳のプラシット・ゲットグライさんは以下のように語った。「行政が私たちの村を容認して下さったことをとても誇りに思います。今後も行政の方々に訪れてもらい、継続的な支援をして下さるよう望んでいます。トゥングワー村では日常のさまざまな問題に関し、そのほとんどを解決することができています。しかし5年のみしか与えられていない土地の問題だけは例外です。とはいえ、本日知事が来て下さいました。私は地方行政が私たちを見捨てるのではなく、今後も支援してくれるであろうと確信を持ちました。」
 トゥングワー・コミュニティーは、津波の被害を受けた、モーケンもしくは新タイ人のコミュニティーである。村の住居は全壊し、死亡・行方不明者総数は42人。18隻の漁船と多くの漁具を失った。津波以前の村民は327人で71家屋。津波以後には土地の権利がないということで、もとの土地に戻り、新しい家を建てることができない家屋が58軒あった。しかしながら、複数の援助団体からの支援を受けた村人たちは、協力して住居再建作業に取り組み、津波後の復興が充分達成されている一地域として捉えられるまでになった。

「予想を下回る観光客数」8.27

2005年08月27日 01時43分07秒 | ▽▽▽タイの津波記事▽▽▽
「予想を下回る観光客数」
The Nation 2005/8/27

アジア太平洋観光協会(PATA)は、今年の観光客到着数が1200万人にとどまるだろうとの予測を発表した。タイ政府観光局は目標値を1340万人としている。協会の研究所長のJohn Koldowski氏は、原油価格の高騰と航空費の割増金が観光客数減少の主要因であると指摘し、津波被災6県の観光産業支援として、プーケットへの輸送幅の増加と、地元経営者がより地域的に取り組み必要がある述べた。
 協会の統計によると、プーケットでは、上半期に観光客到着数が40%減少し、支出額も同様に30%減少している。
 PATA代表のPeter de Jong氏は、津波被災地域の観光客、観光産業の巻き返しを図る時期にきていると述べている。「いくらかの旅行者たち、特に中国文化においては、多くの人々が命を落とした土地に観光に行くことを躊躇することは理解できる。しかし、観光客の呼び戻しをはかるために、十分な量の飛行機と格安な価格の設定をするべきである。上半期、プーケットへの1週間の客席収容数は18%にまで落ち込み、少なくとも航空会社4社がプーケット便を取りやめている。十分な客席収容力と積極的なマーケティングを行わない限り、当該地域の完全な観光復興は成し遂げられない。」
 確かにプーケット空港では、上半期の乗り入れは42%減少し、その中でも国際線は67%も減少してしまった。国際VISAカードのプーケットでの使用も、津波発生直後の一ヶ月間は65%落ち込み、その後3月に一時回復しながらも、再び減少し、6月においては平均して20~40%落ち込んでいる。
 長期的な国際観光の発展のため、タイ政府観光庁は1500万Bahtをかけて、アジア、北米、ヨーロッパの15カ国で市場調査を実施している。

「観光産業による津波支援計画」8.26

2005年08月26日 01時42分45秒 | ▽▽▽タイの津波記事▽▽▽
「観光産業による津波支援計画」
The Nation 2005/8/26

観光関連の5つの協会が、政府の適切な支援を欠く中、自力で再生をかける津波被災経営者支援のための新しい協議会を来週開催することが判明した。協議会は、全国の観光関連の4000以上のメンバーから構成され、会議は来週の木曜日に開催される。その協議会はタイ観光協議会(TCT)と同様の役割を演じ、南部のみならず全国の経営者支援を目的としたものになる。匿名の情報筋は、「協議会は全国のメンバーを支援するものです」と答えている。5つの協会とは、1500のインバウンド・ツアー・オペレーターを代表するタイ旅行代理店協会、400~500のメンバーを持つタイホテル協会、540のオウトバウンド・ツアー・オペレーターを代表するタイ旅行代理業者協会、400のメンバーを持つ国内旅行協会、そしてエコツーリズム協会で、協議会作りのアイディアは、数週間前の5つの協会での会議において提案されたものである。協議会作りを明かした男性は、TCTに関して、TCTは津波被災の南部ツアー・オペレーターを支援しているが、間接的に津波の被害を受け、観光客が減少している他地域の経営者たちを無視していると指摘した。さらに、タイ政府観光庁も観光プロモーションに失敗していると指摘する。「タイ政府観光庁は外国人観光客を取り戻すことはできない。これこそが私たちが新たな協議会を設立しようとした理由であります。」
 被災地での観光産業の復興を任されているSuwat Liptapanlop副首相は、プーケット、クラビー、パンガー県を訪問し、アンダマン海側の復興計画について本日検討する。副首相は9月5日のパンガー県での閣僚会議の場で西洋人観光客ではなく、中国人、アジア観光客をより魅了する観光戦略について提案を行うだろうと語った。

「パンガー県で閣僚会議を開催」8.26

2005年08月26日 01時42分19秒 | ▽▽▽タイの津波記事▽▽▽
「パンガー県で閣僚会議を開催」
Phuket Gazette 2005/8/26

9月5日、タクシン首相はプーケット空港に到着後、パンガー県のカオラック(クックカック行政区)とタクアパ郡を訪問する。地方政府職員と、村長(村のリーダー)から津波被災者のための恒久的住居建設の進捗状況について報告を受けるとともに、漁船、網、津波孤児への奨学金、そして他所の料理を振舞う予定である。午後には、再建作業が完了したRajaprajanugroh35学校を訪問し、その後カオラックのホテルにおいて、地元ビジネスマンや地方政府代表者を交えた津波後のプーケット、パンガー、クラビー県復興に関する会議に出席する。公式の閣僚会議は6日にパンガー県海軍基地で9時から昼の2時まで行われ、その後首相らはバンコクに戻る。

<補足;タクシン首相はパンガー県クックカック行政区を訪問する予定ですので、もしそれまでにトゥンワー村の恒久的住居建設が終了していれば、その譲与式にタクシン首相自ら出席するかもしれません。この件に関しては、トゥンワー村滞在時にもトゥンワー村住民のキアム氏とチャート氏が述べていたことです。もし恒久的住居建設が終了していなくても、住民リーダーのネーン氏(ホワイ・クラータレー氏)が、恒久的住居建設の進捗状況についてタクシン首相に報告することも考えられます。>

「被災者支援を加速せよ」8.26

2005年08月26日 01時41分53秒 | ▽▽▽タイの津波記事▽▽▽
「被災者支援を加速せよ」
Matichon 2005/8/26

8月25日、南部被災6県問題解決支援委員会会議議長であり、且つ総理府災害被災者支援基金委員会会議議長であるWisanu Khruagaam副首相は、支援基金の状況に関して協議された8月23日の会議について以下のように述べた。現在、寄付金合計13億Bahtの中で、6億8800万Bahtが残っており、各行政機関が引き続き支援するべき事柄は非常に多い。そこで、Wisanu副首相は、支援のための調査速度を加速させるとともに、その詳細について9月5~6日にパンガー県で開催される閣僚会議の場に提出するよう命令した。

「ドゥバイの企業家が津波被災者に一万軒の住居建設」8.25

2005年08月25日 01時52分58秒 | ▽▽▽タイの津波記事▽▽▽
「ドゥバイの企業家が津波被災者に一万軒の住居建設」
Phuucatkaan 2005/8/25

ドゥバイの企業家がアンダマン3県の被災者のために一万軒の住居建設を望んでいる。8月25日、午前9時、ドゥバイから来た「John」と名乗る企業家がプーケット県知事と会談し、昨年発生した津波後のプーケット県、クラビー県、パンガー県被災者への恒久的住居建設に関して提案を行った。彼はオーストラリア式の家屋一万軒を津波被災者の恒久的住居として建設すること、そしてその作業を2005年12月までに終了させたいと提案した。彼は今年の12月までプーケットに滞在する。
 プーケット県知事は、即時の回答はせず、彼に対して計画の詳細を明らかとさせ、再度会談する旨を伝えた。

「日本からの第2回大規模親善ツアー」8.24

2005年08月24日 03時56分38秒 | ▽▽▽タイの津波記事▽▽▽
「日本からの第2回大規模親善ツアー」
TAT.News Room. 2005/8/24

日本から180のツアーオペレーターと旅行記者がタイ観光の平常化を紹介するツアーで、アンダマン地域を訪問した。旅行関係者などを招待する親善ツアーは今回が2回目で、一回目は今年初旬に津波後の観光地復興計画について世界へ向け紹介した。TAT、タイ国際航空、タイ観光評議会によって企画されており、旅行関係者に彼ら自身の目で復興状況を確かめてもらう狙いがある。
 日本人観光客のバンコク国際空港への到着数は、1月から6月までに合計48万7566人で、2004年の同時期より5.20%増加しており、マレーシア観光客に次ぐシェアを閉めている。
 今回のツアー参加者は、東京(70)、大阪(90)、福岡(20)といった大都市から来ている。彼らはバンコクで一泊し、バンコク・Suvarnabhumi新空港、タイ観光産業、新製品についての説明を受ける。プーケットでは、Thavorn Beach Village, Diamond Cliff Resort and Spa, Holiday Inn, Le Royal Meridien Yacht Club, Dusit Laguna, Sheraton Laguna, Laguna Beach Resort , Cape Panwa Hotelなどで2泊滞在する。さらに、津波警報システムの視察として、パトンビーチや、プラカラン島、パンニ島、パンガー・ビーチ、
Kao Ping Kan , La wa Yai島などを視察する予定。タイ国際航空が全てのチケットを手配し、TATは宿泊施設、ツアープログラム、移動手段などを手配する。またホテルやツアーオペレーター、レストランなどもこのツアーを成功させるために協力する。
 TAT総裁Juthamas女史は、「私たちは第2回親善ツアーが市場を刺激し、タイ国への相当数の観光客誘致につながることを期待している」と語った。さらに「大規模な親善ツアーや他のマーケティング・プロモーションが津波の影響の補完以上の結果を生み出すことを期待している」とも語った。

「津波被災者への貸付支援、上半期で430億Baht」8.24

2005年08月24日 01時53分24秒 | ▽▽▽タイの津波記事▽▽▽
「津波被災者への貸付支援、上半期で430億Baht」
Phuucatkaan 2005/8/24

大蔵省がまとめた6月までの政府・商業銀行による津波被災者への貸付承認額は合計430億Bhatほどで、大部分は商業銀行が占め、融資に関する承認も26億Bahtを上回っている。
大蔵省は、津波被災地に対する復興支援金、つまり6月終わりまでのクレジット部門、税・手数料部門における支援について要約を発表した。クレジット部門に関しては、タイ企業・公社金融機構(บสท)が9832人(要請者全体の94.97%)に対して合計60億5911万Baht(要請金額全体の89.04%)を承認している。既に申請被災者5684人(約57.81%)に現金として渡っているおり、合計金額は55億737万Baht(90.89%)。津波以前の負債に対する補助に関して限度額の99.81%,そして復興資金貸し付けとして限度額の57.97%が承認されている。
 商業銀行によるクレジットに関しては、1833人(要請者全体の82.57%)、371億2552万Baht(76.88%)が承認されており、既に1615人(88.11%)、305億4303Baht(82.27%)が貸付られている。津波以前からの負債に対する補助は限度額の86.61%、復興資金貸し付けとして限度額35.97%が承認されている。タイ銀行においては、融資条件をゆるめ、2366人、合計金額482億2605万Bahtの貸付を承認済みである。
 支援内容をまとめると、津波被災者への貸付支援として既に貸付が行われたものが、7299人(承認されている中の62.57%)、360億5040万Baht(83.48%)で、津波以前の負債支援が限度額の89.06%、復興資金貸付が限度額の40.95%となっている。
 Tsunami SMEs Fundは2005年7月5日までに、21人(申請者の15.79%)、4億2120万Baht(11.96%)を承認し、承認されていない案件に関しては現在資料収集を行っている段階である。既に貸付が行われたのは、2人(承認済み者の9.52%)で1億4000万Baht(33.24%)。Tsunami Recovery Fundは、2005年7月8日までに、
17人に対して22億9000万Bahtの支援を承認しており、初期に設定していた限度額14億Bahtを超えている。既に9人に対して5億7500万Bahtが融資されている。

「タイ観光客誘致のためのDuty-Freeプロジャクト」8.23

2005年08月23日 02時19分10秒 | ▽▽▽タイの津波記事▽▽▽
「タイ観光客誘致のためのDuty-Freeプロジャクト」
Phuket Gazette 2005/8/23

政府は、プーケット、パンガー、クラビー県において9月1日から12月31日まで国内観光客誘致を目的としてDuty-Freeプロジャクトを立ち上げる。先週土曜日、ドゥシットラグーナ・リゾートでの「Recover three Andaman Provinces with Duty-Free」と出された会議に出席したWarathep Rattanakorn財務副大臣によって発表された。彼は、タイ人が香港やシンガポールでショッピングするかわりに、パンガー、プーケット、クラビー県へ赴くことを奨励する必要があると語った。現状としては、タイ人は7%の付加価値税を支払う必要がある。約4ヶ月間のDuty-Free期間においては、タイ観光客は必ずプーケット、パンガー、クラビー県に宿泊していること、購入額は上限5万Bahtまでなどの決まりを設けている。さらにアルコール、煙草は対象商品には含まれない。購入時にはタイ観光客はパスポートかIDカード(3県に居住・労働していないことを証明するため)、帰りの航空チケット、滞在ホテル場所などを示さなければならないが、検査場所はまだ決まっていない。Duty-Freeプロジャクトには当初当該地域に居住する外国人も対象にする予定であったが、開催が短期間であることから今回は3県以外からのタイ観光客のみ呼び込みに集中する。

「Wisanu副首相が被災地訪問」8.19

2005年08月19日 02時59分32秒 | ▽▽▽タイの津波記事▽▽▽
「Wisanu副首相が被災地訪問」
2005/8/19

政府は津波被災地での教育部門、漁業部門の復興状況に関して副首相を視察に派遣した。
津波被災者の教育、漁業部門の問題に対する対応を視察したWisanu Khruagaam副首相は、今回の訪問の焦点として、合計970人いる6県での津波孤児と、津波の影響を受けた14,052人の児童への保証金支給という教育部門の支援状況について視察したと発表した。津波孤児への一人当たり2万5千Baht、そして被害を受けた児童へは1人当たり1万5千bahtの支給を定めており、今月終わりまでにはその支給を完了させるべきもので、その他にも津波孤児に対しては、2万5千Baht支給後にも奨学金を支給する予定である。そして、将来的には、各県行政における各委員会が責任を持って対応していく必要ある。
 今回の視察で判明した点は、一番の津波の被害を受けたパンガー県において、津波孤児と被害児童総数が少ない過ぎる点である。
 漁業部門への支援に関しては、損失を被った漁船が88,500隻、漁民16,000人に対し、政府は既に漁業支援として1億1500万Bahtを当面の資産損失補填資金として予算に含めている。
 今後の課題としては、支援金に関しての透明性の保持と調査の必要性で、本当に困っている漁民の手に支援金が渡るよう、各県の様々な組織が責任を持って管理していかなければならない。

被災地訪問記⑫ -「海の民」について-

2005年08月18日 01時18分03秒 | ☆☆☆被災地訪問☆☆☆
被災地訪問記⑫ -「海の民」について-
 
 私たちがトゥンワー村に滞在している期間、住民リーダーのネーン氏がたびたび語ってくれたことのひとつは、「津波が発生するまで、モーケンなんて誰も知らなかった」ということです。津波が発生したことで、タイ南部アンダマン海側に暮らす「海の民」の存在が注目を集めるようになった、という側面は否定できない点です。
 しかし、「海の民」もしくはSea Gipsyという言葉のみが、やや誇張されメディアを通じて伝播しているという側面があるのかもしれません。
上智大学外国語学研究科地域研究の博士課程後期に在籍し、「海の民」について研究されている鈴木佑記さんが1月18日にまとめた文書における「海の民」の概要説明は以下の通りです。
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 タイ語で主に、ชาวเล(チャオレー)、ชาวน้ำ(チャオナーム)、ชาวไทยใหม่(チャオ・タイマイ)といった呼称がある。チャオレーとチャオナームはそれぞれ、日本語で「海の民」、「水の民」を意味する。この用語は、タイ西海岸域で比較的海に依存して暮らしてきた、タイ語を母語としない人びとを包括的に表す概念である(最近はタイ語が母語になっている人びとも増えているらしいが)。チャオ・タイマイは陸地定住し、タイ国籍を認められた「海の民」に対して用いられる傾向がある。近年では、言語学的特徴から「モーケン(Moken)」、「モクレン(Moklen)」、「ウラク・ラウォイッ(Urak Lawoi’)」の3つのグループに分類されることが多い [Hogan 1972; Larish 1999]。市民証を持たない人も多く正確な人口は不明であるが、世界中の「少数民族」へキリスト教の布教活動を行なっているJoshua Projectによると、ビルマ領を含めたMokenが12,950人、Moklenが1520人、Urak Lawoi’が3940人である。様々な立場から多くの呼称があり、解釈も多義である。
<参考文献>
Hogan, David W. 1972. “Men of the Sea: Coastal Tribes of South Thailand's West Coast,” Journal of the Siam Society, 60(1), pp.205-235.
Larish, Michael. David. 1999. “The Position of Moken and Moklen within the Austronesian Language  Family(Thailand),” Ph.D. dissertation, University of Hawai’i.
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混乱をきたす原因のひとつには、民族と生業を不分離に考えている点だと思います。「海の民」=「漁業で生計を立てている民族」、と捉えることを一旦やめ、現状としてタイに暮らしている「海の民」の生業を再考することが、良いのかと思います。
例えば、CODIの資料によると、モーケンはラーマ6世時代にはプーケットやパンガー、ラノーンなどにある比較的大きな島や本島に移り住むようになったそうで、私たちが滞在したトゥンワー村に関しては、約100年前から村の開拓が開始されたそうです。トゥンワー村の津波生存者への調査では、
 ・仕事も持っているもの(50.8%)
・ 無職(15.86%)
・ 子供(27%)
・ 老人(5.98%)
であり、仕事の内容は、
・ 雇用労働(72.78%)
・ 漁業(20.5%)
・ その他(6.96%)
 という結果が出ています。雇用労働に関しては、漁業から徐々に雇用労働へ比率が上昇していったそうです。
 トゥンワー村はパンガー県本島に位置しており、必ずしもトゥンワー村の事例を持って、全ての非タイ系の「海の民」の生業を説明できるわけではありませんが、トゥンワー村の事例からは、現実として今日においては、「海の民」=「漁民」もしくは家舟で海を漂っている「SeaGipsy」と捉えることができないといえます。
 
また、生業という側面ではなく、今度は「タイ国民」という観点から考察してみても、「海の民」の今日の多様性が指摘できます。上記と同じく鈴木佑記さんがレポートの中で訳していました、チュラロンコーン大学社会調査研究所が2005年1月3日にまとめた、スリン諸島に暮らすモーケンの津波による被害状況報告書によると、スリン諸島国立公園内に暮らす199人のモーケンのうち市民証を所持しているのは5人のみだそうです。
 単純にいえば、199人中で5人のみがタイ国民として認められており、残りの194人は何らかの他国の国籍を所持しているか、無国籍であるといえます。
 しかし、トゥンワー村に関しては、モーケンの住民みなが市民証を持っており、タイ国民として認められています。おそらくこの差異は、もともとタイ国以外(おそらくビルマ)で出生し、その後タイ国に移住してきたもの、もしくはタイ国内の病院でない場所で出生したのだが、出生届を役所に提出していなかったために、タイ国籍者として認められなかった前者と、タイ国の病院で出生、もしくは自宅などで出生後、役所に出生届けを出した後者という違いだと思います。鈴木さんは、「スリン諸島の方に関しては、モンスーン期にだけ一時的な小屋を建てて暮らしているだけです。乾季になるとビルマ領の島々へ移動する家族もいるので、毎年決まった数のモーケンがスリン諸島にいるわけではありません」と指摘しており、タイに出生から現在まで滞在しているトゥンワー村のモーケンとスリン諸島のモーケンを国籍や生業の点で一緒くたに捉えることはできないと言えます。
 私がトゥンワー村の住民と話している際にも、トゥンワー村のモーケンらを、「陸のモーケン」、そしてスリン諸島のモーケンを「島のモーケン」と説明し、言葉も少なからず異なるということを教えてもらいました。
 津波によって、「海の民」への漠然とした関心が高まっていますが、外部からの勝手なエキゾチズムの押し売りというものは自粛したほうが賢明であり、また津波後の支援に関しても、多様な「海の民」の現状をまず認識した上で、住民主体の復興というものを考えていかなければいけないと感じています。
 

被災地訪問記⑪ -現地で得たナイライ村資料の訳出-

2005年08月16日 21時51分55秒 | ☆☆☆被災地訪問☆☆☆
「消えようとする水辺の村-ナイライ・コミュニティー記録書」
2005年6月

 ナイライ村はパンガー県ターイムアン郡、ナートゥー行政区ムー7にある古くからのムスリムのコミュニティーである。ナイライ・コミュニティー付近では100年以上の祖父の時代から開拓が開始され、当初はKiawnin家、Liibanrung家の2氏族の6,7世帯から居住が開始され、現在では101世帯の巨大コミュニティーに成長した。
 その後、プーケット資本のオーパース社がこの地での採掘のために進出し、Tosem Liibamrung氏とTohaat Hiran氏に対して、採掘のために土地を売ってくれるよう持ちかけた。その際の両者間での合意内容は、採掘期間が終了した際には住民に土地を返すというものであった。
 採掘利用期間が終了した1983年から現在までは、元から居住している住民、そして採掘期に新たに居住してきた住民たちは、漁業や養殖業などで生計をたてていたが、誰一人として土地が投資家のもとに渡っていることを知らなかった。
 彼らの土地は石鹸会社のThanaayong社の手に渡り、その後その会社の不良債権処理の一環として、ナイライの750ライの土地が5億Baht以上の値段で市場に放出され、プラチュワップキリカーン県でパイナップル工場を経営する富豪Somkriat Liitiira氏が、ホテル、リゾート地、ゴルフ場開発用地として購入していた。
 彼は一度、彼の土地を不法占拠しているとして住民を訴え、話し合いの結果、住民の一部のグループに土地の管理書を交付している。しかし、住民のほかのグループは、彼の土地の権利を信用せずに、その交渉を拒絶した。
 
 2004年12月26日の津波による被害は、死者1名、負傷者11名、家屋倒壊110軒(全壊72軒、半壊38軒)、道路、橋、電線への被害、水道、電線の断線などをもたらし、住民の全員が仕事を失うこととなった。

 2005年3月28日、合計20名の住民が他人の土地に不法占拠しているという容疑で告訴され、Sombuun Kifairoot氏を代表とする原告側は、Somkriat Liitiraa氏がその土地の正式な土地権利書を持っていると主張した。2005年3月30日、住民側は、彼らは津波被災者であり、現在被災者として困窮している身であることから、原告側の主張への回答に関して猶予期間を与える旨の文書を受け取った。その文書は、住民が裁判所から受け取った初めての文書であり、いったいいつ新たな文書を受け取ることになるのかについては、住民の誰もわからない。2005年4月9日、あるグループが土地調査を行いに再度村を訪れたのだが、地域のリーダーにも、住民にも事前に何も言わず、土地調査の理由に関しても教えてくれなかった。住民側はその土地調査に抗議したのだが、そのことが結果的に地域の権力者と意見を異にすることになり、終始住民たちは脅迫や暴行を受けることとなった。2005年4月11日には、住民80人が土地調査に関する抗議文をターイムアン郡の土地管理事務所に提出し、土地管理職員から土地調査を辞めさせますという回答を得た。
 2005年6月13日午後3時。ナートゥー行政区区長補佐と私服警官に率いられた1群が村にやってきて、住民たちが建設中の住居全てを2005年6月28日までに撤去するよう、そしてもし従わない場合は法廷措置を取る旨を記した文書を村の全ての家々の壁に貼り付けていった。
 この土地は住民が長年居住している土地である。住民たちは強大な権力や恐喝、暴行に対してどのように対処していくことができるのかわからないが、自分たちや、子供、祖先の魂、そして居住の地を得るために、闘わなければならない。
 津波によって破壊された住居の再建作業に関しては、村人のみならず、国内、海外の様々な支援団体や学生が建設作業を手伝いに来てくれている。多くの力を借りた建設作業も、もうじき完了することができるだろう被災民のグループからの友人も建設を手助けにきてくれており、例えば、
・ タップタワン村(タクアパ郡)
・ レームポム村(タクアパ郡)
・ アンダマン復興ネットワーク
・ 居住地開発財団
・ 動植物保護財団
・ スラム4リージョン
・ 南部漁民連合
・ 社会のためのボランティア財団などである。

(註)津波発生後の被災地における土地問題解決のために設立された、「南部6県津波被災地土地問題解決小委員会」の代表を務めていたSurin Pikunthoong氏は、土地問題を抱える被災村落として、ナイライ村、レームポム、タップタワン、タップヤーン・コミュニティーを6月27日に訪問し、各村落での対策について住民と話し合った。ナイライ村に関しては、郡の土地管理事務所に対して、土地所有者と土地権利書に関し、住民がもとの土地に居住できるよう、そして養殖場として採掘場を使用できるよう対応してもらうよう求めるというもので、コミュニティーに対しては、居住の歴史(設立年度など)と詳細な世帯情報を収集してくれるよう申し出ている。
→採掘場というのは、村の話し合いの場(コーヒーショップ)の裏の入り江のことで、その入り江の地下の鉱物を採掘していました。あの入り江で津波前から養殖をしており、今後の仕事のひとつとして、あの入り江で養殖をしていきたいと考えています。

「身元不明遺体いまだ2000体あまり」8.16

2005年08月16日 19時23分01秒 | ▽▽▽タイの津波記事▽▽▽
「身元不明遺体いまだ2000体あまり」
Phucatkaan 2005/8/16

公衆衛生の医師Wanchai Satyaawutiphon氏は、津波犠牲者の身元確認作業に関して、当面の最大の障害は、身元確認のための資料の欠如で、特にタイ人からの資料提供が非常に少ないと指摘した。そこで、行方不明者親族には、身元確認センターを訪れず前に、基礎資料の提供を最大限増やすよう要請している。その他にも、未だ身元が確認されない約1900人の身元確認のためのDNA資料として、父親、母親、子供、兄弟などのものを収集する必要があると指摘した。

<スマトラ沖地震>死亡確認2人 邦人の犠牲者は39人に8.16

2005年08月16日 04時03分48秒 | ▽▽▽タイの津波記事▽▽▽
<スマトラ沖地震>死亡確認2人 邦人の犠牲者は39人に

 昨年12月のスマトラ沖大地震による大津波で、タイ・プーケット島付近で行方不明となっていたシンガポール在住の会社員(当時39歳)の二男(同5歳)と長女(同3カ月)の死亡が16日、確認された。これで邦人の犠牲者は39人となった。会社員は一家5人で、休暇でタイに入って被災。5人全員の死亡が確認された。
(毎日新聞) - 8月16日19時36分更新

「忘れられた津波孤児たち」8.14

2005年08月14日 19時22分31秒 | ▽▽▽タイの津波記事▽▽▽
「忘れられた津波孤児たち」
Bangkok Post 2005/8/14

15歳になるSupranee Chomphupraさんと彼女の弟は、パンガー県から1800キロ以上離れた場所に住み、カオラックがどこかさえ知らない。ただ、建設労働者として昨年の10月にカオラックに出かけたお母さんが帰ってくることはなかった。お母さんは、パンガー県のカオラックやクラビー県のピーピー島で建設労働に従事し、津波に命を奪われたタイ東北部からの出稼ぎ者の1人であった。Supraneeちゃんは現在中学三年生で、彼女の父親は昨年癌によって亡くなり、弟と共に祖父母の家で暮らしている。彼女の母親は、津波が起こる前に、前金の3000Bahtをナコンパノム県バーンパエングの家に送金していた。
彼女の遺体は見つかっておらず、家族は死亡者認定を受けることが出来ず、政府規定の犠牲者親族への5万Bahtの保証金は受け取れていない。Suparaneeが通う学校の先生は、教育費の欠如から彼女が今後学校に通えなくなるのではと懸念している。
 その学校や周辺の学校の児童においても同様の問題を抱える子供たちは少なくない。
 小学校4年生のPittaya Nameedも両親を津波によってなくした子供の1人だ。両親は、農業・農業組合銀行に対する2万Bahtの借金を返すため2年前からピーピー島で建設作業に従事しており、借金の返済後も、新たな家の建築費用を稼ぐために南部での滞在を延長していた。両親たちは一年に一度、収穫の時期だけKamnokkok村に帰ってきていた。Pittayaが最後の両親にあったのは昨年の12月で、両親は津波発生の三日前にピーピー島に帰ったばかりであった。彼の祖父は、両親だけが働き頭であったことから、今後教育費や生活費をどのようにまかなっていけばいいのかわからないと嘆く。
 Kamnokkok村学校の校長Pravit Chantaさんは、津波によって20名以上の生徒が孤児になってしまったと語っている。彼は、政府と支援団体は、主に地域住民の支援を行っており、東北部の出稼ぎ労働者やその親族への津波の影響を見落としていると指摘する。
 Pravit氏は、最近ナコンパノムの津波孤児のもとを訪れた日本の発展のための教育基金(EDF)のメンバーに対して、出稼ぎ労働者の子供の多くが、まったく収入のない祖父母と暮らしているといる特徴について説明した。EDFでは、ナコンパノムとサコンナコン県の113人の津波孤児に対して1500~2000Bahtの奨学金支援を行っている。EDFのマネージャー補佐であるAnantachai Yoonprathom氏は、継続的支援として更なる金額の増加を今後行っていくと語った。国連子供基金によると、津波によって1200人以上の子供たちが孤児となり、そのうちの約300人は東北部からの出稼ぎ労働者の子供たちであるとのこと。