自転車で行こう

繋ぎ合わせて日本一周変じて あちこち旅 時には外国

JAZZを聞きに東京へ7

2017年05月04日 | 旅行
 湘南の景色を堪能した後、なぜか鶴岡八幡宮はパスして、稲村ヶ崎で山手へ向かった。住宅街の狭い道を走り、丘を越えると横浜にについた。桜木町のYHにチェックインを済ませ町に出た。
「オフコース」の「秋の気配」に出てくる「港が見下ろせる小高い公園」がある。
 せっかくだから、中華街へ向かった。思えば、「中華街」、長崎に自転車で行ってチラ見した時が最初、横浜が今回、地元の神戸には、ず~っと後に家族と行ったのが初めてだった。入口で「崎陽軒」の焼売が売られていたが、これは横浜だけみたいだ 。閑話休題。
 始めての中華街での食事。一人なので、どんな店に入ったら良いのか解らず、ぶらぶらする。結局ファストフード店みたいな所へ入る。「麻婆豆腐」みたいな豆腐料理を期待して「杏仁豆腐」を頼んだ。もちろん、正しくデザートの「杏仁豆腐」が提供された。満たされない腹のままYHに帰った。
 翌朝。8時半頃出発。程なくして、偶然、東京タワーに着いた。
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JAZZを聞きに東京へ6

2016年09月20日 | TOPIC
 街に入ると、程なく小田原城公園にでた。
 小田原は戦国時代に素浪人だった英雄「北条早雲」が一代で乗っ取り築いた国。この城も綺麗に復元されていた。ゆっくりと休憩して景色を楽しんだ。
 さて、次は湘南。1980年頃に学生時代を生きた私にとって、特別な場所。ワイルドワンズ、サザン、ブレッド&バター、BOATHOUSE。
 茅ヶ崎を超え、東に行くにつれ、だんだんと「そんな空気」が濃くなっていく。湘南は、正月というのに「海の家」があり、サーフショップが開店中で、サーファーが海で跳ねていた。
 湘南海岸を過ぎると、左手に江ノ島電鉄の線路があらわれた。しばらくすると、電車に抜かれた。「俺たちの旅」等のドラマとかで見ていた「江ノ電」だ。「うわ~江ノ電や~」とひそかに盛り上がっていた。
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JAZZを聞きに東京へ5

2016年05月29日 | 旅行
 

午後5時前、まだ明るいうちに芦ノ湖に着くことができた。
 さて、宿探しだ。目の前に観光案内所があったので、「よし!」と思い行ってみると、休業。
 「正月やもんな~」「どうしょうかな~」
 すると、坂の上手で旅館の法被を着て掃除をしている「番頭さん」って雰囲気の男性が目に入った。
 いかにも、高そうな老舗旅館という感じだが、背に腹は代えられず「泊まれますか?」と尋ねると「うちは、お一人様はお泊めしてませんが、知り合いの民宿、聞いてあげようか?」と、言ってくれた。
 実はこれ、とてもラッキーなことだったようで、数年後ある年配の自転車乗りと飲んだとき、同じような場面で、けんもほろろな対応され野宿したという話を聞いたことがあります。閑話休題。
 さすが「番頭さん」の地元の顔が利いたのか、民宿から了解を得、坂の上の宿に向かった。
 夕食は他の泊まり客と同室。小さな子ども連れの家族と、年配のご夫婦と一緒に食事をとった。特に会話もなく、一人で食べた。

 翌朝、昨日の「番頭さん」にお礼に行こうと坂を下る。はたして、旅館先にいらっしゃたので、お礼を言うと、「民宿の先、登ったかい?1号線の最高峰だから、行ってきな」と教えてくれた。で、再び坂を上る。
 1号線最高峰は普通の国道で、さらに霧の中。「ふ~ん」って感じ。短くても「ぜえぜえ!」言いながら登る坂の方が達成感があるのか?でも、「ここまで来た~」という思いはあった。
 このまま、国道を走るのもどうかと思い、旧街道を下ることにする。すぐに「箱根の関所跡」に着き写真を撮る。後で気づいたが、ここは「箱根駅伝」のコースだ。「山の神」が走る道。檄坂を下りると小田原の街に出た。
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JAZZを聞きに東京へ4

2016年01月23日 | 旅行
 地元の生活道路を抜け、1号線に出て東進する。
 視界が広がると、富士山が目に入る。三保の松原で見た時より、デカい。
 長距離トラックが脇を通り過ぎて行く。さすが1号線だなあ。
 ちょうど昼に、三島に着く。四つの国道が交差し、新幹線の駅もある都会だ。ここで、しっかりと昼食をとる。さあ、いよいよ、箱根への約20㎞の登坂スタートだ。
 と、気負って出発したものの、しんどかった記憶がない。左手に「でん!」と構える、生の富士山に見とれながら、「自転車で来て良かった~」と思いつつ登っていた。
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JAZZを聞きに東京へ3

2015年09月02日 | 旅行
 浜松から1号線を離れ、御前崎に向けて、150号線を走った。
 御前崎は灯台の他は何もなく、砂浜があるだけだった。そして、どこまでも広がる太平洋と水平線があり、地球は丸かった。
 再び150号線に戻り、今日の宿泊地の三保YHを目指す。「羽衣伝説」の三保の松原が楽しみだ。
 途中で焼津港に通りかかった。無数の大漁旗が所狭しと国道沿いに立ち並んでいる。海産物を買い求める駐車場待ちの車がすごい。見ているだけで市場の熱気が伝わってくるようだ。
 夕方、YHに着く。もうすぐ日暮れなので、松原見物は明日にした。YHでのんびりし、テレビを見る。こんな旅をしているとテレビで一番気になるのは天気予報。明日は台風並みの荒れた天気になると男の人が告げている(当時は「お天気お姉さん」て言葉も「天気予報士」て制度も無かった)。「ま、天気予報も外れるかもしれんし」と自分を楽観させて、就寝した。
 翌朝、目が覚めると、しっかりとした雨。朝食を取りながらテレビを見ていると、この後、雨はさらにひどくなるらしい。すっかり気持ちが折れて、連泊することにした。といっても、初めての土地なので、YHで傘を借りて、市バスに乗って静岡駅に観光に行った。駅に着くと静岡県の在来線は一部不通の掲示板が表示されていた。
 構内の北外れの食堂で昼食をとる。日替わり定食をたのむ。500円台とは思えない品数と味に感動する。西側は不通なので電車で由比に向かう。サクラエビの名産地だが、あいにくの雨で、天日干しの光景は見られなかった。夕方、バスでYHに帰る。
 翌朝は、嘘のような晴天。さっそく美保の松原へ散策。綺麗な富士山が見える。
 今日は、これからあそこに向かうのだ。朝食を取り、YHを出発した。
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JAZZを聞きに東京へ2

2015年06月03日 | 旅行


 1月2日の早朝、熱田神宮の前を過ぎる。昨日は大勢の初詣客でごった返していただろう。世間はお屠蘇気分の中、自分は何をしているのだろうと思う。とにかく、昨年ひとコギも出来なかった名古屋を走り、一号線を東に向かう。
 突然、目の前に松並木の道が現れた。旧東海道だった。こういう景観が今も残っているのか。良いものを見た。しばらくすると、また突然、矢作橋に出た。若き日の豊臣秀吉が蜂須賀子六に出会ったという逸話の橋だ。私は歴史小説が好きで、とくに「秀吉」が好き(というか秀吉が好きで歴史小説を読み始めたようなもので・・)なので、この偶然にワクワクした。間もなく、三度突然、岡崎城の前に着いた。徳川家康ゆかりの城。家康は嫌いだが、城は綺麗だった。今回の旅行は、JAZZしか頭に無かったので、これらの偶然が、すごい嬉しかった。
 やがて、昨年断念した名鉄の駅に着き、浜松まで輪行した。浜松を出て真っ平らな道を走る。携帯ラジオをつけダイヤルをNHKに合わす。「箱根駅伝」の実況を聞く。これから、その道へ向かうのだ。徐々に気分にスイッチが入る。
 一周人のお決まりなのか、○○最X端の御前崎を目指す。ふと、富士山が目に入った。就活の時、新幹線の窓越しに見て以来。生で見るのは初めて。美しい。素直に感動した。この後、徐々に大きくなる姿を楽しみながら、ペダルを回した。
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JAZZを聞きに東京へ1

2013年05月11日 | 旅行
 平成7(1995)年1月、晴れた空の下を東京に向かって走っている。

 前年2月、休みが取れたので、名古屋から東へ走ることにした。
 まずは、輪行で名古屋入り。すでに日は落ちている。自転車を組み立て、ユースホステルまで走り、そのまま投宿。
 翌朝目を覚ますと、なんと!一面の雪!!まれにみる大雪で、名古屋市内は全域積雪した。これでは走り出せない。テレビの地元放送を見ていると、東の方は大丈夫そうだ。とりあえず、輪行して浜松まで行き、名古屋へ戻るルートをとることにした。
 自転車をばらし、輪行袋に詰め、浜松駅へ。舘山寺を見に、浜名湖周辺を走りに行く。
 走り出す前に、「せっかく浜松へ来たのだから」と、駅構内のうなぎ屋で鰻重を食べた。しかし、浜松は関東式で、関西人の私には、あっさりしすぎて「美味くないやん」と思った。
 浜名湖を離れ、名古屋に向けて1号線を西へ走る。国道の路肩には、除雪された雪が溶けずに積まれていた。
 豊橋を過ぎ、豊川市に入った頃、今回の大雪の影響が出た。交通マヒが起きていて、国道は大渋滞。車が全く動いていない。横をすり抜けるにも、路肩は積み上げられた雪が彼方まで続いている。前へ進めなくなった。途方に暮れていると、右に名鉄の小さな駅が見えた。ついに、自転車を断念。今回は、ここで輪行して帰ることにした。名鉄に乗り、豊橋に戻り、新幹線「こだま」で帰った。新幹線も雪の影響で、新大阪まで5時間かかった。
 
 翌年、再度挑戦。輪行で、1月2日の朝に名古屋入り。すぐに、正月で車のいない道を、
平成7(1995)年1月、晴れた空の下を東京に向かって走り出した。
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長かった紀州路2

2012年01月31日 | 旅行
 橋杭岩を右に見て、古座に向けて走っている。やっと、潮岬から出ることが出来た。

 昨年、一気に紀伊半島一周するはずだったのが、諸々の事情で、(大阪~潮岬)で終わってしまった。今年、「とにかく残り半分は」と、(潮岬~名古屋)を走りに向かった。
 今回は、高校からの友人のジイが「時間はあるで」と協力を申し出てくれて、我が店のHIACEにバイクを積んで潮岬で来た。取りあえず、潮岬YHに挨拶に行った。見知らぬ人がほとんどだったが、昨年一緒だった人も数人いた。そいつらが話しに尾ひれを付けて喋っていたのか、『伝説の人』みたいになっていて、えらい歓待を受けた。ジイは知らぬ間に、昨年私と一週間一緒にいた静岡のライダーと仲良くなっていて、いつの間にか三人で「那智大社」に行くことを決めていた。ジイはHIACE、私はライダーのバイクの後ろに乗り「那智の滝」へ向かった。滝へのワイディングロードを、私は後部シートで、ずっとウトウトしていたようだ。YHに帰ると、ペアレントさんも再来を喜んでくれた。、結局「やばいなあ」と思いつつ一泊してしまった。
 翌日、またしても出発できずに、だらだらホステラー達と過ごしていた。夕方、ジイとライダーが
「良いキャンプ場見つけたから泊まりに行こう」「古座川を遡ったところにある有名な所やで」と誘ってくれた。
「ここを逃したら去年の二の舞だ」と思った。次に行かねばならない。
「今日も泊まるやろ」「今年は行くんやねえ」というホステラー達の引き留める言葉を振り切って、潮岬YHからペダルこぎ出した。
 
 河原のキャンプ場に行き、一夜を三人で過ごした。翌朝目を覚ますと、目の前に巨大な屏風岩があった。「古座川の一枚岩」というらしい。国指定天然記念物、高さ100m幅500mに及ぶそうだ。目の前で岩に見下ろされているようだった。岬を出てきて良かったと思った。
 キャンプ場から国道42号線に戻り、二人と別れた。ライダーは潮岬YHへ、ジイは伊丹市へ、私は東へ。昨日見た勝浦界隈はスルーし、「熊野速玉大社」に詣る。「熊野三山」の一つで「新宮」とも呼ばれる、とてつもなく由緒ある社なのだが、私が参拝したときは他に人影はなかった。「那智大社」や「本宮」には何度か行ったことがあるが、いつも観光客が一杯だった。ここは、どうなのだろう?
 熊野市を過ぎ、矢ノ川(やのこ)トンネルへの坂道を延々と登る。42号線最大最長の難所と聞いて覚悟の上でアタックしたので、坂道の勾配や距離よりも、とにかく暑さに参りながらペダルを踏んだ。トンネルを抜けると、ようやくダウンヒル。胸を反らし出来るだけ風を浴びながら、ゆっくりと坂を下った。

 この日は手頃な宿をみつけることができず、日が暮れるまで走り続け、結局、紀伊長島の漁港でテント泊することにした。漁港のはずれにテントを張り、買い出しに行った。近所に、いかにも昭和な「なんでも屋」があった。お約束のように、初老の「おばちゃん」が一人で店番をしている。かたわらに、紙パックのコーヒー牛乳が半額以下で売っていた。朝の分を含めパンと二つずつ買った。テントで夕食。パンをかじり、コーヒー牛乳を飲む。
「ウェッ!」。めちゃくちゃ酸っぱい。日付を見ると消費期限切れだ。もう一つのパックもパンパンに膨らんでいる。全部吐き出し、残りも捨てた。「しょうもない所でケチった」自分を悔やんだが、どうしようもない。ボトルの残り水で口をゆすいだ。何も食べる気がなくなって、そのまま眠った。

 漁港の朝は早い。港の喧噪に起こされた。まだ、口の中が気持ち悪い。「ボーッ」としながら、「何処かに水道があるだろう」と、歯磨きに出た。蛇口を見つけ、歯を磨き、水を口に含んだ。
「グウェ!」。塩っ辛い。油臭い。漁船の下で漂っている海水だ。ますます気分が悪くなった。自動販売機でジュースを買い(当時は、まだ「水」は売っていない)、うがいをした。
 テントをたたんでいると、雨が降ってきた。昨夜は天気予報を聞けなかった。この後どんな雨足になるのか解らないが、ここにいても「しゃあない」ので、取りあえず出発。いきなり上り坂、そして入り組んだ海岸線に沿ってつづら折りの道が続く。左側は山、右側は崖、自動車一台分の幅員だ。雨は上がったが、路面はしっぽり濡れている。オートバイのように、「HUNG ON」気取りでカーブを切っていた。荷物を積んだ自転車は、ただでも重心が高い。左に曲がった時、「フワッ」と自転車が浮いた。
 「まずい!」。左肩に激痛が走った。アスファルトの感触がある。落ちなかったようだ。道路に仰向けになった。息が出来ない。車のエンジン音が聞こえたが、動けない。ブラインドコーナーで寝そべりながら、色んな思いが巡った。
「下ってくるやつなら、轢かれるかもしれなあ」「ここで終わりかなあ」「自転車やったら、まあ、ええか」。
 頭の先で車の止まるのが解った。登りの車だった。クラクションが鳴らされたけど知ったこちゃない。逆に「助かった」と思った。人が降りてきた。
「大丈夫?」。やさしく声を掛けたくれた。30歳代らしい大人のカップルだった。しばらくすると動けるようになった。崖側の草むらに横たわる自転車を起こし、カップルを見送った。気を取り直し、坂道を下る。左肩に「ひやっ」とした激痛が走った。手をやると、すごく擦りむいている。風の冷たさで痛みを感じたらしい。やっと自分の傷に気付いた。
 この日泊まる予約をしていた「伊勢志摩ユースホステル」に昼頃着いてしまった。この時間なら受付してくれないのだが、私の傷を見て中に入れてくれた。おまけに傷の手当てもしてくれた。そのおかげか痛みがだいぶん安らいだので、今回の旅のメインテーマであるヤマハリゾート「合歓の里」に行くことにした。当時は「ヤマハのポプコン」全盛期。ウィンドサーフィンやディンギーが滑る景色がメディアを飾っていた。「バブル期」前夜だ。自転車旅行以外にも、バブリーなレジャーを夢見ていた。私も「右肩上がり経済」しか知らなかった頃の話。
 ユースのペアレントさんのお陰もあって、翌日はいつも通り出発。小学校の修学旅行でも行ったのだが、やっぱり伊勢神宮に行ってしまった。
 今日の泊まりは松阪のビジネス民宿。夕方の急な投宿で安価にもかかわらず、あついもてなしを受けた。まずは、衣服の洗濯。料金が要ると思い断ると、見透かされていて「お金要ると思ってるやろ!」と怒られた。翌朝、出発に時に「おにぎり」を持たせてくれた。心根の狭い自分が恥ずかしかった。でも、とっても嬉しかった。
 ここからは、国道23号線の産業道路をひたすら北上。大量の車の排気ガスの中、走っていて気分は全く良くないが、ゴールが近付いたのを感じながら、名古屋を目指した。
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1996 ホノルルセンチュリーライド

2011年04月08日 | 旅行
 9月から10月にかけてハワイ諸島はALOHA WEEKを迎え、全島で様々な行事やイベント〈ALOHA WEEK FESTIVAL〉が行われる。元来は〈マカヒキ)というハワイの収穫祭。ホノルルセンチュリーライドはALOHA WEEK FESTIVALの中で行われるイベントの一つだ。
 1996年、新婚旅行でハワイに行きセンチュリーライドに参加した。
 
 結婚式直前の8月、自転車仲間にハワイに行くことを話すと、「ちょうどサイクルイベントやってるから、出てきいな」と言われ、スケジュールを変更して貰った。しかし、海外イベントのエントリーもロードバイクのレンタルも経験が無い。結婚式の打ち合わせの時、式場付きのエージェントに質問してみた。彼女は詳しい事も聞くことなく答えた。
「イベントへのエントリーと現地でのロードバイクのレンタルの手配は当方でしておきます」
 飛行機は、後にも先にもこれっきりになるだろう(ビジネスクラス)で行った。ノースウェスト便。アメリカ人のスチュワード(女性はスチュワーデスと呼ばれていた時代だ)。ちょっと残念。でも、すんごいサービスが良くって、何も言わないでも、次々と飲み物のオーダーを訊きに来てくれたり、寒くないかと毛布を持って来てくれたりした。全部英語だったけど。極上のフライトの後、スチュワードと握手をして、タラップを降りた。
 飛行場のツアーデスクに行き、他の旅行者と説明を一緒に受けた後、一番気になっていた自転車の事を尋ねると、
「聞いておりませんが」
「ええ?」
「はい、全く聞いていません」
「・・・・」
 結局センチュリーライドのエントリーもされていなかった。色んな事が頭を駆けめぐった気がする。誇張を交えて、とにかく食い下がってみた。
「明日の100マイル走る《自転車レース》に出るねん!」
 すると白人のスタッフが出てきて、英語で何か言ってきた。「よう解らん」という顔をしていると、メモに何かを書いて、私に手渡した。
「店に行って、このメモを見せたらバイクは貸してくれる。エントリーは当日でも出来るでしょう。」と、日本語スタッフが教えてくれた。
 白人スタッフが店への道順を説明してくれた。頷いてはいたが、実はあまり理解出来ていなかった。

 妻は、Imigrationの女性がでパスポートを見て「I can't stamp」とビックリした程、海外旅行歴がすごい。飛行機の中でもスチュワードの言う事は大体は理解していた。でも、喋る方は苦手で「~と言うてよ」と私に頼んできた。私はヒアリングはまるでダメだが、言いたいことを英語に直せるくらいは出来た。この後、何度か家族で海外旅行に行ったが、彼女が聞き私が話すパターンは変わることがなかった。

 妻の指示に従い、教えて貰った〈ISLAND TRIATHLON&BIKE〉に行った。白人のスタッフが応対してくれた。日本語は全くダメな様だ。例のメモを渡すと、早速バイクを用意してくれた。。普通のペダルが付いていたので「SPDで走るので専用のペダルが要ります」ということを何とか伝えると、快く交換してくれた。店を出た帰り道、ワイキキビーチに寄るとイベントをやっていた。フラのスクールである〈ハラウ〉のコンクールだった。ヘリコプターが飛び、にぎやかなMCが流れ、たくさんの人で盛り上がっていた。

 よく朝、まだ真っ暗な中カピオラニ公園に集合し、エントリーに向かった。40kmから100mileまで五つのコースがあるのだが、足切り時間もなく、気分次第で途中で短縮も延長もできるらしい。さすがアメリカ、アバウトだ。せっかくだから100mileコースを選んだ。「星条旗よ永遠なれ」が歌われ、幾つかのセレモニーの後、スタートが始まった。大きな市民マラソンと同じく後方までかなりの時間が掛かり、走り始めた頃には、すっかり明るくなっていた。

 朝日に向かってダイアモンドヘッド登山口への坂を上る。逆光に浮かぶ前方の選手のシルエットが綺麗だ。KAHALAモールを過ぎ、KALANIANAOLEハイウェイに入る。視界が広がった。ロードとMTBは勿論、車椅子、タンデム車、後部にチャイルドシートを付けていたりチャイルドトレーラー(子供乗せ用リアカー?)を牽引しているファミリー、ローラースケートまでいる。車両制限が無いらしく何でもアリ。先にスタートした人たちだ。大分追い抜いた。
「Moanin'」通り過ぎる時、みんなが声をかけてくれる。
「ハワイは良いなあ」どんどん気分が良くなってくる。
「こんなペースで完走できるんや。」と気が楽になった。

 SandyBeachに到着。ガイドの人が手を振っている。最初のチェックポイントだ。エイドステーションでもある。補給食を貰いに行く。エントリーシートにサインしている人がいる。40kmコースの人はここで折り返すらしい。SandyBeachを出て、長い坂を「わっしわっし」と登り切ると、コースで最高のビューポイント〈Makapuu岬〉。たくさんの人が記念写真を撮っている。続々と坂を登ってくる人達が見える。良い景色だ。私もシャッターを押した。

 この後、幾つかのチェックポイント(エイドステーション)を越えて行く。
 あるエイドステーションでのこと。(えらい日に焼けた日本人)に話し掛けられた。挨拶を返すと、
「Japanese?!」とビックリされた。こっちも、
「あ、日系の人やったんや」と驚いた。
 彼が言うには、日本人参加者は珍しいらしい。
 ホノルルセンチュリーライドは、完全なピストンコースになっていて折り返す場所によって距離が決まるようだ。各地点で、折り返す人と先を目指す人とが分かれていく。
 
 KANEOHE辺りに近づいた頃、頭が痛くなり気分が悪くなってきた。ジャンクションで白人のおじさんサイクリストが、
「Enjoy ride?(多分)」と声を掛けてくれたのを幸いに、
「I have headache.」と訴えた。
「You're heat~(聞き取れなかった). Here is a restaurant. Drink something.」と指さしてくれた。
「ああ、熱中症や言うてんのか」
 先を急ぎたかったが、「Thak you」とお礼を言い、仰せに従って、ふうふう言いながら店に向かった。おじさん達は、軽やかに先に向かっていった。
 焦る気持ちを抑え、冷房がガンガン効いてる店内で冷たい物を時間を掛けて飲んだ。しばらくすると持ち直してきた。20分位いただろうか。だいぶん遅れた。
「何とか行けそうや」再度自転車にまたがった。

 KANEOHEの市街を抜けると、木立に覆われた道を走り、やがて海岸線に出た。(天国に一番近い島)という歌だか本があったが、そんなフレーズを思い出す、ワイキキとは明らかに違う、エメラルド色の海が広がる。絶景にライダーズ・ハイになりながら走り続ける。(ジュラシック・パーク)のロケ地、KUALOAを過ぎると、いよいよ100mile折り返し地点のSWANZY Beachに到着する。
 Beach Parkのエイドステーションに行く前に、「暑うて、たまらん」と我慢できずに、用もないのに向かいの雑貨屋に涼みに入った。要らん買い物をして店を出た。エイドステーションでは、まだ結構たくさんの参加者が休憩していた。が、一人旅の私。熱中症の心配もあり、「あんまり休んでいたらヤバイ」気がした。記念写真を撮って貰い、そこそこに復路に就いた。急にサイクリストの数が減った気がした。
 
 誰かと一緒に走らせて貰ったら良かった。いつの間にか木立の中の道の最中、道を間違えたようで、見覚えのない景色の中にいた。不安な気持ちで走っていたら、とうとう地面が掘り返された[ハイウェイ工事中!]の看板が立っている場所にに出てしまった。到底自転車では走れない。
「どないしょう、押し歩いてたら絶対帰られへんやん」と泣きそうになっていたら、左に[←KANEOHE]の標識が目に入った。
「取りあえず、こっちや!」
 一か八か。進んでいくと、見覚えのあるKANEOHEジャンクションに出た。
「助かった~、これで帰れるう」と安心したのも束の間、
「誰もおらへん」。自転車に乗っているのは、私一人だけだった。
 ようやく知った。この大会、足切り時間が無いと言うことは、40kmも100mileも閉会式までに戻ってくれば良いということ。持ち時間は全参加者同じ。追い抜いた人達がゆっくり走っていた道理だ。いい気になっていた私はアホだ。
 ながいながい一人旅が始まった。

 これから先は、分岐点もなく迷うことはないなず。とにかくペダルを回した。makapuuへの上り坂が見えたときに、一人のサイクリストが目に入った。
「やった!」何とか追いつこうと思ったが、ダメだった。
 けれど、くじける訳にはいかない。とにかく帰るんだ。走り続けた。HAWAIIKAIに着くとエイドステイションがあった。日本人らしい人がいた。もう何人でも良かった。声を掛けると、まさしく日本人だった。スタッフが言うには、私たち二人が最終走者で、エイドステイションもこれで閉めるらしい。「行こう!」一緒に出発した。
 二人旅は心強かった。大丈夫だと思った。が、ゴールのカピオラニ公園に着くと人影はなかった。閉会式等も終わっていた。待っていたのは、一緒にゴールした彼の友人と私の妻だけだった。4時過ぎだったか?
「8時間で帰ってくる言うたやん」と責められた。かなり待っていてくれたようだ。
 飛び入り参加の私には、結局、参加賞も完走賞も貰えなかった。
 妻の記憶だけが、完走の証明となった。


 現在は、JALや雑誌社等がツアーを催したりフライトアテンダントの方々が参加したりと、この大会もホノルルマラソンばりにメジャーになった感があります。
 その為かどうかは解りませんが、これを書いている(2011年4月)最中に大会のサイトを見ると、時間制限の関門が設定されているようでした。
 よけい、100mileにリベンジしてみたい気もしますが・・・。
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長かった紀州路

2011年02月02日 | 旅行
 山陰行で中国地方一周した翌年の盆休み、関西人なら紀伊半島一周だと思い和歌山へ向かった。
 最初の目的地は「岸和田城」。小学生の時から日本の城が好きで、この「つなぎ合わせて日本一周」でも毎回のように城跡は訪ねた(だけど「歴史」の成績はさっぱりだった)。
 この旅から、自転車がミヤタの「Le Man」に変わった。スポルティフというロードレーサーの次に走りを重視したタイプだ。にも関わらずドライヤー等、かなり余分な物を詰め込んで出発した。合コンとか結構行ってて、変におしゃれに気を遣っていた頃だ。初日早々和歌山市に着くまでに二回パンクしてしまった。「こりゃ、荷物のせいや」と気付き、翌朝早々開始したばかりのユーパックで送り返した。予想外に高く数千円かかった。パンクも含めて「めっちゃ無駄なことしてもた」と落ち込んだ。

 国道から離れ、日ノ御碕にある「アメリカ村」に行った。大阪ミナミみたいな物でもテーマパークでもない。生きることとアメリカ大陸が一緒だった場所だ。子供の頃見た「ボンカレー」と「アース殺虫剤」のブリキ(実はホーロー製みたい)看板が町角に有った。夕方、紀伊田辺駅に着いた。「弁慶」の像があった。「弁慶出生の地」とある。いつか「平家物語」を読もう。田辺国民宿舎に泊まる。「今日、花火大会がある」と聞かされた。夕食の後何もやることがないので、港へ見に行った。一人で見る花火大会に旅を感じて、「あんまり一人で見るもんちゃうなあ」と感じた。

 次の日は白浜に向かう。ちっちゃい頃親に連れられて来たような気がするが、ちゃんとした記憶がない。初めての気分で観光する。テレビや写真でよく見かけていたが、実際に来てみると確かに結構な景色だった。
 国道42号線に戻りひたすら南下する。夏休みなのでツーリングライダーと何度もすれ違った。みんな手を振って挨拶してくれる。右側には青い海が広がる。とっても気持ちが良い。Hiな気分で走った。が、これがいけなかったかもしれない。これだけ景色が良いということは、思いっきり晴れだったということ。日陰がない道を走り続けた結果、潮岬への入口に着いた時にはヘロヘロになっていた。岬のアップダウンを何とか走り抜け潮岬に到着したのは15時前だったが、そのまま潮岬YH(ユースホステル)に倒れ込むように入った。
 YHの人らしき青年がギョッとしていた。えらく気分が悪かったので、「シャワー使わせてもらえませんか」と頼むと「受付時間前なので待っといて」とバッサリ断られた。ロビーで何人かが本を読んだりしていたので、その場所にへたり込ませてもらった。いつもなら「岬の最先端」まで写真を取りに行くのだが、その、たった100mさえ歩けなかった。

 夜8時からミーティングに参加した。
 YHでは、オーナーのことはペアレント、泊まり客はホステラー、接客スタッフはヘルパーと呼ばれる。夕食の後、ヘルパー長(たまにペアレント)がMCとなってホステラーの親睦を図るために催されるスタンツや茶話会がミーティング。これが有るYHと無いYHがあるのだが、有る場合普通全ホステラー出席する。ミーティングが楽しみでYHを利用するホステラーもいるくらいだ。
 この日は疲労困憊で、本当は部屋でゆっくりしていたかった。ただ一旦参加したら、体に鞭打って一緒に盛り上がった。この後さらに何人かのホステラーと共にミーティング2次会に誘われた。
 ヘルパーから「連泊して行きいな」と強く言われた。
 特別な理由がない限りホステラーが同じYHに何日も泊まることは、あまり無い。だが、ここは違うらしい。旅人が無意味に同じ所に長々と逗留する事を「沈没」と言う。私が到着した時にロビーにいた人達も沈没者だった。ヘルパーと思っていた人も実はホステラーで、沈没しヘルパー化したものだった。自ら称して「ホスパー」と言っていた。中には毎年のようにこのYHに来ている「主」もいた。
 翌朝、出発に向けて準備していると、またしても「連泊していきいな」と引き止められた。「昨日は目一杯走ったから一日くらい休んでもええやろ」と誘いに乗ってしまった。

 残ったのは、ホスパー一人と私を含めた連泊ホステラーが数人。朝帰って行った主に代わり、夕方別の主が来た。彼と沈没者が夜のミーティングを仕切った。再び引き止めにあい、ずるずると連泊を決めてしまった。
 二日目になって、今まで口を聞く機会が無かったペアレント(繁忙期ホスパー達が受付やミーティングをこなすので、ヘルパーを雇うことも無く、自身も表に出ることは無かった)ともゆっくり話をした。演歌のギター伴奏をしたら、「みんなフォークソングばっかりで演歌をしてくれるもんはおらへん」とすごく喜ばれた。一緒に街へ買出しに行った。YHに帰って連泊者のためにカレーを作った。ペアレントからも「連泊しい」と言われ、「もう一日くらい、ええか」と思ってしまった。私の「沈没」が始まった。

 やがてホスパー達が帰り沈没者4人だけになると、我々がホスパーの真似事をした。みんなは、新参のホステラー達、特に女性に自分から話をしに行ったり、ミーティングで前に出て仕切ったりした。一方、私は受付に座ったり、食事の準備の手伝いをしたり、裏方仕事をしていた。学生時代から(合コンとか)そういう役回りだ。
 受付を担当していたおかげで、ナースの卵が二泊三日で泊まりに来るのを知った。
「名古屋から準看の女の子が3人泊まりに来るで」
「そら連泊延長しなくちゃな」
 4人の意見が即刻、一致した。
 3人がやって来た。なぜかこの時は他のホステラーがいなかった。7人で、ドライブに行き、秘密の場所で海水浴をして、買出しをして飲み会をやって、・・・。
 気が付くと一週間になろうとしていた。彼女達が帰るのを塩に、4人の間にもそろそろかなという空気が漂っていた。
 正式のヘルパーなら給料が出るが、ホスパーや、さらにまがい物の我々は毎日宿泊料を支払う。手持ちの金が底を着き、旅を続けられなくなっていた。電車賃の都合をして、名古屋から輪行で帰るしか、手はなかった。
 
 「長かった紀州路2」に続く
 
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