必読!人生を豊かに生きる!あんな人達のこんな日々

年齢の壁を乗り越え常識を打ち破る!新感覚の若さを手に入れた者達の日々を綴る。
そこに浮かび上がる自成道とは!

無念無想 その2 ーイメージ探しー

2017-03-27 08:47:28 | 前進あるのみ!JISEIのKEN
理想としているものが、動きや姿勢などのように目に見えるものである場合、

そこに近づくためには徹底的に観察すればいいでしょう。

それに対して理想的な意識状態という目に見えないものを掴もうとする場合、

そこへ導いてくれるための適切なイメージを持つことがある程度有効だと思います。

イメージ探しに執着し、そこで満足して分かったような気になることには気をつける必要がありますが、

あらゆる分野において常に自分を理想の状態へと誘導するイメージを見つけられる人は、

やはり高いパフォーマンスを発揮しているように思います。

そして、虚という影を作らないために、意識という光そのものを当てないという捉え方も一つのイメージとしての発想でした。

そこから無念無想という武道の教えと結びつけ、無念無想とは一体どういった状態であるかということを探そうとしています。

しかし、光を当てない、光のない空間というのは言うまでもなく暗闇です。

果たして暗闇が何も思わないという意識状態に誘導していくイメージなのだろうかという疑問が出てきました。

それはまるで灯の電源を完全に切ってしまったようであり、

覚醒状態にあるあらゆる活動がストップし睡眠状態へと流れるようなイメージが浮かんできます。

無念無想というと座禅に代表される様々な瞑想を思い浮べるかも知れませんが、

瞑想状態において、何も思わないということが睡眠状態とは大きく異なることは言うまでもありません。

無念無想も一つの理想として意図的に求めるものである以上、少なくとも覚醒状態でなければならないはずです。

そこで発想を変えて、光そのものを当てないのではなく、

影を作らない光、または影を作らない光の当て方というものから一つのイメージを探っていきます。

つづく
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無念無想 その1 ー有から無への旅ー

2017-03-20 12:03:32 | 前進あるのみ!JISEIのKEN
武道の稽古では、出来ないことができるようになる、

ということを一つずつ少しずつ積み重ねていくわけですが、

最初の段階においてその目標となるものは、動き方や身体の使い方、力の出し方など、

未だ相手の活きたリアルな反応を想定する前の自分自身の戦闘能力を高めようとする方に比重があります。

武道で型稽古が重んじられるのは、本来、型の中にそれらの叡智が凝縮されているからであり、

そういったものを確実に引き出し享受していくためには、

型が要求する動きへの正確さに対して厳しく自分を律することが求められます。

つまり、最初の段階の稽古において、出来ないことが出来るようになるためには、

より明確な想念を伴った強い意識で自分の身体を制御することが大切で、

その意味では強烈な有念有想の世界だとも言えます。

しかし、一方で武道の教えとして無念無想、何も考えるな、

という言葉がまるで公案の如く立ちはだかっているのは、

武道の稽古というものが相手と対峙するということを前提としているからであり、

実際にその段階になった時、有念有想の意識一辺倒では必ず壁にぶつかるからです。

ここが根本的な発想の転換という点で重要なポイントで、

境地とも言うべき無念無想という状態を探す旅が始まるのだと思います。


つづく
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虚と実 その6 ー無念無想へー

2017-03-13 18:44:32 | 前進あるのみ!JISEIのKEN
「虚そのものが生まれない状態を作る。」一体そんなことができるのでしょうか?

とにかく、根本的な発想の転換が必要になることは間違いありません。

まずはこれまで虚について考え見えてきたことを振り返ってみます。

虚とは無意識無自覚の状態のなかで生まれる。

だからそれが生じる瞬間に気づくことはできない、ということ。

虚とはまるで光の後ろにさす影のように、

ある意識的な働きかけをしたときにその裏側に必ず生まれているもの、

ということでした。

これらのことを踏まえると、影を作らないようにするためには

光を当てなければいい、

つまり意識的な働きかけさえしなければ虚はできない、という発想がでてきます。

意識的な働きかけをしないということは何かをしようと思わないということ、

つまり「無念無想」というわけです。

無念無想という言葉は、武道の教えではよく使われます。

ブルース・リーの有名な台詞で、Don't think,feel! 考えるな、感じるんだ!

というのがありますが、つまり、何かをしてやろうと考えず、無念無想となり感じるままに応じよ!

と言っているわけです。

しかしそこで、「なるほど、無念無想ですね!はい、分かりました。」

と素直にすぐ受け入れられる人は、多分その意味をあまりよく分かっていないのだと思います。

武道の教えとしての言葉であるならば、稽古する者はその意味について

ただ字面だけで分かったような気になるのではなく、

稽古しながら自分の感覚を通じてもう少し掘り下げてみる必要があると思います。
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虚と実 その5 -光と影ー

2017-03-06 09:07:11 | 前進あるのみ!JISEIのKEN
虚と向き合うという意識が芽生え、それをなくすためにはどうすればいいか、という問題に取り組んでみると、

現実には虚はうんざりするほど至る所にあることが分かります。

右の動きに注意すれば、左が不注意になり、手の動きに気をつければ、足の動きが覚束なくなる。

ある一つの機を逃さぬようにと集中すると、それが通り過ぎた次の瞬間、あっと言う間に油断してしまっています。

それはまるで、光を当てたときその裏側に必ずできる影のようなものです。

つまり、自分の心身の状態、そして自分を取り巻く周囲の状況に対して意識的にある特定の働きかけをしたときに、

その裏側にできる無意識、無自覚の状態が虚を生むことになります。

自分の中にあるこのような虚実の実態に目を向けることなく、放置し続けていると分かるべくもありませんが、

仮に虚に対してこのように認識しその都度すぐに実の状態へと変換することが出来たとしても、

それは虚が生まれた「瞬間」ではなく「直後」の反応なので、どれだけその精度が上がったとしても既に一拍子遅れていることになります。

影を見つけては光を当てるという追いかけっこしているようなものです。

だから虚を知覚し的確に反応できる相手と対すればどうしても後手に回り劣勢にならざるを得なくなるというわけです。

従って、虚をなくそうとするための稽古というのは、虚が生まれたその後、それに素早く気づく反応を磨くというものではなく、

虚そのものが生まれない状態を作るもしくは探すための稽古だということになります。

「虚そのものが生まれない状態を作る。」

一体そんなことができるのでしょうか?

つづく
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虚と実 その4 ー一瞬を突き詰めるー

2017-02-27 08:35:25 | 前進あるのみ!JISEIのKEN
虚というものを認識することの難しさは、虚が生じるまさにその瞬間に虚そのものに気づくことが出来ない、

というところでしょう。

だから、虚というものを認識しようとすること自体が既にある意味の矛盾であり、

そのことをどう理解するかが最初の関門となるわけです。

いずれにしても、虚実を知覚することが重要視されない方向性の稽古の下では、

いつまで経っても虚というものが稽古する上での問題として浮かび上がることはないので、

そういった知覚力の覚醒率も必然的に低くなります。

従って、稽古の仕方そのものを常に見直していく必要があります。

自分の虚は、相手から見たときに付け入る隙となって映し出されるものですが、

誰でも勝負に集中しているときに自分に隙があるとは思っていないでしょうし、

また現実にその隙を突かれるような体験をしなければ、なかなか自覚することもありません。

長年、勝負稽古繰り返していれば、相手に打たれてしまうことは多々あります。

しかし、同じ打たれるということも一様ではなく、

極単純な打たれ方から複雑で実は高度な技法がその奥に隠されているものまで、様々な質とレベルがあります。

どうして打たれてしまったのか、それに対して次はどう対処すればいいのか、

技が決まった時の凝縮されたその一瞬を振り返り、じっくり突き詰めていこうとする姿勢は大事です。

その過程で自然と意識は内面に向い、自分の中にある虚の足跡を見つけることができるかもしれません。
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