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最後に

2020-03-31 07:29:19 | ちょっと昔の思い出話
新年度に入ってしまったが、一年かけて書いて立禅について、ここで締めくくりたいと思う。
いつかの回で触れたが、時津先生はある時、「立禅は時間がかかり過ぎる。現代社会には適していないのではないか」と言われた。
この問いかけは私にとって武道とは何かということを考える上で多角的な視点をもたらし、これまで述べてきた立禅に対する理解を深める度合いに応じてこの問いかけに対する考えも深めてきたような気がする。
武道の稽古、その追求は言うまでもなく自分の身一つを通じてやるしかない。だからあれもこれもある程度深いレベルで理解し自分の言葉として発信するということなどできるはずがない。そういう意味で武の道はまさに縁の賜物だと時津先生は言われる。
私は時津先生と出会い、自成道という武道の中で立禅という稽古法を学ぶという縁を頂いた。
武道として立禅に取り組むならば立禅を稽古の中核に据える意拳という拳法の創始者である王向斉(おうこうさい)まで行き着くことになる。
以前、紹介したが王向斉によると、速い動きはゆっくりにかなわず、ゆっくりは静止にはかなわない、ということを言われている。つまり、立禅という稽古法はそれと縁のあった者にとってはやはり至高なのである。
しかし、至高の方法であるかどうかということと、現代社会に適したものかどうかということとは別の問題である。
「時間がかかり過ぎる」ことを現代に適さない理由とする場合の現代という特性とは、合理性とか効率性ということがその基準に置かれていることを意味する。人々の意識が様々な規模において「より早く、より手軽に」という方向に向いているということだ。「より早く、より手軽に」という意識は、「より身体を使わないで済むように」という意識だと言い換えることもできる。
一方、武道の方法としての立禅という稽古に必要な意識は、これまで「内視」という言葉を再三使ってきたように身体の内部へと向かっていく。つまり、身体に対する強烈な意識だ。
このようにみると武道として至高の方法を持つ立禅という稽古は、現代社会の特性とは相容れないようである。ただ、現代に生きる上で全く必要のないものなのかというとまたそれも別の問題である。
ますます加速する現代の技術革新、文明の進化の流れの中を手放しでただ漂流するように生きてしまうと、私達の身体に対する意識はあっという間に薄れゆく、そんな時代を私達は生きている。そしてあたかも身体を有していないかのような発想に基づいた仮想空間の独り歩きは現代社会に生きる私達人間の中に様々な偏重をきたしアンバランスな精神状態へと導く要因となる。
このように現代の特性そのものが理想もしくはそれに向かっているわけではない。
武道の稽古(特にここでは特に立禅に限定しているが)にはこのような身体への意識の欠乏による偏重を正す効果を含んでいる私は考える。
時津先生は更に、現代に生きる私達の武の方法は現代の生き方に根を張ったものでなければならないと言われる。
この現代の生き方に必要なメソッドとしての立禅をどのようにして現代生活の中に根付かせられるのか、そういったことも考えながらこれからも立禅の稽古を続けていきたい。

終わり







第51話 立禅の向こうを考える

2020-03-24 07:56:32 | ちょっと昔の思い出話
武道の教えがしばしばその枠を超え、日常生活や人間社会のなかでの生き方に通じていることが紹介される。
本来戦いということを意識しようがしまいが対人についての追求であるという点で、人間社会の中の様々な問題の有り様を武道の稽古の中にその縮図のようなものとして見出すことがあるのは必然であるように思う。
これまで論じてきた立禅の稽古における随意不随意の筋肉への意識の仕方、及びその考え方も私なりに武道の枠を越えたところで考えたりすることがある。
それは、負荷を受けながらもそれに飲み込まれることなく、常に自由に動ける状態を維持できるようになることを目指すことだった。
ある瞬間における局面を凌いだら必ず次の対処しなければならない局面が間髪開けずに訪れる。実際に対処している目の前の局面に振り回さるることなく、常に自由に動ける状態を維持した上でその瞬間に応じることができれば次の局面の先をとることが可能になる。
さて人間社会のなかで先を取るということに相当する状況を思うと多様性があり過ぎて漠然としてしまうようだが、それは必ずしも戦いで勝負を決するような相手を論破したり威圧したりする攻撃的なイメージではないだろうと思う。
仮に立禅の稽古によって先を取ることを高い度合いで実行できる場合、例えばそれは目の前の出来事に振り回されたり一喜一憂することなく、常に冷静に大局的視点から物事に対処できる能力と重なる。また些細なことに動じず、いちいち感情的にならない泰然として包容力のある姿を想像することもできる。
戦いにおいて、立禅の稽古は先をとる力を高める土台となるが、その延長線上にこのような人物像のシルエットを見るのは単なる思い込みであろうか。
いずれにしても現代において、自分のエネルギーを投じて追求する武道の世界がその枠を越えないのであれば結局のところあまり大した意味はない。
ひたすらに打ち込む事自体が自然とその枠を越えたところで輝くような武道を私は目指したい。








第50話 武的方法としての立禅再確認

2020-03-15 20:27:41 | ちょっと昔の思い出話
動作や行為によって強制的に緊張する不随意筋と、その裏で休息している随意筋について確認した。
通常、難易度の高い、厳しい姿勢を取ると、それによって発せられる疲労感や痛みに追い詰められ自分の意識は不随意筋でいっぱいに満たされてしまう。実際にはその裏側に休息している、つまり随意となり得る筋肉があるのだがなかなかそこまで認識することはない。
立禅の稽古に含まれるいくつかの効果や目的の一つを改めてここで具体的に示すとすれば、それはまず不随意筋の許容範囲を広げ難易度の高い姿勢を消化できるようになり、同時に休息筋に意識を向け能動的に緊張と弛緩を繰り返し働きかけることで随意度を高める、というところにあると言える。簡単に言うと、負荷を受けながらも、常に自由に動ける余地を残すという状態を高い度合いにおいて作れるようになることだ。
ではなぜそれが必要なのか。
よく武道の戦いにおいて、先(せん)をとることが大事だと言われる。言葉足らずを承知で端的に説明すれば、それは勝負を左右する本質的局面において相手より先に反応せよということである。先とは前(さき、まえ)と言ってもいい。
それは相手が攻める前、または防御に入る前の攻めであり、更には相手が攻めに入る前の防御でもある。
それを可能にするのは、攻撃や防御などその瞬間の反応に内包される動き、力、意識がその瞬間へのベクトル一辺倒になるのではなく、常に次の展開に対しての準備も備わった反応だ。つまり先に述べた負荷を受けながらも、常に自由に動ける余地を残すという状態を作ることがそれに当たる。
従って戦いにおいて先をとるという精度を高めるための土台を作る効果が立禅の稽古にはあると言える。

つづく、、、

第49話 本当の随意筋

2020-03-08 20:52:01 | ちょっと昔の思い出話
随意筋を動かす脳からの司令は意によるものであるが、
私達は実際にはほとんどのケースにおいてこの意を直接筋肉に働きかけているのではなく、
形や動作といった外観、外側に向けていることが多い。
一方それによって実際に緊張し動いている筋肉、つまり内側については直接的に意の対象となることは少ない。
例えば、脚を上げるという動作には大腿四頭筋や周辺筋肉の緊張が伴うが
その時に意識しているのは脚を上げるという動作そのものであって、
大腿四頭筋を緊張させるように意識しているわけではない。
むしろそれらに対する意識や状態の把握はほとんどしていないと言っていい。
その意味において、外側への意によって強制的かつ無自覚に作動している筋肉は受動筋もしくは不随意筋だと言っていい。
それに対し、不随意筋の裏には意による動作や姿勢を作る上で緊張する必要のない筋肉があり、それらは休息状態にある。(脚をを上げるという動作で言えば、ハムストリングスと呼ばれる大腿ニ頭筋など)
休息状態にあるということは、そこに意による司令を反映させる余地があるということであり、つまりその筋肉こそが随意筋になり得る筋肉だと言える。

つづく、、、 

第48話 「不随意的筋肉」と「随意的筋肉」

2020-03-01 20:23:29 | ちょっと昔の思い出話
ここで人間の身体における随意筋と不随意筋に対する一般的な定義をもう一度確認しておくと、
自分の意により脳から司令を出しそれによって動かすことのできる筋肉を随意筋と呼び、
自分の意に関係なく生命活動を維持するために絶えず動いている内蔵筋を不随意筋と呼ぶ。
随意筋、不随意筋と言う呼称を用いる場合、既に不随意筋の一般定義が上記のように内蔵筋を指しているが、
生命活動を維持するために不随意的に活動しているという意味での内蔵筋については、
そもそも運動理論の対象として扱う筋肉の種類からは外れている。
争力感覚の養成、増幅を目的とした立禅について考えるとき、
私達は言うまでもなくこの一般定義でいう随意筋について考えている。
それを深く掘り下げてみると、その中でも更に詳細に切り込んだ判別が必要になる。
つまり、随意筋の中でも「随意的な随意筋」と「不随意的な随意筋」があり、
それらは意の移り変わり、動作の中で絶えず変化する。
これらについて説明するために、以下に続く「不随意」と言う言葉は、
内蔵筋のことではないということをまず断っておかなければならない。


つづく、、、