* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第七十七句「水島合戦」

2010-04-19 14:55:00 | 日本の歴史

  平家の平知盛率いる一万余騎が、木曽勢の矢田義清七千余騎を攻める

<本文の一部>

平家は讃岐の屋島にありながら、山陽道八箇国、南海道六箇国、都合十四箇国
を討ち取れり。木曽左馬頭これを聞き、「やすからぬことなり」とて、やがて
討手をつかはす。大将軍には足利の矢田判官代義清、侍大将には信濃の国の住
人海野の弥平四郎幸広を先として、都合その勢七千余騎にて山陽道を馳せくだ
る。

 平家は讃岐の屋島にましましければ、源氏は備中の国水島が磯に陣をとる。
たがひに海を隔ててささへたり。

 閏十月一日、水島がわたりに、小船一艘出で来たり、「海士の釣船か」と見
るほどに、平家の方より牃の使いの舟なりけり。これを見て、源氏の舟五百余
艘の船に乗り、押し寄せたり。

 <あらすじ>
(1) 讃岐の屋島に本営を置いた“平家軍”は、山陽道(岡山、広島、山口等)
  八か国と南海道(和歌山~四国)六か国を、またたく間に支配下に置いて
  しまった。
   木曽義仲は、「これは容易ならぬ事態じゃ」と、矢田義清(大将軍)
  と海野の四郎幸広(絵巻では“行広”)を侍大将に、七千余騎の攻撃軍を
  山陽道へ向かわせ、備中(岡山)の水島に陣を取り、平家軍の屋島と海を
  隔てて向かい合った。

(2) 寿永二年(1183)閏十月一日、平家方から開戦の通告状が届けられると、
  浜辺に干し上げてあった源氏の船五百艘余りを一艘残らず、我先にと
  海中に降ろした。
      平家方は、新中納言・平知盛を大将軍に、平教経を副将に千余艘一万
  余騎で、水島の瀬戸に攻め寄せる。

(3) 平家勢は、教経の下知で船尾と船首の綱を結び、“歩み板”を敷き渡したの
   で船の上が陸地にように平らになり、兵士たちは縦横に活躍できた。
   壮絶な戦いが繰り広げられたが、船の戦さを得意とする平家勢に、た
  ちまち木曽源氏の侍大将・海野幸広
が討ち取られ、これを見た総大将の
   義清は主従で奮戦するものゝ、どうしたことか船を転覆させてしまい一同
   水死してしまったと云う。
     源氏の兵たちは、二人の大将が討ち取られて総崩れとなり、船を捨てて我
   れ先にと逃走していった。

        「水島の戦い」は、こうして平家軍大勝でを終わったのだった。

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿