* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第八十五句「三草山」

2010-11-26 13:16:19 | 日本の歴史

 

      “義経”に「夜討ち」を進言する“田代の冠者信綱、土肥実平直ちに同意!する。

<本文の一部>

 さるほどに、源氏は四日、一の谷へ寄すべかりしが、「故太政入道の忌日」と聞いて、仏
事をおこなはせんがためにその日は寄せず。五日は西ふさがり。六日は道虚日。七日の
卯の刻に摂津の国一の谷にて、源平矢合せとぞ定めける。
             
七日の卯の刻に、大手、搦手の軍兵二手に分かつ。

 大手の大将軍、蒲の冠者範頼にあひしたがふ人々、武田の太郎信義、加賀見の次郎
遠光その子次郎長清、板垣の三郎兼信、逸見の四郎有義・・・・・・・・
 都合その勢五万余騎、四日の卯の刻に都をたって、その日の申酉の刻には摂津の国
昆陽野に陣をとる。

 搦手の大将軍、九郎義経にあひしたがふ人々、大内の太郎維義、安田の三郎義定、
村上の判官代基国、田代の冠者信綱、侍大将には、土肥の次郎実平、その子弥太郎
遠平、和田の小太郎義盛、同じく次郎義茂、佐原の十郎義連・・・・・・・・

 都合その勢一万余騎。同じ日、同じとき都をたって丹波路にかかって、二日路を一日
にうって、その日播磨と丹波のさかひなる三草山の東の山口、小野原にこそ着き給へ。

 御曹司、土肥の次郎を召して、「平家は小松の新三位の中将、同じく少将、丹後の侍
従、備中守。侍には、平内兵衛、江見の次郎。三千余騎にてこれより三里へだてて西の
山口をかためたんなり。今夜寄すべきか、明日の合戦か」とのたまへば、田代の冠者す
すみ出でて申されけるは、「平家は、さ様に三千騎にて候ふなり。味方は一万余騎、は
るかの利にて候ふものを。明日の合戦にのべられ候はんに、平家に勢つきなんず。
夜討によからんとこそおぼえ候へ。これいかに、土肥殿」と申せば、土肥の次郎、「いし
うも申させ給ひたる田代殿かな。実平もこうこそ申したう候ひつれ」とぞ申したる。

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<あらすじ>

(1) 二月四日、源氏勢は一の谷へ攻め寄せる手筈を整えていたが、その当日が“清盛
  の命日に当たることから、攻撃を取りやめ、陰陽道の忌日も避けて七日になって初め
  て押し寄せることゝした。

   大手の大将軍、蒲の冠者・範頼をはじめ三十六人の名を挙げて、その勢五万余騎
  搦め手の大将軍、九郎義経をはじめとしてこれ又名を挙げて一万余騎を、それぞれ
  三草山の西と東に着陣した。

(2) 守る平家側の、新三位の資盛、及び有盛忠房師盛らが構える三千余騎を前にし
  て源氏側は軍議の上、「夜討ち」と決める。
  (第71代・御三条院に連なる“貴種”とされる、“田代の冠者”信綱の進言を入れる)

(3) 源氏勢は、夜を日に次いで駆け人馬ともに疲れてはいたが、皆うち立って暗闇の中で
  民家や草木に“”を放って明りとなし、眠りに就いた三千余騎の平家の軍勢の後陣
  へなだれ込み駆け破り、慌てふためく平家の兵たちは瞬く間に五百余人が討たれて
  しまったのであった。

(4) 平家資盛や、有盛忠房らは面目を失い船に乗り讃岐の屋島へ退き、師盛は一の
  谷へ向かい、“宗盛”に「三草山の戦い」に敗れたことを伝えた。

   宗盛は、平家一門の諸将に三草山へ向かうよう命ずるが、いずれも辞退されてしま
  い止むを得ず、再び“教盛”に使者を立てて、やっと承諾を得る有様であった。

(5) 平家も大手、搦め手の二手に分け、大手の大将軍に新中納言・知盛及び重衡
  万
余騎で生田の森に向かい、搦め手の大将軍に行盛及び忠度三万余騎一の
  谷
の西側に向かった。

   二月六日早朝、九郎義経土肥次郎実平を大将として、七千余騎で一の谷の西
  側へ差し向け、義経自身は三千余騎で“鵯越(ひよどりごえ)”へ向かった。

(6) 武蔵の国の別府小太郎清重(十八歳)は、深山迷い道では“老馬”を先に立てよ・・と
  の親の教えを進言し、義経はこれを入れ、深い山道に入り、暮れては山中に陣を取
  った。

   武蔵坊弁慶は、年老いた猟師を道案内者として義経に引き合わせ、猟師の話から
  “鹿”が通うことを知り、その子・熊王丸に案内させた。(元服して、鷲の尾の十郎義久)

   後に、義経が奥州(衣川の館)で頼朝に攻められた折、最後まで従って共に討死。  

 

 


第八十四句「六箇度のいくさ」

2010-10-06 21:00:42 | 日本の歴史
  敵兵(源氏方)の首を運び込む“平教経”軍の軍兵たち。
 淡路島の福良の津に攻めよせた“平教経”軍は、源氏方を討ち破り、賀茂の冠者は討ち死に、淡路の
 冠者は手傷を負い捕らわれた。
 

<本文の一部>
 さるほどに、平家は正月中旬のころ、讃岐の屋島より摂津の国難波潟へぞ伝はり給ふ。
東は生田の森を大手の木戸口とさだめ、西は一の谷を城郭とぞかまへける。そのうち、
福原、兵庫、板宿、須磨にこもる勢、ひた兜八万余騎・・・・・・・・・・

 一の谷は口は狭くて奥広く、北は山、南は海、岸高うして屏風をたてたるがごとし。北の
山ぎはより南の磯にいたるまで、大石をかさね、上に大木を切って逆茂木にひきたり・・・

  阿波、讃岐の在庁らども、源氏に心ざしありけるが、「昨日まで平家にしたがうたる者
が、今日参りたらば、よも用ひられじ。平家に矢一つ射かけて、それを面にして参らん」と、
小船百艘にとり乗って、門脇の平の中納言、平宰相教盛の子息、備前の国下津井におは
しけるを、討ちたてまつらん」とて、下津井に押し寄せたり。

 能登の前司これを聞き、「昨日まではわれらが馬の草飼うたるやつばらが、今日ちぎりを
変ずるこそあんなれ。その儀ならば、一人ものこらずうち殺せ」とて、五百余騎にて駆け給
へば、これらは、「人目ばかりに、矢ひとつ射かけ、引きしりぞかん」と思ひけるところに、
能登殿に攻められて、「われ先に」と船に乗り、都のかたに逃げのぼるが、淡路の福良に
着きにけり・・

 正月廿八日、都には、院の御所より、蒲の冠者範頼、九郎義経二人を召され、「わが朝
には神代よりつたはれる三つの宝あり。神璽、宝剣、内侍所これなり。ことゆえなく都へ返
し入れたてまつれ」と仰せくだされければ、両人かしこまって承り、まかり出づ。

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<あらすじ>
(1) 寿永三年(1184)正月中頃に、平家は(四国の)屋島から(兵庫の)“一の谷”へと陣を
   移した。総勢八万余騎と・・・・・・

(2) 阿波(徳島)や讃岐(香川)の地元役人らは、源氏に味方をしたいと思っていたが、手
   土産代わりに功績を挙げようと、下津井の港に陣を敷く“平教経”に弓を引こうとした
   が、逆に攻められ蹴散らされて淡路の福良の港に逃げ込んだ。

(3) 淡路の城を構えていた源氏の二人の大将(賀茂の冠者・末秀と、淡路の冠者・為清)
   を攻撃した“平教経”軍二千余騎は、丸一日を戦い尽くした末に、賀茂の冠者は
   死
淡路の冠者は手傷を負って自害して果てた。そしてこれらの郎等百人余りの首
   を刎ね、福原へ持参し名簿を差し出した。

(4) 伊予の国(愛媛)の河野四郎は、安芸の国(広島)の沼田次郎と合流し沼田の城
   に立て籠った(二千余騎)が、それを知った“平教経”軍三千余騎はすぐさまそれを
   追い、沼田城を攻め沼田次郎は降参し捕われ、河野四郎は何とか逃げ延び
   て四国へと渡ったのであった。

(5) 又、淡路の阿万六郎忠景も源氏に心を寄せていたが、大船二艘で都へ上るが、
   “平教経”軍は小船二十余艘を率いてこれを攻撃し、阿万の忠景は敗れて和泉国
   吹飯浦(大阪)に逃げた。

(6) 紀伊の国(和歌山)の園部兵衛忠泰は、和泉の吹飯浦に逃れた阿万六郎と合流し
   たが、これも“平教経”軍に攻められ、阿万六郎園部忠泰は、家来に“防ぎ矢”さ
   せて都へ向かって逃げ、そして郎等たち五十余人は平家に首を取られ、“教経”は
   福原へ帰還したと云う。

(7) 豊後(大分)の臼杵維高と緒方維義、伊予(愛媛)の河野通信の三人は合流し、三千
   余騎で備前(岡山)の今来の城まで攻め上った・・・・、これを知った“教経”は、一万
   余騎でこれを攻めた為、合流した三人は敗れて、それぞれの国へ逃げ帰ったと伝
   えられている。

          平宗盛ら平家一門の人々は、“教経”の度重なる合戦での功名を
          賞めそやしたと云う。    

第八十三句「兼平」

2010-09-13 08:58:45 | 日本の歴史

       大津の打出浜で再会を喜ぶ右下隅の“兼平”と対面の“義仲”、
           そのすぐ後ろに続く
”の主従の一団。

<本文の一部>

 さるほどに、木曽は「もしもの事あらば、院をとりたてまつり、西
国の方へ御幸なしたてまつり、平家とひとつにならん」とて、力者二
十余人用意しておいたりけれども、「院の御所には、義経の参り給い
て守護したてまつる」と聞こえしかば、「力およばず」とて、数万騎
の大勢の中に駆け入り、討たれなんずること度々におよぶといへども
駆けやぶり、駆けやぶり、通りけり。

 「かくあるべしと知りたりせば、今井を瀬田へはやらまじものを。
幼少より『死なば一所にて、いかにもならむ』とちぎりしに、所々に
て死なんことこそ本意なけれ。今井が行くへを見ばや」とて、河原を
上りに駆けけるに、大勢追っかくれば、とって返し、とって返し、六
条河原と三条河原の間、無勢にて多勢を五六度まで追っ返す・・・

 木曽殿は、信濃より巴、款冬(やまぶき)とて二人の美女を具せられ
たり。款冬は労ることありて、都にとどまりぬ。巴は七騎がうちまで
も討たれざりけり。そのころ齢二十二三なり。色白く髪長く、容顔ま
ことに美麗なり。されども大力の強弓精兵、究強の荒馬乗りの悪所お
とし。いくさといへば札よき鎧着て、大太刀に強弓持ち、一方の大将
にさし向けられけるに、度々の高名肩を並ぶる人ぞなき。

 大津の打出浜にて、木曽殿に逢いたてまつる。一町ばかりより、た
がひに「それ」と目をかけて、駒を早めて寄せ会はせたり。
木曽殿、今井が馬にうち並べ、兼平が手を取りて、「いかに今井殿、
義仲は、今日六条河原にていかにもなるべかりしかども、幼少より
『一所にていかにもならん』とちぎりしことが思はれて、かひなき命
のがれ、これまで来れるなり」とのたまへば、「さん候。兼平も、瀬
田にていかにもなるべう候ひつるが、君の御行くへのおぼつかなさに
敵の中に取り籠められて候ひしを、うち破りてこれまで参りて候」
と申す・・・・・・・
 

         (注)カッコ内は、本文ではなく“注釈”記入です。
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<あらすじ>

(1) もし瀬田・宇治の合戦に敗れることがあれば後白河院を拉致し
  て、西国に向かい平家の軍と合流しようとの腹づもりであった
  義仲は、院の御所がすでに義経の守護することを知り、こゝに
  至り最後の覚悟を決めて、東国の大軍勢の中に突っ込み駆け入り
  駆け破り、何度も危うい場面に逢いながら切り抜け、粟田口松坂
  にまで落ちのびてくる。

(2) 昨年、五万の大軍で信濃を進発した義仲軍も、ついに主従七騎
  となってしまったが、離れ離れになっていた今井兼平と大津の
  
打出浜で再会を果たすことができた。(文初掲出の絵巻)
   ここで敗走中の自軍の兵が、そこかしこから集まり三百余騎に
  までになった。

(3) 義仲は、最後の一戦をと願い近くに居た武田源氏の一条(武田)
    忠頼軍の六千余騎の中へ突っ込む。左右十文字に駆け破り,更に
    千余騎の
土肥実平の勢を駆け破って出たところで五十騎あまり
    となり更に東国の諸勢の中を突破するが遂に主従五騎となる。

(4) 義仲は、最後まで残った召使いの“”に、落ちのびて後世の
  供養を命じるのであった。
  「良い敵が現れれば、義仲殿に最後の戦いをお目にかけたい」
  と願った“”は、たまたま遭遇した武蔵の国の恩田八郎師重
  
の三十騎ばかりの中へ駆け入り、武蔵の剛の者と云われた師重
  
に組みつき、その首をねじ切ってしまう。
   この後、“”は泣く泣く東国に向けて落ちて行ったと伝え
  られる。

(5) 義仲は、兼平に勧められて粟津の松原で“自害”しようと馬を
  乗り入れるが、不覚にも泥田に踏み込み抜け出せぬまゝ、兼平
  
を案じて振り向いたところを、相模の国の石田為久に額を深々
  と射られ、遂に首を取られ生涯を閉じたのであった。
   元暦元年(1184)正月二十日のことである

(6) 義仲を討ちとったとの“名乗り”を聞いた兼平は、今はこれま
  でと敵軍の目の前で、太刀を口に含んで馬から真っ逆さまに落
  ち、自らの太刀に体を貫かれて壮絶な最期を遂げたのであった。

(7)  正月二十四日、義仲兼平などの首級が都大路を引き回され
  たと云う。

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第八十二句「義経院参」

2010-08-17 14:05:22 | 日本の歴史

  後白河院の御所(六条殿)に入り、大膳大夫・業忠に宇治川の合戦の次第を
   言上する“義経”一行

<本文の一部>
 さるほどに、木曽左馬頭義仲は、「宇治、瀬田敗れぬ」と聞きしか
ば、「最後の御いとま申さん」とて、百騎ばかりにて院の御所六条殿
へ馳せ参る。「あはや、木曽が参り候ふぞや。いかなる悪行かつかま
つらん」とて、君も、臣も、おそれわななき給ふところに、「東国の
兵ども、七条河原までうち入りたる」よし告げたりければ、木曽門の
前よりとって返す。御所にはやがて門をさしけり。木曽は最愛の女に
名残を惜しまん」とて、六条万里の小路なる所にうち入りて、しばし
は出でもやらざりけり。

 新参したりける越後の中太家光といふ者あり。これを見て、「あれ
ほど敵の攻め近づいて候ふに、かくては犬死せさせ給ひなん。いそぎ
出でさせ給はで」と申しけれども、なほも出でやらざりければ、越後
の中太、「世は、かうござんなれ。さ候はば、家光は死出の山にて待
ちまゐらせん」とて刀を抜き、鎧の上帯切っておしのけ、腹切ってぞ
死にけり。

 木曽殿これを見給ひて、「これはわれをすすむる自害にこそ」とて
やがてうち出でられけれ。上野の国の住人、那波の太郎広澄を先とし
て、百五十騎には過ぎざりけり。

 六条河原へうち出でて見れば、東国の武者とおぼえて、三十騎ばか
り出で来る。その中に二騎進んで見えにけり。一騎は塩屋の五郎惟広
一騎は勅使河原の五三郎有直なり。塩屋が申しけるは、「後陣の勢を
や待つべき」。勅使河原申す様、「一陣破るれば、残党まったからず。ただ寄せよや」とて、をめいてかかる。「われ先に」と乱れ入る。あとより後陣続いたり。

 木曽殿これを見給ひて、いま最後のことなれば、百四五十騎轡を並
べて、大勢の中に駆け入る。東国の兵ども、「われ討ちとらん」と面
々にはやりあへり。両方火出づるほどこそ戦いけれ。

 九郎義経、兵どもに矢おもてふせがせて、「義経は院の御所のおぼ
つかなさに、守護したてまつらん」とて、まづわが身ともに、ひた兜
五六騎、六条殿に馳せ参る。

 大膳大夫業忠、六条の東の築垣にのぼって、わななく、わななく、
世間をうかがひ見るところに、東の方より武者こそ五六騎、のけ兜に
戦ひなって、射向の袖を吹きなびかせ、白旗ざっとさしあげ馳せ参る
・・・・・・・・・

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<あらすじ>

(1) 宇治川の合戦で、自軍が敗れたことを知った木曽義仲は、
   院の御所へ後白河院への最後のおいとま乞いもならず、自らは
   都での最愛の女性との名残りを惜しんでいた。

(2) 義仲を含む総勢百五十騎ほどの木曽勢は、追いついた東国
   の(頼朝の軍勢)大軍勢の中に駆け入り激戦となった。

(3) 頼朝勢の大将軍・九郎義経は、院の御所の情勢を案じて、
   わずか六騎で六条殿へ駆け付けた。
    築垣の上に登って様子を見ていた大膳大夫・業忠は、鎌倉
   の義経一行と知るやあまりの嬉しさに飛び降りて腰をしたた
   かに打ち、這うようにして後白河院の御前にこのことを申し
   上げすぐさま門を開いて義経一行を通したのであった。

(4) 後白河法皇は義経たちをそれぞれ名乗らせ、義経は鎌倉の
   頼朝の命を受けて木曽義仲勢を駆逐し、御所へ駆け付けた事
   の仔細を申し上げた。
    法皇は、木曽の残党の悪行を心配し義経に御所の守護を命
   じたのであった。
    義経が門を固める中に、ほどなくして二~三千騎が到着し
   万全の備えを敷いたのであった。

                 一方、義仲一行は主従わずか七騎となって
        賀茂の河原を北のほうへ落ちて行く・・・・

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第八十一句「宇治川」

2010-07-23 09:17:34 | 日本の歴史

  左上に、先陣の名乗りを挙げる“佐々木高綱”。
              中央下の川岸に辿り着く“畠山重忠

<本文の一部>
 寿永三年正月一日、院の御所は大膳大夫業忠が宿所、六条西洞院な
りければ、御所の体しかるべからざる所にて、礼儀おこなふべきにて
あらねば、拝礼なかりければ、殿下の拝礼もおこなはず。

 平家は讃岐の国屋島の磯に送り迎へて、年のはじめなれども、元日
、元三の儀こそよろしからね。先帝ましませば、主上と仰ぎたてまつ
れども、四方の拝もなし。小朝拝もすたれぬ。氷のためしも奉らず。

 節会もおこなはれず。鰚も奏せず。吉野の国栖も参らず。「世の乱
れたりとはいひしかども、さすが都にてはかくばかりはなかりしもの
を」と、あはれなり・・・・・・

 正月十七日、院の御所より木曽左馬頭義仲を召して、「平家追罰の
ために、西国へ発向すべき」よし、仰せ下さる。木曽かしこまって承
り、、あかりいづ。やがてその日、「西国への門出す」と聞こえしほ
どに、「東国よりすでに討手数万騎のぼる」と聞こえしかば、木曽西
国へは向かはずして、宇治、瀬田両方へ兵どもを分けてつかはす。

 木曽、はじめは五万余騎と聞こえしが、みな北国へ落ち下りて、わ
づかにのこりたる兵ども、「叔父の十郎蔵人行家が河内の国長野の城
に籠りたるを討たん」とて、樋口の次郎兼光、六百余騎にて今朝河内
へ下りぬ。

 のこる勢、今井の四郎兼平、七百余騎にて瀬田へ向かふ。仁科、高
梨、山田の次郎、五百余騎にて宇治橋へ向かふ。信太の三郎先生義教
三百余騎にて一口(いもあらひ)をぞふせぎける。

 東国より攻めのぼる大手の大将蒲の御曹司範頼、搦手の大将軍は九
郎御曹司義経、むねとの大名三十余人、「都合その勢五万余騎」とぞ
聞こえし。・・・・・・・

     (注) カッコ()内は、本文ではなく“注釈”。

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<あらすじ>

(1) 寿永三年(1184)正月は、都の後白河院の御所も近臣の平業忠の邸
  宅にあり、御所の体裁も整わず、新年の儀式も全く行えぬまゝに
  うち過ぎ、安徳帝を頂く平家も讃岐の屋島で新年を迎え、諸々の
  儀式行事も無く、都での思いにふけるばかりであった。

(2) 後白河院は、木曽義仲を召し“平家追罰”を命じるが、東国の軍
  勢数万騎が都に向かっていることを聞いた義仲は、西国の平家へ
  軍を向けず、宇治や瀬田に軍勢を回して防戦の構えをとる。

(3) 佐々木高綱と梶原景季(景時の嫡男)が、名馬の“生唼”“摺墨”
  を頼朝からそれぞれ賜り、有名な「宇治川の先陣争い」の詳細
  が語られる場面があり、高綱が先陣を果たす。
  (いけづき)(するすみ)

(4) 頼朝の軍勢の大手(大将軍:源範頼)と、搦め手(大将軍:源義経)
  のそれぞれの武者揃えで、大名、小名たちの多数の名を連ねる。

(5) 宇治川における合戦の木曽軍と、頼朝軍の戦いの様子が詳しく
  語られ、やがて木曽軍は散々に駆け散らされて、木幡山の山中
  や伏見方面に落ちて行くのであった。(木曽義仲軍の敗北)  

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第八十句「義経熱田の陣」

2010-06-21 10:00:09 | 日本の歴史

  木曽義仲の悪行を訴える“大江公朝”らに、直接鎌倉に下向して
  訴えるように頼む“範頼”と“義経”(右側、縁の上の人物)

<本文の一部>

 木曽左馬頭、郎等どもを召し集めて、「そもそも、義仲、十善の君
に向かひたてまつり、いくさは勝ちぬ。主上にやならまし、法皇にや
ならまし。主上にならんと思へば、童にならんも、しかるべからず。
 法皇にならんと思へば、法師にならんも、をかしかるべし。

よしよし、関白にならん」とぞ言ひける。大夫覚明すすみ出でて申し
けるは、「関白には、大織冠の御末、執柄の君達こそならせ給ひ候ふ
なれ」と申しければ、「さては力およばず」とてならず。

 法皇を見たてまつりて、「院」と申せば、「法師」と心得、主上の
幼くて御元服なかりけるを見まゐらせては、「童」と心得たりけるぞ
あさましき。院にもならず、関白にもならず、院の厩の別当におしな
って、丹波の国を知行しけり。

 前の関白松殿の姫君をとりたてまつり、婿になる。

 北面に侍ひける宮内の判官公朝、藤内左衛門時成、尾張の国へ馳せ
下る。これはいかにといふに、「鎌倉の兵衛佐の舎弟、蒲の冠者範頼
九郎冠者義経、二人都へ上るが、尾張の国熱田の大宮司がもとにおは
する」と聞きて、木曽が悪行のこと訴へんがための使節とぞ聞こえし

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<あらすじ>

(1) 院の御所を攻めて“戦さ”に勝利した“義仲”は、「一天万乗の
  君に対し、戦さを起こして勝利した。この身は“天皇になろうか
  法皇になろうか」、天皇となって少年の姿になるのも具合が悪い
  し、法皇になって法体になるのもおかしいこと、よし関白にでも
  なろうか・・・」と述べて、「関白には藤原鎌足公の子孫、関白
  家の若君でなければなれませぬ・・」と、たしなめられて、結局
  は武士らしく牛馬管理の長官になったと言う。

(2) 寿永二年(1183)十一月二十三日、義仲は三条の中納言以下の公家
  たち四十九人もの官職を召し上げて、幽閉してしまう。これは
  治承三年(1179)の清盛による大粛清を上回るもので、都の人々を
  驚かせた。

(3) 一方頼朝は、平家の三年分の滞納年貢を用意して、源範頼義経
  に命じて運ばせていたが、途中で“都に戦さあり”と聞き、一旦
  頼朝に事情を報告しようと、尾張の熱田大神宮に足を留めていた
   
   そこへ都から“後白河院”の密命を受けて“木曽勢の悪行”の
  仔細を伝えに“宮内判官・大江公朝”と“藤内判官・時成”の
  二人が駆け付けたのであった。

(4) 大江公朝らは、義仲による法住寺合戦で“八条”や天台座主
  明雲僧正などが討たれたことを訴えるが、直接に鎌倉へ下向する
  ように義経から勧められ、直ちに鎌倉へ向かった。

(5) 公朝らの訴えを受けた頼朝は、「役にもたたぬ鼓判官・知康など
  の言を入れ、御所を焼かれ、あたら多くの高僧・貴僧を死にいた
  らしめたこと誠に怪しからぬ」と述べ、この後は知康を召し使わ
  ぬようにと、飛脚を立てて後白河院に奏聞したと言う。

(6) 木曽追罰の頼朝の討手が都へ上ると聞いた義仲は、すぐに四国に
  陣取る“平家”に「都へ上って、一緒になって頼朝を討とう」
  と申し入れた。
   しかし平家では、時忠や知盛らが「平家は、天皇に従い御守り
  している、木曽は直ちに降参せよ・・」と返答する。
   義仲はこれを受け入れなかった。

(7) 治承三年(1179)の政変で配流された藤原基房は、この頃 義仲
  組み“政界復帰”を画策していた。さきに官職を召し上げ幽閉さ
  れた公家たちを全員、義仲に働きかけて全て許させた。

   そして、三男・師家を内大臣の摂政につけさせるのであった。

(8) 寿永二年(1183)も、平家は西国に、頼朝は東国に、都は木曽が
  支配し無理を強行する有様で、諸国乱れて都への年貢もまゝなら
  ず、不協和音のまゝに暮れてゆくのであった。

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第七十九句「法住寺合戦」

2010-05-16 15:26:47 | 日本の歴史

   画面中央上に、射落されて落馬する天台座主明雲大僧正”
    左やや下、竹やぶ前で生捕られる播磨中将源雅賢

        ・・・木曾源氏が、後白河院の御所を攻撃する・・・・

<本文の一部>
 都には、去んぬる七月より源氏の勢みちみちて、在々所々に入り取
りおほし。賀茂、八幡の御領をもはばからず、青田を刈り馬草にし、
人の倉をうち破りて取るのみならず、小路に白旗をうち立てて、持ち
通る物をうばひとり、衣装を剥ぎとる。

 平家のときは、「六波羅殿」と申ししかば、ただ大方におそろしか
りしばかりなり。衣装を剥ぐまではなかつしものを、「平家に源氏は
おとりたり」とぞ、高きもいやしきも申しける。・・・・・

 木曾これを聞き、「さな言はせそ」とて押し寄せて、鬨をつくる。
樋口の次郎兼光五百予騎にて、新熊野の方より鬨をあはせて馳せ向か
ふ。やがて御所に火をかけたり。

 院方の兵、鬨をあはするまでもなかりけり。おびたたしく騒動す。
いくさの行事知康はなにとか思ひけん、人よりさきに落ちゆきけり。
行事落つるうへは、なじかは一人も残るべき。「われ先に」と落ち
ゆくに、あまりあわて騒いで、あるいは長刀さかさまにつきて、足
を突きぬく者もあり。・・・・・・

 按察の大納言資賢の孫、播磨の中将雅賢生捕にせられ給ふ。
天台座主明雲僧正も御所に籠られたりけるが、火すでに燃えかかるあ
いだ、御馬に乗り給ひて、七条を西へ落ち給ふが、射落されて、御首
取られ給ふ。

 寺の長吏八条の宮も籠らせ給ひけるが、いかがはしたりけん、射ら
れさせ給ひて、御首取ってんげり。・・・・・・・

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

<あらすじ>

(1) 都では七月頃から木曾源氏の兵達が跋扈し、そこら中で略奪が
  繰り返されて、特別な神領でも構わずに青田を刈って馬の餌に
  して与え、通行人の持ち物や衣服を剥ぎ取る有様であった。

(2) この源氏たちの乱暴狼藉を取り締まるよう、後白河院は壱岐の判
  官・知康に命じる。しかし都には平家の軍勢は無く、比叡山や三
  井寺の僧兵や巷の不良達までかき集め、更に木曾方を離反した近
  江源氏や信濃源氏などを含め一万余人が院方に集まった。

(3) 木曾勢三千余騎が十一月十九日朝、院の御所・法住寺殿へ押寄せ
  御所に火を放つと、院側の総指揮官・平知康は真っ先に逃げ出し
  てしまい、指揮官を失った兵達は逃走の混乱の中で多数が死傷し
  名ある山法師は討死にし、摂津源氏も西へ落ちて行く。

   検非違使・源光経、近江中将・高階為清、越前守・藤原信行
  主水正・清原近業等が討死。 播磨中将・源雅賢は生け捕られて
  天台座主・明雲も落ち行く馬上で射落され首を取られ、三井寺の
  ・八条の宮(後白河第五皇子・円恵法親王)まで射られて首を
  取られてしまった。

(4) 後白河院は、騒ぎの中で五条の里内裏(藤原邦綱邸)に押し籠めら
  れ、宰相・脩範卿(藤原信西の子)は、髪を落とし墨染の法衣で院
  の御前に上がり、“きょうの戦い”の事の次第を語った。

(5) 大勝したあくる朝、木曾源氏勢は“鬨の声”を挙げるが、討たれ
  て六条河原に並べられた首、三井寺長吏・八条の宮や天台座主・
  明雲を含めて六百三十余人。
   都の人々は、みな涙を流したと云う。(1183・寿永二年)

 


第七十八句「妹尾最後」

2010-04-23 09:46:25 | 日本の歴史

  画面左上は、肥満で動けない嫡男の小太郎・宗康を残して落ち行く
   瀬尾の太郎兼康の一行。

  「命惜しさに、一人息子を捨てたと言われるのは恥ずかしい」と、
  息せき切って小太郎のところへ戻ったところ(画面の左下)。

   画面右は、瀬尾兼康を追ってきた五十騎ばかりの木曽源氏の軍勢。

<本文の一部>
 平家は備中の国水島の軍に勝ってこそ、会稽の恥をばきよめけれ。
木曽これを聞き、一万余騎にて馳せ下る。

  ここに平家の侍に聞こふる強者、備中の国の住人瀬尾の太郎兼康と
いふ者あり。去んぬる五月に砺波山にて生捕にせられたりしを、「聞
こふる剛の者なれば」とて、木曽惜しんで切られず。加賀の国の住人
倉光三郎成澄にあづけられたりけるが、瀬尾、あづかりの倉光に申し
けるは、「木曽殿、山陽道へ御下りとうけたまはり候。兼康が知行の
所、備中の瀬尾と申す所は、馬の草飼よき所にて候。申して、御辺賜
はらせ給へかし。

 去んぬる五月よりかひなき命を助けられたてまつり候へば、げに、
いくさ候はば、まっさき駆けて命を奉らうずるにて候」と申せば、倉
光の三郎この様を木曽左馬頭殿に申す。木曽殿これを聞
き、「きやつ
は剛の者と聞くが惜しければ、生けおきたるなり。具して下りて案内
者させよ」とぞのたまひける。・・・・・・・

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<あらすじ>

瀬尾兼康・宗康の親子が討ち取られる
 

(1) 寿永二年(1183)五月、般若野の戦いで“木曽勢の今井四郎”は
  平家(平盛俊)を破ったが、この時“砺波山”で捕らわれた平家の
  強者・瀬尾太郎兼康という者、聞こえた豪の者とてこれを惜し
  んで、木曽義仲は斬首せず配下の倉光三郎成澄に預けた。

(2) 瀬尾兼康は、木曽義仲に忠節を尽くすと思わせて、山陽道を下
  る途中、備の国(本文では備の国となっているが)三石の宿で
  酒を勧めて、旅の疲れもあって前後不覚に酔いつぶれた倉光一行
  を全て刺し殺してしまう。

   これを知った義仲は、恩を仇で返されたと激怒して今井四郎
  
に命じて「追っかけて切れ!と」。

(3) 今井四郎は、三千余騎にて瀬尾親子を追いかけて、遂に兼康
  嫡男の宗康を討ち取り、鷺の森で“さらし首”にかけた。

義仲が、行家に讒言される

(1) 義仲は、備中の国から屋島(平家軍)へ渡るばかりに準備中に、
  都の留守役からの飛脚で「源の十郎行家が、“義仲”のことを
  悪しざまに、有ること無いこと陥れるような中傷讒言を“後白河
  院”に伝えているので、一刻も早く都へ戻るように・・」と報せ
  てきた。

   義仲は、急遽“戦さ”を中断して都へ駆けつける。義仲が都
  へ入ったことを知って驚いた 行家 は、急いで都を立ち退き
  播磨の国へ下っていった。

行家は、平家軍に戦いを挑み敗れて落ちて行く

(1) 一方、平家は 平知盛 の二万余騎が千艘の船に分乗して播磨の
  “室山”に陣を敷いた。

  これを知った 行家木曽義仲との仲直りの手土産にと、二千
  余騎を率いて室山の平家軍に攻撃をかけ、一日戦闘を続けるも
  のの多勢に無勢、散々に討ち取られて引き退き、落ちて行くの
  であった。

   結局、行家 は播磨を 平家 に押さえられ、都 は 義仲 をは
  ばかって、河内へ逃れたと云う。

  


第七十七句「水島合戦」

2010-04-19 14:55:00 | 日本の歴史

  平家の平知盛率いる一万余騎が、木曽勢の矢田義清七千余騎を攻める

<本文の一部>

平家は讃岐の屋島にありながら、山陽道八箇国、南海道六箇国、都合十四箇国
を討ち取れり。木曽左馬頭これを聞き、「やすからぬことなり」とて、やがて
討手をつかはす。大将軍には足利の矢田判官代義清、侍大将には信濃の国の住
人海野の弥平四郎幸広を先として、都合その勢七千余騎にて山陽道を馳せくだ
る。

 平家は讃岐の屋島にましましければ、源氏は備中の国水島が磯に陣をとる。
たがひに海を隔ててささへたり。

 閏十月一日、水島がわたりに、小船一艘出で来たり、「海士の釣船か」と見
るほどに、平家の方より牃の使いの舟なりけり。これを見て、源氏の舟五百余
艘の船に乗り、押し寄せたり。

 <あらすじ>
(1) 讃岐の屋島に本営を置いた“平家軍”は、山陽道(岡山、広島、山口等)
  八か国と南海道(和歌山~四国)六か国を、またたく間に支配下に置いて
  しまった。
   木曽義仲は、「これは容易ならぬ事態じゃ」と、矢田義清(大将軍)
  と海野の四郎幸広(絵巻では“行広”)を侍大将に、七千余騎の攻撃軍を
  山陽道へ向かわせ、備中(岡山)の水島に陣を取り、平家軍の屋島と海を
  隔てて向かい合った。

(2) 寿永二年(1183)閏十月一日、平家方から開戦の通告状が届けられると、
  浜辺に干し上げてあった源氏の船五百艘余りを一艘残らず、我先にと
  海中に降ろした。
      平家方は、新中納言・平知盛を大将軍に、平教経を副将に千余艘一万
  余騎で、水島の瀬戸に攻め寄せる。

(3) 平家勢は、教経の下知で船尾と船首の綱を結び、“歩み板”を敷き渡したの
   で船の上が陸地にように平らになり、兵士たちは縦横に活躍できた。
   壮絶な戦いが繰り広げられたが、船の戦さを得意とする平家勢に、た
  ちまち木曽源氏の侍大将・海野幸広
が討ち取られ、これを見た総大将の
   義清は主従で奮戦するものゝ、どうしたことか船を転覆させてしまい一同
   水死してしまったと云う。
     源氏の兵たちは、二人の大将が討ち取られて総崩れとなり、船を捨てて我
   れ先にと逃走していった。

        「水島の戦い」は、こうして平家軍大勝でを終わったのだった。

 

 


第七十六句「木曽猫間の対面」

2010-03-06 13:14:34 | 日本の歴史

      猫間中納言光隆(左)に食事をすすめる、木曽義仲(中央)

<本文の一部>

 木曽は都の守護にてありけるが、みめよき男にては候ひしかども、
たちゐ、ふるまひ、もの言うたる言葉のつづき、かたくななることか
ぎりなし。

 あるとき、猫間の中納言光隆の卿といふ人、のたまひあはすべきこ
とありておはしければ、郎等ども、「猫間殿と申す人の、『見參申す
べきこと候』とて、入らせ給ひて候」と申せば、木曽これを聞き、
「猫もされば人に見參することあるか、者ども」とのたまへば、「さ
は候はず。これは『猫間殿』と申す上臈にてましまし候。『猫間殿』
とは、御所の名とおぼえて候」と申せば、そのとき、「さらば」とて
入れたてまつりて対面す。

 木曽、なほ「猫間殿」たはえ言はいで、「猫殿はまれにおはしたる
に、ものよそへ」とぞのたまひける。中納言、「ただいまあるべうも
候はず」とのたまへば、「いやいや、いかんが、飯時におはしたるに
ただやあるべき」。・・・・・

 田舎合子の荒塗なるが底深きに、てたてしたる飯をたかくよそひな
し、御菜三種して、平茸の汁にて参らせたり。木曽殿のまえにもすえ
たりけり。木曽は箸をとり、これを召す。中納言も食されずしてはあ
しかりぬべければ、箸をたてて食するやうにし給ひけり。木曽は同じ
体にてゐたりけるが、残り少なくせめなして、「猫殿は少食におはしけるや。召され給へ」とぞすすめける。

 中納言は、のたまひあはすべき事どもありておはしたりけれども、
この事どもに、こまごまとも、のたまはず、やがていそぎ帰られぬ。

  中納言帰られてのち、木曽出仕せんといでたちけり。木曽は、「官
加階したる者の、なにとなく直垂にて出仕せんもしかるべからず」と、はじめて布衣に、とり装束す。されども車につかみ乗りぬ。

 鎧着て矢かき負ひ、馬につい乗ったたるには似も似ずしてわろかり
けり。牛、車も平家の牛、車。牛飼も大臣殿の召し使はれし弥次郎丸
といふ者なり牛の逸物なるが、門を出づるとき、一むち当てたれば、
なじかはよかるべきつと出でけるに、木曽、車のうちにてあふのけに
倒れぬ。蝶の羽根をひろげたる様に左右の袖をひろげて、「起きん」
「起きん」としけれども、なじかは起きらるべき。五六町こそ引かせ
たれ。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

<あらすじ>

 (1) 都の守護を預かる“木曽義仲”は好い男振りであったが、言葉
  遣いが乱暴で立ち居振る舞いが武骨のうえ、礼儀作法をわきまえ
  ない男で、都の人たちの評判は良くなかった。

(2) 猫間の中納言“光隆”卿が、相談したいことがあって、ある日
  義仲邸を訪れた。“義仲”は昼食を用意してもてなすが、出て
  きた“飯を山盛りにした田舎風の大椀”に、おかず三品と平茸
  の汁を目の前に、気味が悪くて箸を取れないでいる、すすめられ
  て“ひと口”食べるふりをして箸を置いてしまう。
  “義仲”は「猫殿は少食でござるな、日ごろ聞く“猫の食べ残
  し”でござるか、さぁかき込みなされよ・・・」と無理強いし、
  “光隆”はすっかり興ざめして、用件も話さずに早々に帰って
  しまったのである。

(3) その後、“義仲”は、院の御所に出仕することになり「狩衣」
  で正装するのだが、冠の額際や袖口、裾さばき等“さま”になら
  ず、常日ごろ鎧を着て弓矢を手に、兜の緒を引き結んで馬にうち
  乗った雄々しい姿とは、似ても似つかぬ“ぶざま”な格好であっ
  たという。

    そして牛車に乗り込むが、勢いよくとび出した牛に牛車の
   中で仰向けに引っくり返り、袖をバタバタとさせながら五~
   六町も走るという有様であったと云う。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  平家物語の中では珍しい“滑稽譚”であり、木曽の山国育ち
  の“義仲”と、根っからの貴族として生まれた“光隆”の二
  人を対比して描く。そして、牛飼い(平宗盛の召使いだった)や
  都の下々の人たちから、“田舎者”扱いされる“義仲”たち
  ・・であった。