年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

秩父・草莽の街

2008-11-14 | フォトエッセイ&短歌
 秩父は水田に乏しく年貢米が不足するので商品作物(現金収入になる木綿・絹・煙草など)の栽培が盛んであった。江戸時代中頃から絹織物の需要が増すと傾斜地に桑の木を植え養蚕業が活発になった。
 特に幕末開港以後は生糸価格が上昇して生糸景気がおとずれたが、明治15年ごろから深刻な不況に直面する。多くの農家が高利の借金の返済不能におちいり、破産していった。
 自由民権運動が明治薩長専制政府と鋭く対立していた時期である。彼等、負債に悩む農民たちは自由民権思想を学びながら「困民党」を結成し武装蜂起をしたのが秩父事件である。

<「困民党」蜂起の震源地となった椋神社境内。3000の蜂起軍が集結した>

 借金しておいて返済不能だから、暴れまくるとはなんだ。暴徒・暴動、火付け・強盗、極悪凶徒として歴史の闇に葬られた事件である。関係者の家族も多くを語ることはなかった。
 果たしてそうだったのか… 代表は秩父郡役所に何度も請願するも却下、警察署にも請願するが逆に恫喝、裁判所に訴えるも門前払いと万策尽きる。結局、不法な高利貸と結託する政府の役人、明治専制政府を転覆するしかない。決起は燎原の火の如く広がり、役所を占拠し高利貸を打ち壊し、世直しを叫んだが…。

<蜂起から115年が経つ。燃え立った秩父は祭りと巡礼の街として賑わう>

 秩父市街が一望できる羊山公園の丘に「秩父事件追念碑」がある。これは蜂起軍乙隊副隊長・落合寅市の子息が建立している。
 「追念碑」の眼下には蜂起軍の活動の拠点となった秩父神社や「革命本部」となった秩父郡役所(秩父地方庁舎)などが見える。波乱の生涯を送った寅市は何を見ているのであろうか。
 『天下の政事を直し、人民を自由ならしめんと欲し、諸民のために兵をおこす』とも『現政府を転覆し、ただちに国会を開く革命の乱なり』とも記された秩父事件である。

<秩父事件の真相は闇の中に葬られたが、関係者による事件顕彰碑の建立>


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