甚六ぶらぶら日記

岩手の穀潰し主婦・甚六の覚書

河南の寺町散歩1

2007-12-11 22:19:16 | 盛岡散歩
 
 盛岡には南北2つの寺町があります。
 北側は京都に習い「北山」と名づけられ、国道4号・455号沿いの一帯に南部家ゆかりの「盛岡五山」などの古い寺が軒を並べています。455号沿いは「寺町通り」と呼ばれ、景観が保護されています。
 それに対し南側は、南大通・鉈屋町・大慈寺町・茶畑といった地区で狭い路地が入りくんでおり、昔の風情を残した民家とともに下町らしさを感じさせる場所です。(この辺りを「寺の下寺院群」と呼ぶそうですが、今回のレポートはそれより広い範囲を含んでいるので、ここでは河南の寺町と呼ばせていただきます。)




 ・円光寺(浄土宗)  南大通三丁目

 写真は山門の外から撮ったのでよく見えませんが、樹高20mを超える雌雄一対のカツラの木「夫婦カツラ」が本堂の手前にそびえます。樹齢300年だそうです。
 第二次世界大戦中に首相や海軍大臣を務めた米内光政の墓があります。米内は三国同盟に反対したとか東京裁判でライバル陸軍大臣をかばってしらを切り通したとか花街の女性によくもてたとか、興味深いエピソードが盛りだくさんです。
 また孝女・お蓮の伝説を基にした「首塚」があります。お蓮の父は隠れキリシタンでしたが、獄門となってしまいました。お蓮はその父の首をこっそり持ち出し、円光寺の住職に菩提を弔うよう頼んだということです。お蓮はその後殿様の側室になったとか。首塚は意外なほど大きく、堂々としていました。
 



 ・大慈寺(黄檗宗) 大慈寺町

 創建は1673年ですが明治17年(1884)の大火で焼けてしまい、原敬の支援で復興しました。京都宇治の万福寺を模して再建された中国風の山門が特徴的です。
 原敬は大正時代の首相で「平民宰相」と呼ばれた人です。原の墓はこの大慈寺の一角に妻の墓と並んであります。遺言により「原敬墓」とだけシンプルに刻まれた墓です。妻の墓も同様です。「位階勲等は余の絶対に好まざる所」などと書かれた遺言といい、19歳から暗殺された65歳まで書き続けられた「原敬日記」といい、興味の尽きない郷土の偉人です。
 大慈寺のすぐそばに大慈寺小学校があります。新しいけれど趣のある校舎が周囲によく合っていました。




 ・十六羅漢 茶畑

 かつて宗龍寺があった場所ですが、寺は明治維新後に廃寺となり、明治17年の大火で建物も焼失、十六羅漢と五智如来の21体の巨大な石仏だけが残されました。現在は「らかん公園」となっていて遊具やベンチもあります。
 江戸時代の盛岡藩は3年に一度ほどの頻度で不作・凶作に見舞われ、数多くの餓死者を出しました。その供養のために建立された石仏です。
 特異な風貌の21体もの巨大石仏に囲まれた場所ではありますが、道路やマンションのそばにあるせいか、圧迫感や恐ろしさなどの感じられない、明るい感じのする空間でした。むしろ温かく見守られているような安心感すら感じました。いい季節になったら飲み物を持って読書しに行きたい場所です。




 ・連正寺 南大通二丁目

 こじんまりとした、路地のお寺です。見つけるのに苦労しました。
 先々代の住職まで秘仏とされていた「豆腐買地蔵尊」があるお寺です。病でやせ衰えていく母を何とか治したい一心で毎日豆腐屋へ通った息子のおかげで母は全快し、仏に感謝して寺に寄進したお地蔵さんだそうです。
 おみくじを引いたら大吉でした。


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