実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

古墳時代の加賀市の様子

2013年06月11日 | 日記

隊員NO.7ゆっこで~す(^_^)v

加賀市観光ボランティア大学第5回講座 加賀の古代をウォッチング-古墳は語る

いにしえの加賀-」で、田嶋正和先生から教えていただいた加賀市の古墳時代の

様子についてご報告します。

古墳時代というのは、3世紀後半から7世紀の半ばまでのことです。3世紀後半から

4世紀初め頃のことを古墳時代前期、4世紀末から5世紀末を古墳時代中期、

6世紀初めから7世紀の半ば頃までを古墳時代後期というそうです。

今の加賀市においては、先日お伝えしましたように、大菅波・吸坂・山代・片山津・分校などに

古墳時代初期の実力者があらわれ、豪族として活躍していました。

←二子塚町の狐山古墳

そしてそれらの実力者の中から、当時「江渟(えぬ)」と呼ばれたこの地域全体を支配する王が

出現したと考えられます。普通、王といわれるような権力者は戦いによってまわりを平らげる

と思われがちですが、ここ江渟(えぬ)」においては、どうも話し合いによって王が選ばれていた

ようです。これは古代的共和制といった感じでしょうか。

←分校町のチハカ山古墳

古墳の出現時期からみると、ここ加賀市(江渟)においては、まず動橋川を制御することに成功した

分校地区の権力者が江渟王になったのであろうと考えられます。

そののち治水技術の進化によって、より大きな大聖寺川を制御し、平野を支配できるようになった

南郷地区の権力者に王権が移ります。さらには再び動橋川流域に権力が戻った後、

富塚地区に王が誕生したと考えられているそうです。

富塚町には、富塚丸山古墳が残されていますが、仮にその古墳が前方後円墳であったとすれば、

手取川以南の地域最大の古墳であったといえるそうです。ということは、富塚に眠る王は、

江渟に君臨したとても大きな力を持つ権力者だったのでしょうね。

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