予告の花火が上がり、ハヤシの太鼓が響く。「東西東西(とざいとうざい)、ここにかけおく龍の次第は・・・」で始まる伝統の口上が、奉納者や龍の名、流派の名などを披露する。「・・・椋(むく)神社にご奉納」で終わると、「ドーン」と白煙をたなびかせ、龍のような勢いで手作りロケット「龍勢」が打ち上がる――。
秩父市下吉田の”農民ロケット”の名で知られる龍勢祭(椋神社例大祭)は、江戸時代以前から400年以上の歴史を持ち、全国に5,6か所ある農民ロケットのなかで最大の規模を誇るという。
10年10月の第二日曜の10日。朝方まで残っていた前日の雨が止んだので、電話すると「やりますよ」との返事。JR熊谷駅乗り換えの秩父鉄道で皆野駅下車、バスに乗り継いで現地に着いたのはお昼前だった。
椋神社と道路を隔てた芦田山の麓に建てられた打ち上げ櫓の神社側には、多数の見物人が、有料と書かれた桟敷席にあぐらで座り込み、昼飯、酒盛りの最中だった。一升瓶やビール缶が並ぶ。その後ろには屋台も多く出て、秋祭りの雰囲気だ。7万5千の人出だったという。
龍勢は戦国時代の「のろし」から発展したとされる。それを次々に打ち上げるこの祭りは、実りの秋に神に五穀豊穣を知らせ、感謝する儀式だと言うからうなずける話だ。秩父地方では床の下の土から火薬の原料となる硝石を採集する硝石生産方法が盛んだった。
龍勢は、真っ直ぐに飛ばすため、「矢柄」と呼ばれる長さ約15mの真竹を使う。松の木を二つに割って中をくり抜き、火薬を詰めた筒を根元に取り付け、櫓に運んで点火、発射する。2~300mの高さまで上り切ると、「背負い物」という色とりどりの落下傘や唐傘が開いて、ひらひら、ふわふわと降りてくる。夜の花火とは一味違う楽しい昼間の煙火である。
驚いたことに27もの流派がある。プログラムによると、近くの山にちなんで「城峰瑞雲流」とか「開祖昇雲龍」とか「青雲流」、「秋雲流」と雲の名をつけた名前が多く、それぞれの幟がはためいている。
龍名には「龍頭 唐傘 煙火 獅子の舞」(舞天流)、「青龍煙火 破風翔龍秋彩の舞」(巻神流)と凝ったものから、「中島家御夫妻 金婚式祝の龍」(光和雲流)というのもあった。
奉納者は、「耕地」と呼ばれる各集落、地元の企業や農協などで、「秩父氏一族」というのもあって地域を感じさせる。
地元の小、中学校も寄せ書きやパラシュート装着で協力していて、「与五郎流」(奉納者・出世頭の会)では、中学生が堂々と口上を述べた。地域ぐるみの祭りなのだ。
奉納者たちは、打ち上げに先立ち、幟、矢柄を担いで成功を祈って、そろって神社に参拝する。名前は立派ながら、手仕事なので全部が打ち上げに成功するわけではない。爆音と白煙だけで終わるのもある。それもご愛嬌で、この祭りに繰り込まれている。プログラムからこのような名前を拾ってみるだけで、地域ぐるみの祭りの楽しい雰囲気がうかがえるだろう。
青空のもと15分間隔で30頭の龍が打ち上げられた。同じような農民ロケットの伝統があるタイのヤソトン市との交流も毎年あり、5、60人のタイの人々もタイ語で挨拶を書いて、小屋掛けして打ち上げを見守っていた。秩父山中の年中行事も国際化している。
戦国時代の狼火が祭りに取り入れられたらしい。
椋神社は、東征の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が道に迷った際、持っていた鉾の先から一条の光が走り、大きな椋の木に当たった。その下にいた猿田彦命(サルタヒコノミコ)が道案内して、戦に勝ったので、命を祀ったのが始まりという。秩父地方では、延喜式神名帳に「秩父まつり」で有名な秩父神社と並んで記されている由緒ある古社である。
秩父夜祭
秩父夜祭は毎年決まって12月2日と3日に開かれる。10年は木曜と金曜日だった。夜祭だから山車のぼんぼりと花火が売り物。2日は宵宮(前夜祭)、3日は大祭。
夜出かけるのが筋なのに、2日夜から3日朝にかけて雨との予報だったので、大事を取って2日の昼間から花火が上がるまでの昼間だけ見た。
秩父夜祭は冷え込みがきついのが相場なのに小春日和で、着込んでいったセーターを脱いだほど。陽も当たっていて、豪華絢爛な屋台や、屋台の後ろの舞台で女の子が演ずる「曳き踊り」もじっくり観察できた。
秩父夜祭は、京都祇園祭、飛騨高山祭ととともに日本三大曳山祭と呼ばれる。この歳になって三つとも実物は見たことがないので、まず地元の秩父を見ようという魂胆である。
西武秩父駅前の秩父観光情報館で秩父観光協会発行の「秩父夜祭をたのしむ」(100円)や夜祭のパンフレットなどの資料を手に入れ、まず近くの秩父神社に向かう。この神社もその前にある秩父まつり会館には前に来たことはある。
読んでみて驚いたのは、江戸・寛文年間以来三百数十年の歴史を誇る夜祭は、神社の例大祭そのものだと思い込んでいたのに、実は例大祭の「付け祭り」だということだった。
秩父地方は古代から、「知知夫(ちちぶ)絹」の産地として知られた。江戸時代には秩父絹として例大祭に合わせて「絹大市(きぬのたかまち)」が開かれ、3~4千両の取引があった。夜祭はこの大市の最終を飾る、江戸の商人をもてなす行事として発展したのだそうだ。
明治後期から昭和初期にかけて、平織りで裏表がないのが特徴の「秩父銘仙」は、女性の手軽なおしゃれ着として全国的な人気を集めた。秩父市の約7割が織物関係の仕事をしていた時期もあったという。
この絹による潤沢な資金が、“動く陽明門”と呼ばれるほど豪華な屋台や山鉾をつくれた背景にあった。全国的に知られる私の好きな「秩父音頭」には、「秋蚕(あきご)仕舞うて 麦蒔き終えて 秩父夜祭 待つばかり」というくだりがある。夜祭はまさに蚕と絹が生んだ祭なのだ。
祭で曳かれる山車(だし)は、国の重要有形民俗文化財に指定されている屋台4と笠鉾(かさぼこ)2の6基。祇園祭の山鉾32基、高山祭の屋台(春12、秋11各基)に比べると少ない。
屋台は豪華な屋根のある山車。笠鉾は屋根の上に、秩父では飾り金具が垂れ下がる美しい三層の笠をつける。1914(大正3)年に電線が架設されたため、引っかかるので、曳く時は笠をはずす。
秩父で一番大きい「下郷笠鉾」は、高さ7m、笠を付けると15・5m、重さ20t。下郷は6町会の連合体だといっても、曳くのは大変だ。
2日は、中心街の4つの屋台(宮地、上町、中町、本町)の曳き回し。後幕(うしろまく)の猩々(しょうじょう=酒飲みの伝説上の動物)が目立つ宮地、屋根の一番大きい上町、屋根の前後の両端を飾る鬼板が一番大きく、日本神話を題材にしている中町、後幕の達摩(だるま)が目立つので「ダルマの屋台」と言われる本町(もとまち)と、それぞれ特徴があって面白い。
秩父神社から目抜き通りに繰り出していくので、解説を読みながら見るとよく分かる。4つの屋台は左右に張り出し舞台をせり出すと、屋台芝居が楽しめる構造になっていて、3日の午後には歌舞伎を楽しめるという。
3日は、6台が一斉に出る。夜は秩父鉄道の踏切を越え、市役所前の御旅所(おたびしょ)へ向かう短い団子坂の「曳き上げ」で祭りは最高潮に達する。午後7時半から日本花火芸術協会加盟の花火師による4号玉やスターマインが、春はシバザクラでにぎわう羊山(ひつじやま)公園から約6千発、冬の夜空に打ち上げられる。山車と冬花火のコラボレーションだ。花火が上がるようになったのは大正時代からだという。
昼間見ていて面白かったのは、屋台の前面の柱にとりついて、扇子を振りかざしながら「ホーリャーイッ」「ホーリャーイッ」とかけ声をかける4人のイケメンの「囃(はや)し手」だった。聞けば、町内在住で20歳以上、町会への貢献者との条件があるそう。一生に一度だけしかできない。まさに夜祭の花形で、「一生一代の晴れ舞台」。
昼間の屋台には、幼稚園の子どもたちも大挙して長い縄にとりついていた。よちよち歩きの赤子も祭り衣装で走り回っていた。「祭りキチ」は大人に限らない。伝統は確実に継承されつつある。
曳き子は1台を曳くのに約150人。団子坂の曳き上げには400人近く必要だという。このため市街地の空洞化が進む中で、最近は曳き子に若い女性が急増している。
秩父神社の女神(妙見菩薩)と武甲山の男神(蔵王権現)が年に一度逢い引きする祭事とされる。秩父盆地はこの祭りで、一年を総決算し、来年への歩みを始める。
「秩父祭の屋台行事と神楽」は16年12月1日、東北から九州までの33の「山・鉾・屋台行事」の1つとして、ユネスコ(国連教育科学文化機構」の無形文化遺産に登録された。これで無形文化遺産は世界で336件、日本からは歌舞伎や能楽、小川町の和紙、和食など21件が登録されている。
12月4日の秩父夜祭には、前年を13万人上回る33万人が詰めかけた。
秩父音頭まつり 皆野町
♪ ハアーアーア アーエー 鳥も渡るか あの山越えて 鳥も渡るか あの山越えて・・・♪
埼玉県を代表する民謡「秩父音頭」は、学生時代から好きだった。踊りも現地で一度は見たいものだと思っていた。
13年も8月14日に皆野町で「秩父音頭まつり」が開かれるというので、喜んで出かけた。45回を迎えるという。町の花にあやかって「合歓(ねむ)の盆」と名づけられている。
秩父鉄道の皆野駅で降りるとまもなく、「秩父音頭発祥の地」と書いた看板があって、植え込みの中に「秩父音頭家元碑」が立っている。
流し踊りコンクールが毎年開かれ、人口1万1千の町で、今年は15人から50人程度の大小77チーム約1500人が参加した。
出場チーム一覧表を見ると、近隣の長瀞町や寄居町のチームもちらほらあるが、ほとんどが地元。
中でも、皆野中は運動部がそれぞれ参加していて、子ども会、青少年育成会のチームも目立った。
盆踊りと言えば、中高年齢層の参加が多い。この町では、子供たちの姿も多く、秩父音頭のふるさとの伝統は若者に着実に引き継がれている印象を受けた。民謡の歌い手も、女子中学生ら若い女性が自慢ののどを張り上げる姿が多く見られた。民謡を肉声で聞くのはなかなかいいものだ。
町役場の「新鮮組チーム」を先陣に駅近くのバスターミナルを出発、午後5時ごろから高いやぐらが組んである役場庁舎前の「おまつり広場」に集結、輪になって踊る。(写真)
秩父音頭は、日本俳句会の長老、金子兜太(とうた)氏の実家で、今も街の中心部にある「金子医院」(以前は壷春堂医院)が中心になってできた。
その縁で、弟で家業を継いだ金子千侍(せんじ)氏が家元を務めている。
秩父音頭は、この地に伝わる盆踊りが基になっている。200年の歴史があるとされるものの、昭和初期には歌詞も踊りも卑猥そのものに堕し、踊りは「ボウフラ踊り」、歌は「助平唄」と言われた。警察も禁止していたほどだ。
これを再興しようと図ったのが、兜太氏の父親、医師で俳人(号は伊昔紅=いせきこう)の金子元春だった。上海の同文書院の校医をしていたが、故郷に帰ってきたばかりだった。
伊昔紅は、俳句誌「馬酔木(あせび)」を出した水原秋桜子と現在の独協中・高時代の同級生で、同人だった。当時の県知事とも大学時代、東京にあった埼玉県人の学生寮「埼玉誘掖会」で一緒だったことから、秩父音頭づくりも知事から依頼を受けたものらしい。
1930(昭和5)年、一般から新たに歌詞を募集、自分でも作詞した。節は「秩父木挽き唄」では右に出るものがないとされた名人吉岡儀作に唄わせて、粋な趣味人だった元春の父親の金子茅蔵が妹に踊らせて振り付けた。踊りの身振り手振りに生糸を紡ぐ糸車の様子などが織り込まれている。
この年の11月3日、明治神宮の遷座十年記念祭に招かれて「秩父豊年踊り」の名で奉納され、全国の注目を浴びた。翌日には愛宕山にあったNHK放送曲から全国放送された。
明治神宮には、男21、女10の31人が参加、男性は花笠を背にして踊ったという。
1933(昭和8)年、帯広市で開催された全国レクリエーション大会に「秩父音頭」として出場して1位、1950(昭和25)年の全国レクリエーション大会で民謡部門優秀1位に選ばれた。群馬の「八木節」、栃木の「日光和楽踊り」とともに、関東三大民謡の一つに数えられている。
秩父音頭の生みの親、金子元春の銅像は、桜で有名な美の山公園の山頂近くにある。
俳誌「馬酔木(あせび)」の同人で、皆野町の俳句会の主宰者だった元春は
♪ 秋蚕仕舞うて 麦蒔き終えて 秩父夜祭 待つばかり・・・♪
♪ 花の長瀞 あの岩畳 誰を待つやら おぼろ月・・・♪
♪ 炭の俵を 焼く手にひびが きれりゃ雁坂 雪かぶる・・・♪
♪ 一目千本 万本咲いて 霞む美の山 花の山・・・♪
を秩父音頭の歌詞に残している。
四番目の一目千本は、元春の最後の作品で、銅像の隣の歌碑に刻まれている。
歌い出しの ♪ 鳥も渡るか・・・♪ は別人の作である。このように何度も募集され、何番もある歌詞は合作になっていて、特に歌う順番は決まっていない。
川越まつり
川越市は「小江戸(こえど)」と呼ばれる。
「世に小京都は数あれど、小江戸は川越ばかり」と言われるそうだ。確かに他の小江戸を売り物にする市、例えば栃木市や千葉県佐原市などに比べると群を抜いている。
大田道灌の像は関東でいろんなところで見かける。川越市役所前に立つ銅像は、市制50周年に庁舎を新築した際にできた。その碑文には、小江戸どころか「川越城、江戸城を築いて川越の文化を江戸に移したので川越は江戸の母と呼ばれた」とあるので、驚いてしまう。
江戸城ができた頃は、川越の方が江戸を上回る先進地で、「逆に江戸が小川越だったのか」と思うと愉快である。
その川越市が、12年に市制90周年を迎えた。それを記念した川越まつりが10月20、21日の週末に開かれたので、久しぶりに出かけた。(写真)
川越市は人口35万人。今でこそ県都さいたま(約126万人)や川口(約59万人)に次ぐ第3位ながら、江戸時代の繁栄を引き継ぎ、1920(大正9)年の第一回国勢調査では、当時の川越町は、約2万5千人で大宮町、浦和町をはるかにしのいでいた。
このため、市になったのは県内で初めて。札幌市などと同じ1922(大正11)年だった。
ちなみに、浦和市が市になったのは1934(昭和9)年で、全国の県庁所在地で最も遅く、県内では川越、熊谷、川口に次ぐ4番目だった。
火力、水力発電所ができて、最初に電灯がともり、電車が走ったのも県内初。埼玉県のトップランナーだった。今でも繁華街はさいたま市大宮区に次ぐ第2位のにぎわいを誇る。
ウィキペディアによる川越市の記述は、微に入り細にわたり、実に面白く、こんなのを読んだのは初めてだ。
その川越市の基礎を築いたのが川越藩主だった松平信綱だった。「知恵伊豆」と呼ばれたほどの頭の持ち主。「天草の乱」を終息させた功績で、忍藩の藩主から川越藩に栄転した。
川越でも街の整備をもちろん、江戸と結ぶ新河岸川の開削、川越街道の改修など江戸と川越の距離を縮めたほか、玉川上水や野火止用水を造らせた川越の恩人である。墓は、野火止用水に隣接する紅葉の名所平林寺(新座市)にある。
この川越まつりも、1648年、信綱が総鎮守氷川神社に神輿、獅子頭、太鼓などを道具を寄進して、祭礼を奨励したことに始まる。
最初は氷川神社の神輿行列だった。元禄の1698年、江戸の祭りの花形だった「踊り屋台」が初めてお目見え、現在のような笠鉾形式の山車になっていった。
江戸の日枝神社の「山王祭」と神田明神の「神田祭」の祭礼行列の山車は、一年交代で江戸城に入り、将軍も見物したため、「天下祭」と呼ばれていた。
ところが明治に入ると、東京は市電の架線が張り巡らされ、背の高い山車の引き回しが困難になった。山車の巡行は姿を消し、神輿中心になった。
川越では、山車を中心とする江戸の天下祭の豪華絢爛さが350年の時代を超えて引き継がれている。05年には「国指定重要無形民俗文化財」に指定された。
江戸型の二重鉾で、最上部にはせり上がり式になっている豪華な衣装の歴史的人物の人形が立つ。信綱を初め、道灌、徳川家康、家光、川越ゆかりの川越太郎重頼(源頼朝の命で娘を義経に嫁がせ、誅殺される)、仙波二郎安家(川越市仙波を治めていた頼朝の御家人)など27町会の29台の山車がある。
川越市も「猩猩」の山車を持ち、幸町は2台持つ。川越まつり会館では本物の山車を、2台ずつ入れ替えながら展示しているので祭りがなくても見物できる。
街角で山車が出会うと、川越の山車の最大の特徴である360度回転する「回り舞台」を使って囃子台を向き合わせ、囃子合戦をする「ヒッカワセ」がまつりの呼び物だ。
例年なら15台くらいなのに、90周年とあって、10年ぶりに29台全部が登場した。高さ約8m、重さ5~6tの巨体。
蔵造りの町並みの通りに沿った巡行経路には見物人があふれ、まるで朝のラッシュ時の駅のホームのような混雑ぶり。
余りの人並みに押され、モンドセレクションで最高金賞を得ているサツマイモが原料のビール「COEDO紅赤」を初めて飲んで早々に退散した。
市観光課によると、二日間で100万を超す人出があったとのこと。川越の人口の実に3倍だ。
「川越氷川祭の山車行事(川越まつり)」は16年12月1日、全国33の「山・鉾・屋台行事」の1つとしてユネスコ(世界教育科学文化機関」の無形文化遺産に登録されることが決まった。
この影響もあって、17年の川越市を訪れた観光客は、計704万人、初めて年間700万人を突破した。外国人観光客数も17万1000人と前年比43・7%(5万2000人)と大幅な伸びを見せ、国内全体の21・8%増を大きく上回った。
名所別では「川越まつり」が98万5000人、「時の鐘」が前年と同じ110万人、「菓子屋横丁」が25%増の100万人だった。
18年は前年比11%の734万人で過去最高、外国人観光客は同42%増の28万人で過去最高。国籍は台湾、タイ、香港、中国の順だった。
メドレーは「混泳」と訳されるとおり、混合レースのこと。個人メドレーはバタフライ→背泳ぎ→平泳ぎ→自由形の順に、4人で泳ぐところを1人で泳ぐ競技である。
水泳の万能選手向きで「水泳の王様」と称される。
五輪でも世界選手権でも、東京五輪から登場したこの競技の金には日本人はこれまで縁がなかった。その400mで13年8月4日、スペイン・バロセロナで開かれた世界選手権で、19歳だった瀬戸大也選手(JSS毛呂山)が日本人として初めて金メダルを獲得した。
初出場の早大一年生が、本命の日本のライバルをラストスパートで引き離して宿願の金を手にしたのは、日本の水泳界に大ニュースとなった。
埼玉県の毛呂山(もろやま)出身だとあって、県も県人も大喜び。上田知事はさっそく、「彩の国スポーツ功労賞」を贈呈すると発表した。この賞は、県出身の五輪メダリストら55個人・団体に贈られている。
井上健次町長は、「『けろやま』と読まれることが多いが、もう間違った地名では呼ばせない」と喜びを語った。
毛呂山町は、埼玉県民でもどこにあるか知らない人もいる。鶴ヶ島、坂戸、日高、飯能市、越生町などに囲まれ、人口約3万6千人。農業用灌漑貯水池「鎌北湖」があり、武者小路実篤がつくった「新しき村」が現在も細々と残っている。埼玉医科大学の所在地でもある。
ゆずは日本で最古の産地のひとつで、江戸後期の『新編武蔵風土記稿』に、滝ノ入地区(当時は瀧野入村)の土産として「桂木ゆず」の銘柄で全国に名を売ったという記録がある。昭和30年代には全国有数の産地となった。最近、復活の取り組みが始まっている。
スポーツ万能の両親の間に毛呂山町で育った大也選手は、5歳の頃から「JSS毛呂山スイミングスクール」に通い始め、泉野小、毛呂山中、水泳の強豪・埼玉栄高校(さいたま市西区)を卒業するまで、週6日通い続けた。埼玉栄では3年で競泳部の主将を務めた。大阪市に本社があるJSSは現在、全国に86のスイミングスクールを持ち、150万人の会員実績があるという。
大也選手は小学6年だった06年、浜松市で毎年開かれている「とびうお杯全国少年少女水泳競技大会」に招待選手として、50m背泳ぎで優勝した。
全国から小学生の強豪が集まる大会で、これまで五輪金メダルの岩崎恭子、北島康介選手も出場している。
ロンドン五輪選考会となった12年の日本選手権で、400、200mとも3位に終わり、五輪出場はならず、人目をはばからず泣いた。
この2種目で優勝したのは、小学校時代からのライバル荻野公介選手(18歳 東洋大1年 栃木県小山市出身)で、ロンドンで銅メダルを得た。
大也選手は15年8月9日、ロシアのカザニで開かれた水泳世界選手権の400m個人メドレーでも4分8秒50で優勝した。日本選手が世界選手権で連覇したのは史上初めて。16年のリオデジャネイロ五輪代表に内定した。ライバルの荻野選手は開幕前に右腕を骨折し、出場しなかった。
大也選手は、身長174cm、体重70kgと水泳選手としてはやや小柄で、手足も短いが、バタフライと平泳ぎに強い。
16年のリオ五輪では、400m個人メドレーで念願の銅メダルを獲得した。荻野選手は金メダル。競泳の同一種目で日本選手二人が表彰台に立つのは、60年ぶりの快挙だった。