やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

邪馬壹国(2)

2006-11-03 20:10:32 | 古代史
 さて、邪馬台国近畿説・九州説を問わず、「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」式の「共同改訂」が三つあるといいました。

 まずそのうちの一つ、倭国の位置は「その道里を計るに、まさに会稽東治の東にあるべし」の「東治(とうち)」は「東冶(とうや)」の間違い…というものでした。この改訂を最初に行った人は、五世紀の宋の范曄(はんよう、「後漢書」を著した)でした。確かに「東冶」という地は、台湾北端の対岸にあります。いまの福建省閩候(びんこう)県の東北、冶山の北になるそうです。なお「会稽東治」とは、「会稽郡+東治県」(秦による郡県制においては、現在のわが国の制度と逆である)ということですから、三世紀当時「会稽郡東治県」と「会稽郡東冶県」のどちらが実在していたのか…を検証すればいいのです。古田先生は、「三国志」をしらみつぶしに調べられました。すると、「呉志」に次を見いだされました。

<(永安三年)会稽南郡を以って建安郡と為す。>
つまり、いまの福建省は、はじめは会稽郡に属していた。しかし永安三年、つまり260年に会稽郡の南部(東冶の地を含む)が別けられて、「建安郡」となった…ことを意味します。しかし五世紀、宋の范曄の時代にはすでに建安郡は廃され、「東冶」はふたたび会稽郡に属していたようです。
范曄は歴史家として、よく調べもせず五世紀現在より類推して、三世紀後半においての「会稽東治は東冶の誤り…」とする致命的なミスを犯したようです。当時「東冶」とするのであれば、「建安東冶」とすべきところ…なのです。
上記の文は、執筆のころの陳寿の地の文(説明・認識の文)に表れますから、当然260年以後の現実の上に立った文だったのです。ですから「東治」であれば、「会稽東治」が正しかったのです。では、「会稽東治」とはどのような意味を持つのでしょうか。前段の文を紹介しましょう。

<男子は大小となく、みな鯨面文身(げいめんぶんしん、顔から身体にいたるまでのいれずみ)す。古より以来、その使い中国に詣(いた)るや、みな自ら大夫(だいぶ)と称す。夏后少康(かこうしょうこう、夏の中興の英主である少康)の子、会稽に封ぜられ、断髪文身(長い髪を切り全身にいれずみ)、以って蛟龍(こうりゅう、さめのような大魚)の害を避けしむ。いま倭の水人、好んで沈没して魚蛤(ぎょこう、魚や貝類)を捕え、文身しまた以って大魚・水禽(すいきん、大きな魚や水鳥)を厭(はら)う。後やや以って飾りと為す。諸国の文身各々異なり、或いは左にし或いは右にし、或いは大に或いは小に、尊卑差あり。その(倭の水人のいる所までの)道里を計るに、まさに会稽東治の東にあるべし。>(魏志倭人伝)
「(三世紀の)いま、倭人は大人となく子供となく全身に刺青をしている。はるか昔より中国に使いする倭人は、昔の中国の爵位「卿、大夫、士」のうち倭王の臣であることを示す「大夫」を名乗っている。中国では廃れたが、はるかな倭国では生きていたのだなあ。
それはそうと、古に夏后少康の子が会稽に封ぜられて統治された。そしてその民が蛟龍の害に悩まされているのを見て、断髪分身して害を避ける方法をお教えになった。いま倭人の鯨面分身の風習は、その教えが伝わったものであろう。いま倭人のそれは、やや身分・所属を表すものとなっているようだ。
さて会稽は、夏王朝の始祖「禹(う)帝」が諸侯を集めて「五服の制」を定められたところだ。会稽は夏の都より見て東の地ゆえに、「会稽の東治」という。かつまた、夏后少康の子が統治された地でもある。倭人のいるところは、まさに中国にとって由緒ある会稽東治の東にあるのだ。」と、これが文意だそうです。
ですから「郡-県」の変遷より見ても、「夏后少康の子」の統治の故事より見ても、決して「会稽東冶」ではなく「会稽東治」でなければならないのです。

 さて次ぎは、卑弥呼(古田先生はこれを「ヒミカ」と読まれます)の魏への第一回目の使いの年次です。「景初二年六月、倭の女王、大夫難升米らを遣わし、(帯方)郡に詣(いた)り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守(郡の長官)劉夏(りゅうか)、吏を遣わし、以って送りて京都に詣らしむ。」の、「景初二年」が「三年」の誤り…というものです。
誤りとした最初の人は、新井白石だったそうです。その理由は、「遼東の公孫淵(こうそんえん)が滅びたのは、二年八月だ。六月はまだ戦の最中ということになる。戦中の使い…などは、とうてい不可能だ」というにあるようです。帯方郡の郡衙はいまのソウル付近にあり、当時は公孫氏の支配下にあったそうです。
一方松下見林は、「日本書紀神功紀に「景初三年」とある。よって「二年」は誤りである」と一刀両断しました。つまり、「三国志」より後代史料が採用され、明治の学者いやいまの学者に至るまでこれを踏襲しているのです。
 古田先生によれば、倭人伝に次の五つの不思議があるそうです。(1)帯方郡の太守劉夏は、吏(護衛の部隊だろう)を付けて使いを京都(洛陽)に送っている。倭国としては、初めての使いではないのだが…。(2)後で出てくるが、このときの使いは難升米と都市牛利の二人だけであり、貢も「男生口四人・女生口六人、斑布二匹二丈」のみであった。何という貧弱な貢か、107年の帥升王の貢に比べても、その後の使いの貢に比べても…。(3)それに対し魏の明帝の喜びよう、お返しの品々のなんと豪華なこと…、しかも「汝の好物」として卑弥呼個人への土産もあった…。持参した貢とのこの不釣合いは何だ…。(4)その年の十二月、明帝の詔勅が出され、「倭人伝」に長々と載せてある。これは、他の夷蛮伝に比べても大いに異例だ。(5)詔勅によれば、これら下賜品は「みな操封して」使いに持たせる予定であった。しかしそれは実行されなかった。二年後の「正始元年」に、「建中校尉の梯儁(ていしゅん)」が持って倭国に来て、女王卑弥呼に拝謁して渡している。それは何故か…。
この不思議は「景初三年」とすれば解けるのか、あるいはやはり「景初二年」でなければならないのか…。これを解く前に、魏王朝のありようを帝紀より見てみましょう。

<(景初)二年春正月、大尉司馬宣王に詔して、衆を帥(ひき)いて遼東を討つ。>(魏志明帝紀)
明帝は公孫淵(こうそんえん)討伐の詔勅を発し、司馬懿(しばい)に軍の統率を委ねました。公孫氏は魏より遼東太守に任じられていましたが、十年ほど前に自立して国名を「燕(えん)」としまた元を「紹漢(漢を継ぐ…の意)」と建てたのです。漢を継いだのは我だ…という自負を持つ魏は、これをとうてい座視することはできなかったのです。

<(景初二年秋八月)…司馬宣王、公孫淵を襄平に囲み、大いにこれを破る。淵の首を京都に伝え、海東の諸郡平らかなり。>(同上)
八月についに淵を破ったことは、六月はまだ戦の最中だったことになります。

<(景初二年)十二月…、帝、寝疾不豫。…帝の疾に及び、飲水験(しるし、ききめ)無し。>(同上)
十二月、明帝は突然倒れ、薬も効き目がなく急激に悪化したようです。しかし「倭人伝」に記された明帝の詔勅は、当然事前に用意されていたものでしょう。

<(景初)三年正月、…即日、嘉福殿に崩ず(同上)。景初三年正月…、帝、病甚だし。すなわち立ちて、皇太子たり。この日、皇帝の位に即く。>(魏志斉王紀)景初三年の正月、早くも明帝は死んだのです。すぐ皇太子の斉王が即位しました。そして一年間の喪に服したのです。

<(景初三年)十二月、詔して曰く、「烈祖明皇帝、正月を以って天下を棄背し、臣子永く忌日の哀をおもう。それまた「夏正」を用いよ。…それ…の月を以って正始元年正月と為し…。>(魏志三少帝紀)
その年の暮れ、斉王は詔勅を発し、「先帝の喪に一年間服していたが、年も改まるから停止していた諸公事を始め、また年号も正始とする」と宣言しました。

 と、今回はここまでにしましょう。後は次回のお楽しみ…。第一の共同改訂、間違いだったこと…納得いただけましたでしょうか。