台風(9号)一過で、今朝の風のさわやかだったこと…。ようやく秋の気配が実感され始めましたね。みなさま、いかがお過ごしでしょうか。(7日朝!)
さてわたしの「やさしい古代史」ブログ、今回の「番外編(22)」でいったん終らせていただきます。
最後に、わたしは古田先生解釈によるわが国歌『君が代』を取り上げたいと思います。古今和歌集、第七巻343番歌「題知らず、読み人知らず」のあれです。
<わがきみは 千代にやちよに さざれいしの
いはほとなりて こけのむすまで>
国歌として歌われる「君が代」は、上記古今和歌集の歌とは初句の「わがきみは」を違わすのみであとは同じですね。意味は同じでしょう。
この歌は通説の如く、近畿大和王朝の王(いわゆる天皇)を寿ぐ歌でしょうか。それであれば、何故「題知らず、読み人知らず」なのでしょうか。誰にも遠慮することはないではありませんか。
この歌は、近畿大和王朝胎内で詠われた歌ではないのではないか。このような疑問から、古田先生やその説に賛同される方々の探求が始まりました。
「君が代」は九州王朝の讃歌 市民の古代・別巻2(新泉社)
「君が代」、うずまく源流 市民の古代・別巻3(新泉社)
「君が代」を深く考える (五月書房)
古田先生らによる上記著書を参照ください。
古今和歌集の「わがきみは」の歌は、大和王朝胎内で「万葉集」成立後に詠われた…という解釈が一般的だそうです。しかし本当にそうか。近畿王朝内の歌人であれば、万葉集から古今和歌集成立の約百年の間に、「題」や「読み人」が忘れられて「…知らず」となるのだろうか。
古賀達也氏(市民の古代研究会・大阪)は、「君が代」によく似た歌として、万葉集巻二にある次の歌を挙げられました。(通説は岩波新大系本による)。
和銅四年(711年)…、河辺宮人の、姫島の松原に嬢子(をとめ)の
屍(かばね)を見て、悲嘆して作りし歌二首
妹が名は 千代に流れむ 姫島の
小松が末に 苔むすまでに (228番歌)
(美しい乙女の評判は千代までも伝わるであろう、姫島の小松(が大
松になって)の梢に下がり苔が生える千年万年の後までも)
難波潟(なにはがた) 潮干(しほひ)なありそね 沈みにし
妹が光儀(すがた)を 見まく苦しも (229番歌)
(難波潟よ潮の干るということがあってくれるな、水に沈んだ乙女の
姿を見るのはつらい)
通説では作歌者を「河辺宮人」という名の歌人とし、作歌場所をいまの大阪の難波…としています。詳しい論証は「『君が代』、うずまく源流」にゆずりますが、結論だけをお知らせしましょう。
河辺宮人:人名ではなく、(福岡県)志麻郡の川辺の宮に仕えた官人とする。
志麻郡:鶏永・志麻・久米・川辺・明敷・韓良・登志郷(和名抄)
参考に、次の歌を挙げる。
<高光る 倭が日の皇子の 万代(よろづよ)に
国知らさまし 島の宮はも> (万葉171番)
((高光る)我が日の皇子が、永久に御世を治められるはずであった
この島の宮は、ああ)
「島の宮」は蘇我馬子の邸宅であったが、馬子滅亡後天皇家のものにな
った…として、作歌場所を大和飛鳥と通説はいう。そこに住んだ草壁皇
子の死を悲しんだ舎人たちの歌(170-193番まで24首ある)とするが、
悲しみが伝わるか。
「高光る我が皇子」とは皇子にして"白村江の戦い"で亡くなった九州王
朝の明日香皇子ではないか。その皇子の宮が「島=志麻」にあったの
だ。そう解釈すれば、その死を悼む思いがひしひしと伝わるではない
か…。「島の宮」と「川辺の宮」は同じなのだ!
姫島:難波の姫島ではなく、糸島半島の西にある姫島(天の一つ根)だ。
千代:何千年も…という時間ではなく、地名。福岡県庁の南にあたり、筥崎宮
よりは1km強南。海岸は"千代の松原"といわれていた。因みに灰塚照明
氏(市民の古代研究会・福岡。もと警察官)によれば、現役時代に糸島
半島あたりの溺死体は博多湾岸の志賀島に流れ着いたのをよく見た…と
のこと。この歌も、地名としての"千代"に流れ着いた…というのではな
いか…。
小松が末:これも地名。前原市の西、二丈町深江のすぐ東に"松末"があり、現
地には"小松末"もある…と。松の梢…ではない。
苔むす:志麻町船越桜谷神社の祭神に「苔牟須売神(こけむすめのかみ)」が
あり、何らかの関連(この神を歌い込んだ…など)をうかがわせる。
難波(潟):ある人の調査によると、福岡市城南区にある福岡大あるいは近く
の地名"片江"や"堤"の南に、その昔「難波池」と呼ばれるところがあり
湿地帯をなしていたという。このあたりまで海岸線が下りてきていたの
か、あるいはその名残があったのか…。いずれにせよ、大阪の"難波"と
決め付けることは出来ない。("片江"は“潟江"か?)
光儀(すがた):いわゆる「死体」を「光儀」で表現しているのであるが、こ
の用語は「美しく尊い人」に対する謂いだそうだ。そうすればここで詠
われている「妹(いも)」といわれる人は、「尊い女性」であろう。
(つまり「縄文時代の女王、イワナガ姫」ではないか。)
この二首は、実態のはっきりしない非常に難解な歌…といわれているそうです(上記解釈でわかりますか?)。結論を言いましょう。
この作者"川辺宮人"(おそらくは九州王朝の官人で、名はわかっていた。だが、万葉編者は隠したかった)は、長らく九州王朝内で歌われてきた『君が代』を知っていた。そのモチーフ(歌の中に地名を取り込みながら、寿ぎの歌や悲しみの歌を詠う)を生かして、縄文から弥生に移り変わるときの"イワナガ姫"説話(岩波古事記上巻"邇邇芸命"条"5.木花佐久夜毘売"(p131))を詠った。縄文の島「姫島=天の一つ根」あたりで亡くなった(イワナガ姫になずらえた)死体は、福岡湾岸の千代あたりまで流れることを承知していた。そしてその地は、また「君が代」にも歌い込まれた地であることも…。つまり縄文の"女性上位"時代から、弥生の"男性上位"時代に変わったことを詠ったのだ。
どうも「君が代」は、奈良の官人には知られていた(教養の基となっていた)のではないでしょうか。これほど博多湾岸に散らばる地名が詠み込まれていたため、古田先生とそのグループの方々の探求により、この「君が代」は志賀島の「志賀海神社」で行われる「山ほめ祭り」で"述べられて"いる…ことがわかりました(「君が代」は九州王朝の讃歌)。祭りの第四部で「あららよい山茂った山」の第一声で、次が読まれるのだそうです。
禰宜二良(櫓を執る)
君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりてこけのむすまで
あれはやあれこそは我君のめしのみふねかや
うつつらがせ身骸に命千歳とゆう花こそ咲いたり
沖の御津の汐早にはえたらん釣尾にくわざらん
鯛は沖のむれんだいほや
別当一良
志賀の浜長きを見れば幾世経ぬらん
香椎路に向いたるあの吹上の浜千代に八千代まで
今宵夜半につき給う御船こそ、たが御船なりけるよ
あれはやあれこそは安曇の君のめしたまう御船になりけるよ
ゆるかよゆるか 汐早のゆるか 磯良が崎に鯛つるおきな
最初のフレーズにいまの国歌とまったく同じ「君が代」が出てくるのですが、一読して地名のオンパレードであることがわかりますね。また「山ほめ」ではなく、「海ほめ」みたいなお祭りです。これは「我君」のおいでになる船を見ての、喜びの歌なのですね。では我君は、どこから来られるのでしょうか。歌にあるように、「香椎路に向かいたるあの吹き上げの浜千代」から来られるのです。
「君が代」と歌われた「我君」あるいは「安曇の君」とは、当地の王者「筑紫の君」ではないでしょうか。決して近畿大和王朝の王者ではないのです。
さて「君が代」の歌を、裸にしてみましょう。
千代:先ほども言いました福岡県庁の南の地ですね。海岸には「千代の松原」
があったそうです。"八千代"というのは、"千代"の美称でしょう。しか
し地名であって、その後ろには「何千年も…」という時間も隠されてい
ます。
さざれ石:普通「細かい石、礫石、じゃり石」と理解されていますが、「細」
の意味は「神聖な、神の」ということのようです。例えば志賀海神社の
祭りに出てくる「細男(せいのう)」は、決して"細い男、細かい男"で
はなく、「神聖な男、司祭者」を意味するようです。また糸島郡の今山
の麓にある「細語橋(ささやきばし)」は"細かい言葉、ひっそりした
(内緒)話"ではなく、「神聖な言葉、神の言葉」という意味ではない
でしょうか。ですから「さざれ石・細石」は、「神聖な石、人間の力の
及ばざる石、淵源の石」という意味でしょう。
思い出されるのは、"縄文の巨石信仰文化、イワナガ姫に代表されるそ
の文化の壊滅"ですね。そして下記に述べます三雲・井原の近くに「細
石神社」もあるのです。ちゃんと歌い込まれていました。
いは(わ)ほ、いわお:前原市の三雲の南に「井原」があり、「いわら」と発
音するのだそうです。これで古田先生は、「君が代」の中の「いはほ
(いわお)となりて」の意味が解けた…と思われました。「いわら」は
「岩羅」であり、上記にもある「磯良(羅)」や「早良(澤羅)」と軌
を一にした謂いである…と。つまり「ら」は地名接尾語であり語源は
「いは(いわ)」、つまり「いはほとなりて」の中に「井原」が歌いこ
まれてあるのだ…と。この「ほ・秀」も接尾語ですね。
こけのむす:糸島半島の志摩町船越に、「桜谷神社」があります。その祭神に
「苔牟須売神(こけむすめのかみ)」があります(前述)。当然「苔の
生(む)すまで」という"永久の時間"を歌ったとき、この神社の祭神を
取り入れたのです。
またこの神は「苔牟須(こけむす)・売神(めがみ)」と分解すれば、
いわゆる"縄文の女神"と目していいのではないでしょうか。
古田先生は、「この歌は女性上位であった縄文文化を破壊し、男性上位となりつつある弥生の時代、つまりその過渡期に作られた」とされました。金属器は出てこない(我君は矛を持って…などの思想はない)、しかし地名を歌い込んだ中にも「さざれ石」が「巌(いわお)」となる…のようにいまの思想にも通ずるものがあると、わたしは思います。
この歌が明治の初期、日本の国歌となるまでのいきさつは上記著書によります。かいつまんで言えば、(長い間筑紫王朝内で"述べ"続けられてきた)「君が代」はまず「古今和歌集」に採られ、「和漢朗詠集」などいろんなところに取り込まれた結果、薩摩琵琶歌「蓬莱山」を経て国歌として推奨されたのだそうです。
つまり全国に広まり、貴人を寿ぐ普遍的な歌…と理解されていたのでしょう。単に一地方の豪族にはあらず、筑紫王朝の「筑紫の君」を寿ぐ歌だったからこそ普遍性があったのです。
これほど当地の地名や神の名を歌の中に取り込み、かつ「我君」を寿ぐ歌に仕上げる…、たいした(民衆の)腕です。おそらく一人の作者にあらず、長い年月述べ続けられ、その間に贅肉がそぎ落とされたのではないでしょうか。
万葉集228番および229番歌を詠った「川辺宮人」は、この九州王朝の「君が代」を知っていた。それに倣って、やはり地名を歌い込みながら遠き「イワナガ姫」物語を歌った(題に作歌時は和銅四年(711年)とあり、「古事記」が上梓されたのが和銅五年(712年)であるから、川辺宮人は古事記の内容を(共通の知識として)知っていた…と考えられる)。いかが思われますか。
今度は後代の「続古今和歌集九」の歌を、灰塚さんが紹介されました。
<君が代の はるかに見ゆる 旅なれば
祈りてぞ行く 生の松原> (太宰大弐高遠)
この歌は大和の官人が筑紫(太宰府)へ、公用で旅したときの作歌でしょう。「生の松原」は、福岡市の西区の"元寇防塁"史跡の近くにあります。ですから博多湾岸の東には"千代の松原"が、そして西には"生の松原"があることになります。
大和の官人は、能古島の西を通って那の津に入港しようとしているのでしょうか。そして古今和歌集の「わがきみは」、あるいは山ほめ祭りの「君が代は」を知っていた。ですから無事船旅を終えることが出来た喜びと、はるか昔"九州王朝"があったことを知っていて「君が代の はるかに見ゆる」と詠ったのでしょう。この場合の"君"はやはり"筑紫の君"であり、その君臨されていた御世が"はるかに見ゆる”ということでしょう。
これまで長きに亘り、古田先生の唱えられた説「日本の古代史は、弥生の初め(紀元前200年当たりか)ころまでは出雲にあった出雲王朝、その後七世紀終末(700年)までは九州に"筑紫王朝、引いては九州王朝"が存在したことを前提にしなければ解明できない」を紹介してまいりました。出来る限りやさしく…と思いましたが、わたしの理解不足と文章力の稚拙さが相俟って、みなさまにご理解いただけたかどうか…非常に心配です。
これら王朝は唯一つで存在していたわけではなく、この列島の到るところにその地の主権はありました。琉球・薩摩・日向・豊・安芸・吉備・大和・信濃・吾妻・東日流(津軽)…などなど、いま縄文や弥生の遺跡があるところに主権があったと考えられます。
これを「近畿天皇家一元史観」に対する概念として、古田先生は「多元史観」と名づけられました。
しかし中国の歴代王朝や半島の国々から、この列島の主権者と認められていたのは「筑紫王朝、九州王朝」だけであった…ということです。近畿大和王朝に先行して「筑紫・九州王朝」があった…のです。しかし唐の則天武后に列島の主権者として認められたことにより、元を「大宝(元年、701年)」と建て、いよいよ列島を代表する唯一の主権者になったのです。
では皆さん、長い間ありがとうございました。
チャンスがあれば、今度は「物語」のブログを発足させるつもりです。題名としては、「セブリヤコ」かなあ。お楽しみに…。
さてわたしの「やさしい古代史」ブログ、今回の「番外編(22)」でいったん終らせていただきます。
最後に、わたしは古田先生解釈によるわが国歌『君が代』を取り上げたいと思います。古今和歌集、第七巻343番歌「題知らず、読み人知らず」のあれです。
<わがきみは 千代にやちよに さざれいしの
いはほとなりて こけのむすまで>
国歌として歌われる「君が代」は、上記古今和歌集の歌とは初句の「わがきみは」を違わすのみであとは同じですね。意味は同じでしょう。
この歌は通説の如く、近畿大和王朝の王(いわゆる天皇)を寿ぐ歌でしょうか。それであれば、何故「題知らず、読み人知らず」なのでしょうか。誰にも遠慮することはないではありませんか。
この歌は、近畿大和王朝胎内で詠われた歌ではないのではないか。このような疑問から、古田先生やその説に賛同される方々の探求が始まりました。
「君が代」は九州王朝の讃歌 市民の古代・別巻2(新泉社)
「君が代」、うずまく源流 市民の古代・別巻3(新泉社)
「君が代」を深く考える (五月書房)
古田先生らによる上記著書を参照ください。
古今和歌集の「わがきみは」の歌は、大和王朝胎内で「万葉集」成立後に詠われた…という解釈が一般的だそうです。しかし本当にそうか。近畿王朝内の歌人であれば、万葉集から古今和歌集成立の約百年の間に、「題」や「読み人」が忘れられて「…知らず」となるのだろうか。
古賀達也氏(市民の古代研究会・大阪)は、「君が代」によく似た歌として、万葉集巻二にある次の歌を挙げられました。(通説は岩波新大系本による)。
和銅四年(711年)…、河辺宮人の、姫島の松原に嬢子(をとめ)の
屍(かばね)を見て、悲嘆して作りし歌二首
妹が名は 千代に流れむ 姫島の
小松が末に 苔むすまでに (228番歌)
(美しい乙女の評判は千代までも伝わるであろう、姫島の小松(が大
松になって)の梢に下がり苔が生える千年万年の後までも)
難波潟(なにはがた) 潮干(しほひ)なありそね 沈みにし
妹が光儀(すがた)を 見まく苦しも (229番歌)
(難波潟よ潮の干るということがあってくれるな、水に沈んだ乙女の
姿を見るのはつらい)
通説では作歌者を「河辺宮人」という名の歌人とし、作歌場所をいまの大阪の難波…としています。詳しい論証は「『君が代』、うずまく源流」にゆずりますが、結論だけをお知らせしましょう。
河辺宮人:人名ではなく、(福岡県)志麻郡の川辺の宮に仕えた官人とする。
志麻郡:鶏永・志麻・久米・川辺・明敷・韓良・登志郷(和名抄)
参考に、次の歌を挙げる。
<高光る 倭が日の皇子の 万代(よろづよ)に
国知らさまし 島の宮はも> (万葉171番)
((高光る)我が日の皇子が、永久に御世を治められるはずであった
この島の宮は、ああ)
「島の宮」は蘇我馬子の邸宅であったが、馬子滅亡後天皇家のものにな
った…として、作歌場所を大和飛鳥と通説はいう。そこに住んだ草壁皇
子の死を悲しんだ舎人たちの歌(170-193番まで24首ある)とするが、
悲しみが伝わるか。
「高光る我が皇子」とは皇子にして"白村江の戦い"で亡くなった九州王
朝の明日香皇子ではないか。その皇子の宮が「島=志麻」にあったの
だ。そう解釈すれば、その死を悼む思いがひしひしと伝わるではない
か…。「島の宮」と「川辺の宮」は同じなのだ!
姫島:難波の姫島ではなく、糸島半島の西にある姫島(天の一つ根)だ。
千代:何千年も…という時間ではなく、地名。福岡県庁の南にあたり、筥崎宮
よりは1km強南。海岸は"千代の松原"といわれていた。因みに灰塚照明
氏(市民の古代研究会・福岡。もと警察官)によれば、現役時代に糸島
半島あたりの溺死体は博多湾岸の志賀島に流れ着いたのをよく見た…と
のこと。この歌も、地名としての"千代"に流れ着いた…というのではな
いか…。
小松が末:これも地名。前原市の西、二丈町深江のすぐ東に"松末"があり、現
地には"小松末"もある…と。松の梢…ではない。
苔むす:志麻町船越桜谷神社の祭神に「苔牟須売神(こけむすめのかみ)」が
あり、何らかの関連(この神を歌い込んだ…など)をうかがわせる。
難波(潟):ある人の調査によると、福岡市城南区にある福岡大あるいは近く
の地名"片江"や"堤"の南に、その昔「難波池」と呼ばれるところがあり
湿地帯をなしていたという。このあたりまで海岸線が下りてきていたの
か、あるいはその名残があったのか…。いずれにせよ、大阪の"難波"と
決め付けることは出来ない。("片江"は“潟江"か?)
光儀(すがた):いわゆる「死体」を「光儀」で表現しているのであるが、こ
の用語は「美しく尊い人」に対する謂いだそうだ。そうすればここで詠
われている「妹(いも)」といわれる人は、「尊い女性」であろう。
(つまり「縄文時代の女王、イワナガ姫」ではないか。)
この二首は、実態のはっきりしない非常に難解な歌…といわれているそうです(上記解釈でわかりますか?)。結論を言いましょう。
この作者"川辺宮人"(おそらくは九州王朝の官人で、名はわかっていた。だが、万葉編者は隠したかった)は、長らく九州王朝内で歌われてきた『君が代』を知っていた。そのモチーフ(歌の中に地名を取り込みながら、寿ぎの歌や悲しみの歌を詠う)を生かして、縄文から弥生に移り変わるときの"イワナガ姫"説話(岩波古事記上巻"邇邇芸命"条"5.木花佐久夜毘売"(p131))を詠った。縄文の島「姫島=天の一つ根」あたりで亡くなった(イワナガ姫になずらえた)死体は、福岡湾岸の千代あたりまで流れることを承知していた。そしてその地は、また「君が代」にも歌い込まれた地であることも…。つまり縄文の"女性上位"時代から、弥生の"男性上位"時代に変わったことを詠ったのだ。
どうも「君が代」は、奈良の官人には知られていた(教養の基となっていた)のではないでしょうか。これほど博多湾岸に散らばる地名が詠み込まれていたため、古田先生とそのグループの方々の探求により、この「君が代」は志賀島の「志賀海神社」で行われる「山ほめ祭り」で"述べられて"いる…ことがわかりました(「君が代」は九州王朝の讃歌)。祭りの第四部で「あららよい山茂った山」の第一声で、次が読まれるのだそうです。
禰宜二良(櫓を執る)
君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりてこけのむすまで
あれはやあれこそは我君のめしのみふねかや
うつつらがせ身骸に命千歳とゆう花こそ咲いたり
沖の御津の汐早にはえたらん釣尾にくわざらん
鯛は沖のむれんだいほや
別当一良
志賀の浜長きを見れば幾世経ぬらん
香椎路に向いたるあの吹上の浜千代に八千代まで
今宵夜半につき給う御船こそ、たが御船なりけるよ
あれはやあれこそは安曇の君のめしたまう御船になりけるよ
ゆるかよゆるか 汐早のゆるか 磯良が崎に鯛つるおきな
最初のフレーズにいまの国歌とまったく同じ「君が代」が出てくるのですが、一読して地名のオンパレードであることがわかりますね。また「山ほめ」ではなく、「海ほめ」みたいなお祭りです。これは「我君」のおいでになる船を見ての、喜びの歌なのですね。では我君は、どこから来られるのでしょうか。歌にあるように、「香椎路に向かいたるあの吹き上げの浜千代」から来られるのです。
「君が代」と歌われた「我君」あるいは「安曇の君」とは、当地の王者「筑紫の君」ではないでしょうか。決して近畿大和王朝の王者ではないのです。
さて「君が代」の歌を、裸にしてみましょう。
千代:先ほども言いました福岡県庁の南の地ですね。海岸には「千代の松原」
があったそうです。"八千代"というのは、"千代"の美称でしょう。しか
し地名であって、その後ろには「何千年も…」という時間も隠されてい
ます。
さざれ石:普通「細かい石、礫石、じゃり石」と理解されていますが、「細」
の意味は「神聖な、神の」ということのようです。例えば志賀海神社の
祭りに出てくる「細男(せいのう)」は、決して"細い男、細かい男"で
はなく、「神聖な男、司祭者」を意味するようです。また糸島郡の今山
の麓にある「細語橋(ささやきばし)」は"細かい言葉、ひっそりした
(内緒)話"ではなく、「神聖な言葉、神の言葉」という意味ではない
でしょうか。ですから「さざれ石・細石」は、「神聖な石、人間の力の
及ばざる石、淵源の石」という意味でしょう。
思い出されるのは、"縄文の巨石信仰文化、イワナガ姫に代表されるそ
の文化の壊滅"ですね。そして下記に述べます三雲・井原の近くに「細
石神社」もあるのです。ちゃんと歌い込まれていました。
いは(わ)ほ、いわお:前原市の三雲の南に「井原」があり、「いわら」と発
音するのだそうです。これで古田先生は、「君が代」の中の「いはほ
(いわお)となりて」の意味が解けた…と思われました。「いわら」は
「岩羅」であり、上記にもある「磯良(羅)」や「早良(澤羅)」と軌
を一にした謂いである…と。つまり「ら」は地名接尾語であり語源は
「いは(いわ)」、つまり「いはほとなりて」の中に「井原」が歌いこ
まれてあるのだ…と。この「ほ・秀」も接尾語ですね。
こけのむす:糸島半島の志摩町船越に、「桜谷神社」があります。その祭神に
「苔牟須売神(こけむすめのかみ)」があります(前述)。当然「苔の
生(む)すまで」という"永久の時間"を歌ったとき、この神社の祭神を
取り入れたのです。
またこの神は「苔牟須(こけむす)・売神(めがみ)」と分解すれば、
いわゆる"縄文の女神"と目していいのではないでしょうか。
古田先生は、「この歌は女性上位であった縄文文化を破壊し、男性上位となりつつある弥生の時代、つまりその過渡期に作られた」とされました。金属器は出てこない(我君は矛を持って…などの思想はない)、しかし地名を歌い込んだ中にも「さざれ石」が「巌(いわお)」となる…のようにいまの思想にも通ずるものがあると、わたしは思います。
この歌が明治の初期、日本の国歌となるまでのいきさつは上記著書によります。かいつまんで言えば、(長い間筑紫王朝内で"述べ"続けられてきた)「君が代」はまず「古今和歌集」に採られ、「和漢朗詠集」などいろんなところに取り込まれた結果、薩摩琵琶歌「蓬莱山」を経て国歌として推奨されたのだそうです。
つまり全国に広まり、貴人を寿ぐ普遍的な歌…と理解されていたのでしょう。単に一地方の豪族にはあらず、筑紫王朝の「筑紫の君」を寿ぐ歌だったからこそ普遍性があったのです。
これほど当地の地名や神の名を歌の中に取り込み、かつ「我君」を寿ぐ歌に仕上げる…、たいした(民衆の)腕です。おそらく一人の作者にあらず、長い年月述べ続けられ、その間に贅肉がそぎ落とされたのではないでしょうか。
万葉集228番および229番歌を詠った「川辺宮人」は、この九州王朝の「君が代」を知っていた。それに倣って、やはり地名を歌い込みながら遠き「イワナガ姫」物語を歌った(題に作歌時は和銅四年(711年)とあり、「古事記」が上梓されたのが和銅五年(712年)であるから、川辺宮人は古事記の内容を(共通の知識として)知っていた…と考えられる)。いかが思われますか。
今度は後代の「続古今和歌集九」の歌を、灰塚さんが紹介されました。
<君が代の はるかに見ゆる 旅なれば
祈りてぞ行く 生の松原> (太宰大弐高遠)
この歌は大和の官人が筑紫(太宰府)へ、公用で旅したときの作歌でしょう。「生の松原」は、福岡市の西区の"元寇防塁"史跡の近くにあります。ですから博多湾岸の東には"千代の松原"が、そして西には"生の松原"があることになります。
大和の官人は、能古島の西を通って那の津に入港しようとしているのでしょうか。そして古今和歌集の「わがきみは」、あるいは山ほめ祭りの「君が代は」を知っていた。ですから無事船旅を終えることが出来た喜びと、はるか昔"九州王朝"があったことを知っていて「君が代の はるかに見ゆる」と詠ったのでしょう。この場合の"君"はやはり"筑紫の君"であり、その君臨されていた御世が"はるかに見ゆる”ということでしょう。
これまで長きに亘り、古田先生の唱えられた説「日本の古代史は、弥生の初め(紀元前200年当たりか)ころまでは出雲にあった出雲王朝、その後七世紀終末(700年)までは九州に"筑紫王朝、引いては九州王朝"が存在したことを前提にしなければ解明できない」を紹介してまいりました。出来る限りやさしく…と思いましたが、わたしの理解不足と文章力の稚拙さが相俟って、みなさまにご理解いただけたかどうか…非常に心配です。
これら王朝は唯一つで存在していたわけではなく、この列島の到るところにその地の主権はありました。琉球・薩摩・日向・豊・安芸・吉備・大和・信濃・吾妻・東日流(津軽)…などなど、いま縄文や弥生の遺跡があるところに主権があったと考えられます。
これを「近畿天皇家一元史観」に対する概念として、古田先生は「多元史観」と名づけられました。
しかし中国の歴代王朝や半島の国々から、この列島の主権者と認められていたのは「筑紫王朝、九州王朝」だけであった…ということです。近畿大和王朝に先行して「筑紫・九州王朝」があった…のです。しかし唐の則天武后に列島の主権者として認められたことにより、元を「大宝(元年、701年)」と建て、いよいよ列島を代表する唯一の主権者になったのです。
では皆さん、長い間ありがとうございました。
チャンスがあれば、今度は「物語」のブログを発足させるつもりです。題名としては、「セブリヤコ」かなあ。お楽しみに…。
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