やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

番外編(11)

2007-06-12 16:30:26 | 古代史
 先の「九州王朝衰退への道(6)」で、通説では「壬申の乱」に活躍した「高市皇子(たけちのみこ)」への挽歌…と理解されている"万葉199番歌"を紹介しましたね。確かにその表題には「高市皇子尊の城上(きのへ)の殯宮(あらきのみや)の時、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首…」とあります。
しかし古田先生の「歌そのものが第一史料、表題や後書きは第二史料」という命題に従った結果、この"万葉199番歌"は「筑紫と唐・新羅連合軍との"冬の陸戦"を詠んだ歌」ということがわかりました。

 さて今回は、これもまた235番歌や241番歌に勝るとも劣らぬ阿諛追従の歌…と思われる長歌と反歌を紹介しましょう。紹介する順序は、これまでに倣います。
元暦校本:(表題)長皇子遊獦路池之時柿本朝臣人麻呂作歌一首並短歌
   (長歌)八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 馬並而
        三獦立流 弱薦乎 獦路乃小野尓 十六社者
        伊波比拝目 鶉己曾 伊波比廻礼 四時自物
        伊波比拝 鶉成 伊波比毛等保理 恐等
        仕奉而 久堅乃 天見如久 真十鏡 仰而雖見
        春草乃 益目頬四寸 吾於富吉美可聞    (万葉239番歌)
   (短歌)久堅乃 天帰月乎 網尓刺 
          吾大王者 盖尓為有          (万葉240番歌)

通説:(表題)長皇子(ながのみこ)の猟路(かりじ)の池に遊びし時に、柿本朝臣人麻呂の作りし歌一首並びに短歌
   (長歌)やすみしし わが大君 高光る わが日の皇子の 馬並めて み狩立たせる 若薦(こも)を 猟路の小野に 猪鹿(しし)こそは い這ひ拝(をろが)め 鶉(うずら)こそ い這ひもとほれ 猪鹿じもの い這ひ拝み 鶉なす い這ひもとほり 恐(かしこ)みと 仕へまつりて ひさかたの 天(あめ)見るごとく まそ鏡 仰ぎて見れど 春草の いやめづらしき わが大君かも 
   (意味)(やすみしし)わが大君の、(高光る)わが日の皇子長皇子が、馬を並べて狩に出ておられる、(若薦を)猟路の小野に、鹿や猪は膝を折って、這い拝みもしよう、鶉は這い回りもしよう、その鹿・猪のように、膝を折って拝み、その鶉のように、這い回り謹み畏(かしこ)まってお仕え申し、(ひさかたの)天空を見るように、(まそ鏡)仰ぎ見ているが、(春草の)ますますもってお慕わしい、わが大君よ。
   (解説)歌は、若々しい皇子を賛美する終りの三句に収斂して行く。この時の猟が春の季節の行われたこと、枕詞「春草の」の使用を通じて知りえる。(中略)「しし(猪鹿)」の原文「十六」は九九による表記。(後略)

   (短歌)ひさかたの 天行く月を 網に刺し
           わが大君は 蓋(きぬがさ)にせり
   (意味)(ひさかたの)天空を行く月を網に捕えて、わが大君は蓋(きぬがさ)にしている。
   (解説)月下の宴、狩猟という場に合わせて、「網に刺し」の一句を用いたところが作者の技倆である(佐竹『万葉集抜書』)。「蓋」は貴人の頭上に差し掛ける長柄の大傘。その円形を月に見たて、皇子の威光を称えた。第三句「わが大君は」に「大君は神にしいませば」(235など)の意味が込められている。斉藤茂吉は、この歌の大意を「皇子は神にましますから、かの運行し沈んでいく月をも、網を張って運行できないようにして、やがてそれをそのまま、御自らの円蓋にしたまふのである。というくらいの歌である」と、「大君は神にしませば」の意を補足して説明している(「柿本人麿」評釈篇)。

 どうでしょうか。
古田先生による大意としては、まず長歌「わが大王にして高光る日の皇子であられる貴方さま…長皇子は、馬を並べて狩に立たれた。狩の路に当たる小野の猪や鹿それに鶉たちは、あるいは"這いつくばり"あるいは"這い回って"、拝伏しつつ(狩をする貴方さまに)仕え奉った。天を見るように澄み切った鏡で仰ぎ見ると、春草のようにいかにも目立っていらっしゃるわが大王であられることよ」…と。
次に短歌「天を行くあの月を、地上の網で採って、わが大王は自分の「きぬがさ」にしていらっしゃることよ」。

 そしてこういわれます。「後に掲載するように、各専門家の注釈も大異はない。しかし右を読んで、理性ある人はいかに感ずるか。一言でいえば、「馬鹿馬鹿しい」としか言いようがないのではあるまいか。こんなに肝心の獲物まで"這いつくばり、這い回っている"としたら、そんなだらしのない「追従動物」を獲ってみたって面白くもなんともない。動物園に飼われている動物でさえ、これほど「活力」を抜かれているのをわたしは見たことがない。まして、山野を飛び奔る動物だ。「追従きわまれり」というほかはない。もしこれが本当に人麿の作歌としたら、彼はやはり「天下に稀なる、一大阿諛歌人」、すなはち俗物代表というほかはない。しかし、本当にそうか。」…と。

 そして問題点の抽出と、その回答を次のようにされました。
1)短歌で「天行く、天を行く」と読んだ所の原文は、「天帰」だ。「往」であれば「行く」だが、逆の意味を持つ「帰」を「行く」と訓む…とはならないはずだ。これは万葉集にもある「帰依(きえ)や帰化(きげ)」の「き」と訓むのではないか。「天帰」は「あまぎ」、つまり朝倉郡の「甘木」だ。なぜ素直に「甘木」とせず「天帰」としたのだろう…。この歌に詠われた「わが大王」といわれる本来の主人公は、狩の途中不慮の死を遂げたのだ。その「死」を「天に帰る」と表現し、かつ主人公の領地を示そうとしたのだ。これは「挽歌」である。
2)いま死者はひつぎに入り、捕った獲物を後ろに引きずっている葬送の列なのだ。その姿を人麿は「い這い拝(をろが)み、い這い廻(もとほ)れ」と表現し、「貴方さまに仕え奉っているようだ」と「言ってあげて」慰めたのだ。
3)短歌の「甘木の月」の「月」は、この主人公の家柄を示す「紋章」だ。その紋章のある旗が、ひつぎの上にかけられている。この「月の描かれた旗」を、人麿は「きぬがさ」に見立てたのだ。ひつぎの中の無残な主人公に、「貴方はきぬがさを差していらっしゃるようだ」と例えてあげたのだ。決して追従ではない。狩には、きぬがさなどは持って行かない。
4)あの「冬の陸戦」を詠った「万葉199番歌」、そこで「神山」と歌われた朝倉郡の「麻氐良布(まてらふ)山」、そこの「麻氐良布神社」には「明日香皇子」(太宰管内志)とともに「月夜見尊」も祀られているそうだ。この地の「月の紋章」は、この古信仰と関連があるかもしれない。近隣には「秋月」もある。
5)長歌に最初にある「猪鹿(しし)こそは」の原文は、「十六社者」である。「16=4×4」で「十六を"しし"」と読む。「社」は「こそ」だ。でも次の「猪鹿じもの」の原文は「四時自物」だ。どうして最初は「十六社」を使ったのだろう。それは糸島郡雷山村(雷山自体も)や筑紫郡岩戸村などにある「十六天神社」と関係があるのではないか。(祭神は「埴安命」だそうだ)。人麿はこれを知っていて、「十六社」という判じ字を使ったのだろう。
6)ではなぜか。この雷山周辺は、「筑紫王家の墓域」だったのではないか。この主人公のひつぎは、雷山を目指しているのだ。人麿は「猪鹿こそは」に「十六社者」を使うことによって、そのことを暗示・示唆したのだ。
7)先に紹介した「万葉235番歌および241番歌」は、いずれも作歌場所を「雷山」としたとき、阿諛追従の歌と思われていたのが生き生きとした秀歌であることがわかった。この「万葉239番歌および240番歌」は、上記「241番歌」の直前にあるのだ。歌そのものに立ち返ってみると、必然的にこの「239、340番歌」も作歌場所は「雷山」とならざるを得なかったのだ。しかも「241番歌」の表題は「或る本の反歌一首」であり、「239番歌」の反歌でもあったのだから…。げに恐ろしきは、「表題や後書きに従い歌を理解すること…」である。

 人麿の九州王朝の王者たちに対する挽歌("庵らせる"歌、"海鳴り"の歌など)は、秀歌であったが故に、平城京の貴人たちに愛されたのでしょう。しかしそのままでは、「九州王朝の隠滅」という一大プロジェクトは破綻します。それで万葉集編纂時に、その状況にふさわしい(と思われる)人物へと「偽構」し「変修」して、採用・盗用したのです。
「歌そのものが第一史料、表題・後書きは第二史料…」、肝に銘じましょう。