禅定において、ダンマを見るということもなく、ダンマを体得するということもなく、ただひたすらに、ダンマ・如来の独り働き。ダンマ・如来に任せるということもない。ただひたすらに、ダンマ・如来の独り働き。
これが終地の禅定の基本である。
まったく何もしない。そのままがダンマ・如来の独り働きとなっている。何もしないこと。ひたすら何もしないこと。
ダンマ・如来はひたすら働いている。ありとあらゆるものを目覚めさせようと。
すべては如来さまがしてくださる。少しの【私】があってはならない。だから、その働きに従うということもない。
自己放棄。すべてを捨ててしまっている。だから、捨てるということもない。
目覚めるということもない。目覚めさせられているということない。
ただひたすらに、ダンマ・如来が働いているのである。
これが如来の働きである。われわれが知ろうと知るまいと。そのようにしておられるのである。
われわれが禅定においてすべきことは、そのようであることである。
玉城康四郎のいうように、自分の力で禅定に入るということはそもそもありえない。如来の働きによってこそ、可能である。しかし、それも真に正しくない。
如来の働きが禅定であるからである。
ただひたすらに如来の独り働きであることが真の禅定なのである。
われわれはそれを体で学ばなければならない。
その本当の意味を知ることはそう簡単ではない。
それを自らの工夫して探究していくよりほかない。
ほんのちょっと、偶然に、ダンマらしきものを体験しただけで、喜んでいる場合ではない。
少し名が知れた、ある仏教者のなかに、それを自慢している人がいるようである。
はやく、玉城康四郎に追いつこうと性急になりすぎて、まだまだ未熟であるにもかかわらず、それを自覚せず、少しは追いついたような気でいるのかもしれない。その言動を知り、私にはそう思えた。
これから学ぼうとする人たちは、そのような過ちに陥らず、ひたすらに探究し続けていくべきではないだろうか。
これが終地の禅定の基本である。
まったく何もしない。そのままがダンマ・如来の独り働きとなっている。何もしないこと。ひたすら何もしないこと。
ダンマ・如来はひたすら働いている。ありとあらゆるものを目覚めさせようと。
すべては如来さまがしてくださる。少しの【私】があってはならない。だから、その働きに従うということもない。
自己放棄。すべてを捨ててしまっている。だから、捨てるということもない。
目覚めるということもない。目覚めさせられているということない。
ただひたすらに、ダンマ・如来が働いているのである。
これが如来の働きである。われわれが知ろうと知るまいと。そのようにしておられるのである。
われわれが禅定においてすべきことは、そのようであることである。
玉城康四郎のいうように、自分の力で禅定に入るということはそもそもありえない。如来の働きによってこそ、可能である。しかし、それも真に正しくない。
如来の働きが禅定であるからである。
ただひたすらに如来の独り働きであることが真の禅定なのである。
われわれはそれを体で学ばなければならない。
その本当の意味を知ることはそう簡単ではない。
それを自らの工夫して探究していくよりほかない。
ほんのちょっと、偶然に、ダンマらしきものを体験しただけで、喜んでいる場合ではない。
少し名が知れた、ある仏教者のなかに、それを自慢している人がいるようである。
はやく、玉城康四郎に追いつこうと性急になりすぎて、まだまだ未熟であるにもかかわらず、それを自覚せず、少しは追いついたような気でいるのかもしれない。その言動を知り、私にはそう思えた。
これから学ぼうとする人たちは、そのような過ちに陥らず、ひたすらに探究し続けていくべきではないだろうか。