エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

命の道と死の道

2017-05-11 | メッセージ
エレミヤ21:8-22:5

 
エルサレムは、カルデヤ人の軍に囲まれています。エレミヤの許に、ゼデキヤ王から祭司が派遣されて来ました。主の奇蹟が起こらないものか、との相談です。しかしエレミヤは応えます。もう逃れられない、と。そして、主はユダの民に向けて「命の道と死の道を置く」ことを知らせよ、と伝えます。神に従うのか、従わないのか。律法を守るのか、守らないのか。申命記においても、祝福と呪いのどちらかの道が与えられることがイスラエルの民に示されていました。
 
但しいまは、敵国バビロン軍に降伏するのかどうか、がその道を決するのだというのがエレミヤの見解です。主に従うかどうかは、その決断に拠るということになります。いったい、神を信じ従うというのは、現象的には、何をどう決め、行うか、人の目には分かりづらいところがあります。「神の御心を知る」のは簡単なことではありません。
 
思えば、あるいは神の都は守られるのだと信じること、神の都エルサレムを守ろうと行動すること、そのほうが信仰深くは見えないでしょうか。しかし、エルサレムに固執する者は死ぬ、とエレミヤは告げるのです。神を信じ大切にしようとすることが滅びになる、というのはどういうことでしょうか。ユダの人々はエレミヤを信用しませんでしたが、ある意味で尤もなことだとも言えます。
 
しかしエレミヤは確信しています。神はいまのこのエルサレムを棄てたのです。地上のエルサレムは、もはや火で焼かれるしかありません。弱者を虐げてきたユダの指導者たちの故です。ダビデの名の故に安寧を保たれてきた恵みの時代は終わりを告げ、ついに国が跡形もなくなる日が来たのです。
 
けれども、まだ覆るという声もないわけではありません。弱者への虐げを止め、公義を行い、罪なき者の血を流さぬように変貌するならば、神のことばに従うことになるから、エルサレムは守られるのだ、と。その可能性を王に知らせるわけですが、逆に命の道に誘う声に聞き従わないのであれば、神殿も王宮も情け容赦なく廃墟と化すと言います。死の道です。
 
エレミヤの言動には、まるで信仰がないかのようです。神の奇蹟があり守られる、と叫ぶほうが信仰者のようではありませんか。そう、この無謀な戦争にもきっと神風が吹くのだ、だから一億総火の玉で敵にぶつかろうではないか、と叫べばよいのです。勇敢に立ち向かう決断のほうが、勇ましいではありませんか。――そうだったでしょうか。
 
勇敢な振る舞いが死の道を行くことを、私たちも歴史で学びました。恰も神的な考え方を交え、神のようなものを守ろうと勇ましい行動をとることが、実に愚かで滅びに向かうという体験すら、もっているわけです。「主の契約を捨てて他の神々を拝み、仕えた」時、ひとは死の道を下ります。時にそれは、自分自身という神に仕えることをも意味します。
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