あなたならどうしますか?

重度障害者としての人生

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新潟

2005-03-19 20:40:16 | 在宅の日々
平成15年9月13/14日新潟市朱鷺メッセで第8回JALSA講習会交流会新潟大会が開催された。
これは、年に一回開催されるALS患者,家族が一堂に会すると言うビッグイベントだ。
山形からは、私と丹野さんの二人の患者の他に、それぞれの付添い5人、事務局2人の9人が2台の車で、13日午後一路新潟市、朱鷺メッセに向かった。

約5時間のドライブ、私は久し振りの遠出だが丹野さんには初めての長距離にちょっと不安があったが、夕方無事に到着、ホテル日航にチェックイン、小休止して交流会会場に向かった。
既に会場には,多くの患者さん、ご家族、関係者の皆さんで熱気をおびていた。

南は宮崎、北は北海道の21支部から50人の患者さん(内,人工呼吸器装着患者さんは30人)が参加していた。驚く事に誰一人として、クヨクヨしている人は無く、皆さん前向きでご家族も明るく朗らかで、これが難病ALS患者の集まりか?と思わせる程の盛況振りだった。
楽しみにしていたメル友とも初顔合わせが叶い,また新たに知合えた仲間とメール交換の約束をしたり、私とって忘れられない2日間になった。
特に心に焼付いたのは、到着直後、案内された24階の客室から見た日本海に沈み行く真っ赤な夕日だった。
あの幻想的な光景は、もう一度みたいと思う。

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インターネット

2005-02-27 17:25:43 | 在宅の日々
息子達が居なくなった我家は、家内と二人に犬一匹がポツンと、取残された感じだった。
狭い家がやけに広く感じられ、子供だった頃が走馬燈のように想いだされ、結婚が決まった喜び以上の寂しさを、全てが終わった今,ひしひしと感じていた。

この機会に、以前から興味があったインターネットを始めた。とは言っても,パソコンの知識がある訳でもなく、60の手習いからの一歩だった。
私のようなALS患者が使う意思伝達装置にはインターネット、電子メール機能があり、身体の動かせる部位があれば,センサーで感知して意思伝達装置を操作して、インターネットを楽しむ事が出来るのだ。
しかし、私くらいの年齢の患者さんの中には、パソコンアレルギーで意思伝達装置を拒否する患者さんも少なくない。

平成14年6月,ADSLでインターネットが開通、無我夢中で操作を覚え,初メールの相手に届いたか,どうかを家内に電話させた事が今でも忘れられない。
それ以来、インターネットの虜になってしまい、息子達の嫁さんとも連絡はメールで、またALS患者達のネットワークで多くのメル友が出来,充実した日々を送っている。
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その時・・・

2005-02-22 14:11:25 | 在宅の日々
婿養子に頂きたい、と正式に相手の両親が来たのは、平成13年11月の私の誕生日だった。
話の中で分かった事だが、お母さんの誕生日が奇しくも私と同じと聞いて,親しみと縁を感じた。
長男達も同席していたので、話はとんとん拍子に進んだ。
この席で、結納は12月吉日、結婚式は平成14年3月に決まった。

次男は嫁を迎えたが、婿に出すのは大分様子が違った。
立場がまるっきり逆になるのだ。
私は娘がいないので、嫁に出す親の気持ちは生涯味わう事はないだろう、と思っていたのに、長男がヒョンな事で婿に行く事になって、嫁に出す親の気持ちを少しだけ分かる思いがした。

結納は12月吉日に、とどこうりなく終わった。
場所は上山温泉の老舗旅館を用意していた。
先方は私の状態を理解してくれ、私は結納には欠席した。
お互いに極近い親戚の出席で行われた。
間もなく、式を前にして養子縁組がなされ、長男は30年馴染んだ我家の戸籍から消えた。
平成14年3月吉日,次男が挙式したホテルで盛大に行われた。

次男の結婚,そして長男の結婚と続けて立会えた喜びに、生きていて本当に良かったと思った。
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婿養子

2005-02-17 19:27:06 | 在宅の日々
嬉しい事は続くもので、長男に婿養子の話が持上がったのは、次男の結婚式が終わって間もなくだった。
長男の付合っている相手は二人姉妹で、妹は既に嫁いでいたため、相手側は婿を望んでいた。
長男は私達の事を考え、その事を切出せず悩んでいたらしい。
ところが、弟が結婚した事で決心したようだ。
後で知った事だが、決心するまで親を誰が看るかについて、兄弟で話合ったらしい。

長男が私達に話を切出したのは、弟との話が終わった後だった。
長男と話していて、かなり私達の事を気にしている様子だった。
私達には、反対する理由もなく、唯、幸せになって欲しいと願っている事を伝えた。
その後、長男も気持ちの整理がついたのか表情が明るくなった。
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結婚式

2005-02-13 19:08:40 | 在宅の日々
平成13年7月7日、次男の結婚式当日、朝から私の外出準備に追われた。
普通の人と違い、何処も動かせない私の着替えには時間がかかる。おまけに人工呼吸器つきだ。
また、車椅子に乗るまでと、乗ってから身体が落着くまで微調整が必要で、最後に人工呼吸器をセットして、吸引機,吸引消毒液など一式を揃え外出準備が終わった。
私達夫婦は予約していたリフトタクシーで、早めに式場に向かった。

式場には多くの人達が集まっていた。
人工呼吸器を積んだ車椅子の私を見て異様に写ったに違いない,と思った。
<まさか、新郎の父親だったとは・・・>
一通りの儀式も終え、披露宴会場へ入った。
二人の会社関係、大学、高校時代の友人、両家の親戚合わせて120名の立派な披露宴になった。
親の援助無しで、二人だけで良くやった、と感激した。

以下に紹介する原稿は、新郎の親として両家を代表して謝辞を述べたものです。[家内が代読]

皆様、本日はお忙しい中、私ども、次男○○と○○家、次女○○の結婚式にご参集頂きありがとうございます。
また、ご来席の皆様からは、二人の新たな門出に、心暖まるご祝辞や、ご祝福を頂き、両家を代表しまして心からお礼申し上げます。
今日から二人は、夫婦として歩む事になりますが、世間の荒波は二人だけで乗り切れるものではなく、周りの多くの人達に支えられている事を忘れてはなりません。
そして、二人には社会の一員としての義務と責任を自覚し、皆様に愛される家庭を築いて欲しいと願う次第です。
ここで、私事になりますが、初めてお会いされた方には、私の姿に、大変驚かれた事と思います。
私の病は、ALSと言う難病で、動く事も、話す事も、食べる事さえ出来ない上に、自力で呼吸する事も出来ず、薬も治療法もない現状では、人工呼吸器を着けるより、生きる道がありませんでした。
本来ならば、こうした席は、遠慮すべきところではありますが、二人からの強い要望もあり、病身を忘れ、ご迷惑を承知の上で、末席に座らせて頂きました。
お蔭さまで、二人の晴姿を見る事が出来て、親としてようやく肩の荷をひとつ、降ろせたような気が致します。
何分にも未熟な上に、短所の多い二人ではありますが、皆様の温かいご支援とご指導のほど、どうぞ、宜しくお願い申し上げます。
また、いろいろと不行き届きの点もあったかと思いますが、何卒、このお目出度い席に免じまして、お許し頂きたくお願い申し上げます。

簡単ではありますが、両家を代表しての挨拶とさせて頂きます。
本日は、誠にありがとうございました。
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初顔合わせ

2005-02-11 19:22:53 | 在宅の日々
初顔合わせは、平成12年11月吉日に決まった。
場所は相手先の町の某レストランで昼食を摂りながら、と言う事になった。
先方も私の事を気遣ってくれ、当日は家内と次男が行く事になった。

会食は和やかに進み、仲人、結納については、我家の事情を察してくれ、形式に拘る事無く,式についても二人で出来る範囲にまかせ、お互いに親は口を出さずに見守る事になった。
親として少し冷たい態度に思えたが、私の病のせいで何も援助が出来る状態ではなかった。

それでも二人は、経費の事,式場の事,招待者などについて毎週話合っていた。
式場については、二人で何箇所も廻り納得するまで聞いて歩いたようだった。
私には、涙ぐましい努力に見えたが、二人にとっては一番幸せな時だったに違いない。

結婚式は平成13年7月7日、市内の某ホテルに決った。
私は式に出席しない方がいいのでは?と二人に告げたが、親父が行かないと言っても首に縄を付けてでも連れて行くから,と言われた時には、涙が出るほど嬉しかった。
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承諾

2005-02-10 18:08:33 | 在宅の日々
次男が相手先の家に行ったのは数日後の事だった。
私達が気を揉んで待っていると、その晩、明るい顔で帰って来た。
はやる気持ちを押さえて、どうだった?と切出した。
次男のこぼれんばかりの笑顔から、大体の予想はつくが親として直に聞きたかった。

普段から口数の少ない次男だが、この日だけは雄弁だった。
相手の母親にも気に入られたようで、結婚を承諾してくれ、夕飯をご馳走になってきたようだ。
その後の話は、親同士の顔合わせの席で、とまで話を決めてきた事を聞いて、大人にになったものだ、と頼もしさを感じた。
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2005-02-06 16:56:18 | 在宅の日々
平成12年の夏を過ぎた頃,次男が私の側に来て「僕、結婚しようと思うんだ」と切出した。
眠れない程按じていたのに、突然切出されると流石に狼狽してしまった。
聞きたい事が山ほどあったが、思う様にコミュニケーションが取れず、自分に苛立った。

それでも次男の話しから相手は同じ会社のS市のS空港勤務だという。
家族構成は父親は既に亡く、母親と3人姉妹の次女とわかった。
次男は、どうやって貰いに行ったら良いのか、で悩んでいて私に助言を求めて来た。

私の助言は簡単だった。
先様が、お前の申出に承諾してくれるか、どうかだ。
男の一番が懸かっている、肝を据えて行って来い、だった。
その際、私の病気の事も隠さず話す様に念を押した。
その返事次第で次のアクションが決まる事を教えた。
かなり緊張してる様子が手に取る様にわかった。
無理も無い話だ,何せ初めての事、自分の若かりし頃を思い出していた。
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心配事

2005-02-05 18:29:14 | 在宅の日々
平成12年、在宅療養生活も4年目に入った。
これまで熱を出す事も無く、平穏な日々を過ごしていた。
ただ、残酷な事に病は確実に進行していて、僅かに動かせた右手の人差し指も動かなくなり、やっと見つけたコミュニケーションの手段としての「電子式人工喉頭」も舌の萎縮が進み使えなくなっていた。

私にとってALSの進行も気懸かりだが,それ以上に心配な事があった。
私には二人の息子がいる。歳は29と27だ。
これまで二人から結婚話しを聞いたことが無い。
相手がいないのだろうか、私に気を遣っての事だろうか,それとも父親が難病患者と言う事が影響しているのだろうか?
考えると夜も眠れなかった。
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追憶

2005-01-26 16:34:11 | 在宅の日々
今日紹介する文章は平成11年、機関誌JALSAやまがた11号に掲載されたものです。
結局、病の進行で一年も使用できなかったが・・・

電子式人工喉頭を使って   草苅泰旺{山形市在住}

●ロバクだけで過ごしてきて…
 私達のように人工呼吸器を装着したALS患者さんの中には、スピーキングバルブやポーカレイド(カニユーレのグリーンチューブ)からエアポンプを使用して、肉声に近い声で会話されている患者さんもおります。しかし、そのためにはロバクによる会話ができることと、切開ロにカニユーレを挿入した時にその隙間が少ないことなどの条件を満たさなければなりません。
私の場合、スピーキングバルブもエアポンプにも挑戦しましたが、カニユーレの隙間から空気が漏れてしまい諦めざるをえませんでした。
 私が声を失ってから三年半になりますが、この間何度となく文字盤による会話に挑戦しましたが、私が弱視のため透明のプラスチック盤に書かれた五十音の文字を指さす妻の洋服の色や周囲の光の反射などで見づらい上、私からのサインと瞬きを妻が間違えて読み取ったりしてまともに会話ができず、結局ロバクだけで過ごしてきました。
しかし、ロバク会話にも限度があり、日常生活するための会話は妻もうまく読み取ってくれますが、友達やお客様が来られた時など、日頃使わない言葉や単語となるとほとんど通じず、思うように意思を伝えられない悔しさと苛立ちだけがいつもむなしく残るだけでした。


●「ニューボイス」に出会う」
 そんな時、医療機器販売会社のHさんが草苅さん、これ使えませんか、と持って来たのが人工喉頭(ニューボイス)でした。これは本来、喉頭摘出された患者さんなどが使用して会話するもので、形状は丸形の電気カミソリをひとまわり小さくしたような形で、スイッチを押すと、ビイーンと振動板から音が出ます。この音が、声の音源になります。
 使い方はスイッチを押しながら、顎の下で気管のあたりにそっと押しあてて、ロを開けて音が口の中で一番大きく共鳴するところを探します。あとは、
何か喋りながら本体のボリュームを調整して適当な音量にすれば終わりです。
 この説明を見る限り簡単そうに見えますが、実際には少し練習が必要です。
それは自分で本体を喉に押しあてられませんので、介護者の手を借りなければならず、押しあてる強さの感覚と位置を覚えてもらわなければならないからです。


●電子音でも、取り戻せた自分の声
 私の場合も最初から声が出たわけではなく、練習しているうちにようやく聞き取ってもらえるようになりました。
三年半ぶりの記念すべき第一声は、(アー、アイウエオ、エー、本日ハ、晴天ナリ)。この音に妻や息子達から、まるでお経みたいだ、などとさんざん笑われましたが、九月二十二、二十三日の両日、宮城県で開催された「第四回JALSA講習会・交流会」に参加しましたおりに、自己紹介の場でこれを使い挨拶しましたところ、まわりの皆様から驚きの声とともに大きな拍手を頂き、自信を持つことができました。
 この人工喉頭、(ニューボイス)は、定価が七万四千円とけっして安くはありませんが、失った声がたとえ電子音でも自分の声として取り戻せたことは、人工呼吸器によって新たな生命を得られた時と同じ位の喜びがありました。


●給付対象になるよう前向きな検討を
 その後、この電子式人工喉頭は身障者生活補助用具、給付対象になることを開き市に問い合わせましたところ、喉頭摘出された患者さんには給付対象になりますが、人工呼吸器をつけたALS患者は対称外と断られてしまいました。これを使用することで、少しでも会話でコミニケーション可能な音声障害者にも給付対象になりますようにぜひ前向きに検討して頂きたいと思います。
 最後に、人工喉頭については既に、使用されている方も多いと思いますが、私は三年半もの間、このような方法があることすらまったく知りませんでし
た。いかに、このような身近な情報が少ないかを痛感した次第です。
 この記事が、ロバク機能の残されている患者さんのコミニケーションの一つとして、少しでも参考にして頂ければ幸いです。
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夕陽を見る会-2

2005-01-23 18:21:40 | 在宅の日々
今回は、全員人工呼吸器をつけての外出だ。
その中の3人の患者さんは、在宅に移行して初めての外出と聞いた。
それ故に、この夕陽の沈み行く光景はそれぞれにとって想いで深いものになった事と思う。

幻想的な光景に興奮冷め遣らぬうちに、私達一行は簡保の郷酒田にチェックインした。
初めて外出した患者さん達も、夜遅くまで家族やボランティアの人達とカラオケを楽しんでいた。
このプランを立てた宮城県支部の和川さんの主治医で、仙台往診クリニックの川島先生がボランティアで私達に付添ってくれたのには何よりも心強かった。

翌日は交流会で親睦を深めた後、現地解散となった。
私達山形班は帰路についたが宮城班は、よほど印象深かったのだろう、その日も夕陽を見て帰宅したので夜遅くになったと、後で知らされた時は何故か嬉しくなった。
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夕陽を見る会

2005-01-21 19:42:04 | 在宅の日々
平成10年10月10日、私達一行は庄内浜を目指して月山道を走っていた。
生憎の雨降りだが、目的は日本海に沈む夕陽を見る為だった。
このプランは日本ALS協会宮城県支部の和川さんの2年越の悲願だった。

宮城からは、和川さんの他に小野寺さん、鈴木さん、千葉さんの4名の患者さんが4台の車で参加、山形支部も便乗して、叶内さんと私が2台の車で参加した。
6台の車は寒河江のチェリーランドで落合っての出発だった。
患者6名を含め介護者,ボランティアの総勢36名と大掛かりな夕陽を見る会になった。

夕方、湯の浜海岸が近くなるとあれほど荒れていた空が不思議と晴渡り,水平線の真上に真っ赤な夕陽が静かに私達を待ってたかのように、ゆっくりと沈み始めた。
車から降りて車椅子で見る患者さん、車に乗ったまま見ている患者さん、それぞれの胸に去来するものは何だったろうか?
私は沈み行く夕陽に自分の人生を重ね合せて涙ぐみながら、何時までも、何時までもそこから離れられなかった。
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脱皮

2004-12-19 18:14:06 | 在宅の日々
悲しみを残した年も暮れ、在宅に移行して二度目の平成10年の正月を迎えた。
去年同様、親戚が集まり賑やかな新年会をベッドに寝ながら、少しづつ私の生活環境が変わり始めているのを感じていた。
それは今までの閉鎖的な考えからの脱皮である。

誰しもが、この病に侵された時、我が身の不運に嘆き悲しみ、神仏の不在を恨み、人に会うのさえ嫌になった事だろう。
私もその中の一人だった。
難病中の難病といわれるALSは、言葉や活字でいくら説明しても中々理解してもらえないのが現実だ。
やはり、自ら行動を起し、現状を直接見てもらわなければ何も前進しない事が分かった。

4月になると、保健所の保健師から、看護学生の実習に協力してもらえないか、と申し出がありそれに応じた。
九月までに延べ、五十数名の看護学生の訪問を受け、初めて見る人工呼吸器をそう着したALS患者を前にして、驚きと戸惑いを見せながらも、介護の内容を質問したり、清拭やリハビリなど実習していった。
将来、この中の何人の方が、ALS患者に関わるのか分からないが、少しでもALSに関心を持ってもらえればと思った。
他にも、医学部の学生やヘルパーも多数実習に来た。
とかく閉鎖的になりがちな環境の中で、多くのALS患者が積極的に社会に関わる事を望む。
そして、その存在を表明する事により更に、支援の輪が広がるものと信じている。
また、患者家族の交流を活発にし、何でも話し合える環境にしたい、と思った。
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悲報

2004-12-14 15:36:42 | 在宅の日々
***写真中央 松岡幸雄氏***
日本ALS協会の生みの親で、事務局長を務められた松岡幸雄氏の悲報が入ったのは、暮も押迫った平成9年のクリスマスの日だった。
4月の総会で再会した時は、あんなに元気だったのに・・・私は絶句した。
松岡氏は末期の肺癌だった。

私が松岡氏にお会いしたのは、人工呼吸器を着けて生きる決心をして間もなくだった。
温厚な人柄で敬虔なクリスチャンだった事は知っていたが、他には何も知らなかった。
後に聞いた話だが、松岡氏はALS患者の為に寝食も忘れ、私財を投じてまで全国を飛び回り、患者家族を励ましながら、当時ALS患者の7割が、人工呼吸器を着けずに死を選ばざるをえない現実を、動けない患者家族に代わり、ご自分の病をおして国や行政に訴え続けていた事を知って尊敬と感謝の念を新にした。

母との別れから半年も経たない内に、私にとって、いやALS患者にとって大事な人を失った。
松岡氏が立ち上げた日本ALS協会は、全国に33支部が設立され松岡氏の遺志は、今尚脈々と受継がれている。
また、松岡氏の悲願だったALS/MND国際会議の日本での開催が2006年横浜で開催される事が正式に決まった。これは何よりの餞になると思う。
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母との別れ

2004-12-11 18:00:36 | 在宅の日々
平成9年5月初旬、叶内さんが、ALS患者として初めて出演した「徹子の部屋」が放映された。
放映直後から、日本ALS協会事務局には問い合せや支援を申出る電話が殺到し、続いて放映された「ズームイン朝」との相乗効果もあって、当初の目的の「難病ALSを広く社会に知ってもらう」事は、予想をはるかに上回る成果を上げる事が出来た。

7月のある日、東京の姉から母の死を知らせる電話が入った。
あれから3ヶ月も経っていなかった。あの日が最期になるとは・・母は直腸癌の為に88年の生涯を閉じた。
私の唯一の救いは、母が痴呆になった事で私が難病ALSである事を知らずに旅立った事だった。
もし、正常だったら不憫な息子の姿にさぞ、後ろ髪を引かれる思いだった事だろう。
葬儀に参列出来ない私は、前夜母の遺骨をベッドの脇においてもらい、私なりの別れを一晩かけて、母と心の中で語り合った。
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