岡田以蔵、幕末の京で「人斬り以蔵」でおそれられた暗殺者ではある。
「龍馬伝」で人気を得て墓参りに多くの人が訪れ、墓は供花で埋もれていた。今でもそれは衰えていない。
その人気の秘密は?と考える。剣技?一途さ?純情?行動力?
ともあれ、下図を参照に墓へ行ってみよう。
墓は高知市東北部の薊野・真宗寺山にある。
「ヤマダ電機高知店」の北側の電柱(中央左)にある標識が入口である。
歩いて5分。
道は私設駐車場の北の標識から以蔵絵金墓分岐までが上り道である。
白い看板の横に「以蔵の墓100m」「絵金の墓180m」の標識がある。
絵金に興味のある人は是非、絵金の墓へ足を延ばしてはいかがか。
ここから2〜3分である。
上の分岐から来ると道が左右に別れる。
中央右寄りにT字の標識と、中央奥の左寄りの白い標識に従う。
中央の横並びの墓が以蔵一族の墓。
その一番奥に以蔵の墓がある。
以蔵は字(あざな、通称)、宜振(よしふる)は諱(いみな、本名)。
例えば、武市半平太の墓碑は「武市半平太小楯」で、半平太は字、小楯(こたて)は諱である。
墓地に「以蔵情報板」と「記帳」(右端野の引き出し式箱)がある。
情報板に次の記載があった。
昨年7月5日〜今年9月5日の記帳者数
市内230、県内154、大阪府147、神奈川86、兵庫80、東京都75、香川60(以下略)計1391
司馬遼太郎の著「人斬り以蔵」では、以蔵の身分は4人扶持の足軽で、貧乏の故、剣術は自己流で、学問に付けなかった。武市の先祖は伊予の出で、以蔵の先祖はその武市家の家来であったことから、武市半平太の道場に入門する。
以蔵は武市半平太の命で京で暗殺剣を振るう。半平太は自分には理論と正義があるが、以蔵はただの殺人者で、我が下僕、先祖は我が祖の家来で、無学な者として扱う。
容堂の安政の大獄からの政権復帰で、土佐勤王党は壊滅となり、武市も以蔵も捕われた。以蔵の白状をおそれた武市は以蔵に毒薬入りの弁当を差し入れたが、毒薬の効果はなく失敗する。再び手紙と毒薬を差し入れるが、以蔵は「ここまで自分の都合で吾を利用し支配するのか」と作者はその心境を語らしめて、終に首領・武市に牙を剥いて自白したことから、勤王党員は次々と刑罰を受けた。
以蔵も梟首の刑を受け、雁切河原の獄門台に晒された。享年28歳。
史実の点と点を小説家は繋ぐのだが、「龍馬伝」でも武市の以蔵に対する扱いが、これと似たように表現されていて哀れを誘った。
時代の流れに多くの若者が翻弄されたことを思えば、以蔵の墓を訪れる人々の想いが伝わって来るようである。
HN;バンダナ
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