Weekly IT OSEMI

コロンブスの卵

還暦という名の欲望

2010-02-08 21:38:10 | Weblog
 昨年11月に還暦を迎えた。その誕生日の一週間前に高校時代の同期会が開かれた。
 「還暦を祝う同期会」と題されたその集まりに出かけた。この日は高等部全体の大同窓会でもあり、1部がPS講堂でのクリスマス礼拝・2部が「還暦を祝う同期会」という流れだった。
 クリスマス礼拝‥‥礼拝じたい随分久しぶりのことだが、聖書を読み、牧師の説教を聞き、讃美歌を歌い、祝祷までの小一時間、ぼくは二階席の奥に独り離れて座り「あの頃」の自分と重ねるという自虐的な境地に入っていた。
 あの頃、ぼくは十代の後半であり今よりも自信家であった。身体も健康で若々しく、背中にかく汗が艶やかだった。腹には贅肉の代わりにきちんと筋肉がたたまれていた。そして何よりも性欲に発する欲望ばかりが体中を満たしていた。抑し難い恋のエネルギーがそれに司られているとも知らずに悶々としていた。席替えのとき、密かに好意を寄せていた少女が隣になったとき、彼女の視線と自分への反応ばかりが気になった。映画に誘った。スケートに誘った。いずれも、理由は忘れたが誘いは断られ、デートは実現しなかった。恋情ばかりが募り、虚しさがそれを覆っていった。成績がガタ落ちし、学業か恋かと真剣に悩みつつ解決がつかぬまま時間が矢のように過ぎて行った。
 「胸の中に秘めていた恋への憧れは、いつもはかなく破れて、ひとり書いた日記」
 礼拝のあと、ペギー葉山・秋光義孝カルテットによる[PS講堂ファイナル 想い出コンサート」があり、この「学生時代」を同窓生は斉唱した。それは、やはりこの校舎の「あの頃」の日々を想う歌以外の何ものでもなかった。
 隣に座った少女との失恋をへて、また別の少女への恋情が勃発すると、昨日までのあの悲哀はどこへやら消え、新しい恋へと心は満たされていくのだった。こんどは「恋か愛か」という形而上的な悩みもともない、汗臭い肉欲を欝勃させながら聖なるものへも憧れるというせめぎあいが始まった。
 振り返れば、すべてが青臭く単純で、今となっては二度と戻りたくはない時代ではある。しかしそれは「無かったこと」には決してできない。そうして、こうして、‥‥今にいたっているわけなのだから良しとしよう。そして「あの頃」の恋情の中枢に、ちょうど蛇が幹にからむように性欲の螺旋がであったことを想い、その構造が今も見え隠れする事実を強いて否もうとは思わない。
 還暦を祝う同期会には同期の20%くらいが集まっただろうか。かつての片思いやガールフレンドとも、今は還暦を迎えて元気に会えたことを素直に祝福しあい、互いにすてきなおじさん・おばさんになったことを讃え合った。集まった中には、まだまだはっきり色香匂う還暦オバンも脂ぎった還暦オヤジもいた。沈静なる紳士淑女もいた。どちらにも属さない還暦もいた。
 しかし、まだだれも涸れるには早いのだ。肉体と心とはまだそれほど離れていないのだ。幹をおおう皮の裏には、じっとり樹液がはりついている。たとえ巧妙に隠されていようが、それはそういう形でしっかり存在している。沈静なる紳士淑女も、その熱い欲望を必要とあらばマグマの荒々しさで噴出することだってまだできるだろう。ただその欲望はかつてのそれと同じではない。60年の疾風怒濤の末に練られた還暦という名の欲望なのだ。