リーマンショック
アメリカからの経済的破局が日本の経済に打撃を与えたが、その時の日本の経済がいかに脆くなっていたか。
小泉政権などによる「労働者の流動化政策」により、次から次へと法律が変えられていった。いわゆる「規制緩和」の名のもとに。
1999年の派遣の「原則自由化」、そして2003年の製造業への派遣、その脆くなった労働基準法へ、襲いかかったのがリーマンショックによる経済的破局。いわゆる「恐慌」であった。製造業からいっきに労働者が駆逐されホームレスに。北の寒い釧路にも流れてきた。
今年の3月に、その時の経験を少しまとめた。以下、掲載させていただく。
「絆」という名のもとで
石川明美
「今、隣町にいるんだけど、お金も食べるものもない」
突然事務所に電話が入った。
土曜日なので役所は閉まっている。
電話でのやり取りで、切迫性を感じた私は直ちに車を走らせた。約一時間後に約束どおり、公衆電話前にいた。
背は高く痩せている。荷物は手持ちのバッグひとつで、着ている服は小ざっぱりしている。表情は暗く、目に「気力」がない。ひと目見て「ホームレス」とわかる状況であった。
「お腹すいてない?」
「・・・」
「お金少し持ってるの?」
「・・・ん〜、切符代でお金が無くなり、昨日から何もたべていない」
「そうか」といって、私は途中のコンビに寄りパンと牛乳を買った。暗くなっているので、今晩の泊まる場所を考えなければならない。
車の中では慎重に、そしてきさくに声をかけた。早急にあれもこれも聞くのはご法度。
「どちらから」
「神奈川・・・、ある街の公園で生活しながら、教会のお世話になっていた」
「そろそろ冬が近づいているのでこれから大変だね」
「冬の寒さはやだね」
はらの底から滲み出るような声であった。小さいころ、この町にいたことがあるとボソッと話した。私はゾッとした。人生をこの町で終えようとした形跡が窺がえる。経験からいって危険な状況であった。まずは暖かい食事と布団である。これは人間としての最低限のものであり、落ち着かせることが必要だ。知り合いの旅館に電話。
「夜遅いけど、これから一人お願いしたい」
「今日は満杯で無理」
二件目は「もう無理ですよ。明日きてくれれば受け入れられるけど」
心配した通りであった。
三件目の旅館で「夕食はもうないけど泊まるぐらいならいいですよ」
内心ほっとした。
平日の日中ならば、すぐ対応できるのだが、曜日と時間帯では苦労する。
「明日の朝九時に迎えにくるからね」
「まずはゆっくり休んで」
顔の表情からは変化は読み取れない。身体全体からは多少の落ち着きは感じられた。すべては明日からだ。
快晴―釧路の秋はこの言葉通りのすばらしい「抜けるような青空」であった。
「Sさん。おはようございます」
少し笑顔があり、昨日感じた「危うさ」とは別の落ち着いた雰囲気が感じられた。
「ご飯はおいしかった?」
「全部食べたさ。だけど、あんまり寝れんかった」
「これから私の知り合いの下宿に行くけど、とりあえずそこにしばらく泊まってもらうから。ご飯もたべさせてもらえるから」
「・・・世話になります」
朝のうちに了解していただいた下宿にSさんを案内した。この下宿の女将さんには以前もずい分と世話になっている。お金が一銭もない人を、食事と宿泊をさせてもらっている。もちろん生活保護を申請するという前提である。
・・・その2 に続く→・・・
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