倭人が来た道

謎の民族文様が告げる日本民族の源流と歴史記憶。

第11章 遅れてやってきた黄河文化

2012-11-07 10:27:25 | 第11章 遅れてやってきた黄河文化
 長江流域の少数民族との生活文化・食文化などの共通性については、さまざまな人たちによって唱えられてきた。その一方で、稲作をはじめとした諸文化や渡来人は朝鮮半島経由で渡来したとする説も根強い。ここでは、縄文時代から弥生時代早期における黄河流域および朝鮮半島からの人・物・文化の渡来は、長江流域からのそれよりは少なかったとの推論をすすめる。


●鼎と三足土器のアリバイ
 日本の縄文土器や弥生土器には、黄河流域の文化を代表する三足土器がほんのわずかしかみられない。三足の鼎(かなえ)となると、まったくといえるほど見られない。このことは、黄河流域の文化が朝鮮半島を経て日本列島に入ってくるのは、鼎と三足土器をつくらなくなった時代以降であることを物語る。(朝鮮半島の南部をみても、黄河流域文化よりも先に遼寧式文化が入っている)。
 現実に、縄文前期にあたる朝鮮半島の隆起文土器が日本列島でも局地的に出土するが、そこには、蕨手文・双極文といった文様はない。その後、無文土器、松菊里型土器も朝鮮半島から日本列島に入った形跡はあるが、蕨手文・双極文といった文様は見当たらない。一方の日本列島では、北海道で出土した縄文土偶が原初的な双極文と二頭うず文をまとっている。こうしたことから類推すると、新石器時代(日本の縄文期)における朝鮮半島と日本列島の「文化の伝播の違い」がみえてくる。つまり、稲作を含む長江文化が朝鮮半島に入るのは九州からの北上ルートと、長江河口から五島列島をそれて半島南部沿岸に漂着した人びとによる伝播、この2パターンがあったものと思われる。



 ※写真の一番左は九鼎(きゅうてい)の複製である。九鼎は夏王朝の祖・禹が鋳造させたもので、古代中国における法統(ほうとう=王権神授・帝位継承)の象徴として、殷の湯王が夏王朝を滅ぼしたあとは殷王室から周王室に伝世された。周王朝では、天子の証しとして37代にわたって保持された。その後、秦が周を滅ぼしたときに九鼎が失われたため、始皇帝は新たに玉璽(ぎょくじ)を王権の象徴とし、これ以降は玉璽を法統の象徴とした。九鼎のアップ画像を見ていただくと、長江流域で崇拝された神だったといわれている饕餮(とうてつ)が描かれているが、全体がTの字形をした太い蕨手文、細い蕨手文、蕨手文の変形組合せ、そして小さな双極文で埋め尽くされている。(饕餮は人面牛身で食人とされるが、饕餮という架空の存在そのものが、神農か蚩尤、あるいはその折衷想像体の可能性も考えられる)。

 それにしても、中原王朝の象徴たる九鼎に長江流域で崇拝された饕餮文に。蕨手文とうず巻き文。……これはいったいどういうことだろうか。九鼎を造らせた禹については、古文献は「西羌の人(牧畜と畑作の民)」というが、浙江大学日本文化研究所の王勇氏によると、「鳥信仰を持つ稲作民である」とする。稲作民となれば長江流域の人だろう。その禹の活躍と統治の舞台も長江下流域まで広く及んでおり、長江文化を吸収していたというよりも、すでに南北の文化の隔たりがなくなっていたものと思われる。
 夏王朝中期に入ると、少康の庶子の無余が会稽の地(のちの越)を封じられて、この地で祖先たる禹の祭祀を行なった。禹の墓は会稽山にある。また無余は、サメなどの水禽の害を避けるまじないとして地元の漁労民に龍の刺青をすすめたというから、ここで、蛇信仰だった江南の地に龍信仰がもたらされているのも事実である。
このように、夏王朝そのものが長江文化と深い関係にあるので、蕨手文とうず巻き文が禹によってつくられたという九鼎にみられるのも不思議ではない。


●日本列島にもある「三足の」土器
 実は、三足の土器も多くはないが日本列島にある。青森県虚空蔵(こくうぞう)遺跡出土の土器がその代表的なものだろう。中国の三足土器は、取っ手のついた小型の水差しのような「キ」と、足の部分に溜めた水を沸騰させて蒸し器として使う「鬲(れき)」に分かれる。その点、日本列島で出土する三足土器はキとも鬲ともつかない。足がボッテリと太く短く、しかも口吻は狭くなっており、いわば三足の壺である。
 この虚空蔵遺跡出土の土器について論文をまとめた岡内三眞氏も、「もしも、東アジアの三足土器と関連があるとすれば、夏家店下層文化、西団山文化に近いが、両者の隔たりが大きいので性急な結論は避ける」としている。(「青森県虚空蔵遺跡出土土器の共同研究」)
 これは賢明なコメントである。というのも、虚空蔵遺跡出土の三足は壺型をしており、それによって本場の鬲とは用途も異なる。左ページの写真と図を比較してすれば、そのことが一目瞭然になるはずである。おそらく三足土器の存在は知っていても、三足鬲(れき)の蒸し器としての機能を知らない人が造ったものだろう。



 ※上段左の写真は良渚文化遺跡出土の「紅陶キ」。(上海市金山県亭林遺跡出土・上海博物館収蔵。写真提供:考古用語辞典)。

 中国の三足キは、黄河下流域の大汶口文化や山東龍山文化が発祥とされるが、紀元前2500年頃には長江流域にも伝播していたらしく、この三足キのように良渚文化遺跡からも出土する。時代はさがるが、戦国時代を扱った中国の大河ドラマ「越王勾践」でも、三足キや三足爵(しゃく=すずめの形をした杯)が普通に登場する。これは時代的に至極当然のことで、そもそも山東龍山文化時代から良渚文化とは互いに干渉・影響し合っていたようだし、周王朝下には呉越にも三足器が十分に浸透し用いられていたのである。
 虚空蔵遺跡は縄文晩期の遺跡である。縄文晩期といえば、中国では周王朝の成立から戦国時代に突入する期間にあたる。それでは、日本列島で作られたと思われる「やや赴きと技術の異なる三足の土器」はどこからきたのと考えたとき。三本足をもつ土器の知識が、うず巻き文とともに長江流域からきた可能性が高い。というのも、これが黄河流域から来たのであれば、三足鼎も同様に入っていなければ不自然だからである。



 ※下段写真の右端は、江西省で出土した青銅器時代・呉城文化の鬲(れき)。呉城文化は長江支流の贛江に登場した文化で、紀元前3000年~紀元前1000年の三星堆遺跡と同時代に該当する。長江流域にも三足キ・三足鬲が入っていた証拠である。(写真提供:「考古用語辞典」)

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