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第1章 憧れの少女
飛行機はゆっくりと動き出して滑走路に向かい、エンジン音を唸らせながら加速して、胃を篩いに掛けたような気持悪い浮遊感を胸元に残しつつ離陸した。
旋回しながら高度を上げて、雲と同じぐらいまでくると、海上を渡航するタンカーや貨物船が見えた。間近で見れば恐ろしいほど巨大な船舶も水面に浮ぶ小さな藁くずのようであった。
安定飛行に入ってから、ポータブルの音楽プレイヤーを取り出すと、隣に座っていた女性の部下が驚いた顔付きで言った。
「あら、仁科さん。今時、カセットテープですか?」
「あぁ、このカセットには思い入れがあってね。最近はCDやMDが主流なんだろうが俺が若い頃はカセットテープが全盛だったんだ」
「今時、CDも古いですよ。今の主流はフラッシュメモリーですよ。文庫本よりも小さいサイズに何万曲って入るんです。デジタルだから頭だしも直ぐに出来ますよ。時代はどんどん進化してるんです、いっそう新しいのを買ったらどうですか?」
「うん、そうだね。今度、買うことにするよ。でも今回の取材はこれじゃなきゃ駄目なんだ。どうしてもね…。」と感慨深く、アナログ再生機を眺めた。
「ふーん、そうなんですか。それで何の曲を聴くんですか?」
「俺にとっての青春の一曲だよ。この曲が人生を変えたと言っても過言でないからな」
イヤホンの一方を若い部下に渡して、もう一方を自分の耳に付け、カセットテープの再生ボタンを押した。煌めいた流砂が、擦れ合うような音が流れ、西域の 空を渡るエキゾチックな風の囁きと、オアシスで滾々と湧き上がる水の音が混じりあったような響きが鼓膜を震わせた。幻想的な音楽に誘われるように、高校の 思い出がありありと脳裏に浮かんできた。
白い帆を揚げた無数のヨットが、青い海を連なって進んでいた。
純太は、その光景を教室の窓から眺めていた。
その様子は、海を流れる精霊流しのようだった。
英語の授業は、そっちのけで、ヨットレースの様子をノートにスケッチした。
「仁科。ここに入る関係代名詞は何だ?」
英語教師の平塚が、黒板を叩いて純太を指名した。
「えっ、僕ですか?」
「この教室に、仁科と言う名前の人間はお前しかいないだろう」
いちいち嫌味を言う、やな先生だ。
「そうですね。えーと、thatですかね」
「オールマイティーな関係代名詞を持ってきたな。だけど、それじゃ、問題にならないから、That以外で答えなさい」と平塚は不機嫌に言った。
あっていればいいじゃねぇか、だいたい、英語なんて、外人に伝わればそれでいいんだよ、と心の中で呟(つぶや)いた。
「girlに掛かっているからwhoですかね」
「正解だ。分かっているなら最初から、そう答えれば良いものを。素直じゃねぇな」
平塚は面白くなさそうにぶつくさ言って、次の問題を他の生徒に当てた。
純太は、視線を海に移し、スケッチを再開した。
純太は、子供の頃から運動は苦手で、中学、高校と美術部だった。
特に水泳が大の苦手だった。
純太の住む街は、相模湾に面していて、サーフィンをする友人が多かったが、そんな事をする人の気が知れなかった。
来月から体育で、水泳が始まるかと思うと、溜息が漏れた。
水泳以外にも気になることがあった。
それは、ニキビだった。
中学の頃から出始めて、学年が上がるにつれて、どんどん増えていた。
二十歳になる事には、クレーターだらけの月のような顔になるんじゃないかと心配だった。
学校の成績は平凡だった。
クラス内でも目立ちはしないが、隅に追いやられる程でもなかった。
子供の頃から、絵は飛びぬけて上手で、展覧会ではいつも金賞を取っていた。
美術部でも、絵の上手さは突出していて、部員や美術教師からも、一目置かれる存在だった。
純太は、この春から放映されていたシルクロードのドキュメンタリー番組の虜になっていた。昼の学内放送に、シルクロードのテーマ音楽をリクエストに出したかったが、リクエストを出した生徒の名前が出るのが恥ずかしくてできなかったが、今週、勇気を振り絞ってリクエストを出した。
昼休み、純太は、窓の向こうに広がるオーシャングリーンの風景を眺めながら、口に運ぶ弁当の味も上の空で、今か今かと放送を待ち侘びていた。
昼の放送が始まった。
「さて、本日のリクエストは、二年C組の仁科純太さんから頂きました、シルクロードのテーマソングです。では、どうぞ」
教室のスピーカーから、悠久の時を想起させるメロディーが流れた。
すると、秘かに憧れていたクラスメートの亜美が、仲の良い友人の知佐子とご飯を食べながら話した。
「あっ、シルクロードだ。この曲ってすごく良いよね」
「うん、私も好き。番組も欠かさず見てるわ。石坂浩二の渋いナレーションが、また良いのよね」
知佐子が言った。
「前回は、敦煌を特集してて、すごく面白かったなぁ」
純太は、亜美もシルクロードが好きだと知り、無性に嬉しくなった。
同じ趣味を持っていると知っただけだが、何かどこかで繋がっているような気分だった。
亜美は山女だ。
山女と言っても山中で生活しているわけではないし、旅人を食べてしまう山姥でもない。
彼女は山岳部の部員だった。
純太の高校では、山岳部の女子を山女、男子を山男と呼んでいた。
純太は、この高校に入学するまで、山岳部というものがこの世に存在することすら知らなかった。
美しい湘南の海を臨む高校に、何故、山岳部があるのだろうと不思議に思ったが、県大会で毎年優勝争いをする強豪校だった。
亜美はスポーツ万能の活発な少女だった。
走るのも速ければ、球技も巧い。
おまけに山まで登ってしまう。
ハキハキとした闊達な女性で、クラスでは級長的な存在だった。
体育の授業では、いつも活躍していた。
純太は、よく遠目に彼女の姿を眺めていた。
自分自身は、運動音痴なので、余計に、彼女の溌剌とした姿に見蕩れてしまった。
スッキリとした顔立ちにショートカットが良く似合っていた。
純太にとっては高嶺の花だった。
淡い恋心を抱いていたが、内気な性格の純太は、積極的に話をする勇気もなかった。
登下校時に挨拶を交わす程度の仲だった。
それに、亜美は、根岸健というクラスメートと付き合っていた。
悔しいが、根岸は格好良かった。
野球部のエースで、背が高くて鼻も高い、それに、眉毛もくっきりとしていて、まるでファンション雑誌のモデルみたいだった。
悔しいが、はなっから純太には勝ち目がなかった。
6月上旬、芒種の頃の日曜日。
純太は、朝食後、長谷にあるアジサイ寺に向かった。
寺の裏手の山道から忍び込んで、満開のアジサイをスケッチした。
寺は、海沿いの高台にあり、色とりどりに咲くアジサイの向こうには、青々とした湘南の海が広がっていた。
純太にとって、スケッチする事は日課だった。
それは、ご飯を食べるとか、風呂に入ると言った習慣に近いものだった。
対象物を無心で眺めて、鉛筆を走らせていると寂静とした心境になった。
「朝から精が出るのう、落書き小僧」
振り向くと和尚が純太の後ろに立っていた。
「おはよう、和尚さん。アジサイの綺麗な季節ですね」
「何故、アジサイは綺麗なのかな?」
「はぁ?何故って、色が鮮やかだからですよ」
純太は、また和尚の屁理屈説法が始まったと思った。
純太は、小学校の頃から、よく寺の境内に忍び込んで絵を描いていたので、和尚とは小さい頃から顔馴染みだった。
和尚は、時々、こう言った不可解な質問をしてきた。
「それは、表面的なことで本質ではない」
「じゃあ、虫に受粉してもらって子孫を残すためでしょう」
「馬鹿者、わしは理科の問題を出している訳ではない。図体はでかくなったが、まだまだ子供じゃのう。それが分からんようでは、お前の絵は、落書きのままじゃ」
「これでも、美術部では一番巧いって言われてますよ」
純太は、自分の絵が貶されたようで面白くなかった。
腹の中で、「頑固和尚に、絵の何が分かるっていうんだ」と呟いた。
「確かに、お前はガキの頃から絵は巧かったし、更に巧くなっている。じゃがのう、絵は巧ければ良いという物ではない。それだったら、絵ではなくて写真を取れば事足りる」
「じゃあ、僕の絵に何が足りないっていうんですか?」
「そんな事は自分で考えろ。アジサイが何故、綺麗かを考え続ければ、自ずと分かるじゃろ。さてと、そろそろ観光客が入ってくる時間だから、戻るかのう」
和尚は寺に戻る途中で、振り向いて言った。
「今日は、日曜で大勢の観光客が来るから、落書きも切りの良い所で引き上げてくれよ。営業妨害になるからなぁ」
「分かりましたよ。そのうち、切り上げますよ」
純太は、和尚の背中に向かって、あっかんべえをした。
アジサイのスケッチを済ませると、純太は、自転車を駆って海岸に向かった。
海岸通り沿いに建っている民家の庭に、一本の夏蜜柑の木があった。
美味そうな黄色い実が、初夏の陽光を浴びて、ぶら下っていた。
塀の上から路上にせり出していた実に手を伸ばして、一つ頂戴した。
夏蜜柑は、5月ぐらいに白い花を咲かせてから、一年越しで果肉を膨らませて、翌年の6月ぐらいに食べ頃に熟す。
夏蜜柑と言う名前の如く、初夏の今が旬だった。
純太は、海岸通りをしばらく走った。
潮風が、海原に白波を刻んでいた。
砂浜は人が疎らだった。
人の少ないこの時期の海岸が好きだった。
少し歩いてから砂の上に腰を下ろした。
潮風と共に、波のくだける音が純太の耳に響いた。
砂浜には、浜昼顔が群れ咲いていた。
漏斗型の花弁は朝顔にそっくりで、恥らう乙女のような薄紅色をして、ふらふらと潮風に揺れていた。
純太は潮騒の歌に耳を傾けながら、夏蜜柑を毟って食べた。甘酸っぱい果汁が、口いっぱいに広がった。
時々、ピィーヒョロロ~と、トンビが歌いながら上空を旋回した。
海原の果ては、空と交じりあうようにして白っぽく溶け合っていた。
江ノ島の島があり、その向こうに、富士山が見えた。
海ではサーファーが果敢に波に挑んでいた。
まだ梅雨明けしていないこの時期に、ウエットスーツを着てまでサーフィンをするのは、本物のサーフィン好きだ。
純太は、泳ぐのは苦手だったが、砂浜でサーファーを眺めるのは好きだった。
自分が絵を描く事が好きなように、彼らもサーフィンが好きなのだ。
サーファーの姿は力強くて逞しかった。
華奢な純太には、ある意味、憧れだった。
砂浜に打ち上げられていた小枝を拾い、亜美の横顔を思い浮かべながら、砂のキャンバスに、彼女を描いた。
第1章 終了
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