(一)カエサルの戦い
ユリウス・カエサル(の軍隊)が何人殺したかはいろいろな説があるらしい。私はそん
なことには興味がないのだがが、ディヴィッド・ヒュームが書いているところを紹介する
(『市民の国について』)。
まず、アピアヌス(知らない)によるととして、400万のガリア人と対戦し100万
人を殺し100万人を捕虜にしたとある。プルタルコスによると交戦した兵力を300万
としているそうだ。ヒュームはそんな数を正確に数えることは不可能だと言っている。
パテルクルスという人物は、カエサルが殺したガリア人の数をわずか40万と計算して
いるが、カエサルの『ガリア戦記』の記事と一致する計算だとヒュームは述べているが、
果たしてそれも正しいか?
またヒュームは、プリニウスによるとして、カエサルは自分が戦った人間は内乱のとき
亡ぼされた人々を除いても119万2000人であったといつも自慢していたという。(
注:これは岩波文庫判の小松訳によるが、プリニウスの原文では「戦った」ではなく「殺
した」とある)。ヒュームはこのあとで、カエサルが殺した人数は大体この(つまりプリ
ニウスのいう)半分近くだったようだと書いている。だからヒューム自身は殺した数は5
0数万と見ていたらしい。
プリニウスがどう考えていたか紹介しておこう。ヒュームの文とは少し違う。
「わたしは彼が自分の同胞市民を征服したうえ、戦争で119万2000人の人間を殺
したことを、彼の名誉とは考えない。このことは、避けえない悪であったとはいえ、彼自
身が内戦の死傷者を発表しなかったことでそうと告白しているように、人類に加えられた
途方もない悪事であったのだ」。
(二)ファビウスの草の冠
ローマにおいて最高の冠は corona graminea =「草の冠」である。それ以外の冠は、
将軍や司令官たちが個人的に兵士や同僚に与えたり、あるいは凱旋式に際して元老院か人
民の布告によって与えられた。
「草の冠」、これを「草冠」としたいのだが、わが国には「くさかんむり」という言葉
があり漢字の部首の一つを指す。といって、「そうこう」という読みには馴染みが薄い。
草冠は、全軍が絶体絶命に陥ったとき、それを救った指揮者に、全軍の兵士たちの評決
によって与えられた。それ以外の冠は司令官たちによって与えられる。全陣営が恐ろしい
破滅から免れた場合はこの草冠は obsidionalis =「攻囲冠」と呼ばれた。
この冠は、包囲された軍隊が救われたその場所で摘み取られた緑草で作るのが普通であ
った。理由は、昔は、征服者に草を捧げることは被征服者にとってもっとも厳粛な敗北の
しるしであったから。敗北者にとっては、彼らを育ててくれた土地から、そして埋葬の手
段から撤退することを意味していたからだ。
だから危機に陥った場所で見つかったどんな植物でも、どんなに下等で賎しいものであ
っても、その草がその栄誉に尊厳を与えたのだ。
この冠を授与されるということは稀だった。そのうちの一人デキウス・ムスはそれを二
度も得た。彼が護民官であった時、一度は彼自身の軍隊により、も一度は守備隊によって
贈られた。もちろん草冠に金銭的価値は全くない。ムスは、贈呈を受けたのち軍神マルス
に、白い雄牛一頭とともに、救助された守備兵から贈られた百頭の黄褐色の牛を生贄とし
て捧げたという。
スラもこの冠を受けたが、後に彼が殺した人々の数に比べたら、彼が救った人の数な
ど問題ではないとも酷評されている。そのほかスキピオ・アエミリアヌスやアウグストゥ
スなども貰っているそうだ。
だが、一番印象深いのはクィントゥス・ファビウス・マクシムスの場合である。第二次
ポエニ戦争でローマ軍のトラシメヌス湖畔での大敗を受け、元老院によって独裁官に任命
された彼は、真正面からのカルタゴ軍との戦いを回避し、ハンニバル軍を消耗させる作戦
を採った。彼の消極作戦は一時非難されたが、最終的には弱体化したカルタゴ軍は撤退に
追い込まれた。
ハンニバルがイタリアから駆逐された年(前203)、元老院とローマ市民( senatu
populoque Romano )はファビウスに草冠を贈った。その理由は、戦いを拒むことによっ
て「全ローマ国家を救った」からであった。この冠は、国家そのものの手で受贈者の頭に
載せられた唯一の冠であったし、全イタリアによって与えられた唯一の冠であった。ロー
マ史でも空前絶後のことだったろう。この話を伝えた著者(プリニウス)は、「人間が獲
得しうる最上の栄誉」と称えた。
後世マキアヴェリは『ローマ史論』でファビウスを批判して言う。戦局は変化し、それ
に応じて戦法も変えなければならないのに、ファビウスは相変わらずの戦法を維持しよう
とした。もしファビウスがローマ国王だったらおそらくこの戦争に負けていただろうと。
勝ち戦をしなければいけない時にスピキオがいた。君主国に比べてさまざまな市民がいる
ため手軽に時局の変化に適応できたのだとしてマキャベリはローマ共和制の利点を強調し
て見せたのである。
またフランシス・ベイコンはこのマキャベリの見解を支持しながら、ファビウスは戦争
の性格が変わってはげしい追撃が必要となっている時代にも、昔からの癖で相変わらず合
戦を避けるという引き延ばし戦術に固執したと非難し、判断の鋭さと洞察力に欠けたと評
した。ベイコンは人間の判断力・洞察力の必要性を強調するためにこのエピソードを利用
したように見える。そこではマキャベリのようなローマ共和制への視点は見当たらない。
だが二人とも、ファビウスに草冠を贈った元老院とローマ市民の心意気には触れていな
い。知らなかった筈はないと思うが・・・。二人とも近代合理主義思想の申し子なのだろ
う。
この戦争の結末は、スピキオ・アフリカヌスがファビウスや元老院の反対を押し切って
アフリカ遠征に乗りだし、ザマでハンニバル軍を破ってカルタゴをローマの朝貢国の地位
に陥れた。さらにこのスピキオ・アフリカヌス(大アフリカヌス)の養孫のスピキオ(小
アフリカヌス)は第三次ポエニ戦争を起こし、カルタゴを完膚なきまでに破壊つくし灰塵
に帰せしめた。
◇ ◇ ◇
ファビウスにちなんで、19世紀後半にロンドンでフェビアン協会が結成された。バー
ナード・ショウ、H・G・ウェルズ、ウェッブ夫妻など当時のイギリスの知性が参画した
。社会改良主義の道を歩んだこのフェビアンたちはイギリス労働党に影響を与えた。何人
もが労働党の党首や首相になった。元首相トニー・ブレア氏もそうである。彼はアメリカ
のイラク侵略戦争に積極的に追随し「ブッシュのプードル」と揶揄された。ブレア氏がイ
ギリス議会や国民から何らかの冠を授与されることはないだろう。ファビウスに面を向け
られる筈もない。