久しぶりに机に座って本棚を眺めたら、ヴィーコ『学問の方法』(岩波文庫、上村・佐々木訳)が目についた。念のため・・・ヴィーコはイタリア・ナポリの人(1668-1744)である。
ヴィーコが言うには、彼の時代の医事には不都合があるという。古代人は長い観察によって得られた唯一のこと、つまり病気の原因ではなく、病気の重さと進み具合から確実な治療を判断することに細心なまで熱心で注意深かったと。彼らは悪化したものを回復させるより健康を維持するほうが容易であると考え、病気の回避に努めた。賢明なローマ人は唯一これだけを守っていた。十分な細心さと勤勉さとによって健康は維持されるのだ。
ヴィーコはこの書で古代の学問方法と近代の学問方法を比較して論じている。彼は、近代的学問方法を全く駄目だといっているわけでなく、古代の方法に見習うべき点が多々あると主張しているように見える。
彼は言う。近代人は解明することにかけては選りすぐれていいるのだから、彼らとともに原因を究明しよう・・・古代人の予防法(体育とか規定食餌のこと)をも、われわれの治療法同様尊重しようと。
彼は具体的な古代の予防法を挙げているわけではない。ただ自己の健康管理に努めたといわれるティベリウス帝の名を挙げているだけである。そこで思い出すのは『博物誌』の著者プリニウスの養生訓である。そのいくつかは「魔術と医術(7)健康と生命の自己管理」で紹介した。当時のギリシアの医術に信を置けず、さりとて従来の本草にも不安を感じていた彼は予防法、自己管理法を提案していたのである。
明治時代来日して医学を講じたり、皇室・華族・政府高官たちの主治医でもあったドイツ人医師ベルツは、第一回日本連合医学会で名誉会長として祝辞を述べた。そこで彼は日本医学会の驚異的進歩を称えたが、同時に予防医学の重要性、特に家庭医の役割の強調、幼児からの健康維持の必要性を訴えることを忘れなかった。これは筆者の勝手な推測であるが、福沢諭吉が、医学は外科から進歩するという物理学的観点から西洋医学を見ていたことに対する批判かもしれない。ヴィーコが聞いたら多分ベルツに軍配を上げたに違いない。
プリニウスは、ローマにおいて次から次へと新しい病気が発生すると嘆いていた。ヴィーコもこう言っている。「病人がつねに同一ではないのと同様、病気は常に新しく、同一ではない」「病気は無限にあるのであるから、一つの型のもとにすべてのものが限界づけられるなどということはありえない」「より安全に助言できることは・・・個別的なものを追求しよう・・・主として帰納法に依拠してやってゆこう」と。
人間が生物である限り病気は無くならないだろう。インフルエンザも姿を変えては現れる。さらにヴィーコはこうも言っていた。「肉体の病気と心の病気はきわめて緊密に互いに対応しあい調和しあっているのである」。この考えだって今日では常識である。
現代社会においてストレスは万病の元になり、われわれを取りまく衣食住の環境はアレルギー物質を放射し続ける。アレルギーが万病の元だと論ずる医師もいる。
古い話になるが、十年ほど前、成田空港近くのホテルの一室からミイラ化した死体が発見されたときに、関連したような記事を読んだ。米国のある医者の話とか。「土葬すると通常三ヶ月で白骨化するが、最近は一年経っても白骨化せずミイラ化する」。理由は、「加工食品を長年大量に摂取したため、食品添加物(とくに保存料)が効き過ぎて、体内のたんぱく質を分解しなくなっているから」とのこと。実に恐ろしい。こんな話はそれ以後二度と聞いていないが・・・。そんな話、誰も聞きたくはない。
結局つねに新しく発生する病気に対処するための最良の手段というのは予防医学であり健康法なのだろうか。そういうことはどこのお医者さんも言う。一般市民だって心得ている。だが実践となると容易ではない。「医者の不養生」ということもある。巷に流行る健康法も、健康器具も、健康剤もどこまで信用できるのか・・・。
だが二十一世紀の今日、立派な解決法を考えていらっしゃる人もいるに違いない。もちろんこれは医術だけの問題ではない。病気は社会的問題なのだ・・・、しかし。