静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

病気は常に新しい

2010-01-30 16:15:10 | 日記
 風邪をひいて寝込んだ。若いとき(二十歳代)よく風邪をひいて一週間、十日と寝込んだ、寮や下宿、アパートで。医者にかかったり薬を飲んだりはしない。ただ耐えて寝ているだけ。床を上げたら畳にカビが生えていたこともあった。歳をとってからはほとんど引かない。
 久しぶりに机に座って本棚を眺めたら、ヴィーコ『学問の方法』(岩波文庫、上村・佐々木訳)が目についた。念のため・・・ヴィーコはイタリア・ナポリの人(1668-1744)である。

 ヴィーコが言うには、彼の時代の医事には不都合があるという。古代人は長い観察によって得られた唯一のこと、つまり病気の原因ではなく、病気の重さと進み具合から確実な治療を判断することに細心なまで熱心で注意深かったと。彼らは悪化したものを回復させるより健康を維持するほうが容易であると考え、病気の回避に努めた。賢明なローマ人は唯一これだけを守っていた。十分な細心さと勤勉さとによって健康は維持されるのだ。

 ヴィーコはこの書で古代の学問方法と近代の学問方法を比較して論じている。彼は、近代的学問方法を全く駄目だといっているわけでなく、古代の方法に見習うべき点が多々あると主張しているように見える。
 彼は言う。近代人は解明することにかけては選りすぐれていいるのだから、彼らとともに原因を究明しよう・・・古代人の予防法(体育とか規定食餌のこと)をも、われわれの治療法同様尊重しようと。

 彼は具体的な古代の予防法を挙げているわけではない。ただ自己の健康管理に努めたといわれるティベリウス帝の名を挙げているだけである。そこで思い出すのは『博物誌』の著者プリニウスの養生訓である。そのいくつかは「魔術と医術(7)健康と生命の自己管理」で紹介した。当時のギリシアの医術に信を置けず、さりとて従来の本草にも不安を感じていた彼は予防法、自己管理法を提案していたのである。

 明治時代来日して医学を講じたり、皇室・華族・政府高官たちの主治医でもあったドイツ人医師ベルツは、第一回日本連合医学会で名誉会長として祝辞を述べた。そこで彼は日本医学会の驚異的進歩を称えたが、同時に予防医学の重要性、特に家庭医の役割の強調、幼児からの健康維持の必要性を訴えることを忘れなかった。これは筆者の勝手な推測であるが、福沢諭吉が、医学は外科から進歩するという物理学的観点から西洋医学を見ていたことに対する批判かもしれない。ヴィーコが聞いたら多分ベルツに軍配を上げたに違いない。

 プリニウスは、ローマにおいて次から次へと新しい病気が発生すると嘆いていた。ヴィーコもこう言っている。「病人がつねに同一ではないのと同様、病気は常に新しく、同一ではない」「病気は無限にあるのであるから、一つの型のもとにすべてのものが限界づけられるなどということはありえない」「より安全に助言できることは・・・個別的なものを追求しよう・・・主として帰納法に依拠してやってゆこう」と。
 人間が生物である限り病気は無くならないだろう。インフルエンザも姿を変えては現れる。さらにヴィーコはこうも言っていた。「肉体の病気と心の病気はきわめて緊密に互いに対応しあい調和しあっているのである」。この考えだって今日では常識である。

 現代社会においてストレスは万病の元になり、われわれを取りまく衣食住の環境はアレルギー物質を放射し続ける。アレルギーが万病の元だと論ずる医師もいる。
 古い話になるが、十年ほど前、成田空港近くのホテルの一室からミイラ化した死体が発見されたときに、関連したような記事を読んだ。米国のある医者の話とか。「土葬すると通常三ヶ月で白骨化するが、最近は一年経っても白骨化せずミイラ化する」。理由は、「加工食品を長年大量に摂取したため、食品添加物(とくに保存料)が効き過ぎて、体内のたんぱく質を分解しなくなっているから」とのこと。実に恐ろしい。こんな話はそれ以後二度と聞いていないが・・・。そんな話、誰も聞きたくはない。

 結局つねに新しく発生する病気に対処するための最良の手段というのは予防医学であり健康法なのだろうか。そういうことはどこのお医者さんも言う。一般市民だって心得ている。だが実践となると容易ではない。「医者の不養生」ということもある。巷に流行る健康法も、健康器具も、健康剤もどこまで信用できるのか・・・。
 だが二十一世紀の今日、立派な解決法を考えていらっしゃる人もいるに違いない。もちろんこれは医術だけの問題ではない。病気は社会的問題なのだ・・・、しかし。

新しい共同体を

2010-01-19 16:42:00 | 日記
 ベルツは明治九年、一万戸以上が炎上した大火災の翌日、東京市民たちが焚き火を囲みながら、何事もなかったように冗談を言ったり笑ったりしているのを見て驚嘆したことは「無欲淡白」で書いたところである。江戸時代の長屋を引き継ぐ彼らには、財産というほどのものはない。炊事用具・食器、布団とわずかの着替え、そんなところだろう。長屋住まいの人たちに隠し事などない。宵越しの金は使わない、その日のうちに使ってしまう、それで心配はないのか。困ったことがあれば隣り近所が助けてくれる。病気になれば食べ物を届けてくれる、看病もしてくれる、仕事がなければ探してくれる・・・それが地域共同体だ。 

 石やコンクリートの厚い壁に仕切られプライベートが守られる都市においては、そう簡単ではない。もちろんそこにも共同体はあるだろうが、もう昔の共同体ではない。中央ヨーロッパの一部には第二次大戦頃まで、古くからの地域共同体が残っていて、労働力を失って生活できない人にはその共同体が面倒を見るという風習があったという。昔は、そういう共同体はどこにもあった。ロシアにもインドにもアフリカにも。素人考えによれば、地域共同体の崩壊はイギリスの囲い込み運動(エンクロージャー・ムーヴメント)から始まったのではないかと思う。

 ベルツの故国ドイツではとっくに失われたものだろう。日本人の無欲淡白に驚いた彼は、果たして西洋文化の輸入が可能なのかどうかと危惧した。それから百数十年、西洋文化の輸入に成功して「世界第二の経済大国」になったその国の大都市神戸は大地震に見舞われた。 だが、近代的な街として復興しても、長田町のように共同体的生活環境が残っていたところもその共同体的性格は崩壊したままだというではないか。このことは前回の「一月十七日覚え書き」でも触れた。

 先の東京の大火では死者は出なかったようだ。神戸では大変な犠牲者がでた。決して同一には論じられないが、共同体の支えがあるとないとでは気持ちの支えが違う。資本主義が高度になればなるほど、高層ビルが高くなればなるほど、個人の孤独は深まるのだろうか。 地域共同体についてトクヴィルがいいことを言っているので聞いてみよう。地域共同体は唯一自然に根ざした社会的結合であって、人間が集まればひとりでに共同体ができるものである。それゆえ共同社会は慣行、法制を問わず、どんな国民にも存在する。王国を創り共和国を建てるのは人間であるが、共同体は神の手から直(じか)に生ずるように思われる」(松本訳『アメリカのデモクラシー』)。

  そしてトクヴィルは連邦の政治制度の検討をこの地域共同体(タウン)から始める。  (注:トクヴィルは「タウン」あるいは「タウンシップ」、あるいはコムミューンとい   う言葉を使っているらしい。日本語訳もまちまちになっている。連邦での正式の名称   は「タウンシップ」である)。

 トクヴィルがアメリカ連邦の政治的自治の基礎組織として高く評価しているタウンシップは、旧大陸にあった地域共同体とは違ったものだと私は考える。タウンシップは彼の言う「神の手」からじかに生じたものではなく、まことに人為的に作られた組織であると思う。トクヴィル自身が述べているように、タウンシップに住み着いた住民たちも、よりよい条件を求めて数年とか十数年で移動して渡り歩く開拓者が多いのである。本来の意味の共同体など作っている暇はない。比較的安定したタウンシップでも、内部に黒人奴隷などの労働力を抱えている。アフリカ大陸から拉致された黒人たちは、故国における地域共同体からむりやり剥がされ、本人の意思に関係なくタウンシップに組み込まれる。その黒人労働者を支配する白人自身がヨーロッパの共同体から離れて新天地に赴いたひとびとである。
 そういう人たちがある地域に集住したとて、それがコミューンと呼ばれうるものにすぐさまなりうるだろうか。 そして急激な資本主義の発達は、この社会での共同体の形成をいっそう困難にさせた。さらにクルマ社会がそれに輪をかけた。個々人に銃を持つ権利が与えられ、すべてが自己責任、勝ち組になるか負け組みになるか、すべて本人の個人的な才覚や運勢にかかる。社会保障政策は個人の自由を妨げる社会主義的なやり方だと考えるのが一般的になる。

 それ以外の国でも大都会に人口は集中し、孤独死やホームレスが日常化した。そして自殺者の増加。だが、そういう古い共同体、コミュニティーを作り直すことは不可能だ。新しい共同体を、民主的な共同体を作ってゆく努力を重ねるしかないだろう。封建的な身分制の枠内の共同体ではなく、真に個人の尊厳と平等・自由の基盤の上に立った共同体を。

一月十七日覚え書き

2010-01-16 17:03:51 | 日記
 一月十七日にはいろいろなことが起きる。
 明治三十年(一八九七)頃の一月十七日、熱海の海岸で貫一が「今月今夜の月を僕の涙で曇らせてみせる」と叫んでお宮を蹴飛ばす。
 一九九一年一月十七日、湾岸戦争始まる。
 一九九五年一月十七日、阪神・淡路大震災発生。

 『金色夜叉』は明治三十年から三十五年にわたって新聞に連載された。日清戦争と日露戦争の間である。お宮は富山という資産家に嫁ぐ。『吾輩は猫である』に出てくる資産家は金田さんである。明治の作家は実にわかりやすい名前をつける。現実の富山さんや金田さんには多少気の毒な気もするが、これはやむをえない、何しろ創作なのだから。
 この小説は金権主義批判の小説である。『猫』にもそういう部分があった。このような小説が世に受け入れられるには、それなりの背景があった。だが、そんなものは昭和の後半以降、とくに平成の時代には受けない。ギリシア時代には金儲けの術があったが、平成の日本でもそれは大流行。学校で株の売買の仕方を教えたりするという話を前に聞いた。

 これらの作品の背景には、「武士は食わねど高楊枝」で表わされるような、金銭をいやしむ感覚、儒教道徳の克己主義や節倹思想、その裏面での蓄財や金持ちを卑しむという風潮などが残っていたせいかもしれない。そういう風潮の残影は第二次大戦の頃まで存在したというと語弊があろうか? 少なくとも金儲けの術を学校で教えるなどということはありえなかった。

 湾岸戦争はブッシュ政権が用意周到に準備して始めた侵略戦争である。アイゼンハワー元大統領が言った産軍複合体の極致だろう。アフガン戦争はその延長である。そのアフガン戦線にオバマ大統領はさらに大軍を派遣するという。
 アメリカがイラク・アフガン戦争で使った金は一兆ドルにもなるというではないか。それで懐を肥やしたのは誰か。それをもっと続けようというのか。「ほとんどのアメリカ人はイラクがどこにあるか知らないんだよ。位置もわからない国に侵攻し、後で調べればいいと思う国なんだ」(マイケル・ムーア)。
 日本の海上自衛隊はアメリカ政府の要請にもとづいてこの八年間インド洋で給油活動を行ったが、この行動で約七百億円使ったそうだ。給油は無償で米軍に提供された。これはよく覚えておかなければならない。

 阪神・淡路大震災から丸十五年。震災後多くの被災者が何年間もプレハブ住宅に住むことを余儀なくされた。政府はどう言ったか。日本は私有財産制だから、国家に責任はなく、個人で何とかするのが建前だと。たしかに日本国憲法第二十九条では財産権の保障をうたっている。この財産権の保障とは、財産を持っている人間への保障であり、財産のない者に何かを保障するものではない。その当時も銀行へは無制限ともいうべき保障が行われた。

 結局多くの人たちが借金で、つまり自己責任で住宅や店舗を再建しなければならなかった。そんな借金はかんたんに返済できるものではない。借金が出来る人はまだいい。それもできない人だってたくさんいただろう。さらに、障碍を被った人たちはさらに悲惨である。地域共同体を破損されて、人間的紐帯を失い、精神的・肉体的に喪失感を失った人たちも多い。どんな立派な近代的建造物を作ろうと、永年の間に築かれてきた共同体が破壊されたままで復旧されなければ、人間としての豊かな生活が保障されるだろうか。

 その後も世界各地で大地震がおきている。東南アジアで、中国で、そしてまた今回はハイチで。地球は生きものである。地震がなくなるのは地球が死んだときである。だから誰もが考える。戦争を止め、核兵器をはじめとする軍備競争を終わりにし、その費用で地震のメカニズムと予知の研究に、インフラや都市、建造物の耐震化、被災者の完全救済などにあてるべきだと。
 

江戸の華の無欲淡白

2010-01-10 12:46:25 | 日記

 火事は喧嘩と並んで江戸の華だったが、東京と変わっても火事は相変らず華だったらしい。

 一八七六年(明治九)にドイツから日本にやってきて東京大学医学部などの教師を二十六年間勤めたベルツは、冬の東京でひんぱんに大火があると述べている。彼が見た最初の大火では八百戸が消失した。ベルツが驚いたのは、そんな大火に遭遇しても、みんな比較的静粛で、わめき騒ぐこともなく、女・子どもの泣き叫ぶ声もせず、いたるところで男子の群れが休みなく、音もなく働いて、水を運んだり、家屋を取り壊したり、畳やこまごまとした持ち物の詰まったこうりを持ち出したりしていることであった。

 彼が着任した年の十一月三十日には一万戸以上が消失する大火があった。翌日の日記に彼は書いた。
 「日本人とは驚嘆すべき国民である! 今日午後、火災があってから三十六時間たつかたたぬうちに、はや現場では、せいぜい板小屋と称すべき程度のものではあるが、千戸以上の家屋が、まるで地から生えたように立ち並んでいる。・・・女や男や子どもたちが三々五々小さい火を囲んですわり、タバコをふかしたりしゃべったりしている。彼らの顔には悲しみの痕跡もない。まるで何事もなかったかのように、冗談をいったり笑ったりしている幾多の人びとを見た」。

 そして、「本来の、全く木材のみからできた家屋で残存する部分は何もない、屋根瓦の破片以外には何も残らない。見る影もない赤裸の黒くすすけた塀が空高くそびえていることもなければ、かつて豪華な建物の骨組みだけが焼けただれて残っていることもなく、家具類の壊れたものも、金具などの焼けかたまったものも、暖炉のくずれたのも―何もない―何もないのだ」と述べている」(岩波文庫『ベルツの日記』)。

 これは一外国人が東京の火事現場を眺めた感想である。では日本人自身は火事をどう思っていたか、私には今すぐ引用できる資料は見つけだせない。一例だけ、藤村の『夜明け前』から引いてみる。
 「その年(万延一年、1851)の十月十九日の夜にはまた、馬籠の宿は十六軒ほど焼けて、半蔵の生まれた古い家も一晩のうちに灰になった。隣家の伏見屋、本陣の新宅、皆焼け落ちた。風当たりの強い位置にある馬籠峠とは言いながら、三年のうちに二度の大火は、村としても深い打撃であった」。
 この文面の次は、その四ヵ月後半蔵と妻は焼け残った土蔵に暮らしていたと続く。場所も年代も違う。しかも小説である。単純に比較できない。しかし、なんとそっけない叙述ではないか。小さな宿場にとって大火であったというのに。

 一九四五年、わが国の全国の都市の多くが空襲で廃墟と化した。地方都市ではほとんどが木造建造物であったので、その焼け跡はベルツの見た東京大火とほとんど違わなかった。写真で見ると、東京でも下町の焼け跡はそのように見える。違うのは、立ち上がっている水道管が焼け残ったくらいだろう。

 ベルツはこのような焼け跡を見てなんと言ったか。ベルツは先の「何もないのだ」に続けて「この簡潔さはあまりにも程度がはなはだしいので、ヨーロッパからの文化輸入はことごとくこの点、すなわち人びとの無欲淡白な点で、どうやら暗礁にのりあげそうである」。
 日本人に先端の西洋科学とその科学を生み出した精神を教え込もうと意気込んで来日したベルツにとって、それは呆然とするような風景であったに違いない。彼が見たことも聞いたこともなかった別の文明がそこにあった。東京の市民にとって高い塀がどうした、暖炉のくずれがなんだ、ということになるだろう。

 だが、本来日本人はベルツが考えたような無欲淡白な国民だったのだろうか。無欲淡白と見えたのは、実は、ほんの少しばかりの財産さえ蓄えることも許されなかった日本の庶民の貧しさの証拠だったのだろうか。日本の都市の多くは城下町から出発した。その城下町の城壁は大名や将軍の居城のものであり、民衆はその城の周りに集住し木造のバラックのような家に住んだ。いざ戦となれば火をつけられる運命にあった。だから宵越しの金を持たないという気質も生まれたのだという説明もあるだろう。だが、徳川時代は二百数十年も戦争のなかった世界だ。
 それに、貧しいということと、幸せだということとは違う。幕末から明治初期に来日したほとんどの西洋人が、日本人が幸せな生活を送っているように見えると、賛嘆しているではないか。


新和魂洋才論

2010-01-09 13:28:44 | 日記
 ベルツの言葉
 「和魂洋才」というのは、表現は多少違うが、幕末においていろいろな思想家ガ共通のスローガンとして掲げた言葉だった。たとえば佐久間象山は「東洋道徳・西洋芸術」と、橋本左内は「仁義の道・忠孝の教えが吾より開き、器技乃工・芸術の精は彼より取り」と論じた。 
 ひらたくいえば、つまり、精神的なものは自前のもので間に合っているが、科学的・技術的なものは及ばないから西洋のものを取り入れよう、という考えである。
 下に掲げるのは、明治九年(1876)来日して医学を講じたベルツが、日本滞在二五周年記念祝賀会で行った講演の一節を私なりに要約したものである。有名な講演だからご存知の方も多いと思う。

 西洋の科学の世界は一つの有機体で、一定の気候、一定の空気が必要であり、西洋の精神的大気もまた、自然の探求、世界の謎の究明を目指した幾多の人びとの数千年にわたる努力の結果である。西洋諸国は教師を送って日本にこの精神を植えつけようとしたが誤解され、科学の果実を切り売る人として扱われた。科学の「成果」だけを受け取ることに満足し、その成果をもたらした精神を学ぼうとしない(岩波文庫『ベルツの日記』から)。

 彼がこの西洋の精神的大気の発端としてあげる人物はピタゴラス、アリストテレス、ヒポクラテス、アルキメデス。最新の人物としてファラデー、ヘルムホルツ、フィルヒョウ、パストール、レントゲンである。相対的に医学系の人物が多いが、それが具体的にどんな精神なのかは、このような挨拶程度の講演では分からない。

 ベルツは和魂洋才という言葉は使っていないが、この和魂洋才という言葉をあてはめて考えると、日本人は洋才、つまり科学の成果だけを追い求めて、「洋魂」の導入を怠り、それを学ぼうとしない、ということである。「才と魂」は有機的に結びついているのに、日本人はそれを切り離し、「魂」のほうは、自前のもので間に合っているから結構ですということである。
 
 この講演の行われた1901年には、日清戦争で得た「賠償金」の一部を基金として造られた八幡製鉄所が操業を開始した。その三年後には日露戦争へと突入し、日本中が民族的な躁状態に陥っていく。近代戦争には西洋の科学・技術、つまり「洋才」の習得が必須だったのだろう。そして日露戦争の勝利は、漱石が揶揄したように「大和魂」の氾濫をもたらす。「和魂」は「大和魂」に化身する。


 
 古在の和魂論
 古在由重は「和魂論ノート」(岩波講座『哲学』日本の哲学18、1969)において独自の和魂論を展開した。彼によれば「和魂」は二世紀あまり続いた徳川権力の強固な封建的身分制度を打ち破り、長い鎖国のかわりに新たな開国をもたらしたものであり、それに反して「洋才」というのは近代の普遍的な真理認識のことだという。
 では「洋魂」とはなにか? それは植民地分割を推し進めながら、まっしぐらに帝国主義の段階に向かいつつあった強大な資本主義国の精神ではないか? そして彼は言う、「もしこの意味での『洋魂』であるならば、やがて維新以後の日本資本主義は自由民権運動を抑圧しその特殊なイデオロギーにもかかわらず、実質には日清・日露両戦争を通じて急速に自らを洋魂化した」と。つまり「和魂洋才」といいながら、実際は「洋魂洋才」になってしまったのだと。

 そして「和魂」をつぎのように定義する。「ふるくさい形式や習気をすてて、科学的な認識と民族の自由独立との普遍的な原理を日本民族の直面する特殊な内外の歴史的状況及び局面に対処しつつどのように活用するか? この気迫、決断、そして闘魂―これこそまさに『和魂』である」。
 したがって古在によれば、いわば「洋魂」にならってアジア諸国の植民地支配を行ったのは「和魂」ではない。漱石が揶揄した大和魂、アジア・太平洋戦争で日本臣民に強要された大和魂は「和魂」ではないということになる。

 筆者はベルツのいうことにも、古在のいうことにもそれぞれ一理あると思う。両者の視点が違う。おそらくわれわれの課題は、ベルツが自賛する西洋の大気が、どうして古在のいう帝国主義的支配の精神に変身していったのか、それを追求することにあるのかもしれない。
 今日、日本民族の直面する歴史的状況・局面はなんだろう。「和魂党」という政党が出来るかもしれなかった。戦後65年間も「独立国家」日本に外国軍事基地があり、事実上の治外法権、年々の思いやり予算・・・基地周辺の住民のいい知れぬ苦しみ。「和魂党」に期待したい。民族の自由と独立のために、外国の軍事基地を一刻も早く撤去させることを!