中国語学習者のブログ

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沈宏非のグルメ・エッセイ: 皮は薄く餡はたっぷり~包子(バオズ)

2010年06月25日 | 中国グルメ(美食)

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皮は薄く餡はたっぷり(皮薄餡大)

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“包子”(バオズ。肉まん)は、一種の思わせぶりな(“挑逗”)食べ物に他ならない。もし、かの風情を解さない者がやってきて、店に入るや一種類の餡のものだけ頼んでむしゃむしゃ食べだされたら、その不幸な“包子”は強姦されたことに他ならない。

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“包子”(バオズ)の思わせぶりさは、知るべき中身の内容がしばらくはわからないことから来ていて、行為の上では袋の中に何が入っているか探る快楽であり、自然にわき起こる(“油然而生”)探索精神である。したがって、“包子”を食べる過程は、娯楽性に満ちている。多くの人は、とりわけあまりに空腹の時、しばしばこのおもしろい遊戯を楽しむチャンスを失っている。

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“包子”は静かに蒸籠の中に身を寄せて座っている(“団身而座”)。縫い目(収口処)に若干のひだやしわがある他は、外側は温厚篤実(“憨厚敦実”)、甚だしきは多少不器量なおバカさん(“笨頭笨脳”)である。この時、肉眼では“包子”の内部を透視(“看穿”)することはできないが、想像がかきたてられ、唾液の分泌は異常に活発になる。実際には“包子”の内部は餡に他ならない。餡は野菜でなければ肉、それとも野菜と肉を混ぜたものである。この点は、私たちは先刻承知している。しかし、それでも私たちは抑えきれずにこう想像してしまう。“この一個の” 包子は、熱力の作用で果たして私たちの味覚にどのような驚きと喜びを与えてくれるのだろうか。景徳鎮の工匠のように、顔にぼうぼうと燃え盛る(“熊熊的”)火炎を映しながら、一場の驚くべき窯変に思いをはせ(“心馳神往”)、期待する。

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“包子”の餡の材料は、実際は複雑である。野菜、肉の他、生姜、葱、塩、ゴマ油や料理酒は欠かせない。餡に、十分に蒸された後、濃厚且つ分量がちょうどよいくらいの汁を出させようと思えば、大切なのは餡をかき混ぜる時に適当な比率で豚の皮の油の煮こごり(“肉皮凍”)を入れるのを忘れないことである。昨今いささか乱用されている“内包”(“底蘊”)ということばは、豚の皮の煮こごりと包子の内在関係を形容するのに、この上なくふさわしい。この他、私は個人的には単一の材料の餡の包子はあまり好きではない。肉だけ(“全肉”)、或いは野菜だけ(“全菜”)の包子は、味が多少単調であり、肉好き、或いはその対立者をしばしば堪能させるだけである。野菜と肉の混ざったものは、ボリューム(質感)のグレードをアップさせるだけでなく、肉、野菜、小麦粉の三種の基本元素の相乗作用によってこそ、包子の熱々の蒸籠の中に勇壮な天籟を響かせることができると、私は深く信じている。

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“包子”が蒸し上がっても、それは必要な一部分が完成したに過ぎず、包子を食べることはそれと互角に重要な工程で、今度は私たちがどうするかである。私は、一つの包子を食べて喜びで胸一杯になる(“満心歓喜”)には、以下の動作、要領を厳格に守っていかなければならないと考える。一、手のひらを上に向け、人差し指、親指、中指をそれぞれ包子の底部からてっぺんと左右の三点を押えてこれを持ち、口の一辺に向け、余裕をもって噛み切れる場所を確保する。二、一か所、銅銭くらいの大きさを噛み切って(包子の大きさから見て、八分の一くらいの比率が良い)後、慌てて飲み込んでしまってはならない。先ず、水平方向から穴の中の餡を近距離で観察し、その後、舌先を軽く触れて温度を測り、再び口をO形に開き、上と下の唇を包子の噛み切った所をぴったりと包み込む。この時、両眼を閉じて、宇宙船がドッキングする(“対接”)のを想像するのがよろしい。三、丹田(へその下三寸のところで、道家の説で人の精気の集まるところ)の真気を結集させ、包子の餡の肉汁を休まずに口の中に吸い込み、それがゆっくり舌の上を流れるに任せ、更に口腔の四方の壁に沿い味蕾(みらい。舌粘膜の乳頭内にある卵形の小体で、味覚をつかさどる)を細かく潤す。進退を共にする餡の団子と肉汁が同時に吸い込まれるのを防ぐため、上下の唇は後ろにすぼめると同時に、ついでに舌の先で前を止め、もぞもぞと動きたがる餡の団子を元の位置に戻し、餡の肉汁がさらさらと口腔に入って来る際、同時に餡の団子の味わいとボリューム(質感)を楽しむことができる。四、餡の肉汁が完全に吸い取られないうちに、躊躇せず包子を一口で(多くとも二口か三口で)食べてしまう。全体の動作は、顔つきは普段包子を食べる時のようだが、実際はその肉汁をしっかりと吸い取り、太極拳の“推手”(手を前方に突き出す動作)を舌の先で大いに行えば、鈍感な人でも最高の境地に達することができる。

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皮と餡は予め作ったもので、ただ、餡の肉汁だけが自然にできた(“天成”)ものである。しかし、一個の好い包子は、汁が多すぎてもいけない。あの油がたっぷり浮いた(“油汪汪”)“湯包”(小籠包の類)は、実際はおいしくない。“湯包”を作る人たちはスープ(“湯”)と汁の区別を正しく理解していない。私は嘗て南京で一種の“淮揚湯包”(淮河流域から揚州にかけての江南地方風の“湯包”。 大きさは上海の南翔小籠包に比べ、少し大ぶりで、包子一個がちょうど入るミニ蒸籠に入れて出てくる)を食べたことがある。皮は薄くスープはたっぷり、包子(これも“包子”の一種である)の他、ストローを一本くれた。ストローを包子に突き刺し、頭を下げてスープを吸うと、包子はみるみる萎びていき、その情況たるや、本当に漫画を見ているようだ。

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【原文】沈宏非《写食主義》四川文藝出版社20009月より翻訳

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