中国語気になる表現

中国語通訳案内士の稲賀聡が、中国語の様々な表現を紹介していきます。ご質問等ございましたら、お気軽にお問い合わせください。

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石上神宮に行ってきました

2015-08-14 16:24:49 | 日記

 近鉄天理駅から東へ2キロ余り、天理教本部の前を通り抜けた先、山の麓の森の中に石上神宮(いそのかみじんぐう)はあります。
 大陸から移住してきた渡来人の一つ、物部(もののべ)氏の氏神であり、古代の武器である刀剣の神様です。もっとも、物部氏は、物部守屋が蘇我馬子に滅ぼされて後は、朝政の中枢を担うことはありまでんでしたが。

 神社の拝殿は、現存する最古のもので、国宝に指定されています。時代的には、鎌倉時代初期のものだそうです。
 また、現在は拝殿の後ろに本殿がありますが、元来は本殿がなく、神の宿る場所として、禁足地となっていました。明治の発掘調査で、ここから太刀が出土しています。

 回廊は、朱に緑色が目に鮮やか。楼門は、元々鐘楼として、鐘が吊るされていたそうです。

 境内では、30羽ほどの鶏が放し飼いにされています。神様のお使いとして、大切にされています。

 神社の境内入口の木製の大鳥居の周囲はうっそうとした樹木で覆われていて、境内を別世界にしています。

 楼門の向かいの一段高いところに、摂社の出雲健雄神社(いずもたけおじんじゃ)があります。草薙の剣の荒御霊、つまり刀の霊魂を祭っています。その向かいに、出雲健雄神社の拝殿があります。

 割拝殿という形式で、中央の通路を挟み左右に拝殿があります。ちょうど京都鞍馬の火祭りで有名な由岐神社の拝殿が同じ形式です。
 実はこの拝殿は、元来は、石上神宮から山辺の道に沿って1キロ余り南へ行ったところに、明治初頭の廃仏毀釈で廃寺になるまで存在した、内山永久寺の鎮守社の住吉神社の拝殿であったそうです。今は無き内山永久寺の遺構として貴重で、且つ建築様式も珍しく、国宝に指定されています。
 この後、内山永久寺跡まで行ってみましたが、あたりは柿畑が広がり、寺院があった面影は残っていませんでした。

 石上神宮から山辺の道を南に行くと、まもなく蓮池が見えてきます。ちょうど白い蓮の花が見頃を迎えていました。
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高台寺に行ってきました

2015-07-20 20:03:01 | 日記

 今回は京都東山の高台寺です。豊臣秀吉の死後、夫人の北政所ねねが秀吉の菩提を弔うため、秀吉の眠る東山三十六峰の一つ阿弥陀ヶ峰の麓に開いたお寺です。
 高台寺の拝観受付所を通って、その先から円山公園の方を見下ろすと、奇妙な建物が見えてきます。

 これは大雲寺祇園閣、1928年に当時の大倉財閥の大倉喜八郎が祇園祭の山鉾をモデルに作ったもので、鉄筋コンクリートの建物です。設計は西本願寺伝道院を作った伊東忠太。
 さて、高台寺での見ものは庭園です。小堀遠州作庭。方丈正面の枯山水、方丈から開山堂を望む、池を中心とした緑豊かな庭園の二つがあります。


 先ずは正面、勅使門を背に、白川砂を敷き詰めた枯山水。真っ白な白川砂で盛り砂が二つ作られています。一つは丸、一つは四角。臨済宗のお寺ですから、これも禅の公案でしょうか。

 こちらの庭は、偃月池、臥竜池を中心に、樹木と芝の中に石が効果的に配され、心が洗われるよう。行った日はちょうど朝から雨が降っていましたので、一層緑が鮮やかでした。

 開山堂。建仁寺から迎えた三江紹益を祀っていますが、このお堂の見ものは内部の天井の彩飾。秀吉使用の船の天井、北政所の御所車の材が使われているそうで、当時の色使いの絵がそのまま残っています。
 開山堂正面の左右の窓は火頭窓。中国宋から禅宗と共に日本に入ってきたものです。
 もうひとつ、高台寺の見ものは趣向を凝らした茶室の数々。

 傘亭。屋根は宝形作り、天井が無く、屋根裏を放射状に竹の垂木を組み合わせてあり、傘の骨に見立ててあります。

 時雨亭。珍しい二階建ての茶室で、階下が待合、階上が茶席だそう。ねねの時代は、樹木もまだ生い茂っておらず、人家も少なかったので、遥か淀川から大阪方面も見渡せ、ねねはこの階上から大坂夏の陣で燃え落ちる大坂城を見て一人涙したとか。
 この傘亭と時雨亭は、秀吉の居城であった伏見城から移されたものです。

 遺芳庵。豪商、灰屋紹益と、その妻になった六条三筋町遊廓の吉野太夫の好みの茶室で、吉野窓と呼ばれる丸窓が印象的です。
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奈良白毫寺を訪ねて

2015-07-12 21:58:33 | 日記

 奈良公園の東側、北から若草山、そして春日大社の鎮座する御蓋山(三笠山)の南に、高円山(たかまとやま)という山があります。標高400メートルの穏やかな山です。この高円山の西麓にあるのが白毫寺です。
 春日大社本殿から南へ、通称ささやきの小道と呼ばれる森の中の道を抜けると、光明皇后ゆかりの新薬師寺。ここから南東へ1キロほど歩きます。人家の並ぶ坂道を登りきったところに石段が見えてきます。

 石段の両側は萩が生い茂っています。9月の花の季節には、さぞ見事だろうと思われます。そして、石段を登りきったところが白毫寺境内。

 白毫寺本殿。真言律宗のお寺で、本尊は阿弥陀如来。建物は江戸時代に再建されたもの。白毫寺は715年、志貴皇子の死を悼み、父の天智天皇の勅願で、元の志貴皇子の山荘を寺にしたと言われています。


 桔梗の花咲く中庭を抜けて、宝物殿に入ります。見所は、正面の須弥壇中央の平安末期〜鎌倉期、定朝様式の阿弥陀如来、その右に、伝文殊菩薩、左に地蔵菩薩。何れも木像ですが、穏やかな表情に気品が感じられます。一方、左手の台には閻魔像、こちらはたいへん表情豊か。右手の台上には、鎌倉時代に白毫寺を中興した、西大寺の叡尊の老年の像が安置されています。

 白毫寺境内から、奈良盆地を見下ろします。遠くの山並みは左手が葛城山、中央が二上山、右手は信貴山から生駒山。ここは奈良盆地の東の端を縫って走る山辺の道の北端に当たります。
 近鉄奈良駅から、春日大社、新薬師寺と通って白毫寺まで。約5キロのコースです。
 次回は是非秋の萩の花が見頃の時期に来たいものです。万葉集、笠金村の詩、
 高円の野辺の秋萩いたづらに
 咲きか散るらむ見る人なしに
朝早く、人気の無い時間に訪れれば、この詩の雰囲気に浸れるのではないかと思います。
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秋篠寺に行ってきました

2015-07-05 20:06:01 | 日記

 近鉄京都線の平城駅から西へ、奈良競輪場の先に、樹木の生い茂った所があります。秋篠寺です。
 奈良時代の終わり頃の創建ですが、平安末期の兵火で講堂以外焼失してしまい、焼け残った講堂を鎌倉時代に修理したのが現在の本堂、写真の建物で、国宝に指定されています。屋根の曲線の美しい建物です。
 幅17.45メートル、奥行き12.12メートルの建物の中に、本尊の薬師三尊を中心とした仏像が並ぶなか、須弥壇の向かって左端におられるのが有名な伎芸天で、頭部は奈良時代のオリジナルですが、胴は鎌倉時代に作成されたもの、しかしそれを感じさせないほどバランスよく仕上がっています。


 この写真は本堂の入口手前の境内の様子ですが、地面一面を苔が覆って、幻想的です。このあたりは、元の金堂の跡地で、明治の廃仏毀釈の後、復興することなく、文字通り苔むしたままとなっています。


 秋篠寺南門です。元はこの門の手前に南大門があったようですが、今はこのような小さな門の中にひっそりとたたずんでいます。
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三室戸寺に行って来ました

2015-06-28 17:51:03 | 日記


 JR宇治駅から北へ1キロ余り。三室戸寺へ行ってきました。あじさいを見に行ったのですが、それより、本堂前の蓮の花がすばらしかった。




 あじさいは、もう盛りを過ぎていましたが、それでも、1万株のあじさいは迫力がありました。


 三室戸寺は、平安京を開いた桓武天皇の父、光仁天皇の晩年、山間の渓谷から千手観音が現れ、自らが譲位し仏門に入るための草庵である御室にそれを安置したことから御室戸寺と呼ばれたのを、その後、光仁、花山、白河の三天皇の離宮となったことから、三室戸寺となりました。
 皇室の庇護を受けて発展したものの、足利義昭に協力したことから織田信長の焼き討ちに遇い、衰退してしまいます。
 その後、江戸時代の寛永年間と文明年間に伽藍が復興され、現在に至ります。
 宗派は、役行者を祖とする本山修験宗、これは、熊野信仰に傾倒した白河法王、復興に三井寺の支援を受けたことなどが関係していると思います。
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