ひとのこ通信

「ひとのこ通信」のブログ版です。

2020年になりました。

2020年01月10日 | 日記

2020年になりましたがいかがお過ごしでしょうか。

 

昨年は事情により、ほとんど更新をすることができずにおりました。

申し訳ございません。

今年もしばらく更新をお休みさせていただきたいと思っています。

 

また別の場で、新たな形で、私なりの考えや想いをお伝えしてゆくことも構想しております。

準備が整いましたら、また状況をお知らせいたします。

 

これまで読んでいただきありがとうございました。

どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。

 

2020年も皆さまにとって良き年になりますようお祈り申し上げます。

 

 


キリスト教会における性的虐待・性暴力事件について

2019年02月19日 | 日記

 アメリカのボストン・グローブ紙がカトリック教会の司祭(神父)による児童への性的虐待事件を報道したのは2002年のことでした。その被害の規模の大きさ、深刻さは世界中に衝撃を与えました。また、この報道によって、児童に対する性的虐待が組織的に隠蔽され続けてきた実態も明らかになりました。これら動きの発端となったボストン・グローブ紙の報道の過程は映画化もされました(『スポットライト 世紀のスクープ』、2015年)。御覧になった方もいらっしゃることと思います。

 映画の中で、取材に応じた被害にあった人々が「サバイバー(生存者)」と呼ばれていたことが胸を突きました。被害に遭った方々の中には、その後自暴自棄になり、直接的・間接的に自ら命を絶っていった人々も数多くいたのです。この「サバイバー」という言葉は、聖職者による性的虐待・性暴力がいかに被害に遭った人々の心身に深い傷を与えるかを私たちに示しています。これら性的虐待は人権侵害であり、はっきりとした犯罪です。

 ボストン・グローブ紙によるスクープ以降、キリスト教会の聖職者による性的虐待・性暴力事件が世界中で告発されるようになってゆきました。共通しているのは、権威をもつ立場にある聖職者が、その立場を利用して、弱い立場にある子どもたち(自分では明確に是非を判断することができない、また、抵抗することのできない)に性的虐待・性暴力を行っているという構造です。またその虐待・暴力が組織的に隠蔽され続けてきたという構造です。長きに渡って暗闇で行われ続けてきたことが、ようやく明るみに出されるようになったのだと言えます。

「被害者は自分だけではない」ということが分かった被害者の方々が勇気をもって声を上げ始め、アメリカでは教会に対する集団訴訟も起こされるようになりました。それでもまだ、把握されている被害状況は氷山の一角であるのかもしれません。

 聖職者による性的虐待・性暴力のその規模の大きさ、深刻さはキリスト教会のみならず、世界中を震撼させ続けています。聖職者による児童への性的虐待・性暴力の問題は、現在キリスト教会が直面している最も深刻な問題の一つです。


 これら深刻な課題を受けて、世界のカトリック教会、日本のカトリック教会でも様々な対応がなされています。明後日2月21日から24日にかけて、教皇フランシスコの招集により、性的虐待とその対応を主題とする全世界の司教協議会会長の会議が開かれるそうです。クリスチャン・プレスに国内外の教会の対応についての記事が掲載されていますので、宜しければお読みください(『クリスチャン・プレス』、2019218日投稿)


 これまで、日本のカトリック教会においては司祭による性的虐待・性暴力が告発されることはほとんどありませんでしたが、この度発売された『文藝春秋』の3月号に、ノンフィクション作家の広野真嗣氏による『カトリック神父「小児性的虐待」を実名告発する』という記事が掲載されました(『文藝春秋 2019年3月号』、2019年2月9日電子版発行)。児童養護施設「東京サレジオ学園」において、かつてこの施設に携わっていた司祭(神父)が児童たちに性的虐待を行っていたことが、被害に遭われた方の実名、加害者の神父の実名と共に告発されています。これまで明るみに出されていなかっただけで、やはり日本の教会でも同様の事件が起こっていたのだと私たちは受け止めることが求められています。

 

  私が所属しているのはプロテスタントの教会ですが、聖職者による性的虐待・性暴力・性犯罪は「キリスト教会全体の問題」であると受け止めています。報道されている性的虐待・暴力の被害者はその多くが児童ですが、成人の女性や男性の場合もあるでしょう。

 この最近、キリスト教会に限らず、性暴力に関する報道が続きました。改めて、キリスト教会における性的虐待・性暴力・性犯罪の問題に本格的に向かい合ってゆかねばならない、と思わされています。実態をより本格的に調査し、把握してゆくこと(その際、司法の場で罪を問われる必要があるのはもちろんのことです)。また、児童に対する性的虐待・暴力・犯罪がどのような構造で生じ、また連鎖してゆくものなのかを解明してゆくこと。そして何より、被害に遭われた方々の深い痛みを受け止め、「このようなことが繰り返されない」ためにはどうすればよいのか、キリスト教会全体の課題として考えてゆくこと。このことは、いまキリスト教会が向かい合うべき最重要課題の一つです。

 また同時に、私たちはそれぞれのセクシュアリティー(性のあり方)をより深く見つめてゆくことが求められているのだと思います。私たちは、特にキリスト教会は、これまで、セクシュアリティーというこの大切な側面を見つめることをあまりにもないがしろにしてきてしまったのではないでしょうか。抑圧し、もしくはあたかも「なかったこと」のようにし、この側面を深く掘り下げてゆくことをしないできたのではないでしょうか。自身のセクシュアリティーと、その内奥に隠された痛みに向かい合ってゆくこともまた大切な課題であり、そのことが、性的虐待・性暴力の連鎖を断ち切ることにもつながってゆくのだと考えます。私自身、自分のセクシュアリティーをより深く見つめてゆきたいと思っています。

 


広河隆一氏の週刊誌報道に関して

2019年01月31日 | 日記

1、広河隆一氏の週刊誌報道に関して

 昨年の12月末、フォトジャーナリストの広河隆一氏の性暴力を告発する記事が週刊誌に掲載されました(『週刊文春』、201913日・10日 新春特別号、236241頁、ライター:田村栄治氏)。パレスチナ問題への取り組みを始めとする広河氏のこれまでの業績や、氏が主催をしていた雑誌『DAYS JAPAN』の内容を私も敬意をもって受け止めていただけに、ショッキングなニュースでした。

 広河氏については以前ブログで好意的に取り上げたこともあり、自分なりにその責任も感じています。

(以下の文章においては広河氏の性暴力の詳細な内容については記していませんが、不快な表現を含むと思いますので、お読みになる際はご注意ください)。

・・・

 被害に遭われた方々の言葉を通して、広河隆一氏による性暴力の深刻な実態が明らかにされてきています。「世界的に著名なフォトジャーナリスト」という自分の立場を利用し、フォトジャーナリストを志望して氏の元に集まってくる若い女性たちに性行為やハラスメントを強要し続けていたという事実。しかも、本人はそれを暴力やハラスメントであるとは認識していなかった。広河氏自身の言葉によれば、彼は自分に魅力があるから女性たちが近づいてきているのだと思い込み、性行為にも合意があったと認識としていたようです。著しい認知の歪みが認められます。

 昨日、週刊誌で広河氏の性暴力の新たな被害の実態が報じられました(『週刊文春』、201927日号、4043頁、ライター:田村栄治氏)。勇気をもって声を上げた被害者の方の証言によって、広河氏がさらなる卑劣な手法で性暴力を働いていたことが明らかになりました。その内容はあまりに非道なものであり、言葉を失うほどでした。広河氏が行ってきたことははっきりとした犯罪であり、決してゆるされるものではありません。

 

2、私たち社会全体の課題として

 3年前、『広河隆一 人間の戦場』(長谷川三郎監督、2015年)という広河氏を追ったドキュメンタリー映画を観たことがありました。以前このブログで広河氏を取り上げたことがあるというのは、その映画についてです。その映画の中で、広河氏は「人間の尊厳が奪われている場所」を《人間の戦場》と呼んでいました。広河氏はフォトジャーナリストとして、パレスチナ、チェルノブイリ、沖縄、福島など、人間の尊厳が奪われている《人間の戦場》に赴き、写真と文章を通してそれら悲惨さを訴え続けてきました。その彼が、身近にいる女性たちの尊厳を奪い、自らの周囲に《人間の戦場》という名の地獄を造り出し続けていたという事実。どんな人間にも光と影の部分があるとはよく言われることですが、一人の人間における闇の深さを改めて感じました。

 身近な女性たちが性的に搾取され犠牲にされることによりこれまでの広河氏のフォトジャーナリストとしての業績が積み重ねられてきたのであれば、それはゆるしがたいことです。どれほど社会に貢献していようと、その分野ですぐれた業績を残そうと、ある目的のために誰かの犠牲を必要とする構造を私たちは決して許容してはならないと思います。

 この度の事件において罪責を問われなくてはならないのは広河氏本人であることは言うまでもないことですが、同時に、なぜ広河氏の性暴力が長年に渡って見過ごされてきてしまったのか、その検証もまた必要でありましょう。現在週刊誌で報道されているのも、もしかしたら氷山の一角である可能性もあります。広河氏による性暴力が見過ごされる状態が長期間にわたって続いてしまったことに、事柄の深刻さがあります。次号の『DAYS JAPAN』では(最終号になります)、全紙面に渡って広河氏の性暴力を検証するとのことです。広河氏の関係者の方々がこれまでどういう状態であったのか、なぜ長年に渡って見過ごされてきてしまったのか、それら記事を読んでまた考えたいと思います。

 もちろん、広河氏がフォトジャーナリストとしての業績を評価され、その世界で権威ある存在になってしまったことも、大きな要因としてあったでしょう。関係者が(何かおかしいな)とは思っても、声を上げることができない空気が作られてしまっていたのかもしれません。広河氏の怒りを買えば、その職場やフォトジャーナリストの世界に居場所がなくなってしまうのではないかと恐れを感じるからです。

 そして何より、広河氏自身が、その権威ある立場を利用していたことが最大の元凶としてあることは言うまでもないことです。フォトジャーナリストを目指す女性たちの弱みにつけこみ、卑劣な性暴力を日常的に奮っていた。そしてその権威を利用して、女性たちの口を封じ込めていた。声を上げることができないよう支配していた。広河氏が行い続けてきた卑劣な行為は決してゆるすことができない人権侵害であり、犯罪です。

 私たち社会全体の課題についても、今後考えてゆきたいと思います。私たちの社会ではいまだ性暴力、性犯罪についての認識が希薄な側面があるのではないでしょうか。どのような構造でそれが生じ得るものであり、そしてその暴力がどれほどの深刻な傷を被害者に負わせるものであるのか。私たちが社会全体で、性暴力やセクシュアルハラスメントへの認識、また性犯罪への認識を深めてゆく必要があります。

 私たちにできることは、勇気をもって声を上げられた被害者の方々の痛みを、決して「なかったこと」にはしないことです。性暴力による被害は、最も声を上げづらいことの一つであると思います。この度新たに告発された女性も、自分の経験した性暴力は「墓場まで持って行く」と決めていてこれまで誰にも語ったことはなかったと述べています(『週刊文春』、201927日号、43頁)。それでもなお、勇気をもって告発した被害者の方々の悲痛な声を私たちは受け止めなければなりません。広河氏の罪責を問うとともに、二度とこのようなことが繰り返されないためにはどうすればよいのか、社会全体の課題として考え続けてゆくことが求められているのだと思います。


署名のご案内(1月25日追記)

2019年01月17日 | 日記

~署名のご案内~

「20万筆を超えた米ホワイトハウスの請願署名に続こう! 「沖縄県民投票」にすべての沖縄県民が等しく参加できるように、沖縄県内の全市町村で実施されることを求めます。」

皆さんもご存じのように、辺野古新基地建設の是非をめぐって、2月24日に「沖縄県民投票」が実施されます。
現在、5つの市(宮古島市、宜野湾市、沖縄市、石垣市、うるま市)が不参加を表明していますが、県民投票が沖縄県内の全市町村で行われることを求める署名です。
宜しければご一緒に賛同を宜しくお願いします。

今回の「辺野古」県民投票の会代表の元山仁士郎さん(27)が、一昨日の15日朝より、宜野湾市役所前でハンガーストライキを行っています。
県民投票に不参加を表明した5市長が県民投票に参加するまで、宜野湾市役所前にて水だけでストライキを行うというもので、元山さんの体調も非常に心配です。
少しでも早く、5つの自治体が県民投票に参加してくれるよう願っています。それぞれが声を上げてゆきたいと思います。

 ~追記~(2019年1月25日)

・ハンガーストライキから105時間が経過したときドクターストップがかかり、周囲の意向を受け、元山さんはハンガーストライキを断念することを決断されました。元山さんの体調が支えられることを祈ると共に、その想いを受け継いでゆきたいと思います。

・沖縄県議会は1月25日、全会派による「各派代表者会議」を開き、これまで求められていた賛成もしくは反対の2択ではなく、「どちらでもない」を加えた3択に条例改正することで合意しました。元来の2択とはなりませんでしたが、不参加を表明していた5市長も参加の意向を示しており、これで県民投票が全県で実施される見通しとなりました。



東日本大震災から7年

2018年03月11日 | 日記

東日本大震災から7年を迎えました。

全国で祈りがささげられたことと思います。

以下、教会の礼拝の中で語ったメッセージを以下、転載いたします。

もし宜しければお読みいただければ幸いです。

2018年3月11日 礼拝メッセージ

聖書箇所:マタイによる福音書27章1-26節

「命の道を選び取る」


東日本大震災から7年

 今日で東日本大震災と原発事故から7年を迎えました。全国で祈りがささげられていることと思います。岩手地区では今日の午後2時半から、宮古教会と一関教会を会場にして東日本大震災7年を覚えての礼拝が行われます。

 地震、津波、原発事故による放射能の被害は、いまも深い傷跡を残したままです。現在も多くの方々が生活の困難、避難生活を余儀なくされています。

 もちろん、少しずつ復興が進んでいる部分もあります。仮設住宅から復興住宅(災害公営住宅)に移り住む方々も増えています。私たちの教会が属する町内と隣接する町内にも復興住宅が建設される予定であると聞いております。少しずつ復興は進んではいますが、同時に、多くの方々がいまだ困難を抱えながら生活しています。支援が打ち切られ、生活がより困難となっている方々。またたとえ建物や生活は再建されても、心と体が立ち上がることができない方々も多くおられます。

 昨日、NHKで夜9時から、『誰にも言えなかった ~震災の心の傷 母と子の対話』という番組が放映されていました。御覧になった方もいらっしゃることと思います。東日本大震災で被災した女の子とそのお母さんのドキュメンタリーでした。女の子は3歳のとき釜石で被災し、祖父母と叔父を亡くしました。その心の深い傷をずっと面に出さないように努めていましたが、震災から5年近くが経ったとき、押し込めていたものが表面に出て来きて、心と体に異変が生じるようになったとのことでした。少しずつ悲しみに向き合い、少しずつ前へと進んでゆこうとする家族の姿が描かれていました。

 番組の中では、震災による心のケアが必要な子どもたちは分かっているだけで14000人以上いると報じられていました。この女の子のように、何年も経ってから心と体に異変が生じる子どももたくさんいることと思います。

 皆さんにおいても時間が経ったいまだらこそ、押し込めていた心の傷、痛み、悲しみが表面に出て来ているということがあるかもしれません。震災から時間が経ち、自分の心と向かい合うことができるようになりつつある今、ますます心のケアへの取り組みが重要になってきているのを感じます。

 聖書に《喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい》という言葉があります(ローマの信徒への手紙12章15節)。喜びも悲しみも共にしながら、少しずつ共に前へ進んでゆけるよう願っています。

 

福島第一原発の廃炉作業

 一昨日の金曜日には、テレビ朝日の報道ステーションで福島第一原発の廃炉作業の特集が放送されていました。番組を観ていて、原発事故によっていかに取り返しのつかないことが起こってしまったかを改めて思わされました。

 原発の廃炉作業には、核燃料の取り出し、汚染水の処理の問題など、困難な問題が山積みですが、最も困難なのは溶け落ちた核燃料(デブリ)の取り出しであると言われます。番組ではそれがいかに困難な作業であるかが報じられていました。国が主張している40年後の廃炉計画はおよそ現実的ではない、100年単位で考えた方がよいのではないか、という専門家の意見も紹介されていました。廃炉作業においては、現場の最前線で作業に当たっている方々の健康被害も非常に心配です。

 今から100年後――途方もない長い年月です。もちろん、100年後にはここにいる誰もおそらく生きていないことでしょう。未来の世代にとんでもない負の遺産を遺してしまった私たち。これ以上、私たちは負の遺産を次世代に遺してはなりません。せめて、いま全国にある原発を早急に停止し、ゼロにしてゆくことがいまを生きる私たちの責任であると思います。

 原発事故から7年を迎えたいま、私たちは改めて原発事故の悲惨さを思い起こし、同様の事故を二度と起こさない決意を新たにしなくてはならないでしょう。

 1986年のチェルノブイリ原発事故から5年後に成立した「チェルノブイリ法」では、起こったその出来事を「事故」と呼ぶことを止めたそうです。「事故」ではなく、「カタストロフィ」(大惨事、大災害、破局)と呼ぶことにした。取り返しのつかない、地球規模のカタストロフィ(破局的な出来事)が起きたと考えたからです。その認識のもと、チェルノブイリ法では国による被害者に対する長期的な補償が定められました(参照:日野行介/尾松亮『フクシマ6年後 消されゆく被害 歪められたチェルノブイリ・データ』、人文書院、2017年、200‐201頁)。私たちもまたこの度の原発事故で、取り返しのつかないこと、カタストロフィを引き起こしてしまいました。原発事故を過小評価し、各地の原発を再稼働させようとする動きがある中で、私たちは今一度、カタストロフィを起こしてしまったという認識の下で、この問題に向かい合ってゆかねばならないでしょう。

 

放射線の健康への影響について

 世論調査などを見ると原発に関しては日本に住む多くの人が反対の意見を持っていることが分かります。一方で、放射線の健康への影響についてはさまざまな受け取り方があります。原発事故から7年が経過した現在、放射線被ばくによる健康への影響は「ない」ものとする風潮、もしくは「極めて軽微」なものとする過小評価しようとする風潮がますます強まってきているように感じ、強い危惧を覚えています。

 確かに、低線量被ばくの影響はいまだ分かっていないことが多く、因果関係を現時点でははっきりと特定することはできない部分があります。けれども、それはあくまで現段階では因果関係を「識別できない」ということなのであって、原発事故による健康への影響が「ない」ということにはなりません。「識別できない」ということと「存在しない」ということとをイコールにして、この問題についての議論が終わらせようとしている風潮があることを感じます。現時点では影響がはっきりと「識別できない」からこそ、そのリスクに対してできる限り注意を払い続けることが重要ではないでしょうか。そのために、長期的・継続的な検査をしてゆくことも不可欠のことです。

 会津放射能情報センター代表の片岡輝美さんが、「反原発・被ばく容認」という立場が最近力をもってきていることへの危惧を述べていらっしゃいました(今、憲法を考える会・通信『ピスカトール No.43』、2018年2月20日より)。「反原発・被ばく容認」というのは、原発は反対であるけれど、この度の原発事故による放射線の健康被害は「ない」ものとする立場、または「極めて軽微」なものとして被ばくを容認する立場です。この「反原発・被ばく容認」の立場においては、放射能の不安を訴えることは、「福島への差別を助長する」行為として批判されます。

 片岡輝美さんはこのような「被ばく容認」の考えは受け入れることができない、と述べておられました。「反原発・被ばく容認」ではなく、「反原発・脱被ばく」の立場をこれからも選んでゆきたい。私も同様の意見です。私たちは命をこそ、第一に考えてゆかねばならないと考えるからです。

 もちろん、「反原発・被ばく容認」の立場に立つ方々も福島の人々のことを思って発言しておられるのだと思いますが、命を守るためには「反原発」のみならず、「脱被ばく」の立場をはっきりと選び取ってゆかねばならないと考えます。被ばくは決して、「やむを得ない」ものとして容認してはならないものです。特に、放射線の影響を受けやすい子どもたちを守るために、私たちは「脱被ばく」を堅持してゆかねばならないでしょう。

 

「イエス・バラバか、イエス・キリストか」

 本日の聖書箇所には、ローマ総督ポンテオ・ピラトの下でなされた、イエス・キリストの裁判の様子が記されていました(マタイによる福音書27章11-26節)。その中で、ピラトが、バラバという人物と主イエスと、どちらを解放するかを集まっていた群衆に問う場面が出て来ます。当時、過越し祭の際に囚人を一人釈放するということがなされていたようです。バラバという人物は、おそらくローマ帝国への抵抗・独立運動の指導者の一人であったと考えられます。一部の人々からは英雄視されていた人物であったのかもしれません。バラバは奇遇にも、主イエスと同じ「イエス」という名前でした。捕らえられている二人のどちらを、あなたたちは釈放してほしいか。「イエス・バラバか、イエス・キリストか」。

 ピラトの問いに民衆は「バラバを」と言いました(21節)。ピラトが「では、メシアと言われているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、人々は「十字架につけろ」と言いました(22節)。

 私たち人間の歴史は、イエス・キリストではなく、イエス・バラバを選んだのです。主イエスはその後、十字架に磔にされるため、ローマ兵たちに引き渡されることになります。主イエスが十字架につけられたのは、一部の人々の自分勝手な都合のためであったことを福音書は記しています。自分たちの勝手な都合のために、無実の人を十字架につけて殺してしまった。自分たちの利益のために、神の子を十字架につけて殺してしまったのです。

 この出来事が起こったのは今から2000近く前のことであり、確かにずっと大昔のことです。けれども私はこの出来事を、いまの私たちの社会につながっているものとして受け止めています。目の前にある自分の都合や利益を最優先させ続けてきてしまった私たち。その結果が、この度の原発事故の大惨事となって現れ、いまの日本の社会の現状となって表れているのではないかと考えるからです。

 

命の道を選び取る

 私が改めて思い起こすのは、旧約聖書の申命記の言葉です。申命記の結びの部分には、モーセを通して、神と人間との間で再び契約を結ぶ場面が記されます。

 その中で、モーセを通して主なる神が次のようにおっしゃいます。《わたしはあなたたちとだけ、呪いの誓いを伴うこの契約を結ぶのではなく、/今日、ここで、我々の神、主の御前に我々と共に立っている者とも、今日、ここに我々と共にいない者とも結ぶのである》(申命記29章13-14節)。イスラエルの民が今日ここで決断することは、まだここにはいない未来の世代にも深い影響を及ぼすのだ、と語られているのです。

 そしてその後、主なる神は、集った一人ひとりに命じられます。《わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、/あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主に従いなさい》(申命記30章19-20節)

 あなたがたの前にはいま、「命と死」、「祝福と呪い」とが置かれている。あなたはいま、どちらの道を選び取るのか。あなたは「命」をこそ選びなさい。そうして、未来の子どもたちも「命」を得られるようにしなさいと命じられています。

 私たちが今日、何を選び取るか、どのように決断するかが、自分たちのみならず、まだここにはいない未来の世代にも影響を及ぼしてゆきます。

 かつて私たちは自分たちの都合や利益のためにバラバを選び、主イエスを十字架にはりつけにしてしまいました。戦後、私たち日本の社会は自分たちの都合や利益を優先し、原発推進の道を選び、結果、原発事故という大惨事を引き起こしてしまいました。その過去を踏まえ、今度こそ、私たちは「命」の道を選び取ってゆきたいと思います。

 未来の子どもたちに「呪い」ではなく「祝福」をこそ残してゆきたい。「死」ではなく「命」をこそ手渡してゆきたいと願います。この道には確かに、さまざまな困難が伴うかもしれません。時に疲れを覚え、座り込んでしまうこともあるかもしれません。しかし、この道を歩む人々といつも主は共におられ、私たちに立ち上がる力を与えてくださることを信じています。いま共に、「生命と尊厳とを第一とする道」を選び取ってゆきましょう。