オープニングの甘美なピアノの旋律。
本作は実録物などではなく、二人のスウィート・メモリーズ。
冒頭に掲げられる断り書き“ This is their true story. ”
しかし、その二人は異なる世界の住人だった。
夢を与える女、夢を見る青年。
彼女が与え続ける夢に魅せられた青年は、
その夢に押し隠された現を目の当たりにするなかで、
人間を学び、恋愛を知り、そして社会と対峙する。
これは彼の成長譚でもあるのだ。
物語のラストで寡黙なボディガードが微笑みをもらし、 青年にかける労わりの言葉。
「おまえ、ちょっと背が高くなったんじゃないか?」
だから、最初にこの物語の語り手は改めてことわるのだ。
「これは僕の物語だ」と。
My Week with Marilyn(原題)。
僕とマリリンの一週間。いや、マリリンと過ごした僕の一週間。
彼は夢見た世界の一部になった。 Join the circus. 彼はそう述懐する。
撮影が終わり、試写室でコリンにマリリンの唯一無二を語るオリヴィエは、
映画の世界を「circus」と称した。
《円》の意に由来するであろう、circus。
フィルムは円いリールに巻かれ、スターの座も新たな世代へと巡りゆく。
かつて「苦い初恋」を味わった大人は、いま「恋の苦さ」を味わう若者を労わる。
その若者の甘く切ない思い出が記され、読まれ、演じられ。
そうして出来上がった物語に胸を熱くして、観客の心も想い出へ還ってゆく。
数多の幾重のサークルが、スクリーンの内で外で交差する。リンクする。
そんな無限の円環夢の世界、circus。
撮影終了後、 ケネス・ブラナー演じるローレンス・オリヴィエは
コリンと共に スクリーンに映し出されたモンローをみつめながら呟き始める。
「Our revels now are ended.(宴は終わった。)」
シェイクスピアの最後の作品『テンペスト』の有名なプロスペローの言葉だ。
「We are such stuff as dreams are made on, and our little life is rounded with a sleep.
(われわれは、夢のようなもので織り成され、儚き人生は眠りと共に完結する。) 」
夢のような現実は、今ふたたび投影される夢となる。
映画のような人生ではなく、人生が映画のよう。
スクリーンのモンローをみつめるオリヴィエとは対照的に、
マリリン自身との時間を共有したコリンは最後にこう呟く。
「あの時、夢は現実になったんだ」
マリリンがスクリーンで観客にみせてくれる夢。
それに見とれていた青年は、スクリーンの向こうにいるマリリンを知った。
しかし、そんな彼女の輝きは、夢のような現実?
いや、現実になっても夢だった。
そんな夢で織り成された儚き一週間が、完結することは永遠にない。コリンは言う。
My only talent was not to close my eyes.
◆撮影が終わってからエンディングまでの流れが秀逸の極み。巧いだけじゃなく美しい。
シェイクスピア俳優のケネス・ブラナーにローレンス・オリヴィエ演じさせ、
シェイクスピア戯曲の一節を語らせる。
それを企画的感興にとどめずに、見事なまでに物語全体を優しく包み込む。
上質にロマンティックでありながら、センチメンタルにも十分な美しすぎる夢の終わりに
酔いしれた。脚本のエイドリアン・ホッジズは、
(監督のサイモン・カーティス同様)テレビ畑の仕事を多く手がけているようだが、
本作に続く作品としてはTVミニシリーズの『Labytinth』という作品で、
監督は『トライアングル』のクリストファー・スミス。
◆ボディガードを演じる役者(フィリップ・ジャクソン?)の好演がたまらない。
「マリリン・モンローすら知らない」地に足が埋まりそうな職人風情なボディガード。
「You never leave her side」と仕事の依頼を受ける際に言われていたが、
この「side」という表現が本作ではしばしば用いられ、
「あなたはどっちの味方(side)なの?」などとマリリンに問われるコリンや、
「Thanks for being on my side」という最後の謝辞などに印象的だった。
そして、マリリンがコリンに立って欲しかった「side」とは、
スクリーンの向こう側だったのだろう。
◆マリリンとコリンが二人で過ごす時間の美しさは言わずもがなだが、
その「きらめき」を演出しているのはやはり光だと思う。それも自然光。
そのかわり、撮影現場では美しい光は存在しない。
(しかし、夢に転化されたスクリーンの世界では輝きだすが。)そうした対比もあってか、
木洩れ日やパブに差し込む光の優しい光が、二人の心の通い路照らし出す。
◆私はマリリン・モンローに関する知識も経験も不十分なので語る権利はないのだが、
それでもミシェル・ウィリアムズの演じるマリリン・モンローは「ちょっと違うかな」
という印象を予め抱きつつ観始めた。
実際も、マリリン・モンロー生き写しってほどのそっくりでは全然ないとは思うのだが、
本作における「マリリン・モンロー」は、
「マリリン・モンローを演じるノーマ・ジーン」の内面を表現することに主眼があっただろうし、
そういった点ではミシェル・ウィリアムズの演技設計は隙がない。
しかも、二つの顔を安易に演じ分けたりせず、
二者の連続性や相関性から派生する苦悩を「匂わせる」。
◆演技といえば、メソッド・アクティングを巡るあれこれが適度ないかがわしさ(笑)で
好い塩梅の面白味を付加しているが、
本作において「演じるとは?」という疑問(問題意識)はかなり重要な要素ではあると思う。
役者がその役を演じるように、マリリンはモンローにならねばならず、
彼女に要求されているのは二重の演技だったのだろう。
自らが演じるマリリン・モンローが演じる役柄。
「believe」できなくとも「believe」を「pretend」すれば好いといったって、
既に彼女はそれを常に迫られている。
自らが「マリリン・モンロー」であるということ。
そして、それが実は途轍もなく素晴らしいということ。
誰もが疑いなく信じられることを、当の本人こそが最も懐疑するという悲劇。
◆組合同士の対立(?)というかセクショナリズムの弊害なんかを
皮肉めいて描いているところは面白かったけど
(それとも若輩者への「社会」の洗礼的意味合い?)、
単発で終わった感(突発エピソード)だったのはちょっと残念。
◆衣装が本当に好かったなぁ。
コリンが赤の部屋で赤のベスト着てたり、最後の方の緑のベストなんかも。
◇そのコリン演じるエディ・レッドメインは、
『美しすぎる母』でジュリアン・ムーアと共演(未見)。
ポスターのビジュアルがなかなか印象的(年の差&そばかすコンビだし)で、
顔は憶えていた。(ちなみに、ウィキペディアでは同作が
「美しすぎる~」という呼称の火付け役らしいが、本当か?)
『グッド・シェパード』『エリザベス:ゴールデン・エイジ』『イエロー・ハンカチーフ』と
度々見かけるも、その後全然見かけなかった気がしていて
(実際には、『ブーリン家の姉妹』にも出ていたらしい…未見)、
WOWOWかスタチャンで見かけた劇場未公開作(『Like Minds』)で
「あれ、知ってる」って思った以来ご無沙汰だった気がしていたので、
本作の予告編で見かけて吃驚。
しかし、フィルモ見てみると全然順調にキャリアアップしていた御様子で。
本作の前年には、快作『トライアングル』のクリストファー・スミスの監督による
『Black Death』(ショーン・ビーン主演)に主要な役で出演しているし、
『ミスター・ノーバディ』の青年期二人(トビー・レグボ&ジュノー・テンプル)が競演している
『Glorious 39』(2009)にも出演。
同年には、ジェシカ・ビールやフォレスト・ウィティカー、レイ・リオッタ等が出演している
『Powder Blue』という作品の主要キャストもつとめている。
『英国王のスピーチ』のトム・フーパーが監督を務め、
ヒュー・ジャックマン(ジャン・バルジャン)&ラッセル・クロウ(ジャベール)のミュージカル版
『レ・ミゼラブル』(コゼットはアマンダ!で、ファンティーヌはアン・ハサウェイ、
サシャ・バロン・コーエンやらヘレナ・ボナム=カーナーまで出てしまう
豪華すぎるキャスティング!!)にも出演が決まっている模様。
いよいよ本格的に飛躍を迎えるか!?
ちなみに、彼は出演した舞台でローレンス・オリヴィエ賞の助演男優賞を受賞済。
(メソッド・コーチおばさん演じるゾーイ・ワナメイカーもローレンス・オリヴィエ賞受賞者。)
◇脇まで抜かりなくバッチリ・キャスティングなのだけど、
ジュディ・デンチが思ったほど活かされてなかったのは残念かな。
コリンに最後かける言葉(とあの仕草)は好かったけどね。
もっと裏のある役かと勘ぐってしまったので、
「嫌味の一つも口にしない赤木春恵」みたいでずっと信用できず観てました(笑)
ハーマイオニーことエマ・ワトソンは役柄同様、全然美味しくないお仕事だったので、
「あ、出てる」出演って感じ。
作品としては余り愛を注いではならない役だったので仕方ないかもしれないが、
噛ませ犬としても地味すぎる描き方はもう一工夫欲しかったかも。
それか、むしろ要らなかったかも。
確かに、コリンの「普通の青年」感を出すには機能してるし、
マリリンに対する思いが(本作では)随分と精神的(プラトニック)に描かれてる分、
もう一方の若さ(情熱)の受け皿としては必要だったのもわかるけど、
90分台の映画ではちょっと欲張りかも。
にしても、正味90分程度で手際よくまとめ、
さらに十二分に感傷にひたれてしまう本作は、
大物を登場させながら小品たる英断に統率された、
束の間だけど美しすぎる夢にひたるに足る秀作だ。
かつて「麗しの君」に憧れた青年たち必見の青春賛歌。