alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

苦悩

2015年02月26日 | パリのカフェ的空間で
 昨日、6週間という長い沈黙期間の後で、シャルリーエブドは
次の号を発売した。表紙にはほっとすることに
マホメットの絵は描かれていない。描かれているのは
シャルリーエブドをくわえた犬が、怒り、興奮している人たちに
よって追われる姿。

 シャルリーエブドは苦悩していた。
もがき、本当に苦しんでいた。
新たに編集長になったリス氏は これまでもシャルブ氏とともに
シャルリーエブドを培ってきた人らしく、あの日の編集会議にも出席していた。
彼はテロリストたちが部屋に入ってくる音を聞き、彼らの姿をこの目で見ていた。
そして彼らがシュルブ氏に近寄ってしっかりと狙いを定めたことも。
彼自身も打たれたけれど、奇跡的に重傷で済み、
亡くなりはしなかった。恐ろしい現場に叫び声はほとんどなくて
気がつけば沈黙があったという。つまり、彼が周りを
やっと見渡せたころにはほとんどの人が命を落としていたということだ。


 病院に運ばれた彼は入院しながら恐怖で一杯だったという。
奴らがここを見つけて自分を殺しに来る・・・その考えに取り憑かれては
見つからない場所に逃げたくなった。彼にとっては事件後の数日間の
シャルリーエブドに対する連帯に感動するよりも、いつか奴らが襲ってくる、
その現実的な怖れの方が勝っていたといえるだろう。

 ほとんどの人が殺された中、一人テロリストから免がれた人もいる。
彼らは言った。「女がいる?女は殺さない・・・」彼らはシゴレーヌ氏を見つめていった。
「怖がるな、落ち着け。お前のことは殺さない。お前は女だ。
俺たちは女は殺さない。」(実際にはすでに一人殺されていた)
そして彼女にこういった。「だが自分が何をしているのか、よく考えろ。
お前がやっているのは悪いことだ。お前のことは見逃してやる。
見逃してやるからにはコーランを読め。」そして彼らは
「俺たちは女は殺さない!」と声高に叫び、部屋を後にした。
彼女はずっと覚えている。彼女を見つめたテロリスト、兄のサイードの目が
優しい目をしていたことを。そしてずっと自問している。
どうして彼は優しい目をしていたのだろう・・・。


 主犯となった兄弟について、多くのことがわかってきた。
私にはこの事件に関する様々なことが他人事とは思えない。
だからこそ、シャルリーとは何の関係もなく、誰からも
要請されていないというのについ気にしてしまうのだろう。
まず年齢だ。主犯の兄は34歳、弟は32歳。私は兄と同い年だ。
彼らはパリ19区という私も滞在していた土地に長年住んでいて、
しかも彼らが関わったイラクにジハード戦士を送る組織の名前は
「ビュットショーモン」というらしい。ビュットショーモンとは
まさに私が息子と毎日のように通った素晴らしい公園で、
もしかするとどこかですれ違ったことすらあるんじゃないかと思う程だ。
事件の後、フランスの新聞「ルモンド」にはほとんど毎日のように
この事件やイスラム社会について論じ、考えさせる文章が載せられている。
その中でまたしても衝撃的だったもの、それは意外にも
主犯の彼らがそこまで「気の狂ったテロリスト」のようには見えないことだ。


 彼らはアルジェリア移民の子供でフランスで生まれたフランス人だ。
5人兄弟で、兄が11歳の時に父が亡くなり、その3年後から二人で
一緒に児童養護施設に住むようになる。
二人がほぼ成人するまでその施設で過ごしていたが、彼らは
ほとんど普通の人と変らなかった。それどころか兄、サイードは
頑固とはいえ、控えめで、どちらかというといい人だったらしい。
有名な弟、シェリフの方はサッカーが好きで人を笑わせ、気性が荒いところもあり
目立つタイプだったどいう。性格の違う二人はお互い補完しあって生きていた。
フランス国外での取材に応じた兄の友達だったという人は
「あの当時サイードに出会えて本当によかったと思う」と言っていた。
家族の中で一番信仰熱心だったというわけではないものの、
二人の中で先に信仰熱心になったのは兄のサイードで、始めは
誰にも言わず一人静かに部屋で祈っていた。ところがある時から
あえてその姿を一目にさらすようになり、ウォークマンを聞き
「何聞いているの?」と尋ねられると「コーラン」と答えるようになる。
弟は信仰熱心なタイプではなかったものの、二人三脚の兄弟の中
兄に影響されないわけにもいかず、やがて信仰を共にするようになる。
彼らの中でしいて変ったところを挙げるとすれば、彼らは自分たち
「アルジェリア人」と生粋の「フランス人」をあえてわけて考えていたということだ。
彼らはフランス人女性と付き合ったことがある。けれども自分の
妹が「フランス人」とデートするのは許せない、と思っていたらしい。


 その施設を出てから約10年間で何が起こったのか、詳しくは誰もわからない。
彼らは唯一の親族である叔父の家でやっかいになり、
彼が影響を与えたのかもしれない。弟の方はイラクにジハード戦士を
送る組織に関わったことで刑務所にいれられる。そこで
よく語られているのは彼が2005年に刑務所に入った際に、
事件の共犯となったアメディ・クリバリと知り合ったということだ。
その時にはもう何かに対する激しい憎しみが生まれていたのかもしれない。


 事件が起き、彼らの名前はフランスどころか世界中に知れ渡った。
そんな中で驚きのまなざしでそれを知った人たちもいる。
それが彼らの妻たちだった。シェリフ・クアシ(弟)の妻はこう言っている。
「これら全てが現実ではないように感じています。悪夢を見ていて
夢が覚めることで終わるのではないかと思うんです・・・」
サイードの妻はこう語る。
「あなたと一緒に生活し、毎朝一緒に置き、一緒に笑っていた人が
12人も殺せるだなんて想像してみてください。そんなのありえないでしょう。」
彼らは「ちょっとバーゲンに行ってくる」と言い残し、家をあとにした。
彼女達の証言によれば、彼らが宗教の名の下に人殺しをするなんて
考えられもしなかったという。彼らはイスラムの中でもある種セクトの
ようなものに属していたと言われ、かなり「厳格な」イスラムだった。
シェリフの妻は人に姿をさらす時には上から下までを覆う「ジバブ」という
服を身に付けるように気をつけていた。彼女はイスラム国を「酷い」と
思い、アルカイダは彼女に死者や恐怖を連想させる恐ろしいものとして映っていた。
そして夫も同じように感じているのだと思っていた、そうルモンドに語っている。
彼女によれば、夫は毎日5回の礼拝を欠かさない「私のように
普通にイスラムを実践している人だった。」

 これら様々な記事の中、あまりに私の心を打ったのは、
「テロリスト」となった彼らの実の妹の発言だった。
家庭内でほぼ母親の身代わりのようになっていた彼女も
あとから同じ児童養護施設に入った。フランス式の教育を自然に
身につけた彼女の方は、自由に、他の人のように普通に生きたいと思っていた。
だからフランス人とも付き合っていた。けれどもある時「お前も
ヴェールを被れ」と兄達に強要されるようになる。
兄達が射殺された後、彼女は泣きながらこう言った。

「警官で亡くなった方もいるんですか?何なのよ、理解できないわ、
みんな絵のせいだっていうの?そんなのありえない。犠牲者と人質の家族はどうなるの・・・
こんなの本当に酷い、遺族は今悲嘆に暮れていて・・・
ノン 絵のためだけにこんなことするもんじゃない、
ノン  絵のために人を殺すなんてしちゃいけない。(中略)
たかが絵のため?そんなの酷すぎる。
私たちはお兄ちゃん達と同じ人生を過ごしてきた。父さんたちは
私たちをたたき、母さんはネグレクトした。それでも
みんなで手をつないで生きてきたのに・・・」

 移民の世界や苦悩を知らないフランス人の発言でなく、
彼らとほぼ同じ、いやもっと苦しかったかもしれない中で
フランスで生きてきた、実の妹の発言だ。
彼女の言葉はつきささる。ライシテの中で生きようとしてきた彼女
それは他の人たち同様、自分らしく生きる自由を与えてくれた。
宗教に目覚め、やがて急進的になっていく実の兄達。
それでも彼らは彼らで生活があり、傍らには妻がいた。
シャルリーエブドの中心にいる人たちも、テロ実行犯の周りの人たちも
1つだけ共通している想いは「これが悪夢ならすぐ覚めてほしい」ということだ。
だが悲しいことに、悪夢より恐ろしい現実を今生きている人がいる。
私にはわからない。けれど1つだけわかったことは
問題は単純じゃない、そして根が深いだろうということだ。
問題を少しでも解決に向けるためには
事件に多少なりとも関わりを感じる人たちの、相当な理解と歩み寄りが必要だと思う。


参考文献 Le Mondeより 訳は拙訳
"On ne tue pas pour un dessin, il a pensé qu'à sa gueule, Chérif" par Soren Seelow
"Les frères Kouachi:une jeunesse française" par Marion Van Renterghem
"« Charlie Hebdo » : le casse-tête de la reconstruction"Par Raphaëlle Bacquéé
"Riss:"Tous le monde n'est pas obligé d'aimer "Charlie""

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