根詰めて見たわけではないんで、見当違いなことを書いてしまうかも知れないし、基本、映画評とかは見てないんで、そういう意味でも、とんちんかんな感想になってるかもしれない。最初にそう宣言しておいた方が良さそう。
もちろん、この映画、あんまり評判が良くないらしいことは何となく耳にしてたけど、前田さんが出てるということで、一度は見ておくべきと、かねがね思ってた。同様のことは「もしドラ」「クロユリ団地」にも言えるわけで、機会があったらなるべく早いうちに見るつもり。「Seventh Code」はいちおうPVということで、そっちで視聴予定。
さて「苦役列車」の感想だけど、基本は、つまらない、の一言で良いんじゃないか。森山未來さん演じる北町貫多のダメ男ぶりが、これでもかとばかりに描かれる。もちろんエンタメ性はまったくと言って良いほどない。そのダメっぷりもどこか中途半端で、これが「底辺」と言われても、なんとも生ぬるい。絶望からはだいぶ距離が空いてるし、生きるか死ぬかの極限状態でもない。
そんな中にあって、妙な表現になるけど、前田さんの「普通」な存在感が凄い。声が心地良い。全体に絵柄が汚い中、前田さんが映ると、そこだけ光が差すような感じで、これは「Q10」のラストシーンとも繋がるものがある。そんな前田さんが演じる桜井康子の設定がなんとも不思議で、そこに一番興味が引かれた。
うろ覚えの記憶に頼るなら、19歳の女子大生、学費を稼ぐために古本屋でバイト、高校の頃からつきあってる遠距離恋愛のカレがいる、日下部正二(高良健吾)の仲介で「底辺」の北町と友達になってくれと言われて、あっさりOKを出す、その上、自室にまで入れ、自ら誘っていっしょにボウリングをし、さらには寒い浜辺で北町、日下部と下着姿になってはしゃぐ、雨の中で北町に強引にやらせてくれと迫られても、絶対拒否ではない。
私の関心が、ほぼ前田さんだけだからというのもあるかも知れない。けれども、この櫻井康子が原作にはないオリジナルキャラであるからこそ、そこに山下敦弘監督の製作意図が込められてる、そう見なすというのは勇み足が過ぎるだろうか。
一見、真面目で清楚、普通に美人の女子大生というインターフェイスにして「設定」なのに、その内面には、北町が口汚くののしったように、遠距離恋愛の寂しさ、真面目で清楚という窮屈さへの反発、鬱屈した性欲と破壊願望が隠れてる、そんなキャラ設定と認識するのは穿ち過ぎだろうか。
もしそういう見立てで合ってるなら、真面目で清楚な美人女子大生という存在様式がステレオタイプな設定として存在し、その設定を演じる、もしくは反発して抵抗するのどちらでも選択可能な中で、その両面から北町に対して拒否をしないという行動様式を取る、そこには「設定」側と内面側の両面で、世界に対する、そして人に対する優しさがある。そんな優しさは、詳説はしないけど、日下部も同じ。
北町は北町で、そのダメ男ぶりにもかかわらず、日雇い仕事は決して過酷な重労働でも搾取でもない。家賃滞納で追い出されても、引っ越し先は必ずあって、ホームレスになったりスラム化することはない。食事も酒も不自由しないし、風俗だって行ける。日下部という気立ての良い友人もできれば、桜井康子という美人女子大生とも「付き合える」。これのどこが「底辺」なんだろう。
北町自身、ダメ男と言っても、凶悪犯罪人ではない。暴力沙汰にはなっても、犯罪へと追い遣られてしまうことはない。むしろ生い立ちの不幸を呪って、自らのコンプレックスを正直にさらけ出してる。そんなある意味「優しい」人間。
つまりは、この映画に描かれる日常世界は北町に対してとことん優しく、北町という人間自身も悲しいくらいに優しい。そんな優しさの自家中毒で、自堕落に墜ちて行く。世界も自身もぬるま湯に浸かったまま、ふやけてしまう、とろけてしまう。あやふやなままに時だけが流れる。それはむしろ反転して、残酷とすら言い得るのかも知れない。そんな日本社会の一面の真相。
いずれにせよ本作は、いろいろ絵柄的に恵まれてない中、前田さんの普通な輝き、不思議な存在感と美声が、一服の清涼剤になってる、そんな評価だけにしておいた方が良かったかな。
もちろん、この映画、あんまり評判が良くないらしいことは何となく耳にしてたけど、前田さんが出てるということで、一度は見ておくべきと、かねがね思ってた。同様のことは「もしドラ」「クロユリ団地」にも言えるわけで、機会があったらなるべく早いうちに見るつもり。「Seventh Code」はいちおうPVということで、そっちで視聴予定。
さて「苦役列車」の感想だけど、基本は、つまらない、の一言で良いんじゃないか。森山未來さん演じる北町貫多のダメ男ぶりが、これでもかとばかりに描かれる。もちろんエンタメ性はまったくと言って良いほどない。そのダメっぷりもどこか中途半端で、これが「底辺」と言われても、なんとも生ぬるい。絶望からはだいぶ距離が空いてるし、生きるか死ぬかの極限状態でもない。
そんな中にあって、妙な表現になるけど、前田さんの「普通」な存在感が凄い。声が心地良い。全体に絵柄が汚い中、前田さんが映ると、そこだけ光が差すような感じで、これは「Q10」のラストシーンとも繋がるものがある。そんな前田さんが演じる桜井康子の設定がなんとも不思議で、そこに一番興味が引かれた。
うろ覚えの記憶に頼るなら、19歳の女子大生、学費を稼ぐために古本屋でバイト、高校の頃からつきあってる遠距離恋愛のカレがいる、日下部正二(高良健吾)の仲介で「底辺」の北町と友達になってくれと言われて、あっさりOKを出す、その上、自室にまで入れ、自ら誘っていっしょにボウリングをし、さらには寒い浜辺で北町、日下部と下着姿になってはしゃぐ、雨の中で北町に強引にやらせてくれと迫られても、絶対拒否ではない。
私の関心が、ほぼ前田さんだけだからというのもあるかも知れない。けれども、この櫻井康子が原作にはないオリジナルキャラであるからこそ、そこに山下敦弘監督の製作意図が込められてる、そう見なすというのは勇み足が過ぎるだろうか。
一見、真面目で清楚、普通に美人の女子大生というインターフェイスにして「設定」なのに、その内面には、北町が口汚くののしったように、遠距離恋愛の寂しさ、真面目で清楚という窮屈さへの反発、鬱屈した性欲と破壊願望が隠れてる、そんなキャラ設定と認識するのは穿ち過ぎだろうか。
もしそういう見立てで合ってるなら、真面目で清楚な美人女子大生という存在様式がステレオタイプな設定として存在し、その設定を演じる、もしくは反発して抵抗するのどちらでも選択可能な中で、その両面から北町に対して拒否をしないという行動様式を取る、そこには「設定」側と内面側の両面で、世界に対する、そして人に対する優しさがある。そんな優しさは、詳説はしないけど、日下部も同じ。
北町は北町で、そのダメ男ぶりにもかかわらず、日雇い仕事は決して過酷な重労働でも搾取でもない。家賃滞納で追い出されても、引っ越し先は必ずあって、ホームレスになったりスラム化することはない。食事も酒も不自由しないし、風俗だって行ける。日下部という気立ての良い友人もできれば、桜井康子という美人女子大生とも「付き合える」。これのどこが「底辺」なんだろう。
北町自身、ダメ男と言っても、凶悪犯罪人ではない。暴力沙汰にはなっても、犯罪へと追い遣られてしまうことはない。むしろ生い立ちの不幸を呪って、自らのコンプレックスを正直にさらけ出してる。そんなある意味「優しい」人間。
つまりは、この映画に描かれる日常世界は北町に対してとことん優しく、北町という人間自身も悲しいくらいに優しい。そんな優しさの自家中毒で、自堕落に墜ちて行く。世界も自身もぬるま湯に浸かったまま、ふやけてしまう、とろけてしまう。あやふやなままに時だけが流れる。それはむしろ反転して、残酷とすら言い得るのかも知れない。そんな日本社会の一面の真相。
いずれにせよ本作は、いろいろ絵柄的に恵まれてない中、前田さんの普通な輝き、不思議な存在感と美声が、一服の清涼剤になってる、そんな評価だけにしておいた方が良かったかな。
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