どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

遅まきながらシン ゴジラを見たよ

2016-09-14 21:07:48 | 日記

 

昨日の雨もようやく治まった。今日はシンゴジラを見に行こうと計画していた。何しろ日経BPオンラインがものすごい量の原稿を出している。「シン・ゴジラ」、私はこう読むとまとまっているほどだ。煽られますな。これは見たほうがいいとなったのが、昨日の夜。ものすごい巨漢とすれ違ったのです。まあこれは運命だろう。

あれはなんだったのだろうか。

 

 

と、八幡のお祭りですね。

さてと、誰もがやるいいわけだが、私は決してサブカルに詳しいわけではない。もう少し正確に言えば特撮怪獣ものには小学生低学年以降縁がない。一番好きなのはモスラだったが、あれはザ・ピーナッツが好きだったのだ。モスラ対ゴジラも見ていると思うが、あとはテレビかな。とはいえ覚えていないもののほうが多い。特になぜかキングギドラ対ゴジラに関しての記憶が全くない。ただ周りの情報が半端でなかったので、見たような気がしている。もしかすると見たのかもしれないが、多分ない。パンフレットを見てわかったのだが、夏休み映画三本たてとかで見たというのがかなりありそう。モスラ対ゴジラなんて年代的にありえないからだ。

当然初代ゴジラは生では見ていない。生まれていない。

その上18歳から向こうテレビがない生活を送っている。アニメ等も断片的にしかわからなくなっている。昔はあんなに見たのにな〜と本当に思う。ただ断片的に見る機会があるだけで積極的には追っかけていない。

 

 

オ、ペルシロンとブルトンだ。馬の品種ですね。ゴジラを前に、1トンの生き物を見るとは幸先がいいです。流鏑馬に使うのはアラブとサラブのようでした。

庵野監督の作品は、実は二つしか見ていない。第20回SFコンベンション(ダイコン3)のオープニングフィルムとエヴァンゲリオンの「序」だけだ。でも傾向はわかる。それは当時のSF状況と密接に関わっている。

ダイコン3のアニメだが、ただ単にロボットが走っているだけなのだ。いろいろ障害はあったと思っているが、走っているだけなのだ。ただ単に走っているのだ。これに衝撃を受けたのは、多分当時のマニアックな人たちだけだと思う。それは今までのロボットアニメの全否定だったのだ。ロボットは走ることすら難しいという現実が出ていたのだ。それでは今までのロボットアニメはどうだったかといえば、ガンダムが最先端だった。宇宙でロボットが戦うためにはどうあればいいのかという観点が徹底していた。画角という考え方もそこをモビルスーツが移動する時間も計算されていた。当然若干のディフォルメはあるにしても設定との誤差の少ない演出を心がけていた。

だがやっぱり宇宙では足はいらないんですね。なので私らの周囲でエルメスが最大評価された。足がない。そう、ガンダムでジオンファンが多いのは、ジオンのほうが実は最先端だったということがあります。まあ魔法の粉の登場で変わってくるわけですが、かっこいいガンダムに対して理屈的にうまくできているザクとかエルメスのほうにシンパシーを感じるのですよ。

まあ今現在のガンダムに富野監督がサジ投げているということで私の感想にしておきましょう。

かっこよさは徹底していなければいけないんですね。

 

 

なんで鹿舞があるのかな。これも幸先がいい。

で、エヴァの「序」なんだけどあれはすごかった。今までのアニメシーンの集大成でありすべての矛盾を消しとばしたドラマだった。本当に過去の作品からのかなりの引用がある。でもそれを矛盾なくすべてつなぎ合わせて全く違うものができていた。特に敵の造形が、完璧だったのだ。複雑なものは弱い、この鉄則がある。単純で恐ろしい動きをするものこそが怖い。で、そのとうりなのだが最大の矛盾を、つまりロボットアニメの矛盾を、ロボットではなくしてしまったのだ。意志のない生命体にしてしまったのだ。そう敵もそうなのだ。

逆説的に、人が守るのは徹底した機械化した世界になる。うん、あれは素晴らしい。

僕が大好きなのは表現ではなくて、構造なのだ。だから「進撃の巨人」の構造は分かりにくい。

 

 

オオ〜映画館に来てしまったよ。もうどうしましょ。

さて日経BPというのはある意味論壇誌としても機能していまして、トンデモナイ奴がいます。宮沢賢治の春と修羅との絡みはすごいですよ。多分これだけでも十分楽しんだ気分になります。ネタバレになりますが、盛岡では一応明日で上演が終わるのでまあいいかな。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です

そう、この伏線こそがすべての矛盾を覆い隠す、大矛盾ですね。



うわ、終わったよ。余韻をたっぷり残して終わったよ。もう語り尽くせない気分なのだが、エンドロールで席を立つ人がいないと聞いてはいたが、本当に少ない。今日は最終日前で、木曜メンズデーの割引もない。そして2時50分開演でも30人以上人がいた。まず終了どんずまりでこんなに人がいるのは異例だし、エンドロールで客がバラバラ立つこともない。映画がどんなにすごくともこういったことは滅多にない。

多分音楽がすごいのだ。とにかく使い方がすごい。伊福部昭風の作曲とかヴォルフのカルミナブラーナー風の作曲とか劇中音楽がさもありなんという音楽なのだが、抑えている。その上確か第三形態の時に伊福部のメロディーラインで作曲し直すとか、微妙な盛り上げ方なのだ。そう期待感と持続感、ここがすごいのだ。

で、地味なんだけどヤシオリ作戦に成ると音楽がマスクをかぶったようなエフェクトになるのだ。ここはもうここから先の超荒唐無稽を、こちらが主体になっている効果がある。マスク越しで聞く音楽ではなく、彼らが聞いている音楽なのだ。それはマスク越しなのだ。もちろん話す声も同じエフェクトだから声に合わせているとも言えるが、あえてそうしたと思う。それが臨場感なのだ。

でエンドロールで流れるのは歴代ゴジラの伊福部の作品を、当時の録音を直したものだ。もう立てるもんじゃないだろ。音楽がエンドロールを見せてしまうのだ。

わかっていると、もう絶対に立てない。そう、この作品は明らかに過去の名作を踏襲しながら、圧倒的に超えてしまったからだ。過去の名作を回想する時間がそこにある。

 

 

映画館を出て、タバコを吸っていたらたった10分間にゴジラ体型の男性が3人通り過ぎた。

街を見てもゴジラが通過したと見えます。マンション改修工事なのだが。

 

 

特撮マニアの庵野監督だったら、絶対なんとかなると思ってはいたが、ここまで全部を切り捨ててディテールにこだわった挙句に、徹底してフィクションにこだわった作品も滅多にないと思う。日経BPで自民党の石破氏が語っている。

国家主権を守るということが独立と言うことです。国の独立を守るのが軍隊の仕事で、そこで発動されるのが自衛権なんです。自衛権とは国の独立を守るためのものなんですが、攻撃の主体は常に国または国に準ずる組織となる。これって基本中の基本なんですけれど、でも大学でも教わらない。」

ここから始まる話なのですが、石破氏はやっぱりすごいですね。同様の指摘を枝野氏も話しています。法的にはかなり難しいことが起きています。

国家とは何かという問題を実は描いていまして、そこが最も重要なところです。

 

 

多分私だけだと思うけど、ゴジラに全く意思がないという点は大きかったと思う。野村萬斎が中に入っている。ここに批判をする人がいるようだが、結果としてそうなったと思う。ゴジラの演技をできるスーツアクターがいなくなったのだ。その前に生活習慣が大きい。畳から椅子への移行は大きい。そしてなんでもできるスーツアクターしか活躍できない時間が長かった。

でもこの映画のゴジラはモーションキャプチャーなので後から多大な修正が入っているはずなのだ。確実に前半の腕の演技はない。

野村萬斎は必要がないのではないのか?歴代のスーツアクターの2Dモーションキャプチャーの集大成でよくはないのか。

必要なのだ。徹底的に必要なのだ。野村萬斎が嫌いな人が多いので、あえて言う。

今のゴジラだから必要なことがあるのだ。過去のことができる今の人でないと全く成立しないのだ。

最後に、設定上ゴジラは矛盾点だらけだ。ただ人間関係の矛盾点は限りなく抑えられている。もちろん作品の中で「ロジは」という言葉があったと思うが、恐ろしく矛盾している。北海道からどうやって戦車部隊を持ってきたのかとかイロイロだが、初作のオマージュとしておいても、ヤシオリ作戦の重機軍は、特にパワーショベルだが、その中でも最高にでかいやつだが、あれは現地組み立てなのだ。時間がある設定だからなんとかなるのかなと思うが、がれきが散乱する中での作業は多分完璧ムリだろう。しかも2台用意した。

でもあそこでは、あれでないと全く成立しないのだ。だからイチャモンはこれ以上言わない。

だが、これがゴジラだ。これこそがゴジラだ。

「仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です」

全てがくつがえって清々い。

もっとも矛盾点がないゆえの矛盾点と、最も合理的ゆえの不合理とが見えるこの作品こそがゴジラだ。だから第1作が完璧なのだ。

そう言っておけばいい?


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