一般法則論の真偽や実用性等を検証して頂くこと カメさんのコメントに関して一言
○このブログを初めて読んでくださる方は次の文を先に読んで下さい。
「哲学の道具箱」という本で哲学的思考の大前提を再確認する 2009-07-02 05:01 掲載
この文は、紙に印字して良く読んでくださることを、お願いいたします。
○一般法則論の世界観の図解
以下のものを参考に、入れ子構造の図解を、まずしてください。
入れ子構造の描き方や記号の意味は、このブログの2008年12月3日の文をお読みください。
この文は、紙に印字してよく読んでくださることをお願いします。
世界Ⅰ 〔世界Ⅱ「魔境 (世界Ⅲ(世界Ⅳ (世界Ⅴ (世界Ⅵ (世界Ⅶ)))))」〕 世界Ⅰ
妄想
Ω神= 〔A→ ∥Z→ (B→ (C→ (D→ (H→E→F→G→(M)))))∥〕 Ω=神の国
∥ ↑ 理法 自然 物的 俗・人・子・文歴 記憶
(心的なD) M(記憶) Ω人 人・生・孫・化史 ↓
唯一絶対
○この文の目的
カメさんのブログに私が一般法則論のブログを読んで下さいと書き込みしたので、カメさんのブログの中と、ここにコメントを頂きました。
この意味は、皆さんに一般法則論の真偽と実用性等について検証して頂く必要性がある、ということです。
○カメさんのコメント
まずは、カメさんのコメントについて確認します。
カメさんのご自身のブログでのコメント。
(一般法則論者さん)、有難うございます。
仰せの事について理解は出来ますが、神の世界は人間の世界では無いので、人間の世界では人間の話をすれば道理は適うと私は思って、ブログで神の話を書いています。
貴方は私のブログを読んでコメントして頂いたでしょうか。私がどんな事を書いているかを知ってコメントして頂いたでしょうか。
これが人間の世界のコメントです。
人間の世界には神はいません。
2011/2/20(日) 午前 7:21 [ カメさん ]
一般法則論のこのブログへのカメさんのコメント
読ませて頂きましたが、先ず第一印象としては特別珍しい話ではないと思いました。15:52 2011/02/20
私も創造主としての神を信じていますが、これまでにいろいろ思いを書いて来ましたが、結論としては無駄な努力でした。
人間は神ではないので、自分が神になって人間の世界の道理を悟り、それを発信する事なんだと最近は思っています。
神である事は間違いない事実ですが、それは個々の人の思いであり、人間は誰も神や仏、そして自分と言うモノを肉眼で見た事も無いでしょう。
人間に観える世界で生まれて生きて死んで行く道理を話す事せば、人間の頭で理解できると思います。
神は神思う心の中に生まれてくるモノであり、思わない人に神を説いても、その人も神に生かされている人ですから、神の話を説いて対立するのであればその行為を止めるべきです。
私も貴方と同じような押し付けのコメントを書いて他者のブログで迷惑がられました。
○私達が生まれ住んでいるこの世界の成り立ちと仕組みについて根本的に異なる見解
カメさんと一般法則論者の私とでは、私達が生まれ住んでいるこの世界の成り立ちと仕組みについて、根本的に異なる認識と理解をしています。
例えば、カメさんは、「神の世界は人間の世界では無い」し、「人間の世界には神はいません。」と言われます。
カメさんも神の存在証明を試みられたようですが、一般法則論のような、仮令一般法則論的な天然自然の存在の創造主である神の存在証明は絶対に認めないといわれる方々がおられても、それでもなお自然科学が認める「慣性の法則」が持つ属性に基づいた、これ自体で客観的に唯一・絶対・普遍的にかつ不変的に実在する、誰かヒトがでっち上げたのではない天然自然の存在の創造主である神の存在証明は出来なかったようです。
しかし、一般法則論では、私達が生まれ住んでいるこの世界は、天地創造の最初から丸ごと神の世界=Ω神の世界=天地創造の目的を最初から持つ創造主である神+自然法則+エネルギーの三位一体不可分の存在とその働きで造られた世界であり、Ω神の天地創造の目的とこれを実現するΩ神の天地創造の理法に絶対的に支配されている世界です。
端的に言えば、私達ヒト(宇宙大では宇宙人一般)が生れ住んでいる世界は、最初から最後まで、この世界の何処に行っても、神の国の中にあります。
Ω神の世界の中で、全てのヒト(宇宙大では宇宙人一般)は、Ω神の化身かつ分身の存在としてのヒト(宇宙大では宇宙人一般)です。
そこで、全てのヒト(宇宙大では宇宙人一般)は、Ω神の化身かつ分身の存在のヒトとして生きるように、Ω神によって定められています。
しかも、Ω神の化身かつ分身の存在としてのヒトとして生きるのを容易にするため、Ω神は、Ω神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みを丸ごと活用して生きる「ヒトの生き方の原理」を定め、更にこれをハウツー化した「求めよさらば与えられんの原理」/潜在意識の活用法/引き寄せの法則の活用法も用意してくれています。
ヒトの生き方の原理+「求めよさらば与えられんの原理」/潜在意識の活用法/引き寄せの法則の活用法は、俗に言う自然治癒力/自然回復力を自覚的に意図的に利用することを可能にし、例えばいわゆる「不治の病」など無いようにしてくれています。
カメさんの世界観と人間観では、仮令、人/「自分が神になって人間の世界の道理を悟」っても、創造主である神の天地創造の理法に属し、これに任せたときのみ使うことが可能になる自然治癒力/自然回復力を最初から使うことは原理的に/自然法則的に出来ないことは明らかです。
○何事も世界Ⅰ~世界Ⅶ(+Z)で出来ているこの世界の成り立ちと仕組みの全体の中に常に位置づけて考える
今、ここにある、私達が生まれ住んでいる世界の起源は、世界Ⅰ存在のΩ神による天地創造の目的に始まりました。→上掲の一般法則論の世界観の図解参照。
そして、世界Ⅳ段階で、今から137億年前のビックバン/天地創造をもたらした宇宙的大爆発により物質で出来た宇宙が造られました。
この後、物質で出来た宇宙の中に、46億年前に太陽系ができて地球が誕生し、地球上での生命の誕生と進化、人類の誕生とこれに続いて各人の人生と文化・文明の誕生と進化が今現在まで続いていて、この中にあなたや私=一般法則論者が生まれて、今、ここに生きているわけです。
このような世界の誕生の過程を、一般法則論では、「世界Ⅰ~世界Ⅶ(+Z)」と略して表記しています(注記1)。
世界Ⅰ~世界Ⅶ(+Z)からなるという一般法則論の世界観の中で、ヒトの起源とその生き方の原理の決定は、世界ⅠのΩ神の所から始まった、と断言しています。
世界Ⅰにその存在根拠と存在目的と存在理由のあるヒト(宇宙大では宇宙人一般)という存在の生き方の原理を知り、受け入れることは、言い換えると、無我、無心、無私になることを自分の生き方の原理することを意味しています。
このブログでの私個人を押し出すのではなくて「一般法則論者」という言い方をしているのは、これを示しています。
一般法則論では、ヒト(宇宙大では宇宙人一般)とは何か、その生き方の原理は何か、実際にどうしらこの世で生きることができるのかを考えるときには、常に必ず世界ⅠのΩ神の所に立ち返り、Ω神が造っている世界Ⅰ~世界Ⅶ(+Z)全体の中で考えます。
しかし、例えばマルクス主義/共産主義のように、イギリスの産業革命の中で独自に発達した資本主義を資本主義の全てだと思い込んで、「資本家/資本主義に一方的に支配されるヒト」という、Ω神の化身かつ分身の存在のヒトに生まれているヒトの本質にはありもしない人間観をでっち上げて、資本家/金持ち一般を嫉妬し、資本主義を否定する革命理論を間違って作り上げた例があるように、世界Ⅰ~世界Ⅶ(+Z)全体を知らず、この中の自分がしばしば恣意的に選んだ宇宙史や人類史の一場面で、ヒトの本質や生き方の原理やこのハウツー等を説く間違いをする人たちが後を絶ちません。
話が飛びますが、イスラム原理主義の悲劇は、近代化して成功した西洋キリスト教世界に遅れを取ったのは、自分達イスラム教徒による神への信仰の仕方が至らなかったのだと理解して、信仰熱心な方々が「イスラム復興運動」を大々的に始めてしまったことです。
こうではなくて、西洋キリスト教世界がやったように、神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みを自然科学的に/自然法則+エネルギー一体不可分の存在とその働きによって解明し理解することでした。
○天地創造の意図を最初から持つ創造主である神とこの神が造った世界に関する見解の「たたき台」としての一般法則論
「私も貴方と同じような押し付けのコメントを書いて他者のブログで迷惑がられました。」とカメさん。
一般法則論者の私は、他者(のブログ)に、一般法則論の世界観と人間観と神観念等を無理やり押し付けることをしたことはありません。
一般法則論者がしているのは、比喩的に言えば「そら、あそこに、女優の○○○さんが来ています!」と指差ししてあなたに教えることです。
このとき、あなたに、「そら、あそこに、女優の○○○さんが来ています!」という一般法則論者の私の言葉を鵜呑みにして信じて欲しいわけでも、その女優さんを指差すその指先を見て欲しいわけでもありません。
あなたには、「そら、あそこに、女優の○○○さんが来ています!」という言葉で、あなたご自身で女優の○○○さんが本当にそこに来ているのかを確かめて欲しいわけです。
これによって、「そら、あそこに、女優の○○○さんが来ています!」と指摘した一般法則論者の私の言葉の真偽や適否や確実性や信頼性等を確認して欲しいわけです。
この意味で、「そら、あそこに、女優の○○○さんが来ています!」という一言は、自他共に、あなたと一般法則論者の私が一緒に、観察/観測/検証出来る事実や論理に基づいて客観的にその真偽や適否や信頼性や確実性を確かめるべき「たたき台」になるものになります。
○「たたき台になるものを提示する」という考え方の習慣は中学生のときから
「たたき台になるものを提示する」という考え方は、私の中学生のときからの習慣です。
私は、幼児のときから、それが何であるのかを説明できないけれども、自分が生れたこの世界は、自然の法則によって絶対的に支配されていて、何をするのでも自然の法則に則った正しいやり方や良いやり方をしなければならない、と生得的にというか本能的にというか、とにかく知っていました。
言い換えると、何がそれをする正しいやり方であり、良いやり方であるのかの根拠は、私にあるのではなくて、万人にとって客観的な存在の自然の法則にある、という考え方を幼児の時から今の今までずっとしている、と言うわけです。
正しさや良いことの根拠を自分に置かなくて済むことは、自分を客観視することを可能します。
比喩的に言えば、「何を着てどんな格好をしていても私の正体/本質は私という存在として不変だ」と言うことを可能にしてくれることです。
別の言い方をすると、自然の法則には根拠が無い、ヒトの理屈がでっち上げた「踏み絵」を仮令踏んでも何ちゅうことは無いといえることです。誰も「踏み絵」と無理心中しなくて良いわけです。
お見合いパーティに参加して、声を掛けた相手に仮令百回お付き合いを断られても、それで「自分の人格的存在まで否定されたような気持ちになった」と言う必要は無いわけです。
しかし、何かをするときに、具体的にそれをする、自然の法則に確かな根拠のある信頼性と確実性のある正しいやり方や良いやり方は何であるのかはすぐには分からない/自明ではないのです。
正しいやり方が自明ではないときには何を頼りにしたらそれが何かを見つけることが出来るのかも、私はずっと知りませんでした(注記2)。
そこで、何がそれをする自然の法則的に確実で信頼性のある正しい良いやり方であるのかを探して、不安で落ち着かない気持ちで絶えず試行錯誤をしていました。
言い換えると、自分のすることに確信と自信が常に持てなくて、二十歳過ぎても情緒不安定児でした。
二十歳を過ぎてもなお情緒不安定児の私をよく支えてくれたのが、感謝しきれないほどの恩義がある、大学のサークルの友人たちでした。
こういうわけですから、友人や仲間と何かを一緒にする場合には、自然の法則に根拠のある、何がそれをする正しいやり方や良いやり方であるのかを知る/発見する過程で、正しい/良いと考えるやり方をたたき台として自分も出すことを義務のように感じてきました。
そして、中学生1年生のある日、父母の前で私としては「たたき台」の積もりで出した物(これが何であったのかは思い出せません)が、「お前はそんなトンでも無いことを考えているのか!!!」と言われて、本当に困ってしまったことがあったものです。
この中で、そのとおりにすればひとまず上手く行くことが保障されている「ハウツー物」があることを、幼児の時に知って、以来、ハウツー物が大好きになりました。
また、いわゆる成功物語に好んで耳を傾けることが好きな人生にもなりました。
ハウツー物や成功物語は、「求めよさらば与えられんの原理」/潜在意識の活用法/引き寄せの法則の活用法の実際の活用にも、基礎となり、前提になり、成功の確信にもなるものとして、今でも日常的にいつでも学ぼうとしています。
○たたき台となるものを提示するという自覚も意図も無い方々
あちこちのブログを読みますと、そこで展開されている話の正しさの根拠を、自分が学んだ先生の学説とかご自身の存在や人格の正しさに置かれている方々が沢山おられるようです。
そこで、自分の世界観や人間観とは異質の例えば一般法則論の話を書き込みされると、自分の人生の師としている先生を否定され、自分の存在や人格が否定されたと勘違いされて、書き込みは削除され、この後、「一般法則論」の話は書き込み禁止の設定になるのだ、と推測しています。
また、ブログの中で展開している自分の主義・主張の真偽や適否やその有効性や実用性を、読者に広く一般的に絶えず検証して頂くということにも関心がなくて、「どうだ! 俺様の考えは凄いだろう!」式になる方々も少なくないようです。
中には最初から書き込みは一切出来ないブログ等もあります。
その方が大学の先生であると知ると、この先生は科学的な学問の仕方を未だご存知では無い、と断じたくなります。
つまり、ヒト(宇宙大では宇宙人一般)がこの世で幸せに生きる為の大前提になっている、Ω神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みの解明のために、古代ギリシャの哲学者や釈迦やイエス・キリストやムハンマドに神のことを教えた大天使やノーベル賞を頂くような科学的な大発見をした人たちなどの有名人を含む全人類がこれまで総掛かりでやってきた試みに貢献し役立つ何かを自分も提供して、その真偽や有効性や実用性を皆に吟味してもらう、という意図/目的が最初から無いのです。
また、指摘されて自分は役に立たず違ったものを提供していたと知ったら、それを引っ込める勇気も無いようです。
○究極の万物理論/永遠の哲学としての一般法則論
はっきり言いますと、この世界の成り立ちと仕組みがどうなっているのかに関して、Ω神=天地創造の目的を最初から持つ創造主である神+自然法則+エネルギーの三位一体不可分の存在とその働きだけで全て解明しようとしている一般法則論を超えることは難しいですよ。
「オッカムの剃刀」という言葉があります。
Ω神=天地創造の目的を最初から持つ創造主である神、自然法則、エネルギーの3語でこの世界の成り立ちと仕組みを解明し説明し尽くすという一般法則論は、これ以上の単純化は意味が無いほどの話の単純化をしています。
(天地創造の目的を最初から持つ創造主である神、自然法則、エネルギーの三語で済むわけ)
自然法則とエネルギーは、自然科学が物質世界の成り立ちと仕組みを説明するために使う基本的な概念です。
ヒトが観念的にでっち上げた存在では無い天然自然の存在の創造主である神は、元々天然自然の存在として知られている自然法則+エネルギー一体不可分の存在とその働きが持つ「慣性の法則」性から論理的に自動的かつ必然的にその存在が導きだされる存在です。
Ω神=天地創造の目的を最初から持つ創造主である神、自然法則、エネルギーの3語が揃うことによって、自然科学が解明している物質世界だけでなく、精神世界も同じく解明することができます。
Ω神の自然科学的な存在証明だけでなく、ヒトの心の起源と中身を解明するいわゆる「心の哲学」に関して、それがΩ神=天地創造の目的を最初から持つ創造主である神+自然法則+エネルギーの三位一体不可分の存在とその働きで出来ていると断言できる哲学に到達できるヒトには、いわゆる悟りの体験が必要不可欠です。
ヒトの存在根拠と存在目的と存在理由とヒトが生まれ住むこの世界の成り立ちと仕組みはヒトの生活基盤になるものであることを、一般法則論では客観的にかつ一義的/一意的に明確にかつ確定的に説明しています。
今、天文学で話題なっている、暗黒物質/ダークマターと暗黒エネルギー/ダークエネルギーの正体の解明では、この世界の成り立ちと仕組みがΩ神=天地創造の目的を最初から持つ創造主である神+自然法則+エネルギーの三位一体不可分の存在とその働きで出来ていて、かつ、Ω神の存在とその役割、自然法則の働き方の原理、エネルギーの起源と役割、Ω神と自然法則とエネルギーとの関係等について自覚的な知識が無いと不可能と申し上げて良いでしょう。
○まとめに代えて
一般法則論の真偽と論理的な首尾一貫性、説明の仕方、話の持っていき方の適否、その有効性と実用性等を、あなたも吟味してください。
特に、問題は、ここで私が説明することと、Ω神=天地創造の目的を最初から持つ創造主である神+自然法則+エネルギーの三位一体不可分の存在とその働きで説明している一般法則論との整合性です。
一般法則論に未だ統合されていない考えを自覚も無いままに間違って一般法則論の一部として説明しているかも知れないからです。
具体的な例で言えば、ピーマンが嫌いなヒトの話をここで力を込めてしたものですから、気がついたら、私自身もピーマン嫌いになってしまったのですが、「ミイラ取りがミイラになってしまった」訳ですが、この例は、日の丸を日本国の国旗と認め、国歌「君が代」を歌うことは自分の思想と良心の自由が侵されるという主張が、比喩的に言えば「聖人を直接みたら目が潰れる」という迷信や「怪物メドウサを見た人は石になってしまう」(ギリシャ神話)式の迷信に等しいものだと2011年の建国記念の日の文に書いたことと、私の心の中の何処かで矛盾しているものがあるから発生したものだと分かります。
それでも、一般法則論は一般法則論としてこれ自体で正しい! と言い張れば良いのでしょうか・・・。
一般法則論の真偽と論理的な首尾一貫性、説明の仕方、話の持っていき方の適否、その有効性と実用性等について、あなたの吟味を改めてお願いします。
○注記1 世界Ⅰ~世界Ⅶ(+Z)は現代の文明国人の常識的な宇宙観/世界観の枠組みの中に収まる
世界Ⅰ~世界Ⅶ(+Z)と略記した一般法則論の世界観は、現代の文明国人の常識的な宇宙観/世界観の枠組みの中に位置づけて理解することができるものです。
現代の文明国人の常識的な宇宙観/世界観の枠組みとは、既に科学的に学問的に明らかにされている、大雑把に言えば、ビックバンによるこの宇宙の誕生→太陽系と地球の誕生→地球上での生命の発生と進化→人類の誕生→人類の文化・文明の誕生→今、ここに生きているあなたや私の存在とその人生という過程のことです。
注記1の終わり
○注記2 正しいやり方が自明ではないときにはどうしたら良いのか?
正しいやり方が自明ではないときにはどうしたら良いのか?
今ならば、それは、「求めよさらば与えられんの原理」/潜在意識の活用法/引き寄せの法則の活用法にあることを客観的にかつ一義的/一意的に明確にかつ確定的に知っていて、この通りに確信と自信をもって出来ます。
もちろん、これが良くできるようになるには試行錯誤を伴う練習/修行で経験を積むことが必要です。
その内にこれをするコツが分かって、例えば、おらが村の伝統芸能の資料館を作って、これと共に村の伝統芸能を後の世まで生きたままで残すために、おらはどうしたらよかんベーか? というような着想が自然にできるようになり、実際にこれが出来てしまうことになります。
注記2の終わり
例により、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気付き次第訂正します。
書き込み後、二日くらいは、訂正や加筆を繰り返すのが習慣になりましたので、よろしくお願いいたします。
○このブログを初めて読んでくださる方は次の文を先に読んで下さい。
「哲学の道具箱」という本で哲学的思考の大前提を再確認する 2009-07-02 05:01 掲載
この文は、紙に印字して良く読んでくださることを、お願いいたします。
○一般法則論の世界観の図解
以下のものを参考に、入れ子構造の図解を、まずしてください。
入れ子構造の描き方や記号の意味は、このブログの2008年12月3日の文をお読みください。
この文は、紙に印字してよく読んでくださることをお願いします。
世界Ⅰ 〔世界Ⅱ「魔境 (世界Ⅲ(世界Ⅳ (世界Ⅴ (世界Ⅵ (世界Ⅶ)))))」〕 世界Ⅰ
妄想
Ω神= 〔A→ ∥Z→ (B→ (C→ (D→ (H→E→F→G→(M)))))∥〕 Ω=神の国
∥ ↑ 理法 自然 物的 俗・人・子・文歴 記憶
(心的なD) M(記憶) Ω人 人・生・孫・化史 ↓
唯一絶対
○この文の目的
カメさんのブログに私が一般法則論のブログを読んで下さいと書き込みしたので、カメさんのブログの中と、ここにコメントを頂きました。
この意味は、皆さんに一般法則論の真偽と実用性等について検証して頂く必要性がある、ということです。
○カメさんのコメント
まずは、カメさんのコメントについて確認します。
カメさんのご自身のブログでのコメント。
(一般法則論者さん)、有難うございます。
仰せの事について理解は出来ますが、神の世界は人間の世界では無いので、人間の世界では人間の話をすれば道理は適うと私は思って、ブログで神の話を書いています。
貴方は私のブログを読んでコメントして頂いたでしょうか。私がどんな事を書いているかを知ってコメントして頂いたでしょうか。
これが人間の世界のコメントです。
人間の世界には神はいません。
2011/2/20(日) 午前 7:21 [ カメさん ]
一般法則論のこのブログへのカメさんのコメント
読ませて頂きましたが、先ず第一印象としては特別珍しい話ではないと思いました。15:52 2011/02/20
私も創造主としての神を信じていますが、これまでにいろいろ思いを書いて来ましたが、結論としては無駄な努力でした。
人間は神ではないので、自分が神になって人間の世界の道理を悟り、それを発信する事なんだと最近は思っています。
神である事は間違いない事実ですが、それは個々の人の思いであり、人間は誰も神や仏、そして自分と言うモノを肉眼で見た事も無いでしょう。
人間に観える世界で生まれて生きて死んで行く道理を話す事せば、人間の頭で理解できると思います。
神は神思う心の中に生まれてくるモノであり、思わない人に神を説いても、その人も神に生かされている人ですから、神の話を説いて対立するのであればその行為を止めるべきです。
私も貴方と同じような押し付けのコメントを書いて他者のブログで迷惑がられました。
○私達が生まれ住んでいるこの世界の成り立ちと仕組みについて根本的に異なる見解
カメさんと一般法則論者の私とでは、私達が生まれ住んでいるこの世界の成り立ちと仕組みについて、根本的に異なる認識と理解をしています。
例えば、カメさんは、「神の世界は人間の世界では無い」し、「人間の世界には神はいません。」と言われます。
カメさんも神の存在証明を試みられたようですが、一般法則論のような、仮令一般法則論的な天然自然の存在の創造主である神の存在証明は絶対に認めないといわれる方々がおられても、それでもなお自然科学が認める「慣性の法則」が持つ属性に基づいた、これ自体で客観的に唯一・絶対・普遍的にかつ不変的に実在する、誰かヒトがでっち上げたのではない天然自然の存在の創造主である神の存在証明は出来なかったようです。
しかし、一般法則論では、私達が生まれ住んでいるこの世界は、天地創造の最初から丸ごと神の世界=Ω神の世界=天地創造の目的を最初から持つ創造主である神+自然法則+エネルギーの三位一体不可分の存在とその働きで造られた世界であり、Ω神の天地創造の目的とこれを実現するΩ神の天地創造の理法に絶対的に支配されている世界です。
端的に言えば、私達ヒト(宇宙大では宇宙人一般)が生れ住んでいる世界は、最初から最後まで、この世界の何処に行っても、神の国の中にあります。
Ω神の世界の中で、全てのヒト(宇宙大では宇宙人一般)は、Ω神の化身かつ分身の存在としてのヒト(宇宙大では宇宙人一般)です。
そこで、全てのヒト(宇宙大では宇宙人一般)は、Ω神の化身かつ分身の存在のヒトとして生きるように、Ω神によって定められています。
しかも、Ω神の化身かつ分身の存在としてのヒトとして生きるのを容易にするため、Ω神は、Ω神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みを丸ごと活用して生きる「ヒトの生き方の原理」を定め、更にこれをハウツー化した「求めよさらば与えられんの原理」/潜在意識の活用法/引き寄せの法則の活用法も用意してくれています。
ヒトの生き方の原理+「求めよさらば与えられんの原理」/潜在意識の活用法/引き寄せの法則の活用法は、俗に言う自然治癒力/自然回復力を自覚的に意図的に利用することを可能にし、例えばいわゆる「不治の病」など無いようにしてくれています。
カメさんの世界観と人間観では、仮令、人/「自分が神になって人間の世界の道理を悟」っても、創造主である神の天地創造の理法に属し、これに任せたときのみ使うことが可能になる自然治癒力/自然回復力を最初から使うことは原理的に/自然法則的に出来ないことは明らかです。
○何事も世界Ⅰ~世界Ⅶ(+Z)で出来ているこの世界の成り立ちと仕組みの全体の中に常に位置づけて考える
今、ここにある、私達が生まれ住んでいる世界の起源は、世界Ⅰ存在のΩ神による天地創造の目的に始まりました。→上掲の一般法則論の世界観の図解参照。
そして、世界Ⅳ段階で、今から137億年前のビックバン/天地創造をもたらした宇宙的大爆発により物質で出来た宇宙が造られました。
この後、物質で出来た宇宙の中に、46億年前に太陽系ができて地球が誕生し、地球上での生命の誕生と進化、人類の誕生とこれに続いて各人の人生と文化・文明の誕生と進化が今現在まで続いていて、この中にあなたや私=一般法則論者が生まれて、今、ここに生きているわけです。
このような世界の誕生の過程を、一般法則論では、「世界Ⅰ~世界Ⅶ(+Z)」と略して表記しています(注記1)。
世界Ⅰ~世界Ⅶ(+Z)からなるという一般法則論の世界観の中で、ヒトの起源とその生き方の原理の決定は、世界ⅠのΩ神の所から始まった、と断言しています。
世界Ⅰにその存在根拠と存在目的と存在理由のあるヒト(宇宙大では宇宙人一般)という存在の生き方の原理を知り、受け入れることは、言い換えると、無我、無心、無私になることを自分の生き方の原理することを意味しています。
このブログでの私個人を押し出すのではなくて「一般法則論者」という言い方をしているのは、これを示しています。
一般法則論では、ヒト(宇宙大では宇宙人一般)とは何か、その生き方の原理は何か、実際にどうしらこの世で生きることができるのかを考えるときには、常に必ず世界ⅠのΩ神の所に立ち返り、Ω神が造っている世界Ⅰ~世界Ⅶ(+Z)全体の中で考えます。
しかし、例えばマルクス主義/共産主義のように、イギリスの産業革命の中で独自に発達した資本主義を資本主義の全てだと思い込んで、「資本家/資本主義に一方的に支配されるヒト」という、Ω神の化身かつ分身の存在のヒトに生まれているヒトの本質にはありもしない人間観をでっち上げて、資本家/金持ち一般を嫉妬し、資本主義を否定する革命理論を間違って作り上げた例があるように、世界Ⅰ~世界Ⅶ(+Z)全体を知らず、この中の自分がしばしば恣意的に選んだ宇宙史や人類史の一場面で、ヒトの本質や生き方の原理やこのハウツー等を説く間違いをする人たちが後を絶ちません。
話が飛びますが、イスラム原理主義の悲劇は、近代化して成功した西洋キリスト教世界に遅れを取ったのは、自分達イスラム教徒による神への信仰の仕方が至らなかったのだと理解して、信仰熱心な方々が「イスラム復興運動」を大々的に始めてしまったことです。
こうではなくて、西洋キリスト教世界がやったように、神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みを自然科学的に/自然法則+エネルギー一体不可分の存在とその働きによって解明し理解することでした。
○天地創造の意図を最初から持つ創造主である神とこの神が造った世界に関する見解の「たたき台」としての一般法則論
「私も貴方と同じような押し付けのコメントを書いて他者のブログで迷惑がられました。」とカメさん。
一般法則論者の私は、他者(のブログ)に、一般法則論の世界観と人間観と神観念等を無理やり押し付けることをしたことはありません。
一般法則論者がしているのは、比喩的に言えば「そら、あそこに、女優の○○○さんが来ています!」と指差ししてあなたに教えることです。
このとき、あなたに、「そら、あそこに、女優の○○○さんが来ています!」という一般法則論者の私の言葉を鵜呑みにして信じて欲しいわけでも、その女優さんを指差すその指先を見て欲しいわけでもありません。
あなたには、「そら、あそこに、女優の○○○さんが来ています!」という言葉で、あなたご自身で女優の○○○さんが本当にそこに来ているのかを確かめて欲しいわけです。
これによって、「そら、あそこに、女優の○○○さんが来ています!」と指摘した一般法則論者の私の言葉の真偽や適否や確実性や信頼性等を確認して欲しいわけです。
この意味で、「そら、あそこに、女優の○○○さんが来ています!」という一言は、自他共に、あなたと一般法則論者の私が一緒に、観察/観測/検証出来る事実や論理に基づいて客観的にその真偽や適否や信頼性や確実性を確かめるべき「たたき台」になるものになります。
○「たたき台になるものを提示する」という考え方の習慣は中学生のときから
「たたき台になるものを提示する」という考え方は、私の中学生のときからの習慣です。
私は、幼児のときから、それが何であるのかを説明できないけれども、自分が生れたこの世界は、自然の法則によって絶対的に支配されていて、何をするのでも自然の法則に則った正しいやり方や良いやり方をしなければならない、と生得的にというか本能的にというか、とにかく知っていました。
言い換えると、何がそれをする正しいやり方であり、良いやり方であるのかの根拠は、私にあるのではなくて、万人にとって客観的な存在の自然の法則にある、という考え方を幼児の時から今の今までずっとしている、と言うわけです。
正しさや良いことの根拠を自分に置かなくて済むことは、自分を客観視することを可能します。
比喩的に言えば、「何を着てどんな格好をしていても私の正体/本質は私という存在として不変だ」と言うことを可能にしてくれることです。
別の言い方をすると、自然の法則には根拠が無い、ヒトの理屈がでっち上げた「踏み絵」を仮令踏んでも何ちゅうことは無いといえることです。誰も「踏み絵」と無理心中しなくて良いわけです。
お見合いパーティに参加して、声を掛けた相手に仮令百回お付き合いを断られても、それで「自分の人格的存在まで否定されたような気持ちになった」と言う必要は無いわけです。
しかし、何かをするときに、具体的にそれをする、自然の法則に確かな根拠のある信頼性と確実性のある正しいやり方や良いやり方は何であるのかはすぐには分からない/自明ではないのです。
正しいやり方が自明ではないときには何を頼りにしたらそれが何かを見つけることが出来るのかも、私はずっと知りませんでした(注記2)。
そこで、何がそれをする自然の法則的に確実で信頼性のある正しい良いやり方であるのかを探して、不安で落ち着かない気持ちで絶えず試行錯誤をしていました。
言い換えると、自分のすることに確信と自信が常に持てなくて、二十歳過ぎても情緒不安定児でした。
二十歳を過ぎてもなお情緒不安定児の私をよく支えてくれたのが、感謝しきれないほどの恩義がある、大学のサークルの友人たちでした。
こういうわけですから、友人や仲間と何かを一緒にする場合には、自然の法則に根拠のある、何がそれをする正しいやり方や良いやり方であるのかを知る/発見する過程で、正しい/良いと考えるやり方をたたき台として自分も出すことを義務のように感じてきました。
そして、中学生1年生のある日、父母の前で私としては「たたき台」の積もりで出した物(これが何であったのかは思い出せません)が、「お前はそんなトンでも無いことを考えているのか!!!」と言われて、本当に困ってしまったことがあったものです。
この中で、そのとおりにすればひとまず上手く行くことが保障されている「ハウツー物」があることを、幼児の時に知って、以来、ハウツー物が大好きになりました。
また、いわゆる成功物語に好んで耳を傾けることが好きな人生にもなりました。
ハウツー物や成功物語は、「求めよさらば与えられんの原理」/潜在意識の活用法/引き寄せの法則の活用法の実際の活用にも、基礎となり、前提になり、成功の確信にもなるものとして、今でも日常的にいつでも学ぼうとしています。
○たたき台となるものを提示するという自覚も意図も無い方々
あちこちのブログを読みますと、そこで展開されている話の正しさの根拠を、自分が学んだ先生の学説とかご自身の存在や人格の正しさに置かれている方々が沢山おられるようです。
そこで、自分の世界観や人間観とは異質の例えば一般法則論の話を書き込みされると、自分の人生の師としている先生を否定され、自分の存在や人格が否定されたと勘違いされて、書き込みは削除され、この後、「一般法則論」の話は書き込み禁止の設定になるのだ、と推測しています。
また、ブログの中で展開している自分の主義・主張の真偽や適否やその有効性や実用性を、読者に広く一般的に絶えず検証して頂くということにも関心がなくて、「どうだ! 俺様の考えは凄いだろう!」式になる方々も少なくないようです。
中には最初から書き込みは一切出来ないブログ等もあります。
その方が大学の先生であると知ると、この先生は科学的な学問の仕方を未だご存知では無い、と断じたくなります。
つまり、ヒト(宇宙大では宇宙人一般)がこの世で幸せに生きる為の大前提になっている、Ω神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みの解明のために、古代ギリシャの哲学者や釈迦やイエス・キリストやムハンマドに神のことを教えた大天使やノーベル賞を頂くような科学的な大発見をした人たちなどの有名人を含む全人類がこれまで総掛かりでやってきた試みに貢献し役立つ何かを自分も提供して、その真偽や有効性や実用性を皆に吟味してもらう、という意図/目的が最初から無いのです。
また、指摘されて自分は役に立たず違ったものを提供していたと知ったら、それを引っ込める勇気も無いようです。
○究極の万物理論/永遠の哲学としての一般法則論
はっきり言いますと、この世界の成り立ちと仕組みがどうなっているのかに関して、Ω神=天地創造の目的を最初から持つ創造主である神+自然法則+エネルギーの三位一体不可分の存在とその働きだけで全て解明しようとしている一般法則論を超えることは難しいですよ。
「オッカムの剃刀」という言葉があります。
Ω神=天地創造の目的を最初から持つ創造主である神、自然法則、エネルギーの3語でこの世界の成り立ちと仕組みを解明し説明し尽くすという一般法則論は、これ以上の単純化は意味が無いほどの話の単純化をしています。
(天地創造の目的を最初から持つ創造主である神、自然法則、エネルギーの三語で済むわけ)
自然法則とエネルギーは、自然科学が物質世界の成り立ちと仕組みを説明するために使う基本的な概念です。
ヒトが観念的にでっち上げた存在では無い天然自然の存在の創造主である神は、元々天然自然の存在として知られている自然法則+エネルギー一体不可分の存在とその働きが持つ「慣性の法則」性から論理的に自動的かつ必然的にその存在が導きだされる存在です。
Ω神=天地創造の目的を最初から持つ創造主である神、自然法則、エネルギーの3語が揃うことによって、自然科学が解明している物質世界だけでなく、精神世界も同じく解明することができます。
Ω神の自然科学的な存在証明だけでなく、ヒトの心の起源と中身を解明するいわゆる「心の哲学」に関して、それがΩ神=天地創造の目的を最初から持つ創造主である神+自然法則+エネルギーの三位一体不可分の存在とその働きで出来ていると断言できる哲学に到達できるヒトには、いわゆる悟りの体験が必要不可欠です。
ヒトの存在根拠と存在目的と存在理由とヒトが生まれ住むこの世界の成り立ちと仕組みはヒトの生活基盤になるものであることを、一般法則論では客観的にかつ一義的/一意的に明確にかつ確定的に説明しています。
今、天文学で話題なっている、暗黒物質/ダークマターと暗黒エネルギー/ダークエネルギーの正体の解明では、この世界の成り立ちと仕組みがΩ神=天地創造の目的を最初から持つ創造主である神+自然法則+エネルギーの三位一体不可分の存在とその働きで出来ていて、かつ、Ω神の存在とその役割、自然法則の働き方の原理、エネルギーの起源と役割、Ω神と自然法則とエネルギーとの関係等について自覚的な知識が無いと不可能と申し上げて良いでしょう。
○まとめに代えて
一般法則論の真偽と論理的な首尾一貫性、説明の仕方、話の持っていき方の適否、その有効性と実用性等を、あなたも吟味してください。
特に、問題は、ここで私が説明することと、Ω神=天地創造の目的を最初から持つ創造主である神+自然法則+エネルギーの三位一体不可分の存在とその働きで説明している一般法則論との整合性です。
一般法則論に未だ統合されていない考えを自覚も無いままに間違って一般法則論の一部として説明しているかも知れないからです。
具体的な例で言えば、ピーマンが嫌いなヒトの話をここで力を込めてしたものですから、気がついたら、私自身もピーマン嫌いになってしまったのですが、「ミイラ取りがミイラになってしまった」訳ですが、この例は、日の丸を日本国の国旗と認め、国歌「君が代」を歌うことは自分の思想と良心の自由が侵されるという主張が、比喩的に言えば「聖人を直接みたら目が潰れる」という迷信や「怪物メドウサを見た人は石になってしまう」(ギリシャ神話)式の迷信に等しいものだと2011年の建国記念の日の文に書いたことと、私の心の中の何処かで矛盾しているものがあるから発生したものだと分かります。
それでも、一般法則論は一般法則論としてこれ自体で正しい! と言い張れば良いのでしょうか・・・。
一般法則論の真偽と論理的な首尾一貫性、説明の仕方、話の持っていき方の適否、その有効性と実用性等について、あなたの吟味を改めてお願いします。
○注記1 世界Ⅰ~世界Ⅶ(+Z)は現代の文明国人の常識的な宇宙観/世界観の枠組みの中に収まる
世界Ⅰ~世界Ⅶ(+Z)と略記した一般法則論の世界観は、現代の文明国人の常識的な宇宙観/世界観の枠組みの中に位置づけて理解することができるものです。
現代の文明国人の常識的な宇宙観/世界観の枠組みとは、既に科学的に学問的に明らかにされている、大雑把に言えば、ビックバンによるこの宇宙の誕生→太陽系と地球の誕生→地球上での生命の発生と進化→人類の誕生→人類の文化・文明の誕生→今、ここに生きているあなたや私の存在とその人生という過程のことです。
注記1の終わり
○注記2 正しいやり方が自明ではないときにはどうしたら良いのか?
正しいやり方が自明ではないときにはどうしたら良いのか?
今ならば、それは、「求めよさらば与えられんの原理」/潜在意識の活用法/引き寄せの法則の活用法にあることを客観的にかつ一義的/一意的に明確にかつ確定的に知っていて、この通りに確信と自信をもって出来ます。
もちろん、これが良くできるようになるには試行錯誤を伴う練習/修行で経験を積むことが必要です。
その内にこれをするコツが分かって、例えば、おらが村の伝統芸能の資料館を作って、これと共に村の伝統芸能を後の世まで生きたままで残すために、おらはどうしたらよかんベーか? というような着想が自然にできるようになり、実際にこれが出来てしまうことになります。
注記2の終わり
例により、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気付き次第訂正します。
書き込み後、二日くらいは、訂正や加筆を繰り返すのが習慣になりましたので、よろしくお願いいたします。