339 ○ さみしくて我が身を惜しむボールペン
この「ボールペン」は還暦をとうに過ぎた男の自画像だとでも言えばいいか?
「さみしい」などという言葉を直接書くのは、ちょっと俳句をやる人にはタブーである。
「さみしい」と言ったのでは、一般的な意味があるだけで、そこにポエジーが生まれないからだ。
つまり「さみしい」という感じを読み手に受け取ってもらうのには、表にあらわれた言葉を通して暗に示すほうがより実感的になる。
「さみしい」という言葉の一般的意味が溶解したところで読まれるからだ。
同じ風景を描いた絵だって、「さみしい」感じにも「楽しい」感じにも描けるのを思えばいい。
「さみしい」だの「寂しい」だのは、私(作者)の偏愛する言葉のひとつで、ついつい使ってしまう。
歳をとるとさみしさは増大するからなおさらである。
この先に待ち構えている病気や死をいやがうえにも考える。
そんななか、知らず知らず諦めがこころを占めてくるのはわかるのだが、一方で、「老い」を遅らせようとどこかで努めたりもする。
今はやりの言葉で言う「アンチエイジング」(加齢に戦いを挑む)の消極版が「我身を惜しむ」ということになろうか。
何事においても老いはケチ臭くなる。
老人の呼吸が浅くなるのは、軽い「過呼吸」だと誰かが言っていた。
横隔膜が弱ることもあるが、息を吐くことすらケチになるとも言えそうだ。
そういえば、誕生が産声を上げる、つまり「息を吐く」ことから始まり、死ぬ時は「息を引き取る」と言うな。