337 ○ 濃山吹老いを知らずに死んだ友
これも「山吹」という兼題での句、
しかも山吹」を季語として用いることという但し書きつき。
ふだんこういう発想はないから、季語とそれとまったくかけ離れた事柄をぶつけてみた。
もちろん、「山吹」に自分のというか、語り手の思いを託すという方法、つまり「山吹」のことを詠んでいるのだが、その裏に語り手の述べたいことが出ているように作るという短歌からの方法もあるし、
ふたつの一見無関係な事がらをならべる「配合」という芭蕉以来の方法もある。
つまり、この句、ひときわ色鮮やかな盛りの「山吹」と黄昏てきた「老い」の現在を対照させ、若くして死んだ友人のことに思いを馳せるというふうに作ってみた、ということだ。
このふたつの事がらの間には「余白」がある。
この余白に読み手が意味的にであれ、感覚的にであれ、何らかの「つながり」を見出すことができれば、俳句として成立したことになる。
そうでなければ、何が表現したいのかわからないということになる。
シュタイナー教育で有名なルドルフ・シュタイナーは『色彩の本質』(私には難解でよく読めていない本だ)のなかで「黄は霊の輝きである」と述べている。そんな言葉がが、句作の時思い浮かんだではいた。
夭折への願望もかなわぬ歳となってしまっていて。
これも「山吹」という兼題での句、
しかも山吹」を季語として用いることという但し書きつき。
ふだんこういう発想はないから、季語とそれとまったくかけ離れた事柄をぶつけてみた。
もちろん、「山吹」に自分のというか、語り手の思いを託すという方法、つまり「山吹」のことを詠んでいるのだが、その裏に語り手の述べたいことが出ているように作るという短歌からの方法もあるし、
ふたつの一見無関係な事がらをならべる「配合」という芭蕉以来の方法もある。
つまり、この句、ひときわ色鮮やかな盛りの「山吹」と黄昏てきた「老い」の現在を対照させ、若くして死んだ友人のことに思いを馳せるというふうに作ってみた、ということだ。
このふたつの事がらの間には「余白」がある。
この余白に読み手が意味的にであれ、感覚的にであれ、何らかの「つながり」を見出すことができれば、俳句として成立したことになる。
そうでなければ、何が表現したいのかわからないということになる。
シュタイナー教育で有名なルドルフ・シュタイナーは『色彩の本質』(私には難解でよく読めていない本だ)のなかで「黄は霊の輝きである」と述べている。そんな言葉がが、句作の時思い浮かんだではいた。
夭折への願望もかなわぬ歳となってしまっていて。