ブルース・フーテンGG

団塊の世代日記(世の中にもの申す!・自分にもの申す!)

『文学のふるさと』(坂口安吾)を読んで ①

2008年12月19日 11時08分32秒 | 雑記

 シャルル・ペローの童話に「赤頭巾」という名高い話があります。

既に御存知とは思いますが、あらすじを申し上げますと、赤い頭巾をかぶっているので赤頭巾と呼ばれている可愛い少女が、いつものように森のお婆さんを訪ねて行くと、狼がお婆さんに化けていて、赤頭巾をムシャムシャ食べてしまった、という話であります。まったく、ただ、それだけの話であります。

 童話というものには大概教訓、モラル、というものが有るものですが、この童話には、それが全く欠けております。

それで、その意味から、アモラルということで、仏蘭西では甚だ有名な童話であり、そういう引例の場合に屡々(しばしば)引き合いに出されるので知られております。

 童話のみではありません。小説全体として見ても、いったい、モラルのない小説というものがあるでしょうか。小説家の立場としても、なにか、そういうものの意図がなくて、小説を書きつづける――そういうことがあり得ようとは、ちょっと、想像ができません。

 ところが、ここに、凡そモラルというものが有って始めて成立つような童話の中に、全然モラルのない作品が存在する。

しかも三百年もひきつづいてその生命を持ち、多くに子供や大人の心の中に生きている――これは厳たる事実であります。

 シャルル・ペローといえば「サンドリヨン」とか「青髯」とか「眠りの森の少女」というような名高い童話を残していますが、私はまったくそれらの代表作と同様に、「赤頭巾」を愛読しました。

 否、むしろ、「サンドリアン」とか「青髯」を童話の世界で愛したとすれば、私は何か大人の寒々とした心で「赤頭巾」むごたらしい美しさを感じ、それに打たれたようでした。

 愛くるしくて、心が優しくて、すべて美徳ばかりで悪さといものが何もない可憐な少女が、森のお婆さんの病気を見舞いに行って、お婆さんに化けて寝ている狼にムシャムシャ食べられてしまう。

 私たちはいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いながら、然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。

 その余白の中にくりひろげられ、私の目に沁みる風景は、可憐な少女がただ狼にムシャムシャ食べられているという残酷ないやらしいような風景ですが、然し、それが私の心を打つ打ち方は、若干やりきれなくて切ないものではあるにしても、決して、不潔とか、不透明というものではりません。

何か、氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさ、であります。

 もう一つ、違った例を引きましょう。

 これは「狂言」のひとつですが、大名が太郎冠者を供につれて寺詣でを致します。

突然大名が寺の屋根の鬼瓦を見て泣き出してしまうので、太郎冠者がその次第を訊ねますと、あの鬼瓦はいかにも自分の女房によく似ているので、見れば見るほど悲しい、と言って、ただ、泣くのです。

 まったく、ただ、これだけの話なのです。四六判の本で五六行しかなくて、「狂言」の中でも最も短いものの一つでしょう。

 これは童話ではありません。

いったい狂言というものは、真面目な劇の中間にはさむ息抜きの茶番のようなもので、観衆をワッと笑わせ、気分を新たにさせればそれでいいような役割のものでありますが、この狂言を見てワッと笑ってすませるか、どうか、尤も、こんな尻切れトンボのような狂言を実際舞台でやれるかどうかは知りませんが、決して無邪気に笑うことはできないでしょう。

 この狂言にもモラル――或いはモラルに相応する笑いの意味の設定がありません。

お寺詣でに来て鬼瓦を見て女房を思い出だして泣き出す、という、なるほど確かに滑稽で、一応笑わざるを得ませんが、同時に、いきなり、突き放されずにもいられません。

私は笑いながら、どうしても可笑しくなるじゃないか、いったい、どうすればいいんだ・・・・という気持ちになり、鬼瓦を見て泣くというこの事実が、突き放されたあとの心の全てのものを攫(さら)いとって、平凡だの当然だのといものを超躍した驚くべき厳しさで襲いかかってくることに、いわば観念の眼を閉じるような気持ちになるのでした。

逃げるにも、逃げようがありません。

それは、私たちがそれに気付いたときには、どうしても組みしかれずにはいられない性質のものであります。

宿命などというものよりも、もっと重たい感じのする、のっぴきならぬものであります。

これも亦、やっぱり我々の「ふるさと」でしょうか。

 そこで私はこう思わずにはいられぬのです。

つまり、モラルがない、とか、突き放す、ということは、それは文学として成り立たないように思われるけれども、我々の生きる道にはどうしてもそのようでなければならぬ崖があって、そこでは、モラルがない、ということ自体がモラルなのだ、と。>


 これは坂口安吾の『文学のふるさと』というエッセイの前半部である。

「モラルがないこと自体がモラルなのだ」という言葉は私の長かったモラトミアム時代の心底に絶えずあったもので、何か事あるたびに、立ち返る場所であった。

 人と付き合うときも無意識のうちでここが判っている人かどうかを基準にしていたような気がする。

世の偉いと言われたがる奴の大半は「何か、氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさ」を持ち合わせていなかったように思う。

これは、人間(じんかん)の中に滲み出てくるもので、出そうとして出てくるものではない。

 私なんかは根本が馬鹿だから、この「ふるさと」をついつい忘れ、いま思えば「恥ずかしいこと」ばかりやってきた。それも「センセイ」などと軽蔑的に呼ばれながらだ。

このブログで「糞橋下」のことなんか文句をつけている時は大概忘れている。

この前書いた『よせやい』での吉本の小泉評価などをうらやましいと思ったが、「我々の生きる道」に必ずある「崖」を思うと、吉本の認識の深さ、広さが浮かび上がってくる。

「モラルがないということ自体がモラルだ」というところから、人は自己を立ち上がらせ、人と人との交流を開始することができるのではないか。

 携帯電話を学校に持て来させないのどうの、「糞橋下」「文科省」「あちこちの教育委員会」は、大騒ぎしているが、さて<ひとつの切ない「ふるさと」>につながっているか?私には大いに疑問である。

どん詰まりの現在状況の中で「教育」がどうあるべきか、という根本の議論を欠いているのだ。

生徒にいま必要なのは、「自由」だということが、こいつらには見えてこないのである。

古今東西、公的権力で行動をいかに規制してもうまくいかないことすら忘れている。ピョンヤンの街の整然たる、寒々した様は映像ですら伝わってくが、この騒動の矢印はここに向かっている。

これに対し<「公」より「私」の方が大事>という吉本の言葉は、「ふるさと」から発せられている。

せっかくいい話を書いてきたのに、結局「文句」になってしまった。

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