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和尚ラジニーシ 【観照11】 ひとつしかない瞑想―見守ること 

2012-03-07 20:57:15 | 【自己アセンション3】 和尚ラジニーシ

Osho: The Great Zen Master Ta Hui, #28 より

(経典)
「心が動かないようにする」のではなく、無心。各地の師が正しいか間違っているのか、あなたにはよく分かっていないかもしれないが、あなた自身の根底がしっかりし、本物であれば、「心が動かないようにする」ことと「関心をもつことを忘れる」ことも含めて、 間違った教義の毒があなたに害を及ぼすことはありえない。

生と死という心を打ち壊すことなく、つねに「心が動かないようにする」ようにし、「関心をもつことを忘れる」ようにしていると、形、感覚、知覚、意志、そして意識という妄想の影響がひとり歩きし、あなたはいや応なしに無をふたつに分けることになる。
手放しになり、自分を広々と、おおらかにすることだ。昔からの習慣が突然生じてきても、心でそれらを抑えてはいけない。まさにそのようなとき、それは熱く燃えるストーブの上の、 ひとひらの雪片のようなものだ。

洞察力のある眼と精通した手腕のもち主であれば、ひと飛びで、それらはきれいに飛んでいく。そのとき初めて、怠け者のユングの言っていることが分かる―たしかに、 心を使っているときは、頭脳の働きはない。屈折した話は名称と形に汚されるが、率直な話には粉飾がない。心はなく、しかし働きながら、つねに働きながら、しかし、不在 ――私がいま語っている無心は、心をもつこととかけ離れているわけではない。これらは人びとをだます言葉ではない。

(和尚)
このふたつのこと・・・心が動かないようにすることと、無心に関しては、 長いあいだ誤解があった。これらは同じ意味だと思いこんでいた人たちがたくさんいた。同じ意味のように思えるが、実際には、それらはふたつのものが可能な限り遠く離れているのと同じで、橋のかけようがない。そこで、まず、このふたつの言葉の正確な意味を見出そうとしてみよう。というのも、今夜の大慧(だいえ:中国の僧)のスートラ全体が、その違いを理解することにかかわっているからだ。

違いはひじょうに微妙だ。 自分の心を動かさないようにしている人と、心のない人を外側から見れば、まさに同じように見える。心を動かさないようにしている人もまた、静かだからだ。その人の心の底には動揺があるが、それが表に出てくるのを彼は許していない。たいへんなコントロールをしている。

ノーマインド、あるいは無心の人は、 コントロールするものなどなにもない。 彼は、なにひとつ抑圧されていない、なにひとつ規律が課されていない、まさに純粋な沈黙――まさに虚空だ。表面はまるで当てにならない。 外見にはよほど油断せずにいなければならない。外から見れば、両方とも同じように見えるからだ――静かだ。不動の心を達成することが簡単でなかったら、問題は生じてこなかっただろう。達成するのは簡単だ。

無心を達成するのは、それほど簡単ではない。安上がりではないのだ。それは世界最大の宝だ。心には静かにしているゲームをすることができる。どんな思考もなく、どんな感情もなくいるというゲームはできるが、それらはただ抑圧されているだけで、活発に生き、いつでも飛び出せる状態にある。

いわゆる宗教とその聖者たちは、心を静止させるという詭弁に陥っている。自分の思考をコントロールしようとしながら、自分の感情を許さず、内側のいかなる動きも許さず、静かに坐りつづけたら、徐々に徐々に、それがあなたの習慣になっていく。 これこそ、あなたが自分になすことのできる、世界最大のごまかしだ。というのも、あらゆることがまさに同じで、なにひとつ変わっていないからだ。だが、あなたはあたかも変容を遂げたかのように見える。

ノーマインド、あるいは無心の境地は、心を動かさないようにすることとはまったく逆だ ――それは心を超えることだ。 それは、心が何百万光年も離れたもっとも遠い星になり、あなたはただの見守る人にすぎないくらいの距離を、 あなた自身と心の間につくることだ。 心が静止させられていると、あなたはコントロールしている人だ。心がなければ、あなたは見守る人だ。これが区別する目安だ。

なにかをコントロールしているとき、あなたは緊張している。 緊張せずにはいられない。 なぜならコントロールされているものが絶えずあなたに反抗しようとしているからだ。隷属させられているものは自由を望む。あなたの心はいずれ激しく爆発することになる。(中略)

あなたがたの聖者たちは、コントロールされた動物以外のなにものでもない。 心は、あなたの動物としての過去の、 長期にわたる遺産以外のなにものでもない。あなたはそれをコントロールすることができる。だが、コントロールされた心は、目覚めた心ではない。

コントロールすることと抑圧することと規律に従うことのプロセスは、すべての宗教で教えられている。そして、その嘘の教えゆえに、人類は一寸といえども動いていない ――野蛮なままだ。すぐにでも人びとは殺し合いを始める。 自分を見失うのに一瞬もかからない。

自分たちは人間であり、もっとなにか、もっとよいなにかを期待されているということを完全に忘れてしまう。心をコントロールして無心を達成したという、この欺瞞を避けることができた人びとは、ごくわずかしかいない。 無心を達成するのには、まったく異なったプロセスが絡んでいる。私はそれを究極の錬金術と呼ぶ。それはひとつの要素だけで成り立っている―― 見守っていることという要素だ。

ゴータマ・ブッダがある町を通り過ぎようとしていると、蝿が飛んできて彼の額にとまる。彼は連れのアナンダに話している最中で、話しつづけながら手で蝿を払おうとする。そこで突然、彼は自分の手の動きが無意識、機械的だったことに気づく。意識を保ってアナンダに話していたために、手が蝿を機械的に追い払ったのだ。 彼は立ち止まり、蝿はもういないにもかかわらず、自分の手をもう一度、意識を保って動かした。

アナンダは言う。「なにをしているのですか? 蝿は行ってしまいましたよ……」
ゴータマ・ブッダは言う。「蝿は行ってしまった……だが、私は罪を犯した。無意識のうちにやってしまったからだ」

英語の“sin(罪)”という言葉は、 ゴータマ・ブッダだけが正しい意味で使っている。“sin”という言葉は、忘れっぽさ、無自覚、油断、ものごとを機械的やることを意味する語源に由来している――そして、私たちの生全体がほとんど機械的だ。私たちは朝から晩まで、晩から朝まで、ロボットのようにものごとをやりつづける。

無心の世界に入りたい人は、ひとつのことだけを学べばいい。 一歩だけで旅は終わる。その一歩とは、あらゆることを注意深くやることだ。注意して自分の手を動かす。注意して目を開ける。歩く、油断せずに、気づきながら、歩を進める。食べる、飲む。だが、機械であることに自分が支配されてしまうのをけっして許してはいけない。これが変容の唯一の錬金術的秘密だ。

あらゆることを完全に意識を保ってやることができる人は、光を放つ現象になる。そういう人はすべてが光で、その生全体が芳香と花に満ちる。機械的な人はいくつもの暗い穴、汚い穴で生きている。光の世界を知らないのだ。 目の見えない人に似ている。見守っている人こそが目のある人だ。

大慧(中国の僧)は、ゆっくりゆっくりと、内なる変容のより深い秘密へと浸透していく。彼は言う。「各地の師が正しいか間違っているのか、あなたにはよく分かっていないかもしれないが、あなた自身の根底がしっかりし、本物であれば、 間違った教義の毒があなたに害を及ぼすことはありえない……」

誰が正しく、誰が間違っているのかを考えても役に立たない、と彼は言っている。 何千もの教義、何百もの哲学があるから、そうした言葉のなかに真理を探求しつづけたら、道を見つけることができないジャングルの中で、あなたは迷ってしまう。分かっていることは、あなた自身の内にある、しっかりした根底を達成することだけだ。

……「心が動かないようにする」ことと 「関心をもつことを忘れる」ことも含めて。生と死という心を打ち壊すことなく、つねに「心が動かないようにする」ようにし、「関心をもつことを忘れる」ようにしていると、 形、感覚、知覚、意志、そして意識という妄想の影響がひとり歩きし、 あなたはいや応なしに無をふたつに分けることになる。

手放しになり、自分を広々と、おおらかにすることだ……。 それは、存在からかけ離れて自分自身をコントロールするかどうかということではない。手放しになり、広大になる ――存在そのものと同じくらい広大になるかどうかということだ。そして、見守っていることのなかで、あなたは無限になる。それこそが、あなたの内側で限界のない唯一のものだ。

ちょっとあなたの見守り、観照を見てごらん。それには限界がない。始まりもなく、終わりもない……それには形がないのだ。この心の完全な静止が、まさにノーマインド、あるいは無心だ。それはコントロールされてはいない。規律に従ってはいない。自分の心にすべてのプレッシャーをかけ、心を静かにさせているわけではない。そうではない、ただそこに心がないのだ。家は空っぽ、コントロールするものはいないし、コントロールされるものもいない。

コントロールに向けられた関心がすべて、単純な見守ることのなかへと消え去っている。この見守ることは広大だ。 一度それを少しでも味わったら、それは宇宙の限界そのものにまで広がりつづける。 昔からの習慣が突然生じてきても、心でそれらを抑えてはいけない。まさにそのようなとき、それは熱く燃えるストーブの上の、ひとひらの雪片のようなものだ。

見守る道を進んでいるときでさえも、ときには古い習慣がよみがえることがあるかもしれないということを、彼はあなたに注意している。だが、気にしてはいけない。それらは熱く燃えるストーブの上の、雪片のようなものだ。 おのずと消えてしまう。あなたはただ見守ればいい。気にしてはいけない、乱されてはいけない、心配することはない。

怒りがあるときもある、欲望があるときもある、野心があるときもある。 だが、それらに、あなたの見守ることを邪魔することはできない。あなたの鏡のような純粋さに跡を残すこともなく、それらは来ては去っていく。 だが、ひとつだけ覚えておかなければならない。それらと戦い始めないことだ。それらを潰し、壊し、捨てようとし始めないことだ。なにか悪いことが起こっていると、それに飛びかかって壊そうとするのは、心にとってはごく自然なことだ。これが、あなたが気づいていなければならない唯一のことだ。

人にけっして心を超えさせないものが、まさにこれだからだ。古い習慣はやって来る――そして、古い習慣はひじょう古くからある、何生も昔からある。あなたの覚醒はひじょうに新鮮で、ひじょうに新しい。あなたの機械性は古くからのものだ。だから、それが戻ってくるのは、ごく自然なことだ。

誰かがあなたを侮辱する――あなたは怒る必要はない、が、突然、怒りがわいてくるのが分かる。それは努力ではない。古い習慣、古くからある反応に過ぎない。それと戦ってはいけない。笑って、それを隠そうとしてはいけない。 ただそれを見守るがいい。そうすれば、それは来て、そして去って行く ……熱く燃えるストーブの上の、ひとひらの雪片のようなものだ。

洞察力のある眼と精通した手腕のもち主であれば、ひと飛びで、それらはきれいに飛んでいく。そのとき初めて、怠け者のユングの言っていることが分かる―― たしかに、心を使っているときは、頭脳の働きはない。

もし人が見守ることのアートを学んでいたら、自分の心をも使うことができるし、それでいて頭脳の働きはない。 私はあなたがたに話しているし、他に方法がないから、自分の心を使っている。心は言葉でメッセージを伝える唯一の方法だ。それが利用できる唯一のメカニズムだ。だが、私の心はまったく静かだ。頭脳の働きはない。 なにを話そうかと考えてはいないし、なにを言ったかと考えてはいない。 私は自分をもち込まずに、大慧に自在に応じているだけだ。

それはあたかも、山に入って叫べば、山がこだますようなものだ。 山はなにか頭脳の働きをしているわけではない。 ただこだましているだけだ。 私が大慧を語っているとき、私は山のこだまにすぎない。たしかに、心を使っているときは、頭脳の働きはない。屈折した話は名称と形に汚されるが、率直な話には粉飾がない。 心はなく、しかし働きながら……。これは不思議な体験だ。どのような頭脳の働きもなく、心を使えるとき……。 心はなく、しかし働きながら、つねに働きながら、しかし、不在。(中略)

大慧は言っている。「私は誰かをだますためにこうした言葉を使っているわけではない。私は自分の知識を示そうとしているわけではない。あなたより博識だという振りをしようとしているわけではない。 無心と心は共存できるという、自分の体験をただ分かち合うために、私はこうした言葉を話している。抑圧するような技法を使ってはならない。純粋な見守りだけだ……そうすれば、徐々に徐々に、心はすべての中身を失っていく。無心になる」

だから、無心と心は別々ではない。無心とは、中身のまったくない、思考のまったくない心だ。それはまさに、なにも映していない鏡のようなものだ。なにも映していない鏡であることの沈黙は、存在が人間に味わうことを許している最大の至福だ。そして、そこからものごとが広がりつづける ――神秘に次ぐ神秘……問いはない、答えはない、 だが、途方もない体験……はぐくみ、満たし、 何生にも何生にもわたってさ迷ってきた、飢えた魂に満足を与える。

この放浪をやめるときだ。この放浪をやめるには、単純な技法がある。それは、自分の心、自分の体、自分の行動を見守り始めることだ。なにをやっていようとも、あるいは、なにもやっていなくても、ひとつだけ油断せずにいなければならない ――自分は見守っているということだ。その見守りを失ってはいけない ――そうなったら、あなたがキリスト教徒であれ、ヒンドゥ教徒であれ、ジャイナ教徒であれ、仏教徒であれ、関係ない。 見守りは誰でもない。それは純粋な意識だ。

そして、新しい人類を、ばかげた理由から人びとが互いに差別し合うことのない新しい世界をもたらすことができるのは、この純粋な意識だけだ。国家、人種、宗教、教義、イデオロギー、――これらは子どものおもちゃにすぎない。 大人向けではない。大人向けは存在にひとつしかない。それを見守っていることだ。

……ある僧がゴータマ・ブッダのメッセージを広めようとしている。彼自身は、まだ光明を得ていない。そのためにゴータマ・ブッダは彼を呼んで言う。「覚えておきなさい。あなたはまだ光明を得ていないから、私はこのことを言わなければならない……あなたは理路整然としている。話すのがうまい。メッセージを広めることができる。 種を蒔くことはできないだろうが、何人かの心を惹きつけて、私のところに来させることはできるだろう ――だが、この機会をあなた自身の成長のためにも使いなさい」

僧はたずねた。「どうすればいいのですか?この機会を利用するには、どうすればいいのですか?」 すると、仏陀は言った。「あらゆる機会で、あらゆる状況で、できることがひとつだけある。それは、見守っていることだ。 ときには人びとがあなたに苛立ち、怒ることもあるだろう。あなたが彼らのイデオロギー、彼らの教義、彼らの先入観を傷つけたからだ。沈黙し見守っているがいい。人びとがあなたに反対し、水さえも与えてくれず、食事が得られない日もあるだろう。見守るがいい……自分の飢えを見守る、自分の渇きを見守る……だが、苛立ってはいけない、不快に感じてはいけない。あなたが人びとに教えることは、あなた自身の見守りほど重要ではない」

「もしあなたが見守って帰ってきたら、私はとてもうれしい。あなたが何人の人に働きかけたかは問題ではない。何人の人に話したかは問題ではない。究極の問題は、あなたが帰ってくるかどうか、あなた自身が観照のしっかりした根底を見出しているかどうかということだ。そうであれば、他のことはすべて、重要ではない」

これが、ひとつしかない瞑想だ。他の瞑想はすべて、同じ現象の変形だ。
だから、大慧のこのスートラは、もっとも基本的なもののひとつだ。

Osho: The Great Zen Master Ta Hui, #28
http://ameblo.jp/premsheel/entry-10356832843.html


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