考える葦のブログ

さわやかに さりげなく

『禁煙ファシズムと戦う』

2006-05-11 22:40:45 | 

今日は久しぶりに本の感想、というよりこの本を読んで考えたことを書きますね。
読んだ本は小谷野敦さんの『禁煙ファシズムと戦う』
はじめに断っておきますけど、ボクは嫌煙家です。

まずは本の感想を少しだけ。
著者の小谷野さんは「本気でかかって来い」とプロの論戦を求められているようですけど、残念ながら難しいです。と言うのは、この問題、論理的・法律論的にどうこうという問題ではなく、単に好きか嫌いか、欲望の問題なんですよね。
ボクから見れば、小谷野さんが厳しく論破しようとしている「素人」の新聞への投稿も、「東京大学の非常勤講師」の小谷野さんのこの本も、ボクのブログも本質的には変わりはない。つまりどちらも好きか、嫌いかを出来るだけ論理的に説明しようとしているだけで、結局好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。出来るだけ論理的に見えるように法律論で責めても、無理があるだけだと思います。

いくつか言えることは、「プロの論戦」は怖いということと、
禁煙の構内で堂々とタバコを吸うことによって自ら問題提起する講師のいる東京大学の学生は恵まれているということでしょうか。

結論を先に言いますけど、「タバコを吸うのは自由か?」と聞かれれば、「オナラをするのと同じくらい自由だ」と言いたいですね。少し長くなりますけど、戯言としてぜひ読んでください。

みなさん、ハローです。ホディです。

ボクは、タバコは一度も吸ったことがないんです。
でも、親父はヘビースモーカーだったので、以前はそれほど嫌煙でもなかったはずなんですけど・・・
いつから嫌煙になったのかな?とまず考えてみました。

考えてみると、家に臭いがなくなった頃からではないかと思います。
「家に臭い」と言うと不思議がられますかね?
家は無臭だと思っている人は都会人ですよ。
実家にいる頃は、親父のタバコもそうでしたけど、飼い犬の臭い、また、トイレは「ボットン便所」でしたし、豆炭ゴタツや石油ストーブ。そして田舎なもので・・・近所には牛や鶏(風向きによっては強烈な臭いが吹き込みます)、バキュームカーは定期訪問しますし、亡き祖母や近所の人も自分の畑に「肥やし」としてボットン便所から排泄物を運んでいたりしました。(実家は水洗になりましたけど、近所では今でも残っていそうな気がします。)
戦後間もない話じゃないですよ。最近、と言っても昭和50・60年代の話です。そんな様々な臭いが交錯した家ですから、タバコの臭いなんて気にならないですし、木造の家らしい隙間風が程よい換気をしてくれていました。

そんな愛すべき家を離れて、東京に出てきて・・・
今じゃすっかり「ムシューダ」状態ですよね。当然、本当に無臭ということはないですけど、不快な臭いはほとんど感じません。そういう中で、タバコの臭いだけが外からしつこくスーツに付いてきた時には異臭を放っている。
だから違和感を感じるんですよ、というのが今の嫌煙の状況です。
ヒトの適応力はすごいですよね。嗅覚が間違いなく敏感になっています。

さて、そんな中、3つの話を思い出しました。

  1. ある露出狂の話
    ・ 彼は、裸でいることで精神的に落ち着く。
    ・ だから、出来れば一日中全裸で過ごしたい。
    ・ でも、家の外では認められていない。
    ・ 自分が悪いのではなく、見るほうが悪いのに差別されている。
    ・ これは憲法14条に違反している
    ・ 自分の裸はいやらしくないけど、
      女の人の一部は着衣はあるけど、いやらしい。
      そっちのほうや、ビデオなどのほうが犯罪だ。
  2. ある子ども連れのレストランでの出来事
    ・ 子どもがオムツに大便をもらした。
    ・ トイレにはベビーベッドがなかったので、
      止む無く、自分のテーブルでオムツを代えた。
    ・ 店員から注意された。
    ・ 赤ちゃんだし、生理現象だから仕方がないじゃないか。
    ・ 店がベビーベッドを準備していないのが悪いし、
      そもそもおむつ交換禁止とは書いてないじゃないか。
  3. ある殺人犯の話
    ・ 何故、人を殺してはいけないのか?
    ・ そんなことは学校では習っていない。

どう思います?
どれもヒトの本能か?生理現象か?
どこまで許されると思いますか?

どれも科学的に「害」だと証明されたものはありません。
それでも、「法」もしくは「社会の常識」で制約されていますよね。
これにタバコを加えて、個人の欲望や嗜好や事情は、どこまで許されるのでしょうか?

タバコを吸ってはいけないとか、
裸になってはいけないとか、
大便をしてはいけないとか、
そこまで言うつもりはもちろんありません。(殺人はダメですけど。)

でも、出来るだけ多くのヒトが、住み易い・過ごし易い社会にするために、一定の制約は必要だと思います。(制約は少ないほうが良いし、何でも法にする必要はないが。)
そして、ボクらがすべきなのは、喫煙禁止の場所でこれ見よがしにタバコを吸うことではないし、公の場であるがままの姿を晒すことでもない。
友人のタバコの臭いは気にならないことが多いですし、(自分の)子どもの大便の臭いは許せるように、まずは「許してもらえる」人間関係を取り戻すことが大切だと思いますね。
そして、こんな無臭・無音・抗菌、隙間風もない自然から遮断された味気のない社会にしたことを反省すべきではないでしょうか。

さらに言えば、小谷野さんは昨今の政治やマスコミを「ファシズム」と非難されていますけど、一応?民主主義を勝ち取ったわけですから、健康増進法が許せないのだったら、1票の力で政治を変えることに努力されるべきだと思います。民主主義を使いこなせずにファシズムを呼んだのであれば、それは自業自得です。
こういう社会や人間関係、政治(政治家)・・・作り上げて育ててきたのは誰なんでしょうか。

最後に一言。
友よ、その欲棒をまずは理性の中に仕舞おうじゃないか。



禁煙ファシズムと戦う

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4 コメント

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とても興味深く読ませていただきました (キャラメルマン10号)
2006-05-13 00:47:22
こんばんは。

嫌煙がらみでこちらに飛んできましたが、実はかくいう私も6年ほど前までは、けっこうなヘビースモーカーでした。ハイライトを一日一箱半吸ってたことも…

でも、そのころも他人の煙には敏感だったようなきがします。でも、それもHoddyさんのいうようにおそらくその他者との関係によるんだな、と思いました。

例えば、尊敬している先輩のタバコの煙が、普段ほどは気にならないように。

ですから、極論かもしれませんが、健康意識の高まりももちろんあるでしょうが、日本全体の他者との(近所つきあいに代表するような)深い関わりの薄れが喫煙に対する嫌悪となって現れているのかもしれませんね。

でも、やっぱり今の私は理屈抜きにしてタバコの煙はやはりつらいです。

いちど「禁煙ファシズムと戦う」読んでみますね。

「禁煙セラピー」と二冊まとめて、先輩の机においといてやろうかな。

返信する
(^v^) (hoddy)
2006-05-13 12:08:04
キャラメルマンさん、コメントありがとうございます。



「禁煙ファシズムと戦う」、嫌煙の人は序章、第四部から読むことをお薦めします。第一部から素直に読むとタバコの煙を吸うことよりもストレスが溜まる可能性が高いのではないかと心配するからです。



さて、喫煙vs嫌煙、難しいですよね~

お互い許し合いたいと思っても、好きと嫌いがおっしゃるとおり「理屈抜き」で反応してしまう・・・

もっと大きな相手(昔で言えば便所やペットや畜産)があれば気も嗅覚も紛れるのでしょうけど、ヒトにとっての今や最大の異臭がタバコなんですよね・・・



共存は難しいのでしょうかね。

でも、キャラメルマンさんの職場のように分煙もされていないのは論外だと思いますよ。



返信する
 (ベビースモーカー)
2011-09-13 14:04:11
>こんな無臭・無音・抗菌、隙間風もない自然から遮断された味気のない社会にしたことを反省すべきではないでしょうか。
あなたの考える公平さの勢いあまってのフライングですね。
非喫煙者が訴えてらっしゃるのは、不快なものを押しつけられることじゃないかと思うんですよね。
現在までのいつでもどこでもスパスパ、という状態が
喫煙者の、あるいは非喫煙者の好むと好まざるとに関わらず、こちらの悪気がなくとも、
喫煙者側個人の嗜好を自動的に押し付けてしまう構造になっていたわけで、
それは煙草や煙の性質に無知向配慮だったこととセットになった結果だと思うんですよ。
だから現在煙草の認識も深まって、それを踏まえたうえで、さあ、じゃあ、その中で、どこまで喫煙者が自分の欲求を通せるのか、ということを、ゼロに近いとこまで引っ込めてから一から話し合って構築し直していく段階なんじゃないかと個人的には解釈してます。
つまり、様々な嗜好の人が混在する空間に、最初に煙草を持ち込む段階で、本来すべきだったであろうことを、ここでやる必要があるのではと。
最初に引かせてもらった文言は、非喫煙者ののぞむ、他人のせいで不快な思いをしたくない、という至極当然な感覚を、故意に悪く表現する、筆者さんのなんというのか、ずるい言い方だな、
と私は思った次第なんですよね。
後につづく、人間関係云々の部分と合せて、このような不公平な物言いが、
せっかくの良いご主張をかなり胡散臭くしてしまっているのが、残念ですね。
そう他はとても好感もって読ませていただきましたがどうしてもここだけがひっかかってしまって
しかも
一見、良いことのように誤解され易い言い方ですのでいてもたってもいられず。
煙草は、やめまっしぇん、あしからず。
返信する
re:否 (hoddy)
2011-09-13 22:30:46
ベビースモーカーさん、はじめまして。
コメントありがとうございます。

書かれているご意見にはほぼ同意です。
なかなか真意が伝わらない自分の表現力を残念に思うばかりです。

一言だけ、補足させていただくと、
すべての人の不快を除去することは非常に困難であり、
一定レベルの不快を許容し合うことのほうが、
結果的には心地よいのではないか、と思うのです。

ちょっと、言葉足らずな気になったので、
続きはブログに書こうと思います。

良い気付き、刺激になりました。
ありがとうございました。



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