祝四周年
昨日11月3日はサイトを開設して四周年目の記念日に当たります。
ブログはその前の10月中、ということしか記憶にないのですが(笑)、サイトの方は事前にある程度日数をかけて準備して、きりのいい「文化の日」に開いたのではっきりと覚えています。
というか、同じ日に近所のパン屋さんがオープンして、このあいだから「四周年セール」のお知らせが出てるんです。それを見て、ああ、サイトももう四周年になるのか、と感慨を新たにした、というわけです。
なんだかんだありながら、四年間続けられたことをうれしく思います。
わたしが最近、違和感を覚える言葉のひとつに、「経験値」というものがあります。
本来なら「経験を積んで」というはずのところを、「経験値を積んで」と言う人が少なからずいるのです。わざわざ「経験」に「値」つける。使っている人にとっては同じようなものなのかもしれませんが、「経験」と「経験値」、わたしには似て非なるものに思えます。
おそらく「経験値」という言葉はコンピューターゲームからきた言葉なのでしょう。わたし自身はその昔、友だちの家でファミコンをやらせてもらったときに、初めて知った言葉でした。モンスターを倒すごとに「経験値」が増えていき、それが規定の数値に到達するとファンファーレが鳴ってレベルがあがる。そうすると、わたしが操作するゲームの主人公の能力値が上がるのです。戦闘能力があがり、行動範囲も拡がる。そうすることで、新たな課題が与えられる。この「経験値」を上げるために、最初はせっせと弱いモンスターを倒していくのです。自分の努力が数値化されて、それが確実に成果として目に見えるかたちで反映される。これは実に楽しいことだし、おそらくこの楽しさが、ゲームを続けさせるモチベーションとなっているのでしょう。
ところが実際のわたしたちの生活のなかでは、「経験値」に相当するような数値はありません。たとえば本を読む。本一冊読んで、得られる数値は「一」ですが、読むと同時に何もかも忘れてしまえば、それはゼロとどうちがうのか。この「一」という数字は、いったい何に還元されるのか。いったい何が「獲得」されるのか。
こういう観点から見れば、本を読むというのは、おっそろしく効率の悪いことでしょう。たまに本を年間二百冊とか、三百冊とか読むという人がいますが、一度聞いてみたいと思うのは、いったい何冊の本を「自分のものにした」といえるのか、ということです。
何かの場面で「ああ、この情況はあの本に書いてあったことと同じだな」とか、「いまあの人が言った言葉は、あの本で登場人物が言っていたことと同じだ」とか、臨機応変に取り出すことのできる本。
わたしが何か書こうとするとき、使える本はやはりおっそろしく限られています。けれども、「あの考え方は役に立つ」「あの行動は参考になる」と、参照しようと「思いつく」本は、あるていど「自分のものにしている」と言っていいかと思います。そういう本は強い印象を受け、読み返し、それについて考えた本であり、そういう本がほかの本と違う要素を「数値化」することはできません。
「一年間に何冊読んだか」は「経験値」と言えるかもしれないけれど、「使える本」は、わたしがその本とどのような関係を結んだかを表すものであり、その意味では「経験」としか言いようのないものだろうと思います。
あるいは、人との関係でも同じことが言えるでしょう。
その人とどのくらい親しいのか、どれほどその人を理解しているのか、そういうことは決して数値化されるものではありません。
年数を重ねるというのは、「経験値」か「経験」か。
サイト開設四周年、というのは、確かに数字です。サイトの中には何本の翻訳と、何本のコラムがある……と、数えたことはないけれど(笑)、その気になれば数値化もできるでしょう。ブログやホームページを点数化してくれるようなサービスもあるみたいです。
けれど、年数を重ねるということは、それだけにとどまらないものがあるように思うのです。
変な言い方ですが、ものすごく容量の大きなゲームが仮にあったとする。もちろん波瀾万丈の展開が用意されていて、主人公はひたすら成長に成長を重ね、ゲームクリアするまでに一年ぐらいかかる。果たしてそんなゲームをやる人はいるのでしょうか。
努力が確実に数値化され、確実に能力値があがっていく。けれどもそうなると、かならず飽きてくるのではないでしょうか。規定値に到達するための「経験値稼ぎ」はもはやノルマでしかなく、こうなるとわかっている「予測」は、もはや「予測」とは言えず、人との出会いも「つぎのイヴェント」を構成する要件でしかない。そうなるとおそらくそれは遊びとは呼べなくなるのではないかと思います。
ゲームが一ヶ月かせいぜい二ヶ月で終わるというのは、容量の問題だけでないように思うのです。
何かを続けていこうとするときは、たえず自分で何ごとかを見つけていかなければならないし、どうなるかわからない、やってもやっても無駄なことなのかもしれない、そういう気持ちはたえず生まれてくるでしょう。それが、自分の内だけで終わっているものなら、続けられるものではありません。
それでも、話したい人がいる。
考えを聞きたい人がいる。
その気持ちが、わたしをつぎの「何か」に向かわせます。
わたしの話はおもしろくないかもしれない。
そのまま通り過ぎていくかもしれない。でも、おもしろい、と耳を傾けてくれるかもしれない。
それを積み重ねていったのが「四年」という歳月だったとしたら。
わたしの「経験」だけでなく、読んでくださる方の、「経験」の、ほんの一部にでもなるのだとしたら。
だからこそ、わたしは書き続けていけるのだと思います。
「経験値」ではなく、「経験」として。
読みに来てくださって、ほんとうにありがとう。
あなたが読んでくださるから、わたしはまたログを書きます。
だから、またお話を聞かせてください。
昨日11月3日はサイトを開設して四周年目の記念日に当たります。
ブログはその前の10月中、ということしか記憶にないのですが(笑)、サイトの方は事前にある程度日数をかけて準備して、きりのいい「文化の日」に開いたのではっきりと覚えています。
というか、同じ日に近所のパン屋さんがオープンして、このあいだから「四周年セール」のお知らせが出てるんです。それを見て、ああ、サイトももう四周年になるのか、と感慨を新たにした、というわけです。
なんだかんだありながら、四年間続けられたことをうれしく思います。
わたしが最近、違和感を覚える言葉のひとつに、「経験値」というものがあります。
本来なら「経験を積んで」というはずのところを、「経験値を積んで」と言う人が少なからずいるのです。わざわざ「経験」に「値」つける。使っている人にとっては同じようなものなのかもしれませんが、「経験」と「経験値」、わたしには似て非なるものに思えます。
おそらく「経験値」という言葉はコンピューターゲームからきた言葉なのでしょう。わたし自身はその昔、友だちの家でファミコンをやらせてもらったときに、初めて知った言葉でした。モンスターを倒すごとに「経験値」が増えていき、それが規定の数値に到達するとファンファーレが鳴ってレベルがあがる。そうすると、わたしが操作するゲームの主人公の能力値が上がるのです。戦闘能力があがり、行動範囲も拡がる。そうすることで、新たな課題が与えられる。この「経験値」を上げるために、最初はせっせと弱いモンスターを倒していくのです。自分の努力が数値化されて、それが確実に成果として目に見えるかたちで反映される。これは実に楽しいことだし、おそらくこの楽しさが、ゲームを続けさせるモチベーションとなっているのでしょう。
ところが実際のわたしたちの生活のなかでは、「経験値」に相当するような数値はありません。たとえば本を読む。本一冊読んで、得られる数値は「一」ですが、読むと同時に何もかも忘れてしまえば、それはゼロとどうちがうのか。この「一」という数字は、いったい何に還元されるのか。いったい何が「獲得」されるのか。
こういう観点から見れば、本を読むというのは、おっそろしく効率の悪いことでしょう。たまに本を年間二百冊とか、三百冊とか読むという人がいますが、一度聞いてみたいと思うのは、いったい何冊の本を「自分のものにした」といえるのか、ということです。
何かの場面で「ああ、この情況はあの本に書いてあったことと同じだな」とか、「いまあの人が言った言葉は、あの本で登場人物が言っていたことと同じだ」とか、臨機応変に取り出すことのできる本。
わたしが何か書こうとするとき、使える本はやはりおっそろしく限られています。けれども、「あの考え方は役に立つ」「あの行動は参考になる」と、参照しようと「思いつく」本は、あるていど「自分のものにしている」と言っていいかと思います。そういう本は強い印象を受け、読み返し、それについて考えた本であり、そういう本がほかの本と違う要素を「数値化」することはできません。
「一年間に何冊読んだか」は「経験値」と言えるかもしれないけれど、「使える本」は、わたしがその本とどのような関係を結んだかを表すものであり、その意味では「経験」としか言いようのないものだろうと思います。
あるいは、人との関係でも同じことが言えるでしょう。
その人とどのくらい親しいのか、どれほどその人を理解しているのか、そういうことは決して数値化されるものではありません。
年数を重ねるというのは、「経験値」か「経験」か。
サイト開設四周年、というのは、確かに数字です。サイトの中には何本の翻訳と、何本のコラムがある……と、数えたことはないけれど(笑)、その気になれば数値化もできるでしょう。ブログやホームページを点数化してくれるようなサービスもあるみたいです。
けれど、年数を重ねるということは、それだけにとどまらないものがあるように思うのです。
変な言い方ですが、ものすごく容量の大きなゲームが仮にあったとする。もちろん波瀾万丈の展開が用意されていて、主人公はひたすら成長に成長を重ね、ゲームクリアするまでに一年ぐらいかかる。果たしてそんなゲームをやる人はいるのでしょうか。
努力が確実に数値化され、確実に能力値があがっていく。けれどもそうなると、かならず飽きてくるのではないでしょうか。規定値に到達するための「経験値稼ぎ」はもはやノルマでしかなく、こうなるとわかっている「予測」は、もはや「予測」とは言えず、人との出会いも「つぎのイヴェント」を構成する要件でしかない。そうなるとおそらくそれは遊びとは呼べなくなるのではないかと思います。
ゲームが一ヶ月かせいぜい二ヶ月で終わるというのは、容量の問題だけでないように思うのです。
何かを続けていこうとするときは、たえず自分で何ごとかを見つけていかなければならないし、どうなるかわからない、やってもやっても無駄なことなのかもしれない、そういう気持ちはたえず生まれてくるでしょう。それが、自分の内だけで終わっているものなら、続けられるものではありません。
それでも、話したい人がいる。
考えを聞きたい人がいる。
その気持ちが、わたしをつぎの「何か」に向かわせます。
わたしの話はおもしろくないかもしれない。
そのまま通り過ぎていくかもしれない。でも、おもしろい、と耳を傾けてくれるかもしれない。
それを積み重ねていったのが「四年」という歳月だったとしたら。
わたしの「経験」だけでなく、読んでくださる方の、「経験」の、ほんの一部にでもなるのだとしたら。
だからこそ、わたしは書き続けていけるのだと思います。
「経験値」ではなく、「経験」として。
読みに来てくださって、ほんとうにありがとう。
あなたが読んでくださるから、わたしはまたログを書きます。
だから、またお話を聞かせてください。
けっこう読み進んでから、既読だったことに気づいたりします。まあ、楽しみとして本を読む分には悪くないかもしれないけど。同じ本を何度も楽しめるので。
そんな調子なんで、ぼくが自分の見方や考え方だと思っているものも、実はどこかで読んだり聞いたりしたものなのかもしれません。最初は借りものだったのに、それを忘れている、とか。ありそうだなあ。
とはいえ、それはぼくが選んで取り入れたものだったはずだし、だいたい自分のオリジナルしか使えないなら、ぼくらは言葉すら話せない。経験ってのは要はそういうもんで、ひとから学んだものに、少しでもぼくらなりのオリジナルを加えて世界に返すことができれば、それが世界に対する恩返しなのかも。それをまた誰かが使う、と。
なんか、こっちはゆっくりと、だらだら(笑)おしゃべりしたい気分だったので、そんな気分になるまで保留してました。
まだ読みに来てくださってたらいいんですけど。
「経験値」と「経験」の一番のちがいって、目的意識的になるかどうか、ってことだと思うんですよね。
「経験値を上げる」は目的です。強くなるため、つぎのステージに進むため、パパパラッパッパーというファンファーレを聞くため。
だけど、「経験」は目的にならない。
何かの前に「よ~し、楽しむぞ~」と肩に力を入れちゃったら、絶対、ほんとうには楽しめないように(オリンピックで「楽しんできます」はあれは「わたしはメダル狙いなんかじゃありませんから、期待しないでください」というのの別の言い方だから、ちょっと意味がちがいますが)、「経験」というのは、事後的に、ああ、あれが「自分にとっての~という経験だったのだ」と意味づけるようなものだと思うんですね。
「経験値」は満足感、達成感を伴うけれど、「経験」はもっと深い、複雑なものです。思い返すたびに心を温めてくれるものばかりじゃない、逆に、そのたびに心を傷つけるようなものもある(ほんとのところは「経験」が傷つけるんじゃなくて、それを思い出してる「いま」の自分が自分を傷つけてるんですが)。
「経験」というのは、結局、「いま」の自分が、いったい何を「思い返す」ことができるか、ということなのかもしれませんね。
ここにいまあるのが自分の「経験値」のおかげ、と思える人は、周りに感謝することもないのかもしれない。自分のがんばりを誇るだけかも。
だけど、さまざまな人や本や音楽や絵や写真に助けられた、と思い返すことができると、なんというか、その人の世界はもっと広がりを持った、豊かなものになると思うんです。
どっちかというと、そんな世界で生きていきたいな、みたいに思います。
遅くなってごめんなさいね。
またお話ししましょう。
"Speak Like A Child"はわたしのフェイバリットの一枚でもあるんです、ってこっちに書いてどうすんだ(笑)。