陰陽師的日常

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昼ご飯、何食べた?

2007-11-29 22:14:49 | weblog
※これは連載ではありません。


昼ご飯に何を食べるかというのは、実に由々しい問題である。
ことによったら晩に何を食べるかより難しい問題かもしれない。
というのも、昼ご飯にはいくつもの条件が課せられているからなのである。

まず、
1.時間をかけられない

たいてい昼食に当てられる時間というのは限られており、その一定の時間の間にすませなくてはならない。そのためにコンビニでおにぎりを買うとか、ファーストフードに行くとか(うっかりここでモスバーガーに行ってしまうと、ことによったら青ざめることにもなる)、近くのラーメン屋に行くとか、学食とか、とにかく近場で、すぐ出てくるところに行くことになる。

2.お金をかけられない

自分の自由になるお金というのは、どこまでいってもそうそう増えるものではない。そこで何かを買うために削れるところを削るとなると、昼食代はまっさきに対象となる領域である。いきおい、できるだけ質素倹約を心がけることになる。

小田嶋隆の『我が心はICにあらず』のなかに、こんな一節がある。
貧困とは昼食にボンカレーを食べるような生活のことで、貧乏というのは、ボンカレーをうまいと思ってしまう感覚のことである。ついでに言えば、中流意識とは、ボンカレーを恥じて、ボンカレーゴールドを買おうとする意志のことだ。
(小田嶋隆『我が心はICにあらず』光文社文庫)

わたしはこれを読んで、この定義に思わず笑ってしまったのだが、ただ、わたしは貧乏な時期、貧困という言葉がまさにふさわしい時期を長らく過ごしたが(いまも似たようなもんか)、実際には「昼食にボンカレーを食べるような生活」を送った経験はない。

ほんとうに貧乏だった頃はボンカレーだって買えなかったし、具といえば卵とネギだけのチャーハンとか、卵とネギだけの雑炊とか、卵にネギだけ入れたオムレツとか、月見うどん(具は卵とネギだけ)とか、つまりは一パックの卵と長ネギで一週間食いつないだりしても、「ボンカレーをうまいと思ってしまう」ことはなかったのである。まあ卵とネギだけのチャーハンをうまいと思ってしまうのと、ボンカレーをうまいと思ってしまうのと、どちらがどう貧乏なのかは一考の余地のあるところだが。ともかくわたしは貧乏だった頃はボンカレーも買えなかったほど貧乏だったのだし、ボンカレーが買える頃には、チャーハンに入れる干しエビだのショウガだのを買っていたのだった。

ところで「ボンカレー」の「ボン」、やっぱりフランス語の「良い」にあたるあの
bonなんだろうか。「良いカレー」、うーん。せめてヒンディー語という発想はないもんだろうか。

3.何を食べても、もそもそと食べてしまうことになる

昼時、それはおそらくわたしがOLの方々がランチをなさるような場所で食べないからなのだろうが、わたしが行く先々では、たいていの人がうつむいて携帯をのぞきこみながら、ひとり静かに昼食をとっている。どうもその姿を見ていると、わたしの頭に、いがらしみきおのマンガ『ぼのぼの』の10巻の「もそもそとめしを喰う」というフレーズが浮かんでくるのである。
いつだったかクズリが川で溺れているのを助けたことがあってな
そりゃみんなホメてくれたよ
だけど次の日はひとりでもそもそメシ喰ってたのさ
だから色が変わる岩を見つけたって同じだよ
そりゃあみんな驚くだろう
だけどまたもそもそメシを喰うんだよ

どんなにいいことがあっても、どんなにいい仕事をしたとしても、つぎの日はまたもそもそとメシを喰う。どうもわたしたちの生活というのはそういうふうになっているらしい。そしてまた、ひとり背を丸めて、見知らぬ者同士が「相席お願いしまーす」などと言われて向かい合い、向かいの見知らぬ人と目を合わせないようにうつむいて、携帯や文庫本に目を落としたまま食べる昼食は「もそもそとめしを喰う」という言葉が、これ以上ないまでにぴったりくるように思うのだ。こうなると何を食べたって大差ない感じがする。

とはいえ、本を読みながら食べる昼食も、それはそれで悪いものではない。左手に持った本をやや離し気味にささげ、首を正面から左に向けて、右手で箸を動かす。気がつくと、丼のなかにはうどんは一本もなくなっており、あまり食べた記憶もなく、いったいどこに行ってしまったのだろうと首を傾げながらうどん屋を出ていく。
まちがっても「パワーランチ」とは呼べないが、それはそれで働く人及び学生の正しい昼食のありようとは言えまいか。


(※"What's New" も更新しました。またお暇な折にでものぞいてみてください。)

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