陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

名を、名を名乗れっ!

2008-02-03 21:46:35 | weblog
電車に乗って、たまたま空いていた四人がけの座席のひとつに腰を下ろしたら、残りの座席三つを埋めていたのは小学校の高学年、おそらく十歳から十二歳ぐらいの女の子たちだった。彼女たちはわたしに気兼ねをしながら、それでも話をするのが楽しくてたまらないとばかりに、小声で断片的に何か言いかけては、クックッと笑いをかみ殺すのに必死だ。わたしは聞いていませんよ、聞くつもりもありませんよ、という意思表示に、かばんから本を取りだして読みはじめた。それに安心したか、彼女たちの声は徐々に大きくなり、聞こうという積極的な意志がなくても、何を言っているか否応なく耳に入ってしまう状態になったのだった。

どうやら彼女たちはまだ日もあるにもかかわらず、二月の声を聞くや待ちきれず(?)ヴァレンタインデーのチョコレートを買いに遠征してきた帰りらしい。A君がどうだの、B君は誰が好きだの、C君は誰それと「ラブラブ」だのと延々と名前ばかりが出てくる会話なのだが、言っている子がその話に出てくる誰にチョコレートを渡すつもりなのか、その名前を口にするときの口調から、すぐにわかってしまうのだった。その名を口にするだけで、うれしくてたまらない、といった感じなのである。

聞くともなしに、その他愛のない話を聞いていて、わたしはふとこんなことを思いだしていた。

小学校の頃は名札をつけていたが、中学に入るともう名札はない。同じ学年ならそのうち名前もわかるが、上級生となると、なにしろ接点などないので名前も知りようがないのだった。みんないろいろ算段していたような気がするが、わたしは最初に仲良くなった子に頼まれて「すいません、名前、教えてください」と聞きに行ったのである。わたしはその上級生のことなどまったく何とも思ってなかったので、廊下を歩いている彼を呼び止めることなど恥ずかしくも何ともなかったのだが、いま振り返ってみるとバカなことをしたものだ、と、別の意味で恥ずかしい。ともかく、このあいだ入学したばかりの中学一年に、藪から棒に「名前、教えてください」と言われて、聞かれた方も面食らったことだろう。相手は高校三年だったのだ。わたしから見ると、まるで大人で、こんなおじさんのどこがいいんだろう、と顔をしげしげと見上げたことを覚えている。

いまとちがって個人情報だの何だのという発想そのものがなかったし、当時は全校名簿だってあった。たとえ相手が一面識もない中学生であっても、聞かれて拒む理由も思いつかなかったのだろう、その上級生もすぐに教えてくれて(どうでもいいが、その名前をわたしはいまだに覚えている)、後ろに控えていたその友だちはそれだけで天にも昇りそうな顔をしていた。たぶんわたしは自分の名も学年も名乗らなかったように思うのだが。

ところがそのあと彼女がその判明した名前をもとに、何かした(手紙を書くとか)ような記憶がないのだ。ヴァレンタインまでは、まだまだ時間があったし、そのころ高校三年はすでに学校には来ていない。たぶん、彼女は自分が好きな相手の名前がわかるだけで良かったのだ。


時代小説を読んでいると、「何者だ、名を名乗れ」というせりふが出てくることがある。
「天朝のために、命を貰いに来た!」吉川が低いが力強い声で叫んだ。
「推参! 何奴じゃ、名を名乗れ!」頼母は、立ち上がると、刀を抜いて鞘を後へ投げて、足で行灯を蹴った。
菊池寛『仇討禁止令

勤王か佐幕かで揺れる藩内にあって、佐幕派の首領、家老の成田頼母の家に刺客がやってきた場面である。

おそらくはこれは戦場で名乗りを上げるところから来ているように思う。仇討ちでも、相手に対して、まずこれは仇討ちであると宣言し、名乗りを上げるところから始まる。そうした手続きに乗っ取れと、相手にも要求しているのだろう。

だが、戦場での一騎打ちや仇討ちに対して、暗殺者は名乗らない。『仇討禁止令』でも、名乗らないことからドラマが生まれていくのだが、まあこの話とは関係がない。このように「名前を明らかにすること」というのは、誰がこの行為をなしているのか、その責任所在を明らかにしているのである。


だが、名前の持つ意味は、責任所在だけではないように思う。

日本の昔話に『大工とおにろく』というものがある。
流された橋をかけなおすように頼まれた大工がいたのだが、川の流れは急だし、かけ直せそうもない。困っていたところで鬼が出てくる。かけ直してやる、その代わり、目玉をよこせ、という。目玉はこまる、というと、おれの名前を当てることができたら目玉はあきらめてやる、という。大工はまあなんとかなるだろう、と交渉をしてしまったのである。

鬼は即座に橋をかけた。大工はこまったのなんの。ところが山に入っていくと、子どもが唄う声がする。おにろく、目玉を早くもってかえってこい、といった唄なのである。
大工はしめたとよろこぶ。そうやって、見事、鬼の名前を当ててやるのである。

グリム童話にもよく似たのがあって、こちらは名前はおにろくよりむずかしい。ルンペルシュチルツヒェンというのである。おにろくなら、当てずっぽうであたりそうな気もするが、ルンペルシュチルツヒェンとなると、当てずっぽうでは無理だろう。(「ルンペルシュチルツヒェン」

ただ不思議なのは、なぜおにろくにしてもルンペルシュチルツヒェンにしても、いったいどうして相手のために、わざわざそんな免責条項を用意してやるのだろうか。

名前には不思議な力がこもっている、というのは、昔から人々が考えてきたことだ。言霊思想の一種だろう。

ネイティヴ・アメリカンのヤヒ族最後の一人は「人間」を意味する「イシ」と呼ばれた。
彼は本当のヤヒ族としての通り名は最後まで明かさなかった。まるでその名が彼の愛した者たちの最後の一人を火葬に付したとき、薪と一緒に燃えつきたかのようであった。
(シオドーラ・クローバー『イシ 北米最後の野生インディアン』行方昭夫訳 岩波書店)

大切な自分の名前を、部族外の人間には明かさない。その意志を尊重して、彼と関わりを持った人びとは、その彼のことを「人間」と呼んだ。この交流は心を打つのだが、この話もここでは関係ないので涙をのんで割愛する。

こう考えていけば、むしろ鬼は鬼で、小人は小人でいいじゃないか、と思うのである。

もしかしたら、おにろくもルンペルシュチルツヒェンも、ほんとうは自分の名前を知ってほしかったのかもしれない。鬼一般ではなく、おにろく、小人一般ではなく、ルンペルシュチルツヒェン、と。そう名前を呼ばれることで、相手のなかに、だれでもないこの「自分」を刻みつけたかったのではなかったか。こういう見方は考えすぎかもしれないけれど。


わたしたちは、多くの場合、最初は名前も知らない状態で人と知り合う。この人のことをもっと知りたい、もっと親しくなりたい、そう思ったとき、まず聞くのが相手の名前である。そうやって相手の名前を知り、以降の一切の情報や印象は、その名前のもとにつなぎとめられるのである。

名前は、ある意味で、相手そのものである。
だが、相手を自分のものにすることはできないけれど、相手の名前を自分のものにすることはできる。その名前を口にすることによって。
思いをこめて、そっと口にすることによって。


「おにろく!」

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