陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

修正する話

2008-05-18 22:29:41 | weblog
高校二年の冬休み、有名講師の授業を受けに、予備校の冬期講習に行ったことがある。
授業そのものの記憶はまったくないのだが、最前列の真ん中、講師の正面を指定席にしている生徒がいた。講師とも顔なじみだし、雰囲気も大人っぽい。黒っぽいシックな格好をして、わたしの目から見ると女の子というよりすっかり大人の女性のように見えた。高校生ではなく、浪人生らしかった。授業中にも講師の発言を先取りするようにあれやこれやと意見を出し、それがまた、なんとも頭の鋭さがうかがえるような発言で、すごいものだなあ、頭がいいというのはああいう人のことをいうのだなあ、と感心していた。授業よりも、毎日、その人の頭が切れるところを見に行ったようなものだ。そのクラスが終わるときには小さなブーケを講師に渡し、講師も、来年こそはきみの顔を見ないですむといいな、と軽口を交わしていた。

翌年の夏期講習も、やっぱりわたしはその講師の授業を受けた。ところがやはり同じ指定席に、件の浪人生がいる。やはり講師より先に発言し、頭のいいところを披露している。ただ、半年が過ぎて、ろくすっぽ勉強もしていないわたしでも、多少の成長はあったのか、あるいは単に生意気になっただけなのかもしれないけれど、何か、その人の発言をうるさく感じるようになっていた。わたしはその人の話を聞きたいのではなく、講師の授業が聞きたいのに。つまり、以前は気がつかなかった講義とその人の発言のずれに気がつくようになっていたのだ。そう思って見ていたせいだったのかもしれない。講師は彼女の発言を歓迎してはおらず、どちらかというと辛抱しているように思えたのだった。

それでも自習室などに行くと、彼女を中心としたグループが集まってむずかしそうな勉強をしている姿をよく見かけた。すでに受験レベルなどではない、大学で習うようなずっと専門的なことをやっているらしかった。わたしなど何を言っているかすら見当もつかないむずかしい単語が乱舞するような話のなかでも、主導権を取っているのは彼女らしかった。わたしといくつもちがわないのに自信に満ちた物腰で、どちらかというと家にいたくないから予備校や図書館に通っているだけ、相変わらず小説ばかり読んでいて、テキストも参考書も開くのがおっくう、成績もちっともぱっとしないわたしが、同じ年の受験をするなどおこがましいにもほどがある、と思えてくるのだった。

秋だったか、もう冬に入っていたかもしれない。予備校に模擬試験を受けに行ったときのことだった。試験中に女の子の泣き出す声が聞こえた。最初の教科はそれでもおさまったのだが、つぎもやはり同じように泣き出す。今度はさっきよりも大きな声で、おさまりそうになかったのか、係員がふたり入ってきて、両脇から彼女を抱きかかえるように教室から連れ出した。わたしが「なんと頭がいい人なのだろう」と思った女性だった。わたしの後ろの方で、あれは××だ、相変わらずだな、と噂している声が聞こえて、なんともいえず痛ましい気持ちになったものだった。

その年の冬期講習はその予備校には行かなかったので、彼女ともう会うことはなかった。それでも、それからしばらくして、こんどはわたし自身が教える側として、受験に関わるようになって、ときどき彼女のことを思いだすようになった。

たまに、まじめで頑張り屋で頭もよく自信もある、なのに、どういうわけか試験ではうまくいかない、という子がいる。
概してそういう子にものを教えるのは大変だ。何か言おうとしても、まず返ってくるのが「そんなことわかってます」という返事なのである。自分はわかっている、自分は知っている、自分にはできる、という意識があるから、何を教えようとしても入っていかない。

彼らに共通して欠けているのは、教わろうとする自分は、まったくの無能のうちにある、という自覚なのである。
自分の水準では「自分はわかっている」ということになるのかもしれない。
けれども、ものごとは「自分の水準」にあるわけではない。理解というのは実におびただしい水準があって、「わかっている」自分の「わかりよう」がどの程度のものなのか、「できる」自分の能力がどの程度のものなのか、それは決して自分で測ることはできない。「わかっている」「できる」と自分では思っていても、別のモノサシを当てれば、「なにもわかっていない」「なにもできない」ということになってしまうのである。
「わかっていないだろう?」「できないだろう?」とどれほど言い聞かせても、なまじある程度成績が良かったりすると、「わかっている」証拠、「できる」と思う根拠を自分の過去をふりかえっていくらでも見つけてくるので、「この先生はわたしのことをわかってくれない」「わたしの能力の高さをねたんでいるのだ」などという話になってしまう。

こういう子を前にすると、いつも本を読んだことがないのかなあ、と思ってしまうのだが、いまはなかなかほんとうによく勉強していることを感じさせるような書き手は少ないのかもしれない。それでも、その気になって探せば、一冊の本の向こうに、どれほどの知識の沃野が拡がっているか、豊かな言葉の水脈があるか、思わず読んでいる自分の姿勢を正したくなるような、身が引き締まるような思いがする本ならいくらでもあるように思うのだ。こういう書き手にくらべて、どれほど自分が何も知らないか。何もわかっていないか。もっと深く理解したい、少しでもその近くへ行きたい。自分を粛然とさせるような、同時に勇気づけもするような。

もちろん相手にもよるのだけれど、そんな子に対して、いかにわかっていないかを思い知らせるために、ちっぽけな自信などたたきつぶそうとしたこともある。
とりあえず相手にこちらを信頼させるために、おだて、まるで友だちのように扱い、そこからなんとか伝えようとしたこともある。
うまくいったこともあるけれど、いかなかったこともある。だが、いつも思うのは、わたしにできることなんて知れたもの、ということだった。なんにせよ、その子自身が「自分への評価というのは、自分以外のものによってなされるのだ。自分が自分にくだす「評価」というのは、実際のところは評価でもなんでもないのだ」ということを、自分の力で見つけていけるかどうかなのである。たまたまうまくいったとしても、それはちょうどその子がそういう時期だったというだけでしかない。

その昔、アガサ・クリスティが書いた普通小説として評判になった『春にして君を離れ』という本を読んだことがある。なにしろ中学生のころに読んだときの記憶のままで書いているので、細かいところがちがっているかもしれない。ともかくその小説では、中年の女性がひとりで旅行しているのだが、列車の事故かなにかで、何もない辺鄙なところに足止めされてしまう。たったひとり、見るものもないようなところで、生まれて初めて、自分自身と向き合うことになる。いままでのさまざまな出来事を思い出しながら、自分が自分にくたしていた評価と、周囲の人間がくだしていた評価のずれに思い至る。自分がどんな人間とまわりに思われていたか。自分がいるときの人びとの居心地の悪そうなようす、目配せの意味。そのことに気づいた彼女は、生まれ変わろうと決意する。そうして動き出した列車に乗って、家に戻った彼女は……、というもので、当時のわたしはたいそう感銘を受けたのだった。

わたしたちは、いつも「自分とはどういう人間か」という、ばくぜんとしたイメージを抱いている。問題を解決しなければならないとき、自分はそれを成し遂げることができるかどうかと自問するとき、自分が参照するのはこのイメージである。だが、それが実際の能力とずれていた場合、見込みと結果は食い違うものになってくる。

そういうとき、多くの人は、自分の抱くイメージを修正する。いまの自分は無能のうちにあるが、いつかできるようになってやる、と思うときもあれば、「自分には無理なんだ」と思うこともあるだろう。けれども、決して自分のイメージを修正しようとしない者もいる。あのときはかくかくしかじかの理由があった、こんな試験などでほんとうの実力など測れるはずがない、運が悪かった……。結果を受け入れずにすませる理由など、探せばいくらでもある。

高校時代のわたしが予備校で会った大変優秀な女の子も、おそらくは自分が自分に抱くイメージと、実際の能力にずれがあったのだろう。能力といっても学力とか知識とかいうものだけを指すのではない。相手の言葉に耳を傾ける能力、それに合わせて自分の立ち位置や構えを修正する能力、その場その場で事前には予測も準備もできない「何ものか」が要求されることがあるのだ。そういったものに応えるバランス感覚とでもいうのだろうか。
その結果、うまくいかなくて、うまくいかなくても、自分が自分に抱くイメージを修正しなかったばかりか、いっそう補強しようとした。彼女にとって予備校は、自分が学ぶ場ではなく、いつのまにか、賢い自分をアピールする場になっていた。

自分のイメージ、と言ったが、実際のところは言葉の寄せ集めだ。おびただしい言葉の中から、うまく自分にそぐう言葉をみつけだし、当てはめていく。それをわたしたちは「自分のイメージ」と思っているのだが、はたしてそれがどこまで有効なのだろう。
感情は刻々と変わっていく。出来事は、一回一回異なり、同じ出来事がまったく同じ状態で反復することはあり得ない。そうして、それに向かい合う自分も、同じではあり得ない。

それをたったひとつの言葉に当てはめようとするのだから、どうしたって無理がある。彼女自身、自分の言葉にがんじがらめになってしまって、そこから出ようとして出方がわからず、苦しんでいたのだろうと、いまのわたしなら思う。いたましい思いには変わりはないけれど。

自分が変わるのだから、変わるわたしをわたしがわかるわけがない。
けれども「わからない」と言ってしまうと、自分のつぎの行動さえも決められなくなってしまう。
自分のイメージというのは、だから、こうなりたいという自分のばくぜんとした理想なのである。こうありたいという自分の未来像を現在の自分にあてはめて、それに向かって自分自身を作り上げていく、ということなのだろう。
そうやって現在の自分が何ごとかをなし、周囲の人はそれを評価する。けれどもその評価は過去の自分なのだ。いま現在の自分とはちがう。だから、評価はあくまで評価であって、いま現在の自分の否定ではない。そこをまちがえてはいけない。

周囲からの評価によって、未来の自分の像を少しずつ修正しながら、たえず現在の自分を作り替えていく。それ以外にないのだろうと思うのだ。

もし、これをやらなくてはならないのが世界で自分ひとりであるならば、それはおそらくとんでもなくつらい、厳しいことだろう。でも、それはひとりだけがそうしなければならないのではない。みんなそうしなければならないのだし、現に、だれもがそうしながら日々を生きているのだろう。

日々、わたしたちは周りのさまざまな人を評価し、同時に評価されてもいる。同時に、学ぶ側でもある。どこまでいってもわからない、どこまでいってもできない自分を抱えながら、少しでもわかるようになりたい、できるようになりたいと思っているのだろう。たぶん、それが未来を現在に織り込みながら生きるということなのだろうし、簡単にいってしまえば、明日があるさ、ということなのだ(まとめすぎか)。

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