北九州八幡から発信
八幡、やはた、やわた、はちまん
昔、皿倉山は帆柱山?
(↑写真は昭和30年代、桃園アパートから見た皿倉山です)
このブログは八幡のことが主テーマです。
最近は横道に逸れることも。
訪れる人も、八幡に関係・興味のある方が多いと思われますので、今回は八幡の山、皿倉山と帆柱山のことをアップします。
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皿倉山(622m)、帆柱山(490m)の他に、権現山(618m)と、花尾山(351m)があり、この一帯を、帆柱連山と呼んでいます。
(↓ 八幡西区引野地区より見た帆柱連山)
八幡で生まれ育った人は、
皿倉山と帆柱山の違いは判ると思いますが、
若い人が、お年寄りと話していると、どうも皿倉山のことを、
帆柱山と言ってる様な気がする。
他所から来た人には尚更で、???では、ないでしょうか?
そうです。
昔は(昔の人は)皿倉山のことを、帆柱山とも言ってました。
では、何故だろう?
本当の帆柱山を知らなかった?
そんなことはありません。
(↓ 写真は中央町、高炉台公園から)
山名の由来で、帆柱山は、
「日本書紀」仲哀紀には、仲哀天皇と神功皇后が西征の折、
豪族・熊鰐が山で帆柱をきりだしたという伝説。
また、「遠賀郡誌」に『山の名義は、神功皇后征韓の折、
造らせ玉ひし御船の帆柱材をきりだせし故に名づけたまう』
と記されています。
それに対して、皿倉山は、
皇后が西征のおり、当山を登られ、はるかな国々を眺望され、
下山した折りさらに夕闇が深まったので、「更に暮れたり」
といわれたことから「更暮山」と呼ばれた。とあります。
(更暮山→皿倉山)
これを読むと帆柱山が主で、
皿倉山はついでに名付けられた様な気がする?
全く個人的な意見ですが、
帆柱の方が皿倉よりも品格が高く? 語韻もいい。
旧八幡市歌で、
♪高き理想を帆柱山に、深き希望を洞海湾に、
と歌われていますし、
又、ほとんどの小中学校の校歌でも、帆柱山は出てきます。
歌詞の内容から、皿倉山を指していることは明確なんですが、
こんな理由で(品と格、語韻で)、帆柱山を採用したのでは?
名前だけを借用して実際は、皿倉山のことを歌っています。
(↓ 大蔵より、河内方面へ行く道です。)
(↓ 洞海湾を挟んで、若松より、)
私の答え(推理)は、
市歌・校歌が、皿倉山を帆柱山の名前に置き換えたのと同じで、
八幡の最高峰の皿倉山のことを、品格・語韻の良い帆柱山とも言ってたのでは?(あまり、説得力はありませんが?)
昔、家族で「帆柱山に行こう。(登ろう。)」と言ったら、皿倉山のことでした。
何故なら、帆柱山は今でこそ獣道をちょっと整備した道がありますが、昔は道らしき道は、ありませんでしたから。
今では事実は事実として、皿倉山のことを帆柱山とは言いません。 校歌も統廃合で出来た新しい学校の校歌では、皿倉山が出てきます。 又、古い文語調の校歌から、新しい校歌に変える学校もあり、皿倉山が登場しています。
(↓ 門司の海浜公園より、)
(↓ 皿倉山の山頂より)
(↓ 皿倉山の山頂より)
【余談】
私のHN(ハンドルネーム)も、そんな理由から
sarakura【さらくら】ではなく、hobashira【ほばしら】にしました。
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「参考」
昭和32年に開業したケーブルは、皿倉山にあるのに帆柱ケーブルです。又、皿倉山の麓の広範囲が帆柱町です。八幡には皿倉町はありません。 これは今でも、変わっていません。
【追加です】
この記事の作成時では、「帆柱ケーブル」でしたが、
2015年4月1日より「皿倉山ケーブルカー」に、名称変更されています。「速報!帆柱ケーブルが名称変更」←クリックでご、覧ください。
(↓ 皿倉山が一番きれいに見えると言う八幡駅前より、)
【これ又、余談】
北九州が舞台の歌で、小倉の「無法松の一生」、
♪小倉生まれで、玄海育ち ・・・ ・・・
愚痴や未練は玄海灘に 捨てて太鼓の乱れ打ち
若松の「花と竜」でも、
♪波も荒けりゃ 心も荒い
度胸ひとつの 玄海男
と歌われていますが、
正確には玄界(海)灘ではなく、響灘(ひびきなだ)です。
玄界灘は宗像の鐘崎より西の海のことで、東は響灘です。
この二つの歌も、玄界灘の方が品が高く、(全国的に有名で、)
そして語韻がいいから、採用したのでは?
最後は、八幡西区鉄王地区からです。
新日鐵のアパートが僅かに残っていますが、跡地の一般住宅化が進んでいます。 この辺りは、まだ(宅地)造成中ですが、既に入居した家が、多く建ち並んでいます。
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追加です。
この記事は、2010年8月投稿の記事です。
ここまで読まれた方、有難うございました。
テーマの『昔、皿倉山は帆柱山?』は、
私の推理も一理あるかと思いますが、
新しい説(展開)が出ました。
此方の説の方が、説得力があり、多分、正解?かもしれません。
「昔、皿倉山を帆柱山と呼んでいたのは?」でアップしています。
宜しければ、ご覧下さい。
2013年7月31日 hobashira
« 皿倉夜景 | 芦屋の自然、... » |
その時もhobashiraさんの説明で納得しました。
今回も非常に分かり易く、写真入りで説明して下さって、
本当にありがとうございました。
歌の文句も、確かに響灘が本当ですよね。
そこまで私気がつかなかったわ!
ものすごく勉強になりました。。。
今年の秋は、八幡まで出張しないといけませんね。
帆柱ケーブルの事を聞いてみようと思ったら書いてありました。
小学校6年生の時にケーブルができました。
芦屋は離れ小島!だから知りません。だってその時 家に車なんてないから。。
その時 町でラジオの収録がありました。
ラジオ メリーゴーランド って言う番組でした。
その日習ったテーマソングだって覚えています。。
特別な日でした。。
クイズがありました。。舞台に友人がでています。児童会の副会長で私はその彼女の選挙!の応援演説をした仲良しでした。
答は皿倉山なんです。。 でも私達知らないんです。
いくらヒントを貰ったって テレビでは名犬ラッシ―はみてもニュースは観ない・・
長い間のあと 答えを教えてくれました。
田舎の子供にとって 忘れられない特別の日でした。。
今 彼女は横浜で公文塾をしています。。
hobashiraさん
こんにちは
懐かしい写真ありがとうございます。
1枚目の桃園アパートからの写真は、良く遊んだ公園があって、西6棟からの景色で、フラッシュバックします。
1番大きく写っているアパートは習字を習っていたとこでした。
給水塔も写っています。
アンテナは2本でしたね。
花尾山には、その昔山城が有って、花尾城址がありましたね。
山城が流行った戦国の頃は、あの辺りが守りの好地だった様です。
確か?山もなだらかでススキが原だった様に覚えています。
麓に行く途中に「忠孝」の碑がありましたが、これは太平洋戦争の時に戦意高揚で作ったものでしたが、大きな一枚岩で洞穴もあって良い遊び場でした。
私が登ったのもほばしら山でなく皿倉山?
北九州にとっては皿倉山かもしれませんが、八幡には帆柱山です。
神功皇后は15代応神天皇の母で、応神天皇の頃から朝鮮の渡来人が急増します。
応神天皇稜は16代仁徳天皇に次ぐ世界で2番目に大きなお陵墓(ピラミッドや秦の始皇帝稜墓よりも大きい)で、渡来人の土木技術の賜物です。
渡来人の中心は秦氏で、子孫は藤原氏から近衛家へと続きます。
応神天皇は大和朝廷中興の祖と言われ、宇佐八幡宮(大分)に祀られています。
宇佐八幡宮は八幡宮の本家で、時代の変化で石清水八幡・鶴岡八幡と権力者に祭られます。
奈良東大寺大仏の鋳造も宇佐八幡宮の力(財力と技術力)でした。
現在の天皇家の祖先は天照大御神で、天照大御神を祀っている宗廟・伊勢神宮を参りますが、第2の宗廟と呼ばれる宇佐八幡宮もあります。
伊勢神宮は応神天皇が制定しました。
八幡村に出来た製鉄所が八幡製鉄でした。
神功皇后(帆柱)→応神天皇(八幡宮)→八幡村と連想すれば、八幡にとっては帆柱山が由緒を持つように思えます。
こうやって山並みを拝見していますと・・
natukasiiさんのお母様が帆柱山系と神戸の六甲山を
重ねて懐かしんでいらした・・分かりますねぇ
山と海がある街、って言うのも一緒やね
でも街中の木にソテツが見え、さすが九州だな、と思います。
スモールハンズの写真を追加していただき ありがとう♪
少子化で、特に女子大は大変なのでしょうねぇ
テレビでも、電車の広告にも、野球場にも!
最近は大学の宣伝が目立ちますね
あははぁ
私の通った学校は、伝統はありますがお嬢様&美人系じゃナイですよぉ
紀香さんは通学電車で、背が高かったせいか「軍艦」
~と呼ばれていたそうです☆当時から美人さんでしたよ
私がBを書いてるシニアコム
上場廃止で、サイトの閉鎖が心配されていますね
もしそうなったら、ここgooに新ブログ開設しますね
よろしくぅ
門司からも皿倉山は、良く見えますね。
八幡の人間は、遠くから、思いがけない所から、皿倉山が見えると安心します。
門司からは帆柱山は、とんがって見えます。(場所によっては見えない所も)
歌の歌詞は、語呂・語韻がいい方を選びますからね。
クイズの答えが皿倉山で、その問題は何だったんだろう?
児童会(多分、小学校)の役員を選挙で決めるんですか?
2年違うと、民主的ですね。
私達の時は先生が決めていた。 これがエコのエコのエコヒーキでした。
名犬ラッシーも良くみてました。
今でも、コリー犬を見ると、おぅラッシーだ!
桃園アパートの写真は友人から貰った物です。
あの給水塔は桃園のシンボルでしたね。
今は、西の一部が残っているだけです。 一般住宅が着々と建っています。
花尾山(八幡の人は、花尾城と言った方が分かり易い)は、
ウォーキング1万歩コースとして、整備されています。
「忠孝」の碑、勿論あります。四十七士の墓も
>北九州にとっては皿倉山かもしれませんが、八幡には帆柱山です。
>神功皇后(帆柱)→応神天皇(八幡宮)→八幡村と連想すれば、
>八幡にとっては帆柱山が由緒を持つように思えます。
その通りです。
この辺に、皿倉山を帆柱山と言ってた理由?があるかもしれません。
帆柱ケーブルのある山は皿倉山です。
けいみょうさんが登られた山は(更暮山→皿倉山)です。
皿倉山=帆柱山ではありません。
帆柱山は八幡の神聖な場所、神聖な山なのかもしれない。
だから近づき難いので、皿倉山に代わりを求めたのかも。
何とも興味深いテーマですね^^
私の場合、北九州の『山』と言えば『皿倉山』ですね~
母校(高校)の校歌にはど頭で『帆柱山』が出てきますが(笑)
あと、引野地区から撮られた写真ですが、上部の説明を見る前に「これは引野からの眺めでは!?」と直感的に感じてしまいました!
もちろん、このブログに掲載してる写真だからってことも関係していると思いますが、なつかしい風景というのは直感的にわかるもんなんですかね^^
帆柱山系と神戸の六甲山、似てますか?(ケーブルもあるし、)
そう言えば、蘇鉄は良く見かけます。
藤原紀香さんが軍艦と呼ばれていた?
そんなこと書いたら、同世代かと思われますよ。(まぁ、近いかな?)
シニアコムのことですか、kinucocoさんは心配性ですね。
大丈夫、だいじょう~び。
ただ、ここのGooは、写真が大きく貼れて、1記事あたりの枚数の制限もなし、
全体(トータル)で、3Gです。 3ギガバイトです。
あの写真は引野小学校の前(上)からです。 左がグランドです。
見覚えのある風景?
4つの山が、揃って良く見えるポイントです。
鉄王からのもあります。 同じようなものだから、カットしましたが、
最後に、追加します。
>私の場合、北九州の『山』と言えば『皿倉山』ですね~
ここでは、八幡の山を言ってるだけどなぁ。
まぁ皿倉山は、北九州の各地から良く見えますから。
母校の校歌、 ♪帆柱山を 背に負いて
なら、同じだよ!
>見覚えのある風景?
引野小出身ですから何千回と見ていた風景です^^
潜在的に風景が焼き付いてたんですかね。。。
鉄王からの写真upありがとうございます♪
でも、やはり風景が変わり果てて寂しいですね
アハハ
最近ケーブルカーが開通した山は?
八幡の子だったら 当たり前だったでしょうね。
私 半世紀前の事は覚えてますが 1週間前の事は分かりません。。
私は卒業して、そろそろ半世紀になります。
今年の総会は、スペースワールドの近くのロイヤルホテルです。
ここ数年、行ってないので行ってみようかなっと。
そうそう、引野小に正門が二つあるのを、知ってます?
石の門が狭いから広い門にと、石の門を壊して新しい門にする筈でしたが、
校歌に歌われている石の門だから、と猛烈な反対で、
新しい門は石の門の横に、故に、正門は二つになりました。
>最近ケーブルカーが開通した山は?
それは難しい。(芦屋の子には、難しかったですね。)
>半世紀前の事は覚えてますが 1週間前の事は分かりません
その歳で、そう言える間は大丈夫。
3日前でも、1週間前でもちゃんと覚えています。
と言いだしたら、危ないなあ!
大丈夫だよ、ご同輩!
ですよね、失礼しました先輩!
>正門が二つあるのを、知ってます?
正直気にも留めてなかったです(笑)
なんとなく石の門とキレイな門があったのは記憶してましたが・・・、作り変えたわけじゃなかったんですね。
というのも、私が通っていた頃は丁度、旧校舎→プレハブ(仮校舎)→新校舎という過渡期だったので、門も作り変わったのかと思ってました。
Youtubeで「孫正義さんの通ってた、緑が丘第二幼稚園と引野小学校」というのを見つけて確認しましたが、確かに二つありますね♪
それとその頃住んでたアパートが引野小の斜向かいだったんですが、ほんの一瞬だけその映像に映ってました♪
皿倉山は小倉城(勝山城)の小笠原が後に勝手に名付けてそう呼んだのかもしれません。
小倉にとっては足立山が由緒ある山で、皿倉より足立の方が大きく見える。
明治になってから、八幡村に製鉄所が出来て人が増えて、本来の由緒どおり、帆柱を取った皿倉を帆柱山と呼びかえるところ敢えてそうしなかった。
帆柱山は気持ちの上で八幡のシンボルであれば良いと考え、小笠原の歴史的な既得権に配慮した。
勝手な推察
同窓会の当番幹事は、卒業してxx年目だそうで、
まあ、そこら辺りでしょうね。
これからも、宜しくお願いします。
私の子供2人も、引野小卒です。
だから、石の門のことは知ってました。
これは又、凄い説ですね。
何となく、“それもありなむ”と思えます。
初めまして
山の向こう側には何があると思いますか?
有馬温泉も宝塚劇場もありませんが、
河内貯水池があって、八幡製鉄所の水の供給池でした。
桜の花見で賑わいました。
芦屋と言えばロックガーデン、北アルプス穂高で知り合った神戸の登山家に誘われて、トレーニングで遊びに行きました。
八幡の山には国見岩という見晴らしの良い大きな一枚岩があります。
母は宝塚に通う乙羽信子とお友達でした。
のんき食堂ののんちゃんの話をよくしました。
ケーブルがあると、その向こうも期待しますね。
びっくりしました。
いやいや今回の内容はうれしい内容です。
ボク的にもたいへん懐かしく、役にも立ちます。
目下、ボクの母校の同期サイトを構築中です。
同期生に図ってOK貰ったら、hobashiraさんのこのブログ、
リンクさせていただきたいなぁ。
みんなが了解しなければなりませんが…
コメントの数ですか? 同じ人が何回も投稿しています。
八幡を離れていると、それだけ懐かしいんでしょうね。
デッサン室さんの同期のサイトにリンクですか?
このGooのサイトに書く以上は、誰が見ても文句は言えません。
ただ、これはホームページではなく、あくまで個人のブログです。
確かに八幡のことが主ですが、くだらん他のことも多く載せています。
又、大した検証もせず、個人の意見?ですから、
間違っている事も、往々にあります。
出来れば、デッサン室さんのブログをリンクすれば、
このブログはブックマークに載ってまよね。
それで、いいんじゃあないですか。
おっしゃる通りにしましょう。
了解です。
子供のころ山に行く、といえばそれは皿倉山を指していました。家は皿倉山の真下でしたので夏休みには虫取りによく行ったものです。狙いはクワガタでしたが当時でもなかなか取れませんでした。。
今回のテーマは、
kuntarouさんのコメントがヒント、と言うよりそのものです。
あれから、図書館に行って、郷土史関係やら色々調べたが、
これっ、と云ったのはありませんでした。
結局は、自分の今までの考えを書いたまでです。
皿倉山のクワガタは、朝早くタブノキなんかにいる。と聞いていたけど、
私も見たことはありません。
この場をお借りして・・・
natukasiiさんへ、お返事を書かせていただきますね
natukasiiさん
素敵なコメントを残していただきありがとうございます。
そうなんですね
帆柱山系の向こうには貯水池があるんやね。
八幡っ子のみなさんが山に親しんでいらっしゃる様に
神戸でも、私が子供の頃は散歩がてらに六甲山へ行ったものです。
祖父と山を登って兵庫区の貯水池に行った思い出が
ありますよ
ロックガーデンに登られたことがあるんですね
私は高校生の頃、秋の遠足で行ったきりですが^^;
休日ともなると、阪急芦屋駅には登山姿の方々で
賑わっていますよ
こんにちは
八幡の作家と言えば社会派の佐木 隆三。
hobashiraさんと同じ高校の卒業生?私と同じ花尾中学の先輩。
卒業後八幡製鉄に入って労働運動から作家へ。
東京に出てからは神戸に縁の焼け跡派作家野坂昭如氏と最初の友人に。
八幡駅前から上がって正面ロータリー後ろに労働会館がありました。
芦屋の作家と言えば日本を代表する純文学の谷崎潤一郎。細雪の町。
いずれも、町の風土が生み出した象徴的な作家ですね。
町の風土が人を作ると改めて感じさせます。
細雪で芦屋在住は二女幸子(谷崎婦人)だが、佐木 隆三風に推察して楽しんでいます。
こんばんは
セピアの新しい表紙は、
本事務所前の東門から入って、東田高炉辺りから撮ったものでしょうか?
下の写真は桃園アパート西6棟の3階のベランダからの景色だと、より鮮明に記憶が甦ってきました。
撮ったおじさんも、何となく思い出します。
写真の上手なおじさんで、アパートの行事にはいつも皆で写りましたし、一人でアパートの前で遊んでいるとこも撮ってもらいましたが、構図も良い芸術的な写真でした。
おじさんの写真を11月の起業祭で大谷会館で見たように思います。
八幡の「三丁目の夕日」の世界ですね。
1枚の写真が遠い記憶の世界へ連れて行ってくれます。
ありがとうございます。
入れ替えた表紙の説明は、新しい記事の最後に入れてます。
本事務所の前の門は、北門でしたね。
ここの東田に行くには、中央町の商店街を抜けた東門からが一番近かったです。
昔、尾倉町から皿倉山をみると国見岩のゴツゴツとした岩肌が見えていたのに、お盆に実家に集まったとき
弟から「国見岩が見えなくなったね」といわれ山を見るとたしかに見えませんでした。木が覆ってしまったのですかね。時代の流れを感じました。
そう云えば、下から見えませんね。
私が登った時は、下りは良く直登コースを降りますから、国見岩の横を通ります。
「ちゃんと、ありますよ!(笑)」
昔に比べて、あの斜面は木が多くなってます。
植林もしているようで、
ケーブル前の高速を跨ぐ橋から撮った最新の写真です。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/64/c8828d00be37f698d18cd0a82e08f7f1.jpg
素敵なブログですね。
ここのブログに書かれた皆様の投稿を読ませて頂き、その昔を思い出し、共感する内容が多々ありましたので、私も拙い内容ではありますが昔を思い出しながら書き込みをさせて頂きたいと思います。(皆様のご投稿内容と一部重複する点があるかと思います。)
私(旧八幡市生まれの旧八幡市育ち)の子供の頃、皿倉山は誰もが「ほばしらやま」と呼んでました。
当時、八幡の空は、現在ではとても考えられない程、モクモクと昇る多量の排煙などのために、殆ど毎日が灰色かオレンジ色で、青空を見る事ができない程、凄く汚れていました。 そのために、咳が出たり、頭痛がある人が多かったようです。
(それでも、当時は、そのモクモクと昇る排煙が八幡市民の誇りであり、校歌にも歌われていましたし、虹のような製鉄所の煙として「この天の虹」として映画化もされました。)
そのような八幡の空でも、雨上がりや強い風などで、ごくまれに空が綺麗になる日があると、「おーっ!、今日は、珍しく帆柱山が、よー見えとるね。」と言ってた位ですから、皿倉山と言うと、それがどこの山なのか判らない人が殆どだったようです。
でもそれが、いつしか誰もが皿倉山と呼ぶようになりましたね。(それでも、私は子供の頃の郷愁なのかも知れませんが「ほばしらやま」と言う方が親近感があります。)
そし現在、八幡の空も排煙が皆無(黄砂やPM2.5などは別として)となって綺麗になり、殆ど毎日皿倉山を望むことができるようになった事は言うまでも無く、このブログに掲載されている昔の懐かしい写真と共に、時代の流れを感じざるを得ません。
追伸ですが、
「国見岩」の書込みがありましたが、若い頃、この「国見岩」でロック・クライミングの練習をやってた頃の青春時代を懐かしく思い出させてくれました。
>皿倉山と言うと、それがどこの山なのか判らない人が殆どだったようです。
確かに、子供の頃は(子供同士では)そうでしたが、
中学、高校に上がると、皿倉山と帆柱山が違うのは分っていました。
みんなで、どうしてかなあ? 話し合ったこともあった様な?
市歌や校歌では、皿倉山のことを帆柱山と言ってるが、歌は歌で納得?
今の子供のように、屁理屈を言わない素直な子が多かった?
「この天の虹」、3年前位かな?観ました。
黒崎の三角公園の前の映画館が復活する? ということで、映写会が、
年配の人が多かったです。 内容はどうでもいい、昔の八幡の風景が懐かしく、
あちこちから、「あっ! あっ!」の声ばかりが、
それにしても、あんなに煙は出てたかな? 撮影用で無理して出した?
そんな気もしました。
これは記事は3年前で、読み直したら、ダラダラと書いて纏まりがなく、
(日本語にもなってない処もある)文章としては失格ですね。
こんな稚拙なブログですが、これからも宜しくお願いします。
>確かに、子供の頃は(子供同士では)そうでしたが、
子供同士だけだったんですかね?
でも大人の人も、そう呼んでたようですけど。
>それにしても、あんなに煙は出てたかな? 撮影用で無理して出した?
>そんな気もしました。
そうですね、多少は誇張したのかも知れませんが、
でも、旧四製鋼工場などの煙突からでる排煙は、時にはその映画よりも激しく出ている日が多かったように記憶しております。
八幡駅の屋上で撮った某クラブの集合写真がありますが、これを見てもモクモクと煙が出ております。
ところで、話はかわりますが、
先に投稿した時、名前の覧にURLを記入してしまったようで、今回改めて私のハンドル名を記入しました。
先日
お医者さんとpm2,5の話を
昔の人はみんな煙草スパスパだったから
今より酷かったでしょうね
それより八幡は
煤煙が積もっていたでしょう
てな会話で
今更ながら
ロンドン並みだったのか
今の北京だね
たくましかったのだなと
別の機会で
元製鐵マンの方と
「この天の虹」にでてくる
河内貯水池の製鐵保養所って何処です?
有名な方が設計されて
残念ながら西南の
あのいつも門を閉じられているアレですか
すっかり河内も変って
木も伸び放題で
なんて会話を
桃園アパートも
とうとう消えますね
皿倉山を帆柱山と呼んでたのは、昔は大人も子供も当時の八幡の人は、
たゞ大人は、あれは皿倉山だと知ってんじゃないのかなあ?
帆柱山は別にあると。 (想像ですがね、)
八幡の煙は、旧市歌の2番に、
“焔延々、波涛を焦がし、煙もうもう天に漲る”
その次が、“天下の壮観我が製鉄所”
ですから、一種の誇り?だった。
2、3年前かな?
小学校の運動会が光化学スモッグで中止になったのは、
最近はpm2.5ですね。
新しくて古いもの?
さて、以前に
八幡生まれの八幡育ちの私が、今で言う皿倉山のことを、誰もが帆柱山と言っていた。
と、当ブログに投稿しましたが、「ほばしらさん」の当ブログのリンク先の、
「昔、皿倉山を帆柱山と呼んでいたのは?」
(
http://blog.goo.ne.jp/hobashira923/e/133bb47f5b3295e7819ebcdc8045db5e
)
を拝見し、何故昔の人が今で言う皿倉山を帆柱山と言っていたのかが納得する
事ができました。
それによれば、
大正6年八幡市となった地元自治体が、皿倉山を帆柱山と取違えた。
との事に端を発しているのでは? とのことで。
なるほど、そーだったのか。 と、目から鱗です。
これで、ストレス無く、心底皿倉山と言う事ができます。
そう言えば、市民に親しまれてきた「帆柱ケーブル」の呼称も、「皿倉ケーブル」に変更される事になりましたね。
今後、当ブログの管理人さんである「ほばしら」さんも、「さらくら」さんに変更される事を検討されたら如何???(冗談です)
http://members.jcom.home.ne.jp/eirakuan/topicpage1.html
またそれには、旧八幡市歌や小中学校の校歌にも、帆柱山とあっても皿倉山は出てこない。
とも、記されています。
でも、現在では万人がこの山を皿倉山と呼び、帆柱山とは呼びませんね。
[ご参考URL(お暇の時にでもご覧下さい)](PR)
http://www14.plala.or.jp/ja6dbs/shinrin/sarakura/sarakura.html
はい、ご無沙汰しています。 お元気ですか?
『昔、皿倉山を帆柱山と呼んでいたのは?』
の記事は、2年前です。
そうです。そのHPを参照しました。
少しはロマンのある話しかと思ったら、呆気ないですね。
「帆柱ケーブル」が、「皿倉山ケーブル」には、ビックリです。
ただ、今更って感じもします。
RESが早いですね。
ところで、昔、小学校時代に、校歌(これの歌の中身も、皿倉山でなくて、帆柱山となってましたが)と共に歌った(歌わせられた?)「八幡市歌」を思い出しながら、その曲をMIDIで造ってみました。若干異なる処があるかも知れませんが・・・・。
そのURLは、
http://www14.plala.or.jp/ja6dbs/shinrin/sarakura/yahata_city_song.html
八幡市歌、いいですね。 小中学校の運動会の時は、歌っていましたね。
(歌わされた、とは思ってはいませんが、)
某高校の某同期会や、地方の某支部の同窓会では、必ず歌っているそうです。
最後の締めに歌っている支部の幹事の報告では、
『50代前半の僕らヤング世代(?)以下は、正直云ってポカ~ンですが、
楽しいそうに歌われている先輩方をみていると、こちらまで楽しくなり、
同時に八幡の歴史を肌で感じことができ、
温かい気持ちのまま、会がお開きとなるのです。
久し振りに八幡市歌を歌いたい先輩の皆様、どうぞお越し下さい。』
どうですか?こんな話しを聞いたら、我々の青春の歌なんですね。
歌の中の帆柱山がどうのこうの、どうでもいいことだと思います。
現在は知らないけど、我が母校、統廃合で皿倉小になりましたが、天神小の校歌の出だしは、南風ふく皿倉山の~でしたよ。
ちなみに住んでいた社宅は皿倉アパートでした。
ということで、皿倉山と皆よんでましたよ。
そして、権現山を帆柱山と思ってました(笑)
天神小学校の卒業生なんですね。
校歌の出だしが、”南風ふく皿倉山の”でしたか、
これは失礼しました。
昔の八幡の学校の校歌には、皿倉山は無いと思っていました。
そう言えば、皿倉アパート(社宅)ありましたね。
40番のバス道路沿いか、天神小の近くか、大谷球場の横だったか?
校歌で調べたら、今の皿倉小学校の校歌の出だしは、
”仰ぐ皿倉 帆柱と”です。 仲良く皿倉と帆柱が出ています。
天神小学校があった辺りは、今は、すごく変わって昔の面影がない?
子供のころ、何回か、そばを通ったことがあります。
この辺り、以前、記事にしたことがあります。 宜しければご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/hobashira923/e/4109499961e0cf513632da4b86b1526a
浄水場懐かしい。気持ち悪い。怖いと不評でしたけど(笑)
天神校跡ですか。天神小の卒業生はクスッとしますよ。
天神小学校校歌
南風吹く 皿倉山の
深き緑の 香りをしめつ
雫たとうる 真清水むすび
永久に栄えん 我が天神校
君につくしの 道真公や
清き功し のりとはなして
大み教えの 心の華を
共にかざさん 我が天神校
朝夕に 仰ぐはみよの
つきぬ恩恵 尊きゆかり
かたき想いは鉄にもまして
いざやはげまん 我が天神校
校歌の練習の時は最後の(はげまぁ~ん)でゲラゲラ笑って怒られるのがお決まりのパターンでした。(笑)
皿倉アパートは、消防署の前。 はい、分かります。
その消防署は、道を挟んで斜め前(大谷球場側)に移転しました。
今月の始めだったかな?
校歌の思い出?は、私も・・・
小学校は3年の途中まで、槻田でした。
校歌は、全然思い出せませんし、歌えませんが、
只、1か所、一番の終わりが、
♪槻田槻田 われ等 励まん
はい、同じ理由でゲラゲラ笑って、先生から注意されて、
覚えているのは、みんな、ここはものすごく力を入れて歌ってた。
祇園町商店街、製鐵購買会、八幡湯、前田小学校、ベビーグランド、にったいさん、屋形船、前田有楽、どれも懐かしい思いでの場所です。
桃園アパートにお住まいでしたか?
トップの写真にチラッと写っている給水塔、桃園APのシンボルでしたね。
桃園も平野も、社宅アパートが無くなってガラッと変わりました。
昔を知っている者がここを訪れたら、
自分の歴史と云うか、その変化をしみじみと感じると思われます。
祖父も親父も製鐵でした。
アパートで生まれて、14歳まで暮らしました。
懐かしい故郷です。
このブログが終わるのは残念です。
子供の頃の思い出は、歳を取るにつれて、懐かしさが増します。
いつまでも、大事にしたいですね。
八幡は今日から(11月3日~5日)起業祭です。
昔は、11月17日~19日でしたが、
文化の日前後になりました。その年によって変わります。
この歳になっても、起業祭が来ると、血潮が湧く?
久しぶりに工場見学(戸畑の高炉)に行ってみました。
その後、中央町・大谷にも。写真をご覧ください。
ブログの閉鎖は10年のけじめ? 性格的なもんで悪しからず。、
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モシャトーというステーキ店でサービスランチを食べて体育館まで歩きメインステージで日本舞踊をふれあいステージでバナナの叩き売りを観て、山菜おこわやいきなり団子を買い
帰りに商店街の端でぜんざいを食べ、そこに居合わせた唐津から来た海産物を売っている露店の店主と意気投合して義理であまだいの干物を買い、義理買いだからまけるよと割引されて気分よく帰りました。
露店は往時の勢いはなく場所は沢山空いてました。
長年起業祭を楽しみにしてきた者にとっては寂しい限りです。
諸行無常…ですかね。
じゃあ、写真は余分だったかな?
今はサーカスやお化け屋敷などは無く、おとなしい起業祭ですね。
久しぶりに工場見学に行ったのですが、
以前は、高炉と熱延工場が見学出来たのに、今年は高炉だけ。
溶けた銑鉄が流れ出ているのを、遠くからチラッと見えただけ。
工場見学も寂しく?なっています。
南風吹く皿倉山の
です。
>(八幡の)ほとんどの小中学校の校歌でも、帆柱山は出てきます。
(皿倉山のことを帆柱山と歌ったている。)
と云うところのことですね。 大変失礼しました。
天神小学校の校歌では、皿倉山をちゃんと皿倉山と歌っている。
以前、この記事にコメントを寄せられた煌さんという方からご指摘がありました。
天神小学校の校歌の出だしが、”南風ふく皿倉山の~”だったと。
そして、3番まで書いてくれました。(↑ 上の方にあります。)
天神と平原、尾倉が統合して、皿倉小学校が誕生しましたね。
校歌の出だしは、”仰ぐ皿倉 帆柱と” です。
http://www.kita9.ed.jp/sarakura-e/schoolsong/index.html
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