HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信します

遊郭の跡 - 旧逢坂町

2013-11-03 | 大連を歩く
日本租借時代、大連にも遊郭があったそうです。
今もその建物が当時のままの姿で残っています。

解放路×武昌街付近です。

当時は、逢坂町と呼ばれていました。
逢坂町は、大連の花柳界の中心でした。花街としては1909年頃から造成が始まったとされています。


(こんな場所です)

僕は東京では隅田川にほど近い下町に住んでいたので、買い物の途中などで吉原(台東区千束)の近くを通り掛かることがありました。
そのとき、いつも「なぜこの場所で遊郭が発展したのか」ということを考えることがありました。

調べてみると、ちゃんと歴史的、地理的な理由があるようです。

大連の遊郭跡は、今は住居として利用されています。見たところ、低所得者向けの住宅のようです。

文献によると、1920年頃、この一帯には遊郭が57軒、芸妓350人、酌婦590人余りがいたそうです。なかなかの数です。
出身者は大阪が一番多く、東京、愛知の順だったそうです。

かの田山花袋もここを訪れたことがあり、その印象を残しています。

近くに行ってみると分かるのですが、通りに面した方に玄関がありません。すべて入口は裏側です。
この特殊な作りが遊郭であったことを物語っているようです。


(裏側から出入りする造りになっています)

この地は、大連の最中心部からは決して遠くはないのですが、港からはやや離れ、東南北を山に囲まれて閉じ込められているような空間です。日当たりも決して良くなありません。

「アクセスはまずまずだけれど、住宅地としては決して恵まれているとはいえない」

そんな場所です。

まだ100年も経っていない近代史を静かに物語る一帯です。
この建築は、行政側が保護する可能性はゼロでしょう。

今のうちに見つけることができて、ラッキーだったのかもしれません。
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