雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

自然のアルバム

2011年10月27日 | ポエム


 自然のアルバム
 僕は田舎育ちだったし、育った時代もまだ身近に自然が残っていたこともあり、いつも多様な生き物に囲まれていたような気がする。
 フナやメダカやドジョウなどの魚採り、蝶、トンボ、セミなどの虫獲りは、僕の大切な日課だった。ペットとして夏の金魚から始まり、せがんで池を作ってもらい鯉も飼った。小学校に上がってからは、鳩やジュウシマツも自分一人で世話をした。また家にはネコがいた。
 魚採り、虫獲りといっても、わざわざ遠くに出かけることではなく、家の庭に蝶やセミは飛んで来たし、家の回りの土を掘っただけの小さな流れには、ドジョウやメダカがたくさんいた。家から出ると、裏山の段々畑や田んぼがあり、たくさんの命があふれていた。それらの生き物が僕の毎日の遊び相手だった。
 そんな環境のせいか、元来の性格か、僕は小さい頃から生き物に触れることが大好きだった。フィールドワークも好きだったが、生き物の図鑑や生態を現した本もドキドキしながら見たものだ。
 まだ白黒放送だったテレビでも、ディズニーの動物ものや、「名犬ラッシー」「わんぱくフリッパー」などの動物が主人公のテレビドラマも大好きだった。テレビでは、NHKの「自然のアルバム」という番組が大好きで、小学校の4、5年生の頃には、親や兄弟がまだ寝ている日曜の午前6時15分に(そう記憶している)一人テレビをつけて見ていたことを思い出す。どうやって目を覚ましていたのか、眠い目をこすりながら寒い冬の日曜日に、毛布にくるまってテレビを見ていた自分を思い起こすことが出来る。
 「自然のアルバム」は、昆虫や動物、魚類から植物まで、日本のあらゆる生き物の中から1話1種を選び、生まれて死ぬるまで、生態や環境を春夏秋冬1年から数年で描いたものが多かった。その15分間の映像そのものが、子供心に美しかったし、今考えると、BGMなども含めて、毎回毎回が芸術作品そのものだったような気がする。僕は「自然のアルバム」でよく使われたバッハ(伝)のシチリアーノという曲が好きになり、今でもバロック音楽が大好きだ。今も自然や生き物を扱った番組がたくさんあるが、最近の視聴者に媚びているような番組作りが好きになれない。
 「自然のアルバム」を見ることにより、知らぬ間に、多くの生き物の名前や生態を知ったが、きびしい自然環境の中の野生の生き物達の生き様は、それ以上のものを僕に教えてくれたように思う。
(2011.11.1)
 
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チューリップの球根を植える

2011年10月20日 | ポエム


 チューリップの球根を植える

 週末園芸家にとって、10月は忙しい。
 梅雨明けからひと夏を過ぎた花壇やプランターの春花壇への植え替えの時期だからだ。
 仕事上、園芸という趣味の時間に使える時間は限られる。私は土曜日も半日仕事があり、日没の早くなった10月には、本格的な作業をするのは日曜に限られる。その日曜に出勤があったり、家族サービスでドライブに出かけたりすると、さらに作業時間が無くなる。そしてやっと作った「今日は1日作業が出来るぞ」という貴重な日曜日に、朝から本格的な雨が降ったりするのである。
 9月には、園芸店にチューリップをはじめとする球根が出始める。大好きなビオラも顔を見せ、何だかワクワクしてくる。今年の新品種はどんなものか、心に響いてくるような新たな花はないか、あちこちの園芸店やホームセンターをはしごし、品定めをする。その時点では、苗や球根の購入はしないで心の中にメモをする。
 次に手持ちのプランターや花壇を思い浮かべ、あるいは図に書いて、春花壇のプランを立て、作業の段取りを考える。この作業が実に楽しい。一番盛りのことを想像してプランを立てる。咲き誇った花の間から、チューリップやアネモネや水仙の花が現れて咲いた様子を想像する。花の花との色や形の組み合わせがうまく行くか、楽しみである。
 花壇のことを考え始めると、明らかに頭や心に変化が現れ、血圧は下がり、ストレスがさらさらと溶け出して行く(ような気がする)。
 ここ数年は、デジタルカメラで花壇やプランターの写真を撮影し、パソコンに記録している。記憶力が著しく低下している私に春花壇のプランの強い味方となっている。前年の反省が生かされる。「この花は良かった。今年もぜひ使う」とか、「この花は思った程良くなかった」とか。
 次に、苗や球根を1日で作業が終わる分だけ、計画のメモを手に、かねてから目を付けた園芸店から買ってくる。そのとき、新たに欲しい新品種が出ていて心乱れたり、予定の苗がなかったりして、なかなか計画通りには行かないがことも多い。
 実際に植え付ける作業も楽しい。土をいじることは、何か人間の先祖の記憶に触れる本能的な喜びがあるのかもしれない。中でも春花壇では、球根の植え付けが特に楽しい。一旦、数ヶ月先まで土の下に隠れてしまう球根。これから迎える本格的な秋とその次の寒い冬。二つの季節を過ぎた、ちょっと先の未来にいる自分や家族へのプレゼントみたいだ。
 現時点では、まだまだ夏のプランターの花が咲き続けている。切り戻しも苦手だが、季節が変わるからと、まだ花が咲き続けている株を引っこ抜くことが私には出来ない。花壇を植え替えるためには、それでも意を決して抜くしかない。だから植木鉢やプランターの方は、1カ所に2つのプランターを用意する。まだ観賞に堪える夏の花はそのままに、別のプランターに春の花を植え付けるのだ。そして時期をみてプランターを置く庭の檜舞台からバックヤード(庭の舞台裏)へと差し替える。そうやってギリギリまで夏の花を世話するから、春のプランターに差し替えた後もバックヤードで年末まで咲き続けることがある。さすがに零下の気温にさらすと1日にして枯れてしまうが、切り花で楽しんでいて根が出たものや、まだきれいな株を小さな植木鉢に植え替え、室内の日当りの良い窓辺においていたら、冬を越して咲き続けた。あたたかくなって挿し芽で増やして翌シーズンの夏花壇に植え付けた二年もののインパチェンスやアゲラタムがある。その二年ものの親株のインパチェンスの株元は、草花とは思えぬ太さで盆栽の風情です。
 真冬に沖縄に行ったことがあるが、その時に道路際の植栽や家の庭に夏の花を見つけ驚いた。九州熊本もそれと同じで冬もあたたかいからこそのことだろう。
 他県の園芸種物屋に嫁いだ妹から「そんなことやめてよ。苗が売れなくなるじゃない」と文句を言われそうだ。
(2011.10.26)

 

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ケヤキの葉とセキレイ

2011年10月17日 | ポエム



 ケヤキの葉とセキレイ

 前回、森の中で牡鹿に出会ったお話を書き、自然から私への啓示だと思っている話をしました。誤解が無いようにお断りしておくと、私は自分自身が特に霊感の強い人間だと思っていないし、神様に選ばれた特別な人間だと言いたい訳ではありません。スピリチュアルな世界は嫌いではありませんが、楽しんでいるだけで特にそれを信じ込んでしまう方の人間でもありません。例えば、南阿蘇の山小屋から歩いて行けるところに、「パワースポット」と呼ばれるというか自称している場所がありますが、未だに行ったことがありません。
 ただ、自然現象や植物や生き物との出会いの中から、自分勝手に神様からの意思を感じて、ありがたがったり喜んだりしているだけです。私が神様というものも、宗教で言う神様ではなく、もっと原始的な「山のかみさん」や宇宙的な目に見えない大きな畏れの存在に近いものでしょうか。
 私は、読書が大好きです。同時に小さい頃から文章を書くことも確かに好きでした。でも自分の作った文章を不特定の方に発表することは、通っていた高校の文芸誌に投稿した位で、このブログがほとんど初めてです。それでも書きたいテーマの公募があったりして今までに数度、エッセイや論文、童話などを作って応募したことがあります。
 その時は、童話の公募でした。けっこう長い童話で、その中に重要な存在として森の中のケヤキの老木が登場します。
 その童話を書く時も、南阿蘇の山小屋に一人ででかけ、創作に集中しました。
 そして朝方、童話を書き上げ、「やったあ」と一人バンザイをしたら、その頃使っていたワープロのキーボードの上にひらひらと1枚のケヤキの葉が舞い降りて来たのです。瞬間、鳥肌が立ちました。
 たしかに庭にケヤキの木があります。窓も大きく開け放していました。でも風の無い日で、どうやってそのケヤキの葉が部屋の中まで飛んできたのかとても不思議です。で、能天気な私は「こりゃ山のかみさんが童話の完成を喜んでくれた」と勝手に解釈。入賞間違いなしと密かに喜びました。
 もう一つの例をお話します。
 次の時は、仕事が忙しく、その忙しさに追われて絵や作文などの創作をしていなくて、時の流れに流されているだけの自分に少しだけあせりを感じていた日々でした。私は車で通勤していますが、途中は田んぼや畑や海岸であったりします。そんなのんびりした田舎道から車の往来の激しい国道に出る交差点で長い信号待ちをしていました。
 すると、カツンと音がして、見ると助手席側のサイドミラーに一羽のセキレイが飛びついていました。セキレイはその後、車から離れないまま、フロントガラスの方に羽でバランスを取り乍らバタバタと回り込み、運転席側の私の目の前のガラスまで来るとそこで止まりました。そしてなんとその小さな嘴でコツコツ、コツコツとガラスを叩き始めました。それは信号が青に変わって車を動かすまで続きました。
 ハンドルを握ったまま、私は胸がいっぱいになり、涙があふれて来ました。
「それでいいの?何をしているの?」 
 セキレイは私を叱咤してくれたのです。勝手な思い込みで私はそう感じてしまいました。
 事実はセキレイがミラーやガラスに映った自分の姿を恋敵と勘違いして攻撃しただけかもしれません。
 先日の牡鹿との出会いといい、我ながらご都合の良い解釈ですね。
 でも自分で感じ、解釈し、一人喜んでいるのですから罪は無いとどうかお許しを。
 そしてあの後実際に応募した童話の結果も選外でした。
(2011.10.17)
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森の神様に遭遇した

2011年10月13日 | ポエム


 森の神様に遭遇した

 10月の体育の日の連休の朝、私はまた南阿蘇村の山小屋で目覚めた。
 1年で一番空気が澄むことが多いと言われる10月。美しい風景に出会い、いい写真が撮れたらと思って、前夜一人で車を走らせてやって来た。携帯電話のアラームが鳴る前に目が覚め、跳ね起きて外を見ると、家の周囲は白い霧の中。でも外に出て、上空を見上げると明るい。
 経験からいくと、こんな状態のときは、雲海になっていることが多い。
 顔も洗わずに、カメラを手に南郷谷が見渡せる高台まで車で行くことにした。
 世が明けたばかりの外は、薄暗く、白い霧が隙間無く漂っている。それでも100メートル程は見通しが利くので、濃い霧ではない。念のためにフォグランプを点灯した。家の前から稲刈り直前の田と竹林を抜け、背の高い檜の森に挟まれた村道に右折した途端、白い霧を背景に立つ、立派な角を持った牡鹿が20メートルほど先の道の真ん中に立っていた。右の森から左の森へと村道を渡る途中だったのか、顔だけを私の車に向け、じっと立って、車か私を見ている。
 「ああ。鹿だ』
 私は息をのんだ。堂々として大きい。神々しく美しい。しばらくじっと対峙した。
 「そうだ。写真をとりたい」
 私が助手席に置いたカメラを手探りで取り、そっとキャップを外した途端、牡鹿は正面を向き、ゆっくりと森の中に消えた。
 南阿蘇村で夜中に車を走らせると、冬はウサギをよく見かける。キツネは深夜に走る車の前を飛ぶ様に一瞬で横切った姿を2、3度見ている。タヌキには、以前畑を作ってトウモロコシを植えたとき、来週は収穫だと思っていたら、翌週ほとんど食べられてしまったことがある。地元の人が、とうきび植えてもタヌキの餌になるだけだよって言ってた通りになった。山小屋のある敷地にも、薮の中に彼らの獣道がある。そしてかわいい親子連れのタヌキが庭を横切って行くのを小屋の中から見たことがある。猪には、家人が車を運転中に出会った。怖い位大きかったそうだ。今年も田んぼには猪除けの電流が流れる柵があるくらいだ。また南阿蘇村でも野生の猿が農家に被害を与えている。私も何度か猿の姿を見たことがある。そんな野生動物が身近な南阿蘇村でも鹿のことは、今まで見たことも聞いたこともなかった。
 好きな表現ではないが、近年、パワースポットと呼ばれる場所が脚光を浴び、人が押し寄せているそうだ。私の大好きな阿蘇も知る人ぞ知る、パワースポットの集中している地域らしい。そう言われる以前から、私は阿蘇を訪れて幾度となく、人の言う「パワー」の一つの種類となるのか、何か目に見えない、大きな畏れる存在から啓示のようなものを感じた経験がある。
 例えて書くと、「そんなこと偶然の出来事に都合の良い解釈をしただけよ」と言われそうだが、具体的にはいつか書こうと思う。
 この日の朝の牡鹿との出会いも、勝手ながら都合良く解釈すれば、私に対する「叱咤激励」と読んだ。
 4日たった金曜日の午後も、私の心は何だか喜びに満ちているのである。
(2011.10.14)
 

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カルチェラタン

2011年10月04日 | ポエム


 カルチェラタン

 2週続けて映画館に行った。
 観たのは、スタジオジブリの新作「コクリコ坂から」。ロードショーも終盤で、日に数回の上映で、しかも夜間は最後の日。
 ジブリのアニメは、もののけ姫あたりから、劇場で観るようにしている。それ以前の作品もテレビの放映やビデオで何回も繰り返し観ている。何度観ても見出すと途中で止められなくなり、最後まで観てしまう。上京した際に、おっさん一人でジブリ美術館にも行ってしまうくらいジブリファンになってしまった。
 少し前にNHKの「ふたり」と題されたドキュメンタリーで、宮崎駿、吾郎親子を「コクリコ坂」の制作過程を通して描いた番組を見た。番組の中で、父親の宮崎駿氏が、息子の吾郎氏の前作を批評する場面があったが、確かに前作「ゲド戦記」はひどかった。絵が上手いか下手かという前に、観ていて主人公のキャラクターが伝わって来ないで、最後まで感情移入が出来ないままだった。
 「コクリコ坂から」のほとんど最終日に近い、その日の最終上映は、開始直前まで、場内に観客が私一人だったのであせった。始まる直前に3人の若い女性がやって来て、それでも上映を4人で観るというのは、初めての経験だった。
 感想は、「よかった」。エンディングに流れた手嶌葵の唱うテーマ曲のせいもあってか、終わった後にちょっと胸がいっぱいにもなった。
 コクリコ坂からの主人公は、戦争中に生まれているらしいので、実年齢は私より12、3歳は上だと思う。しかし、二人の恋愛の経過とともに映画のストーリーの柱となっているカルチェラタンの保存運動。高校の文化部の部室として使われている「カルチェラタン」と名付けられた古くて汚い洋館や、男女共学の生徒達の高校生活が、私自身の高校生活を思い出させ、ダブる情景が多く、ストーリーと関係なく目頭が熱くなった。
 私が通った高校にも「文化長屋」と呼ばれた文化部の部室の集合棟があって、カルチェラタンのような洋館とは違い掘建て小屋に近い建物だったが、やはり壊すか保存するかの闘争があったように思う。
 当時は、大学の学生運動が、行き詰まりをみせ、赤軍派が浅間山荘事件を起こしたりする頃ではあったが、我が母校にもまだ右翼や左翼の生徒がいて、生徒集会はいつもカンカンガクガクだった。映画には、それを思い出させる生徒集会の場面もあった。腰に手ぬぐいをさげ、下駄で通学している旧制中学時代からの最後の生き残りのような先輩もいた。
 映画のカルチェラタンの場面では、音の背景に、演劇部の発生練習や音楽部の楽器の音、運動場から聴こえて来る運動部の声があって、「そうだった。そうだった」と私の高校時代に文化長屋の美術部の部室で絵を描いていた時に、タイムスリップしてしまったような気がした。
 秋の文化祭の前には、禁止されていたにも関わらず、学校に泊まり込んで、文化祭の準備作業をした。本当は泊まり込む必要は無いのだが、部室に暗幕を貼り、外に明かりが漏れないようチェックして、皆でインスタントラーメンを食べたり、中には飲酒や喫煙をする者もいて、泊まること自体が目的だった。
 夜9時を過ぎると、教師が巡回してくる。
 「部長は誰や。まだ終わらんか。そろそろ帰れ」
 「はい、もうすぐ終わります」と美術部部長の私は、直立不動で神妙に答える。
 教師の方も泊まり込むことや、中には酒や煙草を吸う者がいることもとうに知って見回っているのだ。
 「火の始末だけは気をつけろよ』そう言い残して去って行く。単に文化祭の準備なら、火を使うことは無い。煙草の火に気をつけなさいと言われているのだ。
 映画でも生徒と先生のよい関係も伺え、そんなことまで思い出した。
(2011.10.7)
 
 


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