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「請求漏れ年金 お調べ指南書」第3章 (6)年金は難しい!

2018年01月09日 | 年金

 (6)年金は難しい!

 

 年金は難しい! と、よく言われますが、実際はそんなことはなく、歴史的推移と制度が分立していながら一部で重なっているため、法附則とか特例とか経過措置等が網の目のように入り組んでしまったからだけなのです。

 

 とはいえ、この網の目を一般の方が読み説くのはしんどいでしょう。この点だけが、年金は難しい! のであって、この読み解きを専門家にやらせればいいだけの話で、実に簡単なことなのです。

 

 しかし、現実には社会保険事務所等だけの年金相談では足りない部分もありますし、ほかのところへ相談しなければならない部分もあります。ましてや、年金全体について総合的な説明をもとめても、ないものねだりです。おのおのが自分のテリトリー内に閉じこもります。

 

 年金相談先の社会保険事務所、厚生年金基金連合会、会社の厚生年金基金、企業年金基金等で個別に年金相談をしても、各担当分野だけの回答しかもらえません。

 

 また、国の年金が大層を占めているとはいえ、企業年金等の私的年金の比重も増大しています。つまり、日本の年金は社会保険事務所で事足りていた時代は過去のものになっています。現実はかなり先に行っています。通り一遍の「年金相談」では事が足りません。

 このような日本特有のコールセンターのない、年金開示請求権が立法化されていない、役所のサービス提供というスタンスの年金相談の現状から、年金全体を承知して総合的にカウンセリングをする日本故の年金カウンセラーが必要になってきています。コールセンターがある国では、年金カウンセラーはいらないのです。

 

 つまり、日本の現状では、個々人の条件にそった年金全体について個別の説明・解きほぐしが欠かせないのであり、制度全体の裏表を承知している者による総合的な「年金カウンセリング」が必要になっているということです。

 

 「カウンセリング」とは、一般的に心理学用語であって、一身上の問題を解決するために助言を与えること(広辞苑)のようです。同様に、広辞苑では「カウンセラー」とは、個人が当面する諸問題について(中略)相談に応じ、適切な指導助言を与える専門家。相談員。となっています。

 

 年金の請求について、日本の現状を踏まえると、年金カウンセラーがどうしても必要な状態になっています。

 

 インタ-ネットで検索をしても、登録商標で特許庁を調べても年金カウンセラーというのはありません。この冊子が、本邦初の年金カウンセラー誕生の冊子となります。年金請求に関してはオンリ―ワンです。必ず皆さんのお役に立つと確信しています。

 

 

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 国民年金に加入の自営業者等は、国民年金に上積みする国民年金基金に加入することができます。

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   最後に、年金加入期間確認の「発見の秘術」を施して、新たに見つけられた別番号の加入期間はどのくらいありましたでしょうか。

   あなたの成功報酬は、いかほどになりましたでしょうか?

 

あなたの成功報酬

年金区分

見つけた加入期間

月数

アバウト月額

成功報酬

生涯報酬

国民年金

×1,655円

円/年

厚生年金

(基金なし)

 

 

×3,000円

×4,000円

×5,000円

 

円/年

 

厚生年金

(基金あり)

 

 

×1,500円

×2,000円

×2,500円

 

円/年

 

 

基金

 

 

×1,500円

×2,000円

×2,500円

 

円/年

 

共済

×5,000円

円/年

 

合計

 

 

 

 

 

円/年

 

   

 

 

  この「発見の秘術」で、年金加入期間が10年以上、見つかった人がおられましたら、または、年金加入期間が足りなかった人が請求もれ年金の期間が見つかり年金が受けられるようになった人がおられましたら、慶賀、慶賀のきわみです。       

          

  この冊子が少しでもお役に立ちましたら、掲示板・ブログ・口コミ等で友・知人に紹介・吹聴してください。一人でもおおくの人がこの成功報酬を手にされれば、この冊子のミッションは達成されることになります。

          

 

  ここまで、ご覧頂きありがとうございました。

 

  この冊子は、皆さんにご自分の年金に「請求もれ年金」がないようにすることをミッションとしてきました。少しは達成されましたでしょうか。

 

  少なくとも、ご自分の年金はご自分でどうにかしようという意欲がわいてきましたでしょうか。更に、この冊子を友・知人に知らせようというお気持ちになっていただけましたでしょうか。

 

  多くの人が、ご自分の年金をしっかり受け取られることになり、次のステップに向かって大きく羽ばたいていただけましたら、筆者のミッションは成就いたします。

 



おわりに

  日本の年金の平成16年(2004)現在の状況は、平成20年(2008)の60歳年齢ピークを前にして財政破綻へまっしぐらに突き進んでいるというところです。いつ、年金支払不能に陥ってもよい状況と考えられます。それを、政府も政治家も官僚も、先送りで言い逃れているだけの状況です。日本は抜本改革ができない土壌になってしまったようです。

 

 一方、民間人が入って社会保険庁改革がスタートしましたが、通り一遍の小手先改革でどうなるものでもないでしょう。あるとしても、将来の改革に向かっての第一歩という意味だけでしょう。レベルが違うのです。年金の基本的構造から組み立て直しが必要になっているのですから。

 

 このような年金をめぐる混沌とした状況で、ウカウカしていますと、ドサクサにまぎれて、やみくもに自分の年金も奪われてしまいます。基礎年金番号にさえ、すべての年金加入記録が統合されていない状況で、今後、社会保障番号(仮)にでもなったら悲惨です。

 

  これから制度改革の嵐が吹き荒れることになるでしょうが、ご自分の「年金の行方」については、しっかり見張っていないとならないでしょう。

 

 大勢は、ナショナル・ミニマム(国民的最低限保障)としての社会保障番号(仮)による税方式基礎年金と、従来の報酬比例部分年金を清算・移行してハイリスク商品の運用抑制を工夫した確定拠出年金を組み合わせたフレーム・ワークということになっていかざるを得ないのかもしれません。

 

 この冊子の秘術で、成功報酬を得たとしても、しくみそのもののすり替えで失われるものは計り知れないでしょう。

 

 最後に、この冊子は、平成11年(1999)に米国401(k)調査ツァーにご一緒したフューチャー・ペンション・プロジェクトの元取締役社長安岡孝文さんとの共同企画です。

 平成16年の夏から冬にかけて、江ノ島・婦人会館での毎週土曜日の調査・分析・研究から生まれました。安岡さんとの日本の「年金の行方」についての熱い議論がなければ、この冊子は誕生しませんでした。ありがとう、ございました 。

 

 

平成16年12月7日

高野 義博

 

 

 

【参考】

平成 22 年 10 月 5 日 日本年金機構は「年金の請求漏れが生じやすい5つの事例に関する周知広報について」というPDFをアップしました。ぜひ、ご覧ください。

 

 

 

付録

童女のようにはしゃいだギリシャ旅行記

1997.10.25

高野 義博

 

1. 成田発

・我が家の次男に大船駅まで車で送ってもらって、慌ただしく朝7時7分の成田エキスプレスに乗り込んで成田へ。旅立ちの始まり。

・ヴァージンアトランティック航空VS901便(10時50分発)で、ツンドラ経由ロンドンへ13時間の飛行。(トランクの中の百円ライター、X線照射で引っかかる)

・2回の機内食、若いイギリス人女性のサービス、一人一人のTV画面。

・機上からの眺めは地上の人間の活動を惨めなものにする。全ては放下されてあるだけ。縛ることも、秩序立てることも、喜怒哀楽も不要とする。

・ロンドン着、空港施設内で5時間ほどの待ち合わせ。3000円をポンドに両替して私はドイツビール、和子は紅茶、頭痛がする由、元気なし。

・パキスタン人の子供に時間を尋ねられる。

・ヴァージンアトランティック航空VS1000便(9時15分発)で、アテネへ4時間の飛行。軽食の振る舞い。

・到着後、ホテル:クリスティーナへ直行。ともかく、眠い。午前中、睡眠。

 

2. アテネからカランバカへの道

・我々の専用バス(ベンツ)にガイドのマリアさんも乗り込んで、まずは昼食へ。

・アクロポリスの丘の南麓、松林ののぞめるところのタベルナ(食堂・レストラン)でギリシャ料理、ムスカ(薄くきったナスを拡げて並べ、その上にオリーブ油で炒めた挽肉を拡げ、ホワイトソースをかけオーブンで焼いたパイ状のディッシュ)と、ウーゾ(かなりきつい地酒、水を加えると白濁する)。田中老人と清水老人と4人同席。清水老人がウーゾの細身のグラス(ギリシャ衣装の男性ラインダンサー達の絵柄)をウェイターに所望。交渉成立、私もいただいた。

・一路、高速道路(日本風の隔離されたそれと違い、一般道路風)でギリシャ内陸部のカランバカへ向けて出立。辺りは日本の盛夏のよう、ただ湿気はまったくなし、風がビュウビュウ吹きまくっている。100キロ程度のスピードで350キロ走る。

・奇妙な風景だが、原野のようなところに建て掛けのコンクリートの基礎だけの家が無数に目に留まる。資金手当てがついたら、そのうち、次の作業に入る由。完成は何時のことだか、不明とのこと。

・ギリシャはエーゲ海の観光と、内陸部に入るとまったくの農業国。人口の60%がアテネに集中。目路の限り見渡せるフラットな畑にはまったく人影が見えない。

・丈の低い綿花畑かオリーブ畑(シルバー色の柳の葉のような樹齢2、300年がザラという高さ3メーターほどのごつごつした樹)が辺りの風景。やがて、山岳地帯に入り、樹木が絶え、草木が絶え、むき出しの岩山が辺りを領す。

・見渡す限りの荒れ山、目路の限りの荒地の「アッティカの平原」をバスは何ものかから逃げるようにひたすら走り続ける。

・夜半、ホテル:アントニアディス到着。メテオラの奇岩の下、満月、急な冷え込み。

・明け方、方々から「アッティカの雄鶏」の鳴き声で目を覚ます。

・子供たち3人に絵葉書を書き、ホテルに投函を依頼。10月15日に出したのが、帰国後の10月23日に着信。8日後のことだった。

・世界遺産メテオラをぞろぞろと見学。観光化されて使用できなくなった修道院跡、世俗化と精神の孤高ほど相容れないものはないだろう。民主主義は全てを凡俗に化す。

・和子は出店で何やら購入。店のおばさん(千葉は九十九里海岸の日焼けした漁師のおばさんという感じの人)と抱き合って記念写真! このころより、和子のテンション高まりつつ・・・・・・・

・我々、二人の大学の専攻は曲がりなりにも「西洋哲学」。各々の二十代の選択の根の国ギリシャに来て思うことは、あれから30年の時が経過して、子供を3人育て上げ(内、上の2人が哲学専攻、3番目が我が家の希望の星で経済専攻)、民間会社でまったく哲学離れした生活を送ってきて、何の因縁か、ギリシャ旅行!

・何でギリシャ? と、人に聞かれて、単なる観光旅行ではないと言ってもらちもない。人に伝えるべきことでもないのだから、黙っておくにこしたことはない。

・私にすれば、テーマを絞りきるのに40代を丸々使った仕事が『情緒の力業』に結集し、平成7年に出版できたことで一区切りついたこともあって<アディオス・フィロソフィ! >の総仕上げの旅行でもあった。

・バッテン、日本での垢に塗れた概念となってしまっている<哲学>にこそアディオスだが、本来の生まれたての原始<哲学>にこそまみえたいということか。

 

3. デルフィの丘目指して

・綿工場へ立ち寄り、和子、マットが安いからと荷物になるのに買い込む。織機はブラザーとか大和(大阪のメーカー)あり、さすがに豊田織機はなし。

・メテオラで一番(添乗の小野さん)というタベルナ:KIPOSで食事。大倉さん、杉田夫妻と同席。妻に袖を引かれつつもウーゾとなり、少々酩酊。コスタスさんと3人で記念写真。

・デルフィの丘目指して山岳地帯を230キロ、バスツアー。マリアさんの古代ギリシャ史、又はギリシャ神話の話が大学の講義を聞いているような錯覚に陥る。

・山岳地帯からペロポネソス半島の見渡せる海岸線に出てきて、喫茶店で休憩。燦々と降り注ぐ太陽の白光のなか、見事な濃いピンクのブーゲンビリアの横伸びの大樹。

・バスは山腹を何回となくS字状道路をターンして巨鳥が舞い降りるかのようにデルフィの丘へ到達。

・デルフィの丘からの前方の眺めは、かなたにペロポネス半島との海峡、コリントス湾へ続く峡谷を見下ろすことになる。そして、背後に重量感溢れる巨大な荒々しい岩山がせまり、そこには時間と歴史を堰き止められたままの異様な静寂が貼り付いているかのようであった。

・陽が落ち夕映えの中、とはいえ8時ごろだったと思う、ホテル:ZEUS着。フロントで振り返ればホテルの前に<ΔΙΟΝYSOS>というタベルナ発見。ディオニソスと言えば、オリンポス山の主神ゼウスの息子で、酒の神! 和子に、店の前で記念写真を一枚撮らせる。店はガラガラ、10時過ぎにならないと人は出てこないとか。

・夕食後、ホテルのカウンターで大倉さん、杉田夫妻と落ち合い、メタクサ(ギリシャの最高級ブランデー?)の七つ星を2杯飲む。

・翌日、デルフィの丘で、考古学博物館見学。BCという時代が日本のどの時代なのか、比較して物事を認識するのが常道とすれば、絶対値としてそのものだけを受容する方法もありえるだろうが、当方に準備が出来ていない場合はかすり傷の様にして過ぎ去っていくだけなのだろう。気がつかずに失われているものは無限だ! 知らぬものの総量は計り知れない。また、それでいいのだろう。

・デルフィの遺跡、アポロンの神殿、円形石柱が丘の斜面に立ち、糸杉が寄り添う。中腹に長方形の競技場あり。一頭立ての馬車に乗った戦士たちが砂ぼこり利を立ち上げて走り回り、観客の歓声が宙にそのまま張り付いているかのような2000年余の静寂。

・港に出て、フェリーでペロポネソス半島に渡り、海岸線を250キロほどコリントスへ向けてまっしぐら。遅い昼食を<AGAMEMNON>でスブラキ! 店を出て、タバコを探し回るも見当たらず、人影の見えない奇妙な静謐さ溢れる街路・・・・・・・

・シュリーマンが掘り出したミケーネ遺跡(遺跡の裏山にかかっていた小さな白い雲! )とアガメムノンの墓を見学。<ライオンの門>で記念写真。

・帰路、土産物屋にバスごと連れ込まれ、和子は安い宝石を3点ほど購入。(自分用か、誰かに上げるのか?)

・ナフプリオン(ギリシャの元首都)への途上、マリアさん、突然ヘンリー・ミラー(米国の作家)の『マルシーの巨像』(ミラーのギリシャ旅行記)のことを話し出す。ナフプリオンについて書かれているところも、ミラー特有の誇張があるという理解のようであった。同行者に尋ねられて、新潮社からオレンジ色の装丁の翻訳全集が出ていることを囁いた。

(帰国後、我が家のその本を手に取り、驚愕。ミラーは1939年(私が生まれたのは1941年)ギリシャに居たのだし、この日本語の翻訳全集が出版されたのが1966年10月、私が読んだのが1966年11月、ということは30年前に読んでいたのだ。ほとんど忘れていた。)

・ナフプリオンのホテル:ディオスコーリに夜遅く到着。今回の旅の最低ランクのホテル。バスタブがなく、洗面所のコーナーに粗末で不潔なシャワー設備あり。学生の集団がチェック・インしたあとは、湯も出なくなった。泊まりだけだと、14,000ドラクマ(7,000円)の由、メッセージが扉裏に貼ってある。

・夕食後、杉田夫妻と散歩に出る。他の人たちも表に出ていて店を冷やかしている。値引きを粘って13万円のブレスレッドを買いし女人あり。夜半11時ごろであったが、大理石を敷き詰めた広場(小学校の校庭の半分ぐらいの広さで周りに木々が茂り、レストランのテーブルとイスが出ている)で、子供たちが犬とサッカーに興じていた。と、わざわざ言うのも、その犬がサッカーボウルをくわえて逃げ回るので、そうさせまいと子供たちがボウルを回すわけだ。その喧騒の中を、超小型三輪車(電池式か?)を歩行速度程度のスピードで運転して、超然と走り回る5歳ほどの男の子有り。

・同行の大学生に通訳してもらい、5、6人一緒に広場に出ていた店でグリース・コーヒーを所望。ナフプリオンの夜は真夜中になるのに、人々はゆっくり・のんびり、まるで時間など無きがごとくに。・・・・・・・時間は本来止まっているものなのかもしれない。人が勝手に速度を付与しているだけのことであろう。

 

4. アテネにとって帰る

・エピダウロスの古代野外劇場でのマリアさんの柏手の演技。円形ステージの奏者の立つ位置により共鳴したりしなかったり。音響効果はBC4世紀に計算されつくして設計されている由、マリアさんの見事なパフォーマンス。

・エピダウロスでバスに乗り込んだところで、マリアさんに<ゾルバ>(ギリシャの小説家カザンザキスの『その男ゾルバ』の主人公)をご存知か尋ねたところ、カザンザキスのギリシャでの評価について説明してくれた。彼は彼独特のギリシャ語で特殊なことを書くので余り理解されていないで、多少共産主義的評価を得ているとのことであった。

・遺跡を巡ってとはいえ、ギリシャはどこでも遺跡だらけ、地表にむき出しの石柱やレリーフなどが無数に飛散・散在している。それから類推するに、地下にはどれだけのものが眠っていることやら。このころ二人で1万円のドラクマはなくなり、お手上げ。ドルはともかく、円はアテネへ行かなければ両替出来ず、コーヒーも飲めない。(その後、杉田夫人に和子がドルに替えてもらった) 一転にわかに掻き曇り、少々、雨が降ってきた。半袖では寒い。

・アテネ市街に入って、平成2年欧州資産運用調査旅行で来た時のゼウス神殿前のホテル:ロイヤルオリンピックを発見、その上、昼の食事はそこから10分ぐらいのところにあるアルディトウ通りのシーフードの店<MEMORIES>、ここも以前来た店であった。イカのリンクの揚げ物、タコのオリーブ油で絡めたもの、それにウーゾ愛飲。ギリシャに来てからタバコはずっと<PAPASTRATOS社>の両切りタバコ。

・アクロポリスの丘へ上がるときには半袖では我慢できず、コスタスさんに頼んでトランクをバスから降ろしてもらい路上で店開きしてジャケットを出し、駆け足で皆に追いすがる。前回のときは、日差しが強くて丘の道の途中で白い綿の帽子を買い求め、ひょんなことから1つの値段で2つもらったことを思い出していた。

・パルテノン神殿と考古学博物館は突風が吹き荒れていて、多少氷雨もあり、寒くて早々に退散。丘の東端に、巨大なギリシャ国旗が強烈にはためいていた。

・ホテルに入る前に土産物屋に案内され、宝石や仮面やギリシャ模様の小さな壷などを購入。マリアさんはいい客引きになっているよう。和子は、マリアさんがたまたましていたカメオと同じような薄紫のカメオを見つけ、マリアさんに値引き交渉をしてもらい自分用に購入。

・アテネのホテルは初日のホテルと同じホテル:クリスティーヌ。ホテル前のバスを降りたところでマリアさんとお別れ。

・荷を解いてから、夕食は外のプラカ地区のタベルナへ一同で出かける。(タバコを買っている間に、一瞬皆を見失い、一瞬こりゃあヤバイ! と、肝を冷やした) ショーの行われるギチギチに狭いタベルナに300人ほどの客。大半は日本人。それも大阪弁が多かった。

 

5. 曇天のエーゲ海クルーズ

・翌朝、目覚めればドシャ降り。8:20、GIORGIS号、マリーナフリスボより出航。

・視界悪い中、ポロス島へまずは上陸。灯台見学後、突然、路地から絶世のギリシャ美女が私のほうへ歩み来たり、微笑を浮かべてすれ違う。一瞬の胸の高鳴り! 寒いのに和子のテンション高まるばかり。

 

ギリシャの大地は、私の目の前に黙示録のように開かれる。大地がそんなにも多くのものを包含していたとは、私はついぞ知らなかった。私はその上を、目隠しされたまま、よろめき、ためらいながら歩いていたのだった。

ヘンリー・ミラー『マルシーの巨像』

 

 

・続いて、エギナ島上陸。アファイァ神殿、現役の教会を見学。イドラ島は波が高くて入れずとのことで取りやめ。とはいえ、瀬戸内海の高波程度。船内で、絵葉書を8枚ほど書く。記念写真屋の写真4枚購入。

・平成2年のときのクルージングの<ヘルメス号>の船影探すも、港にもエーゲ海にも見当たらず、やむを得ず、前回オリーブ油で絡めたタコをご馳走になった毛皮屋の黒木さんへの私の本(『情緒の力業』)は添乗員の小野さんに託して港の事務所経由で渡してもらうことにした。

・夕食に、ツアー仲間は日本食へ出かけたが、我々は杉田夫妻と別行動。最初<MEMORIES>に行ってみると予約がないと駄目とのことで、戻ってプラカ地区のレストランに入る。

・和子のはしゃぎは最高潮に達した。ギリシャ人のウェイターを手招きで呼んで、「あれ! あれ! 」と、隣の席の日本人の若いカップルが食べていた土鍋状の器に入っているものを注文、来てみればスパゲッティであった。4人の会話はたわいもないことで大いに弾み、10品ほど注文してたらふく食べ、赤の地ワインがまずいということで白に切り替え大いに飲む。

・支払いは一人当たり4、5千円だったと思う。翌日、杉田夫人から聞いたところでは、手書きのレシートを計算すると、計算落ちが3品ほどあったとのこと。ズボラなギリシャ! おおざっぱな大人。

・エーゲ海は、ついにこの度我々の前にその真の姿を見せず、現地で購入したギリシャ案内の本にある言葉、「星のまたたく夜の、ワイン色のエーゲ海」はまたの機会に残されてしまった。

 

6. FOR JAPAN

・早朝の薄暗い中、夜逃げをするようにホテルを出てアテネ空港へ行き、ロンドンのガトウィック空港めがけて飛び立つ。ホットドッグのようなものをほおばる街角の労働者の一団。

・バスで、ガトウィック空港からヒースロー空港へ移動(イギリスの風景は人の手が加わっているが、ギリシャのそれは剥き出しのまま)、ヴァージンで帰国。

・成田に10月21日(火曜日)朝9時15分着。通関手続き後、解散。横須賀線で大船へ、タクシーで自宅へ。

・早速土産を拡げる・・・・・・・テーブルいっぱいの土産、でもこれはあの人、あれはこの人と振り分けていくとぜんぜん足りなくなるのは今回も同じだった。

 

7. 童女のようにはしゃいだギリシャ旅行

・56才にして何かが一段落したということか、子供たちも、生活も、事務所勤めも、年金の研究も、著作も・・・・・・・、そして我々二人の人生そのものも。

・和子がこんなにはしゃいだのは、結婚以来始めてみることだった。そもそも結婚の直前から30年間ほど次々と襲ってくる生活の大波小波に翻弄されて息継ぐ暇もないままだったのだから。そお、確かに、結婚前のほんの一時、見たような和子、童女のようなその振る舞いを、はしゃぎようを!

・最後に一言、いつの日か機会があれば、ナフプリオンの安宿で、1ヶ月ほど何もしないで風に吹かれたままギリシャ人にまぎれて暮らしてみたいものである。

 

 

 結局、ギリシャは、変わった経験、新しい体験にあふれている世界で、自ら探検し、もぐり込み、吸収し、そして自分自身をとけ込ませることを恐れない、好奇心の強い旅行者のための国なのだ。セロファンできれいに包まれた人生を望む人々にとっては、無意味な国である。

K.GOUVOUSSIS社刊行 (日本語版)『ギリシャ』

 

 

 

 

 

  

 

高野(たかの) 義(よし)博(ひろ) 

  年金カウンセラー(商標登録中)

 OPM 研究会 会長

 年金実務経験は、会社員時代に労災保険の障害年金請求100件ほど、厚生年金の請求1,000件ほど。それに、厚生年金基金の年金請求・年金裁定を1,000件ほど。

ライフプランセミナー講師として、10年ほど1000組のご夫婦に年金説明。

それに、年金相談員3年の年金相談10,000件ほどになります。

年数的には、28年ほど年金実務経験をしました。

 

昭和16年(1941)千葉市に生まれる。

昭和37年(1962)工学院大学高等学校第2部電気科卒業

昭和42年(1967)東洋大学文学部哲学科卒業

昭和44年(1969)株式会社ABC人事部入社・社会保険担当

昭和50年(1975)ABC厚生年金基金出向(健康保険組合兼務)

           当初10年ほど設立間もない事務所体制の構築作業従事。

昭和62年(1987)「年金受給者の集い」の企画・運営をはじめる。

平成 元年(1989)厚生年金基金業務の機械化(Ⅱ型~ⅠA型)達成。

           代行型基金を横滑り加算型に移行。

平成 2年(1990)厚生年金基金連合会主催のヨーロッパ企業年金制度調査に参加(UK・オランダ・スイス・西ドイツ・ベルギー・

           フランス・ギリシャ)

平成 3年(1991)ライフプランセミナー定期開催始める。講師を務める。

平成 4年(1992)退職金10%移行の第2加算年金導入に従事。

平成 6年(1994)「現代投資理論研究会」(故青山護氏主催)に参加。

平成 7年(1995)私的に哲学書『情緒の力業』出版。

平成 9年(1997)企業年金研究所「年金経営問題研究会」(講師山崎元氏)に参加。
           妻とギリシャ旅行。

平成10年(1998)厚生年金基金連合会より「受託者責任研究会」ワーキンググループ委員受嘱。

平成11年(1999)私的に「米国401(k)プラン視察ツァー」に参加(NY・ボストン・サンフランシスコ・サンノゼ )

平成12年(2000)私的に経済書「人様のお金」(A4×560枚)脱稿(CD化)

平成13年(2001)ABC厚生年金基金定年退職(基金業務25年従事)

             社会保険事務所の年金相談員業務に従事。OPM研究会設立。

平成15年(2003)個人ホームページ開設。

 

 

 

  

 


 

*お読みいただけましたでしょうか。楽しく、お役に立てましたでしょうか。

 ご感想をいただけましたら幸いです。

 

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