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401(k) inquiry フォト付401(k)の百聞は一見に如かず-5

2010年02月14日 | 確定拠出年金
⑤幾つかのトピックス
シリコンバレーでは、スタンフォード大学校内の広大な敷地の中の生協に立ち寄りましたが、「スタンフォード・ブックストア」の金融関係の棚で驚愕! その書籍数の多いこと、アメリカの奥の深さ・ふところの広大さを思い知らされました。2冊購入し、その一冊が “THE 401(k) MILLIONAIRE”。




 校庭を歩きながら主催者とは、

「30歳若かったら、スタンフォード大学に入って勉強し直したいですねェ」
「高野さん、それよりも経済学の本書いて、教授で来ればいいじゃない」
「とんでもない! でも、経済学の本ねェ? ・・・・・・・経済学ねェ!」

と、冗談とも本気ともつかない言葉を交わすほど我々のテンションは高まりました。更に、米国最後の日の団長主催の晩餐会では、DC組の若い人達に大企業を去って起業しようと余計なことまで申し上げてしまいました。
そう言えば、もう一つエピソードを思いだしました。それはボストン最後の晩、ギリシャ人の経営するロブスターのレストランを出て、店の前でタクシーを待っているとき、我々の
会話を聞き付け振り向いて日本語で話しかけてきた細身の長身の黒人青年がいました。彼によると、明日ハーバードの卒業式があり、今晩は両親を招いて会食をした由、卒業式が済んだら日本に行って会社を起こすのだそうです。皆、唖然として二の句が継げないうちに、三人はタクシーに身を屈めて乗り込んでいってしまいました。日本の大学ではサラリーマンをせっせと作りだしていますが、アメリカでは経営者なのです!
更にもう一つ、このことに関係することを帰国便のユナイテッドの機内誌に発見。「シリコンバレーに見る日本産業復活の鍵」という藤井清孝氏の一文、

<90年代前半まで、コンピューターに代表されるエレクトロニクス企業は、
開発、設計、製造、販売をすべて抱え込む垂直統合型の経営が主流でした。その
後、製造を外部に委託するいわゆるファブレス企業、製造のみを行うファンドリ
ー、マイクロソフトのようにソフトウェアに特化する企業、デルのように販売方
法で差別化する企業が出現し、世界的規模で水平分業が進展し、新しい業界、企
業が生まれてきました。>

<イノベーションはシリコンバレーの鍵です。これを可能にしているのはアメ
リカン・ドリーム(富)の実現欲、産学協同、ベンチャー・キャピタル等ですが、
私は何よりも徹底した実力主義と人材の多様性にあると感じています。>

<シリコンバレーではほとんどの従業員が、ストック・オプションを持っています
がゆえに自社の株価に敏感です。また、多くの企業が銀行借入ではなく、株式資
本によって資金調達をしているので、経営者としては株価対策が大変重要な課題
です。>

<またトップはすでにかなり富裕な人が多いゆえに、サラリーマンとは違った
大胆な決断ができる環境にあると言えるでしょう。
エクイティー・メンタリティーとは直訳すると、「株主のメンタリティー」で
すが、「会社のオーナー(所有者)としての振る舞い」と言ったほうが良いかと思
います。>

<即ち、株式資本が主体か、銀行融資が主体かによって企業の経営スタイルに
大きな違いが出てきます。前者では将来へのメツセージ、良いリスクテイキング、
経営陣のビジョン、そして業績が大事なのに対し、日本企業の多い後者では、積
極的にリスクをとりイノベーションを推進していくことは困難になりがちです。>


要するに、アメリカでは<アメリカン・スピリッツ>の成就に向けて、社会的インフラを<エフィシェント>に組成するためにあらゆる場面でインセンティブが仕掛けられている(たとえば、米国で買ったタバコの銘柄名でもあるアメリカン・スピリッツというタバコは4ドル25セント、凡そ510円、日本人からすればべらぼうな値段です。これも禁煙促進策の仕掛け?)ということでしょう。




少々理屈っぽくなりますが、ここに言う<アメリカン・スピリッツ>とは、アテネのソクラテスから始まる西欧の個性の自由な発展という思考様式の伝統のうえに華開きました、キリスト教の神の意志の展開である人間一人一人の<自己の十全な開花>を義とする「自由」の概念のアメリカ版でしょう。社会を形成する国民一人一人の個人能力の最大限の発揮、即ちそこに、神の意志があるという宗教的コンセンサスが国民一般の慣習として確立しているのでしょう。
というのも、今を去ること140年前の1859年、イギリスでは、中世から連綿と続く血塗れの専制的な宗教の軛を脱して、ジョン・スチュアート・ミルが『自由論』を論述している英国古典派経済学(1776年A.スミス『諸国民の富』、1816年D.リカード『経済的にして安全な通貨のための諸提案』、1848年J.S.ミル『経済学原理』等)の伝統が、アメリカ社会の背景に連綿としてあるからです。
さてまた、このような文脈のうえで、日本の多くのゼネラリスト、ならびにサラリーマン経営者は次のようなミルの文章をどう読むのでしょうか。

  自分の生活の計画を[自ら選ばず]、世間または自分の属する世間の一部に選ん
でもらう者は、猿のような模倣の能力以外にはいかなる能力も必要としない。自分
の計画を自ら選択する者こそ、彼のすべての能力を活用するのである。

    ジョン・スチュアート・ミル『自由論』
                第3章幸福の諸要素の一つとしての個性について


ことによると、ミルは140年後の日本の状況を予言していたのか、そんなことはありませんでしょう。ただ単に当時、教会の専制(ツアーリズム)のもとに窒息していたロンドンっ子に向けての発言でしたのですから。それは別にしても、現代の日本の文脈の上でこれを読むと示唆するところ大ではないでしょうか。
日本の戦後社会は、「猿のような模倣の能力」しか産み出してこなかったのではないのか?「彼のすべての能力」を活用するどころか、統制・計画経済下、撲殺してきたのではないのか? 敗戦の痛手は易きに流れ、リスクに挑む心を失ってしまったのではないのか? 自分なりのスタイルを確立することを、反社会的行為と考え違いしてきたのではないのか? 思考停止ばかりで、時代時代で真っ当に哲学をしてきたのでしょうか?
我々日本人は何処かでいつの間にかボタンの掛け違いを仕出かしてしまったのでしょう。
生き方の点で、<一億総猿化>の状況をもたらしてしまったのです。それが窒息状態の閉塞
感をもたらし、人々から行動を奪い人々を金縛りにして、厭世的マイナス思考を処世訓、生きざまの智恵ですと考え違いさせてしまい、人物の矮小化を実現してしまったのでしょう。
ばかなことを言わせません、突飛なことが許されません、夢を喋べらさない、大言壮語を忌み嫌う等々、ちまちましました神経のか細い国民にしてしまったのです。全て規制に取りおさえられてしまっているのです。
ともかく、非常に悩ましい一文ではあります。今こそ、現代日本独特の或る種のツアーリズム(何と命名したらよいのか)を打破していくために<哲学する>ことが求められているのでしょう。とっかかりは、ジョン・スチュアート・ミル『自由論』あたりからか。或いはアテネのソクラテスをたずねるか、弥陀の本願を考究するか・・・・・・。



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