daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

切れ字を信じない人さえ

2014年09月07日 | (転載・記事)  総 合

* 枯枝にからすのとまりたるや秋の暮  (図1)

>一枚目の絵の作者は不明だが、句と文は芭蕉の直筆。

長谷川櫂さん>
この形では「枯枝に烏がとまっているなあ、秋の暮だなあ」というだけのことであり、夕闇に包まれた烏に気づくという芭蕉の心の動きも伝わってこなければ、烏の静かさも秋の暮の静けさも感じられない。これなら烏は何羽いても構わないだろう。
何羽もの烏がカアカアと鳴き騒ぐ声も聞こえる。

以上、図1の句に対する長谷川櫂氏の気づきを引用してみました。
芭蕉が見せたいと思わない物は見えず・聞こえずで一向に構わない。
ともあれ今、長谷川櫂氏は図1に描かれたように感じたと証言した。

絵心のない櫂氏にさえも、芭蕉の句から現場の景がクッキリ見えた。
俳句十七文字の宇宙に知らず遊ぶ櫂氏だったけど、魂は現場に直行。
烏の鳴き騒ぐ声までもしっかりと聞いて帰ってきたと証言している。

枯枝と枯朶の違いを、大したモノと感じなかった長谷川櫂氏なのに、
それでも切れ字の宇宙に「知らず」遊んで、烏の鳴声を聞いたと言う。
三つの句の中のダメ句と櫂氏が思う最初の句でさえ、そうなのです。

古語辞典には概ね次のようにあります。
「たり」は動作の継続と結果の存続…即ち「…ている。」「…てある。」
「たり」は完了だから、「…た。」「…てしまった。」で好いでしょうね。
また「たる」は連体形だから「とまりたる」は「とまっている△△」です。

たしかに、大した意味のことを述べている訳ではないかも知れない。
「枯枝に烏がとまっているなあ、秋の暮だなあ」としか感じない櫂氏。
「切れ字」の宇宙を知らずに遊んでいるだけでも、櫂氏程度になれる!

すなわち、図1の句に「素直」に遊べば、夢は膨らむと言えそうです。
頭で理解して判ったつもりでも、じっさいには分かるものではない。
頭でシュミレーションする運転練習も有効だが、実地はもっと大事。

長谷川櫂氏の姿勢にも俳句の奥を改めて感じて、私は感謝している。


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