うだうだ帳

心がヒリヒリするときにイタイ文章を書いています。
実生活は“うだうだ”していないので、そっとしておいてやってください。

依存

2011年06月20日 01時14分19秒 | Weblog
みんないろんなものに依存して生きている。アルコールとかパチンコとか、そういう問題のありそうなものでなくても、趣味とかこだわりとかいろいろな言葉で言い換えて。何にも依存しないでいられる人生というのもそうそうないと思う。たとえば私はこうやって文章を書くことに依存している。ここを書くのを禁じられたら禁断症状が出そうだ。

私が文章を書くのはまだ意味があると思う。文章を書くことで考えを整理して感情を昇華して、少しずつでも前を向いていける。文章は私の自己実現の手段の一つだし、仕事でも書くから、文章を書くという習慣が私に経済的にもささやかな潤いを与えているといえる。

でも何も生み出さない依存もある。生み出さないどころかマイナスになる依存もある。たとえば、なんだかんだ言いながら私は実家の家族に依存していた。辛い、しんどいと言いながら問題のある家で健気にやっている自分というものに酔っていた。帰宅したとたん蕁麻疹が出たり、目眩が起きたり、身体は関わるのを全力で拒否していたのに、困った人たちを構うのに必要以上にどっぷり浸かっていった。

理解し合える接点がないから消耗するだけだと、10代のころにもう分かっていたのに。

現実世界の私はとても明るくて強いのだ。実家ではしっかり者でタフな自信家だと思われている。そしてあの人たちは、私になら何を言っても動じないから平気と思っているのだ。

家族のつながりを拒否するわけでもないし、お高く止まっているわけでもない。同類でないあの人たち、心を開いてもとうてい理解しあえないあの人たちの前で、私は自分の弱い面を見せたくないのだ。死ぬ直前まで弱っていることを隠すハムスターとかウサギみたいに、いや死ぬときでさえも。

依存ということで言えば、実家のあの人たちは家族というものに依存している。そしてその依存は、10代の私にとって、何も生み出さなかったりむしろマイナスになったりするものに見えた。そして今でも相変わらずそのままの関係をずるずると続けている。

いつでも明るく前向きに生きていかなければならないなんて思っていないし、依存しながらつながることでダメダメになっていく関係というのも有りだと思う。当人たちが納得しているなら何も言うことはない。でもそれに、私が巻き込まれなければいけない理由なんか、まったくないのだ。

これからは、娘としてきょうだいとして淡々と付き合って、どっぷりと填り込まないようにしよう。いつもそう意識していよう。

ダメになっていく依存に参加したくない。負の感情に巻き込まれたくない。
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何度も何度も読んだ

2011年06月13日 02時23分23秒 | Weblog
最近テキスト庵にいてよかった、この文章を読めてよかった、と思ったもの。
ネットの海の中に消えてしまわないように貼り付けておく。

かづらきさんの「ひとことぬし」から。

「女はただ心から、ともかくもなるべきものなり」2011/06/01 (Wed)

■後白河院に寵愛された建春門院は、朝夕折に触れて女房達に次のようなことを言い聞かせていたという。これ、わたしの座右の銘。
「女はただ心から、ともかくもなるべきものなり。親の思ひ掟て、人のもてなすにもよらじ。我が心をつつしみて、身を思ひくたさねば、おのづから身に過ぐる幸ひもあるものぞ」
(女性は、心がけ次第でどうにでもなるものです。親の配慮や周囲の世話によるのではありません。自分の心を律して、どうせ私なんかと自分を卑下しないでいれば、自然と身に過ぎた幸運にも巡り逢うものですよ)
なんという格好良さ!惚れるね。


チキウさんの「東京キャパシタ」から。

2011-06-12 わたしの作者

もし、自分自身を変えたいのなら、理想とするネットワークにみずからを潜り込ませてください。あなたの自己は行き交う交信を通して、勝手に肉づけがなされ、足りない部分は補われ、不要な部分は削られる。少なくともあやふやな自己を探すよりも、簡単で確実です。人が環境の生き物であるという理由も、地位が人をつくるという理由も、この塑像論で説明ができそうです。しかし、僕は心理学の専門家ではありませんし、ただ思いつきで書いているので、あまり信用はしないでください。それに人の心理はもっともっと多様で複雑なのだと思います。これは人を人との関係性のみに着目した考えです。けれども、ひとつだけはっきりしているのは、自己とは私たちが思っているほどには確固たるものではないという事実です。たぶん、粘土よりもずっと。
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同類と、そうでない人と

2011年06月12日 02時26分52秒 | Weblog
10代のころ、この人は自分と同類かどうか、ということをよく考えた。好きな本や音楽の趣味が一緒とか、考え方が似ているとか、そういう風なことが判定基準のような気もしたけど、正確にはそうでもなかった。理解してもらえるという安心感が持てるとでもいうか、波長が合うとでもいうか。よくわからないけど、同類かどうかは、会った瞬間に直観でわかった。そしてそれは外れることがほとんどないのだ。

自分の周りにはできるだけ同類の人がいてほしかった。中学校までは同類と思えるのは幼馴染みの男の子一人しかいなかった。高校に進学すると一気に増えて、同級生や先輩の中に同類を数人発見した。大学にも同類の同級生が何人かいた。そして大学院には同類がわりといた。その後自分の研究分野を中心に交友関係が広がっていくと、老若男女を問わず同類がたくさんいるのだった。私の属するいくつかのグループは、同類でないと判定される人の方が少ないくらいになった。

同類の人たちと一緒にいるのは楽しい。刺激的で、でも安心できて、充実している。その人の人生と私の人生に接点があってよかった、と神様みたいなものに感謝したいくらいである。できるだけ同類の人と過ごしたい。自分の仕事や生活、大げさに言えば人生のベースキャンプを同類の人たちとのつながりにしたい。

私が悲しいのは、自分の親やきょうだいが同類でないことだ。10代のころはそれを受け入れて強く生きていたのだけど、どういうわけか20代になると弱気になってきた。私はよく自分の葬式に現れた親やきょうだいが、まったく誤解した私の人間像を語るのを想像して悲しくなった。理解してもらいたくてたくさんの時間と労力を使った。

このあいだ、まったく突然、10代の自分が同類ということについて考えていたときの感覚がまざまざと蘇った。同類でない親やきょうだいの中で、特に反発するでもなく、理解されたいと悩むでもなく、ただ毅然として暮らしていたあの頃の感覚が。そう、まさにその頃にタイムスリップしたように再現された。

あの頃みたいに強くなろう、と思う。すっかり大人になった今、同類の人たちは自分の周りにいっぱいいるのだ。できるだけ同類でない人たちの間で心を磨り減らすようなことはしたくない。親やきょうだいが私を理解してくれないのはとっくの昔にわかっていたのに、なんで今さら執着するのだ。空しい努力も本当は好きでやっていて、自分自身に酔っていたのかも知れないな。

特に反発するでもなく、理解されたいと悩むでもなく、ただ毅然として。うん、同類でない人には、ただ毅然として対処しよう。
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嫉妬心とファミリー教

2011年06月08日 01時37分08秒 | Weblog
ぼーっと生きてきた私が初めて人に嫉妬したのは小学校6年生の時だった。嫉妬という言葉は知っていたけれど、それまでは自分と他人を比べるということもなく、そういう感情を体験したことがなかったのである。ちょっとしたやきもちを焼くことはあっても、どうしようもないあの苦しい気持ちを味わったことはなかったのだ。

この感情は私の精神の平和をひどく乱した。私は自分の中からそんなどす黒い感情が沸き起こってくるのにとまどい、自分自身が許せなかった。そのころから私は自分の心の世界はうつくしいもので満たしておきたいと思っていたので(テレビを見ないのもそのためだ。テレビは人間の嫉妬心を煽る装置だと思う)、嫉妬の気持ちは向上心などのプラスの方向に昇華できるよう心がけた。どうしても持て余すときは、できるだけそのことを考えないようにした。

好奇心の強い私の性格は、嫉妬心をあまり持たないのに役立っていると思う。美人に会えば美人でいることってどんななんだろうという興味が嫉妬心に勝る。お金持ちの家に招かれると自分の家にも取り入れられそうなところを教わろうとする(たとえば、テーブルの上に何も置かないルールとか)。

でも世の中には嫉妬という感情の虜になる人たちがいて、お金持ちの奥さんが家事のtipsを語るのを、自慢しているのだとだけ受け取って気分を害するのだ。それだけではなくその奥さんに攻撃的になったりする。自分も仕事をがんばってお金を稼ごうと思うのでもなく、相手の悪いところを探して陰口を言うのである。

嫉妬心というのは恐ろしい。嫉妬の対象を攻撃するだけでは収まらず、相手に自分を嫉妬させなければ気が済まないのだ。でも自分 が 嫉妬するような相手が、自分 の 何を嫉妬するというのだろう? 社会的地位、収入、家の広さ、住所の高級度、学歴、交友関係、バッグのブランド、自動車…何もかも負けていたとしたら。

数字で表せないもの、明確な基準がないものなら、相手よりこれは優れていると思いこめる。たとえば夫婦間の愛情、家族の絆。嫉妬心という強烈な感情がベースになっているので、この落とし所に救いを見つけた人はまるで新興宗教にはまったかのように愛とか絆とか言い出す。こういう人、ものすごく多いと思う。ワタクシはこれをファミリー教信者と呼んでおります(テレビはファミリー教に洗脳する設備だと思う)。ファミリー教信者の考え方はたとえばこうだ。

”私は通販のしょぼい洋服を着てオンボロ軽自動車に乗って子供はサエない学校に行ってるけど、夫とは愛し愛されて家族も強い絆で結びついているの。
あの人はお金持ちかもしれないけど旦那さんは留守がちで寂しそうだわ。夫婦仲は冷めきっているんじゃないかしら。お子さんもいい大学に行ってるけど勉強しか知らないガリ勉君よね。うちの子の方が人間味があっていいわ。ああ、私の方がずっと幸福だわ!”

勝手に幸せになってくれたらいいんですけど、私が辟易するのは布教活動です。ファミリー教の信者は夫婦仲が悪そうだったり子供が普通っぽくなかったりする人間を見つけると、嬉々として布教活動をするんです。奴らは私のことを何も知らないくせに、旦那さんと仲良くしろとかいろいろ説教するのです。

ほっとけや!!


まとめ
1.ひるあんどんは小六までぼーっと過ごしてきた。
2.貧乏人のテーブルにはモノがごちゃごちゃ載っている。
3.テレビを見ているとファミリー教に洗脳される。
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きょうだいなのに

2011年06月06日 00時42分11秒 | Weblog
睡眠時間3時間で親孝行ミッションしたら、居合わせたきょうだいからメールが来た。

( ゜д゜)

母親とそっくりの、言ったらすっきりするから言ってやるという書き方。私が傷つきそうなことを一生懸命考えた内容。勝手にそっちで僻んで妬んでるのにアンタより幸せだからねアピール。

今までは誠意を尽くして自分が悪いところを探して謝って関係修復に努めたけど、もう何年そういうことを繰り返しているのだろう。そうやって私が得るものは何一つなかった。ただただ消耗しただけだった。

見たくないからすぐ削除した。どのみち返事を求める内容ではないし。返事書かないのかと言ってきたらそれも削除しよう。

きょうだいだからわかりあわなければならないというわけでもない。きょうだいなのにわかりあえないのは寂しいけどそれを事実として受け入れよう。もう無駄に心をすり減らしたくない。

私忙しいし。
寝る!!
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この自己評価の低さ

2011年06月01日 01時00分29秒 | Weblog
私の大変よくできた息子(エア息子疑惑あり)が、ここ数年、私に対して自己評価が低すぎるとイラついている。そういうのは謙虚とは違う、というのだ。彼のイライラの原因がいま一つわからなかったのだが、最近、卑下慢にもならないこの行き過ぎた自己評価の低さが、私の人生の迷走の原因(のひとつ)なのだという気が、突然した。

話せば長く、そして暗くなるので端折るけど、物心ついた頃から、少しでも気を許すと自己評価が最低ラインになって、どうせ私なんてと消えてしまいたくなるのが私の精神状態の基本なのだが、これを意識して変えようとこの齢になって決意したのだった。それはなかなか難しいことだったけど、かつては「どうせ私なんか」って言わないようにしていたことを突然思い出してからは、ちょこっとずつ修正できるようになって来た。

そうするとですねえ、いやあ、ふつうの自己評価だとなかなか快適ですね! 先日ものすごく腹立たしいことがあったのだが、以前なら反射的に自分が悪いからだと思ってずっとそれに囚われそうなところ、絶賛スルー中でございます。私は100パーセント悪くないとは言わないけど、向こうも悪いし失礼だと冷静に判断できる。自己嫌悪の中でフリーズしないでこれからどうすればいいのかも考えられる。この調子で行きたいものだ。


もっともっと自分を好きになりたい。--少し前、夏のように暑い日、郵便局とスーパーに行くだけだけど白い着物を着てみた。お気に入りの白い日傘を差してみると、自己評価アップキャンペーン実施中の身としては、しょぼいオバハンも気分は堀辰雄の小説に出てくるヒロインである。レジ袋のリンゴも重いの。だって結核に罹っていたりするのですもの。…しかしスーパーで見ず知らずの奥様にいきなり「すてきよお」と声をかけられて、うろたえて、たちまち挙動不審になってしまった。


次はにっこり微笑んで優雅にありがとうと言えるようになろう。
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