みんないろんなものに依存して生きている。アルコールとかパチンコとか、そういう問題のありそうなものでなくても、趣味とかこだわりとかいろいろな言葉で言い換えて。何にも依存しないでいられる人生というのもそうそうないと思う。たとえば私はこうやって文章を書くことに依存している。ここを書くのを禁じられたら禁断症状が出そうだ。
私が文章を書くのはまだ意味があると思う。文章を書くことで考えを整理して感情を昇華して、少しずつでも前を向いていける。文章は私の自己実現の手段の一つだし、仕事でも書くから、文章を書くという習慣が私に経済的にもささやかな潤いを与えているといえる。
でも何も生み出さない依存もある。生み出さないどころかマイナスになる依存もある。たとえば、なんだかんだ言いながら私は実家の家族に依存していた。辛い、しんどいと言いながら問題のある家で健気にやっている自分というものに酔っていた。帰宅したとたん蕁麻疹が出たり、目眩が起きたり、身体は関わるのを全力で拒否していたのに、困った人たちを構うのに必要以上にどっぷり浸かっていった。
理解し合える接点がないから消耗するだけだと、10代のころにもう分かっていたのに。
現実世界の私はとても明るくて強いのだ。実家ではしっかり者でタフな自信家だと思われている。そしてあの人たちは、私になら何を言っても動じないから平気と思っているのだ。
家族のつながりを拒否するわけでもないし、お高く止まっているわけでもない。同類でないあの人たち、心を開いてもとうてい理解しあえないあの人たちの前で、私は自分の弱い面を見せたくないのだ。死ぬ直前まで弱っていることを隠すハムスターとかウサギみたいに、いや死ぬときでさえも。
依存ということで言えば、実家のあの人たちは家族というものに依存している。そしてその依存は、10代の私にとって、何も生み出さなかったりむしろマイナスになったりするものに見えた。そして今でも相変わらずそのままの関係をずるずると続けている。
いつでも明るく前向きに生きていかなければならないなんて思っていないし、依存しながらつながることでダメダメになっていく関係というのも有りだと思う。当人たちが納得しているなら何も言うことはない。でもそれに、私が巻き込まれなければいけない理由なんか、まったくないのだ。
これからは、娘としてきょうだいとして淡々と付き合って、どっぷりと填り込まないようにしよう。いつもそう意識していよう。
ダメになっていく依存に参加したくない。負の感情に巻き込まれたくない。
私が文章を書くのはまだ意味があると思う。文章を書くことで考えを整理して感情を昇華して、少しずつでも前を向いていける。文章は私の自己実現の手段の一つだし、仕事でも書くから、文章を書くという習慣が私に経済的にもささやかな潤いを与えているといえる。
でも何も生み出さない依存もある。生み出さないどころかマイナスになる依存もある。たとえば、なんだかんだ言いながら私は実家の家族に依存していた。辛い、しんどいと言いながら問題のある家で健気にやっている自分というものに酔っていた。帰宅したとたん蕁麻疹が出たり、目眩が起きたり、身体は関わるのを全力で拒否していたのに、困った人たちを構うのに必要以上にどっぷり浸かっていった。
理解し合える接点がないから消耗するだけだと、10代のころにもう分かっていたのに。
現実世界の私はとても明るくて強いのだ。実家ではしっかり者でタフな自信家だと思われている。そしてあの人たちは、私になら何を言っても動じないから平気と思っているのだ。
家族のつながりを拒否するわけでもないし、お高く止まっているわけでもない。同類でないあの人たち、心を開いてもとうてい理解しあえないあの人たちの前で、私は自分の弱い面を見せたくないのだ。死ぬ直前まで弱っていることを隠すハムスターとかウサギみたいに、いや死ぬときでさえも。
依存ということで言えば、実家のあの人たちは家族というものに依存している。そしてその依存は、10代の私にとって、何も生み出さなかったりむしろマイナスになったりするものに見えた。そして今でも相変わらずそのままの関係をずるずると続けている。
いつでも明るく前向きに生きていかなければならないなんて思っていないし、依存しながらつながることでダメダメになっていく関係というのも有りだと思う。当人たちが納得しているなら何も言うことはない。でもそれに、私が巻き込まれなければいけない理由なんか、まったくないのだ。
これからは、娘としてきょうだいとして淡々と付き合って、どっぷりと填り込まないようにしよう。いつもそう意識していよう。
ダメになっていく依存に参加したくない。負の感情に巻き込まれたくない。