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坂本龍馬 幕末歴史検定ノート 2

2010-02-21 17:44:12 | HKT48 AKB48
坂本龍馬 幕末歴史検定ノート 2

(父母、兄)
・父 八平直足。郷士坂本家の3代目当主。初名は常八郎。
山本覚右衛門の次男として生まれ、二代目坂本八蔵直澄の養子となった。
妻 幸との間に権平、千鶴、栄、乙女、龍馬の二男三女をもうけている
安政2年(1855)12月4日没(59)龍馬21歳
・母 幸 弘化3年(1846)6月10日(龍馬12歳)に亡くなる
その後、後妻に伊與を迎えた
・兄 権平(龍馬とは21ほど年が離れている)
・坂本家の祖は坂本太郎五郎
・坂本家の家紋は、「違い升に桔梗」
・中岡慎太郎の家紋は、「綿の花」
(乙女)
・龍馬と3歳違いの姉
正しい名前は「とめ(留)」、「とめ」に敬称の「お」をつけると「おとめ」となり漢字に置き換えたのが「乙女」
身長5尺8寸(約176cm)体重30貫(約113kg)あったという
「坂本のお仁王様」「天下第一の大荒くれ先生」
(春猪)
・龍馬の姪 権平と千野の長女。龍馬の8歳年下
「金平糖の鋳型」「きくめ(菊目)石の御君」「ふぐの春猪様」
龍馬は舶来のおしろい、肥前の鐔、かんざしを贈っている
香水は贈っていない
・のちに明治14年までに三好美登と改名した
・丹中山の墓地に春猪の墓はない

(高松太郎(坂本直))
・高松順三と千鶴の長男(龍馬の甥)
・長幕戦争では、ユニオン号に乗り込み、馬関海峡戦に参加

(誕生)
・天保6年(1835)11月15日生まれ(西暦では1836年1月3日)
お龍の談話記事が「千里駒後日譚」のタイトルで「土陽新聞」に連載され(明治32年)
そこで語ったことによる
・亡くなったのは西暦では1867年12月10日(西暦では誕生日の24日前に亡くなった)
・父八平直足は39歳、母幸は38歳
・天保6年は384日あった
・各年の11月15日を西暦に換算すると、1年に誕生日が2度ある年が6回ある
 その理由は、和洋暦の最大差が56日あったから
・本家の才谷屋は豪商だった。500坪の広大な屋敷
 本家は「上の才谷屋」
 俗謡に「浅井金持、川崎地持、上の才谷屋道具持、下の才谷屋娘持」とうたわれた
・土佐藩では山内一豊の家臣を「上士」、長宗我部氏の遺臣を「下士」として差別
・上士と下士の中間身分が「白札」、武市半平太は白札の身分だった
・下士の最上位が郷士、坂本家は郷士
・誕生地は現高知市上町1丁目で、上街自治会が建立した誕生の記念碑を揮毫したのは吉田茂である
・武市半平太、吉村寅太郎、中岡慎太郎、坂本龍馬を土佐四天王と呼ぶ
・龍馬の日記は「坂本龍馬手帳摘要」、日記というよりメモのようなもの
・中岡慎太郎の日記は「海西雑記」
・佐々木高行の日記は「保古飛呂比」
・龍馬は和歌をよんだが漢詩も俳句も残していない
 「心からのどけくもあるか野べはなを雪げながらの春風ぞふく」が伊藤九三(助大夫)家での歌会で第二席になった


(龍馬伝など)
・「坂本龍馬事歴」対岳文庫に収蔵 明治16年 龍馬の最古の伝記と思われる
 対岳文庫は岩倉具視の資料を収蔵しているところ、対岳は岩倉の雅号
・「汗血千里駒」坂崎紫瀾 明治16年発行 土陽新聞に連載
・「阪本龍馬」弘松宣枝 明治29年発行
・「千里駒後日譚」、「千里の駒後日譚拾遺」川田瑞穂 明治32年、「土陽新聞」
・「反魂香」安岡秀峰 明治32年、雑誌「文庫」に連載
・「國母陛下の御瑞夢」寺田伊助 編輯 明治37年
 寺田伊助は寺田屋お登勢の息子
・「維新土佐勤王史」瑞山会編 大正元年発行
・「坂本龍馬」千頭清臣 大正3年発行 資料に基づいた初の龍馬の伝記
・「坂本龍馬関係文書」岩崎鏡川 大正15年発行
 岩崎の調査結果は「坂本と中岡の死」
 第2巻には「坂本龍馬手帳摘要」が収められている
 田中光顕「坂本中岡両雄の凶変」、谷干城「坂本中岡暗殺事件」も収蔵
・「雋傑坂本龍馬」坂本・中岡両先生銅像建設会編 大正15年発行
・「海援隊始末記」平尾道雄 昭和16年発行

(龍馬の変名)
・初出の早い順に
 西郷伊三郎(慶応元年)→才谷梅太郎(慶応2年)→高坂龍次郎(慶応3年)→大浜濤次郎(慶応3年)
また、「取巻抜六」

(龍馬の写真)
・5点は上野彦馬の撮影(上野彦馬撮影局にて)とみられているが、これらと異なる、菊花をバックに縁台に座って撮影した写真がある。この写真では、足部は足袋に草履となっている
・ブーツをはいている有名な写真は、約8秒から40秒からだを動かさず撮影された。
 小刀1本のみさしている
・上野彦馬は「舎密局必携」を出版
・写真は当時、ポトガラフィーと呼ばれていたという
・上野彦馬は伊勢国津藩に重用された
・上半身像の写真は、昭憲皇太后(明治天皇の皇后 美子妃)に献上された
・海援隊士の集合写真(龍馬を中心に左右に5人が座っている写真)
 左から、長岡謙吉、溝淵広之丞、龍馬、山本洪堂、千屋寅之助、白峰駿馬である
 陸奥宗光はいない

(楠山塾)
・弘化3年(1846)12歳のとき楠山壮助の塾に通ったが、退塾した(根拠は不明)ため武士としての基礎学問である漢学を修める機会を失った。その後は乙女に読み書きを習った。乙女は漢詩の代わりに和歌を教えた
・弘化3年(1846)6月10日、母 幸が病没。八平は後妻に伊與を迎えた
伊與(北代伊與)は川島家から八平に嫁いだ

(小栗流)
・嘉永元年(1848)14歳のときに築屋敷にある日根野弁治(小栗流8代目)の道場に入門し、小栗流を学ぶ(根拠は不明)
小栗流は元祖を小栗仁右衛門正信とする
和術(柔術)に柳生流剣術、居合術、槍術、薙刀術、棒術、水練、水馬などを総合したもの
・朝比奈半左衛門が土佐へ小栗流を伝えた
嘉永6年(1853)に初伝の「小栗流和兵法事目録」を授けられる(19歳)
安政元年(1854)に中伝の「小栗流和兵法十二箇条并二十五箇条」を授けられる(20歳)
文久元年(1861)に「小栗流和兵法三箇条」を授けられ(27歳)小栗流の免許皆伝となる
「身鞠(身がまりのように変化に応じられる)」「風和(心が平常な状態)」「理気貫通(自然と一体となった状態)」
・上士は無外流(山内家に仕えた御用剣術)を習った
 下士は小野派一刀流や小栗流、土佐英信流居合などを習った
・文久2年創設の藩校文武館の課業にも小栗流は採用されている

(江戸遊学 第1回目)
・嘉永6年(1853)から安政元年(1854)まで
・嘉永6年(1853)3月17日、父八平の訓戒状 修行中心得大意を授かり江戸へ出立
「諸道具」とは刀や鐔などのこと。刀剣類は「表道具」といい、鐔、小柄、目貫など刀剣を飾る外装の全てを「小道具」という
・北辰一刀流千葉定吉道場に通ったとされるが、それを裏付ける史料は不明
この時、千葉定吉(千葉周作の弟)の道場は桶町にはなく、新材木町にあった
安政元年(1854)千葉定吉邸は狩野屋敷にあった
安政2年(1855)江戸の大地震による火災で千葉定吉邸が焼失し、桶町に移ったのであれば「桶町の千葉道場」が成立する
・定吉の長男 重太郎は鳥取藩の剣術師範をしていた。
 定吉は鳥取池田家召抱えだった。

(ペリー来航)
・嘉永6年(1853)6月3日ペリー来航
旗艦サスケハナ(蒸気船)、ミシシッピ(蒸気船)、プリマス、サラトガの4隻
・嘉永7年ペリーが再来したとき土佐藩が鮫洲屋敷内に造った砲台を浜川砲台という
品川の下屋敷(鮫洲別邸)に召集されたという
・嘉永6年(1853)9月、父に手紙(発見されている最古のもの)
・ペリー来航当時の老中は阿部正弘(広島福山藩主)

(佐久間象山)
・嘉永6年(1853)12月に大庭毅平、谷村才八とともに木挽町の佐久間象山(松代藩士)に入門(訂正及門録の第2部)
龍馬の江戸行きの目的は砲術修行にあったと思われる
・佐久間象山の他の門下生には、吉田松陰、勝海舟らがいた
・久坂玄瑞は象山の門下生ではない
・佐久間象山の部屋に「海舟書屋」の額が掛けられていた
・安政2年(1855)11月、徳弘孝蔵門下の土佐仁井田浜での砲術稽古に参加
・徳弘孝蔵は下曽根金三郎から西洋砲術を学んだ。
 董斎と号した画家でもある。土佐南画の二名家のひとり
・佐久間象山は江川坦庵(西洋砲術の草わけとして幕府の西洋砲術師範役となった高島秋帆の弟子)から西洋砲術を学んだ
・象山塾の塾頭は、小林虎三郎
・象山の妻は、勝海舟の妹お順

(河田小龍)
・安政元年(1854)河田小龍(画塾 墨雲洞)に会う(藤陰略話(近藤長次郎の履歴をまとめたもの))
中浜万次郎から取材して「漂巽紀略」を著す
アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助され、その船名にちなんでジョンと呼ばれていた
・小龍の門下生には、近藤長次郎、長岡謙吉、新宮馬之助など

(ペリー再来)
・嘉永7年(1854)1月16日、ペリーが再来(7隻、旗艦ポーハタン号)

(江戸遊学 第2回目)
・安政3年から5年まで
品川の下屋敷での臨時御用で江戸に召集された。剣術修行は江戸行きの第1目的ではなかった
・高知城下の相良屋源之助という商人から餞別を贈られた
・築地の土佐藩邸(中屋敷とも下屋敷とも)に住む。この藩邸の跡地には現在中央区役所が建っている
・土佐藩の上屋敷は鍛冶橋にあった
・安政5年(1858)1月千葉定吉より薙刀の目録「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられる
末尾に千葉周作、定吉、重太郎、佐那女、里幾女、幾久女の連名がある
佐那は「里幾は安政3年(目録の2年前)労咳で死」んだと語っているが
これは、間違いであった。里幾は死んでいなかった
・この目録が発見されたのは、昭和38年だった。目録の書式は正しいものではないが、
 目録そのものの信憑性にも疑問がある。
・安政5年1月以降は玄武館で学ぶ。清河八郎の「玄武館出席大概」に龍馬の名前がある

(北辰一刀流)
・「技(業)は千葉、位は桃井、力は斎藤」と称されるのは松崎浪四郎が江戸の各道場の特徴を評したことによる
・松崎浪四郎は明治18年7月7日、伊藤博文邸で開催された天覧試合で、警視庁随一の使い手といわれた逸見宗助を下し、明治天皇から「日本一である」と感嘆された
・「技(業)は千葉」の千葉は周作の次男、栄次郎のことであろう(周作は他界していた)
・流祖、千葉周作は中西派一刀流の浅利又七郎道場に入門、免許皆伝となり、浅利道場を継ぐが、又七郎と意見が対立し、浅利道場を去り廻国修行の旅に出る
・千葉周作は江戸に帰り、家伝の「北辰夢想流」にちなみ、北辰一刀流の名をかかげる(玄武館)
・北辰とは北極星のこと。千葉氏が崇拝してきた妙見菩薩は北極星の化身とされる。
 「玄武」は北方を守護する神獣(亀)
 四神 青龍(東)朱雀(南)白虎(西)玄武(北)
  千葉氏の家紋は「月星紋」(北極星と月)
・北辰一刀流では免許を「初目録」「中目録伝授」「大目録皆伝」の3段階と簡明にした
 それまでの一刀流では、8段階にも分かれていた
・北辰一刀流の教授法はきわめて理解しやすかった
・北辰一刀流の稽古方法は抜刀術(居合)、組太刀(113本)、剣道の三味一体で実践する
・北辰一刀流では、足を鍛えるのに、豆試合(豆を道場にまく)がある。
・また、足を鍛えるため、薙刀術を教える。薙刀術はきわめて実戦性が高く、北辰一刀流の薙刀は荒く、他流試合は禁止とされた。
・龍馬はおそらく北辰一刀流剣術の目録「北辰一刀流十二箇条」を授かっていないだろう
・新選組隊士がおさめた剣術で、天然理心流(近藤勇の試衛館)の次に多いのが北辰一刀流であった

(千葉佐那)
・龍馬は乙女あての手紙で佐那を紹介している
その中に「おさな」は元の名は「乙女」という、平井かほよりも少し美人であるという内容が書かれている
・佐那は龍馬より3歳下
・維新後、学習院女子部の舎監として奉職
 舎監時代、自分が龍馬の許婚であった、と語った
舎監の職を辞したあと灸を生業とする(「千葉灸治院」)
59歳で亡くなる
・龍馬に婚約の自覚があったかどうかは不明
・14歳にして琴の皆伝の腕前だった

(平井加尾)
・平井収二郎の妹。乙女とは一弦琴を学ぶ同門
・龍馬は機密を探るため平井加尾を御所に入り込ませようと思った
・司馬遼太郎「竜馬がゆく」(産経新聞に連載された)に出てくる福岡田鶴(架空の人物)のモデルになったと思われる

(士学館)
・鏡新明智流、桃井春蔵直正、蜊河岸
・武市半平太(小野派一刀流皆伝)は一時、塾頭を務めていた
・「位は桃井」格調が高く、気品があった
・岡田以蔵も同門
・土佐築地藩邸の近くにあった

(練兵館)
・神道無念流、斎藤弥九郎
・「力は斎藤」
・桂小五郎、高杉晋作も同門

(心形刀流)
・伊庭八郎
・北辰一刀流、鏡新明智流、神道無念流の江戸三大道場に心形刀流を加えて四大道場とも呼ばれる

(山本琢磨)
・安政4年(1857)8月4日、山本琢磨は道具屋、佐州屋金蔵とぶつかり、遺されたロシア製の懐中時計2個を故買屋に転売
のちに、沢辺家の入婿となり沢辺琢磨と改名、ギリシャ正教と出会い、日本初のハリストス正教会の長司祭となる。東京神田のニコライ堂の建設にも尽力した。

(桜田門外の変)
・安政7年(1860)3月3日、井伊直弼 暗殺される

(土佐勤王党)
・文久元年(1861)9月、土佐勤王党(武市半平太)に加盟
・「勤王組」という特殊な髪型をした
・武市半平太は白札で、小野派一刀流の道場を開いた。(嘉永3年)
・慶応元年うるう5月11日の切腹のさいは「三文字」に切った(帯屋町の南会所で切腹、岡田以蔵も同日斬首)
・岡田以蔵(小野派一刀流、鏡新明智流、直指流を学んでいる)は天誅を繰り返した

(坂龍飛騰)
・龍馬が志士として飛び立つという意味(樋口真吉「遣倦録」)

(脱藩)
・文久2年(1862)3月24日、沢村惣之丞と脱藩。夜の天候は大雨(真覚寺日記)
檮原村で那須信吾の家に泊って、宮野々関という関所を通り、国境をこえて伊予国へと脱藩していった
那須信吾は「天狗さま」と呼ばれていた。
・高知から檮原までの道の難所は「布施ヶ坂」
・28日朝、長浜から船に乗り、28日の夜、上関(現山口県熊毛郡上関町)に寄港。
・29日朝、出帆し、29日の夜、三田尻に着く。30日三田尻から陸路、下関に向かった
・土佐における最初の脱藩者は吉村虎太郎
龍馬は薩摩に向かうが入国はできなかった。その後、大坂、京都から江戸へ向かった
大坂を通過するとき、樋口真吉に1両贈られた
脱藩する際に兄秘蔵の肥前忠広の刀を渡したのは乙女とされる(「維新土佐勤王史」)
肥前忠広は佐賀藩工
栄は16年も前(1845)に死亡していた
・伊予国小屋村の白滝で湧き水を飲んだ。(「男水」と呼ばれている)

(勝海舟)
・文久2年(1862)12月5日 間崎哲馬、近藤長次郎とともに松平春嶽(越前福井藩主)に会う(福井藩の記録「続再夢紀事」)
・松平春嶽の紹介状を得て、文久2年(1862)12月9日 門田為之助、近藤長次郎とともに入門志願の目的で勝海舟(赤坂氷川町)を訪れ門人となる

(脱藩赦免)
・文久3年(1863)1月15日 勝海舟(順動丸)が下田寄港中の山内容堂(大鵬丸)を訪問(宝福寺)し、龍馬の脱藩罪赦免が内諾される
「歳酔三百六十回 鯨海酔候」と記した一筆を与えられた
・文久3年(1863)2月25日 正式に脱藩罪が赦免される

(神戸海軍操練所)
・文久3年(1863)4月23日 勝海舟、家茂より操練所設置を命じられる
・龍馬は神戸海軍操練所の塾頭ではなく、神戸海軍塾(勝の私塾)の塾頭である
・5月17日の「エヘン顔」の手紙(乙女宛)
「天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生の門人となり」神戸海軍操練所開設の夢が実現しようとしていることを「エヘン顔」をして書いている
「先きやくぶん」とは海舟の代行として用事を言い付かる役目(龍馬は海舟の弟子であるからゲストの「客分」になるはずがない)
・文久3年(1863)6月、乙女あてに「日本を今一度せんたくいたし」の手紙をかく
・錨の形の神戸海軍操練所の碑があるのは、神戸市中央区新港町

(8・18の政変)
・文久3年(1863)8月18日
・文久3年(1863)9月21日、武市瑞山らが投獄される
・元治元年(1864)4月26日 京都見廻組が発足
・元治元年(1864)5月29日 幕府、神戸海軍操練所開設の覚書を発する

(見廻組)
・定員は400人とされていた


(お龍)
・元治元年(1864)5月ごろ、楢崎将作の長女お龍は七条新地の旅籠「扇岩」で働いていた。そこで龍馬はお龍を見初めた(反魂香)
・「反魂香」は明治32年、雑誌「文庫」に連載されたお龍の回顧談で、安岡金馬の三男、安岡秀峰が聴取しまとめたもの(「汗血千里駒」の誤りを訂正するため)
「反魂香」全6回、「続反魂香」全5回、「維新の残夢」全3回として連載
・もう1種のお龍の回顧談は、明治32年、「土陽新聞」に掲載された「千里駒後日譚」6回、「千里の駒後日譚拾遺」3回(川田瑞穂が書きとめた)
・お龍は龍馬と結婚して「鞆」と改め、明治8年西村松兵衛と再婚し、「ツル」と改名した
 再婚当時、お龍は9歳若く年齢を偽っていた。(戸籍に生年月日が嘉永3年(1850)6月6日と記されている。実際は天保12年(1841)生れ)
・お龍は、明治39年 横須賀市の観念寺裏長屋で亡くなった
 大正3年 信楽寺に墓碑が建立され「阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれた
 横須賀市米が浜通りに「坂本龍馬の妻・おりょう終焉の地」の碑が建つ

(池田屋事件)
・元治元年(1864)6月5日の池田屋事件で望月亀弥太は角倉邸の脇で自刃、北添佶磨は殺害された

・8月1日、青蓮院塔頭金蔵院の住職智息院の仲人で、本堂でお龍と内祝言をあげた
その後、お龍を寺田屋に預ける

・元治2年(1865)3月12日、神戸海軍操練所が廃止される
 神戸海軍操練所が閉鎖されたあと、龍馬たちは薩摩藩の大坂蔵屋敷に匿われた
・薩摩藩大坂蔵屋敷の前には薩摩屋万兵衛という口入屋(薩万といわれた)があり海援隊の大坂詰所になった

(社中)
・慶応元年(1865)5月から7月ごろ 「社中」が結成される
・「社中」とはグループを指す言葉で、一般名詞である
・創設期のメンバーは、龍馬、高松太郎、千屋寅之助、新宮馬之助、沢村惣之丞、近藤長次郎の6名
・白袴をはいていた
・龍馬の手紙に「亀山」の文字が記されることはない
・「隊規」が社中にあったとする記録はない
・社中結成の第一目的は薩摩藩と長州藩を和解させるため
・薩摩藩から月3両2分の手当が出された(各人が3両2分を受け取っていたことを意味しない)
・事務所は小曾根英四郎の別邸に置かれた
・「社中」の初仕事が、薩摩藩名義での蒸気船の購入(イギリスの商人グラバー(日本名は倉場)から)
ユニオン号、イギリス製、300トン、代金37500両(長州藩が支出した)
ユニオン号→桜島丸(薩摩藩が命名)→乙丑丸(長州藩が命名)
・旗は丸に十字の島津家のものを掲げた
・7か条の秘密条約(桜島丸条約)が近藤長次郎と井上聞多(長州藩士)の間で結ばれていた
・新宮馬之助(のちの名は寺内新佐衛門)は「焼き継ぎ屋」とも「赤づら馬之助」とも呼ばれた


坂本龍馬 幕末歴史検定ノート 1

2010-02-07 18:08:41 | HKT48 AKB48
坂本龍馬 幕末歴史検定ノート 1

年表
天保6年(1835)1歳 11月15日 高知城下本丁筋1丁目に生れる
弘化3年(1846)12歳 小高坂村楠山塾に入門するがほどなく退塾
嘉永元年(1848)14歳 小栗流 日根野弁治道場に入門
嘉永6年(1853)19歳 3月17日 江戸遊学(1)砲術修行のため江戸へ出立
    江戸行きが剣術修行のためだったと裏付ける史料が発掘されない限り、
江戸行きの目的は砲術修行にあったと言える
嘉永6年(1853)19歳 6月3日 ペリーが神奈川の浦賀に来航
嘉永6年(1853)19歳 12月1日 佐久間象山塾(西洋砲術)に入門
安政元年(1854)20歳 6月24日 土佐へ帰国
安政元年(1854)20歳 11月 河田小龍に会う
安政2年(1855)21歳 11月6・7日 徳弘孝蔵門下の仁井田浜での砲術稽古に参加
安政2年(1855)21歳 12月4日 父 八平59歳で死亡
安政3年(1856)22歳 8月20日 江戸遊学(2)臨時御用で江戸に召集された
安政4年(1857)23歳 8月4日 山本琢磨(武市半平太の門下生)の時計拾得事件に遭遇
安政5年(1858)24歳 1月 千葉定吉より「北辰一刀流長刀兵法目録」を授与される
安政5年(1858)24歳 6月19日 日米修好通商条約を締結(総領事ハリスにせまられる)順番はアメリカ→オランダ→ロシア→イギリス→フランス
安政5年(1858)24歳 9月3日 土佐へ帰国
安政5年(1858)24歳 11月23日 住谷寅之介(水戸藩)らと面談
安政6年(1859)25歳 9月20日 徳弘孝蔵(砲術)に正式入門
文久元年(1861)27歳 9月 土佐勤王党に加盟(192人の名簿の9番目)
文久2年(1862)28歳 1月15日 讃岐国丸亀での剣術修行という名目で長州にむかい、久坂玄瑞と面談
文久2年(1862)28歳 3月24日 沢村惣之丞とともに脱藩
文久2年(1862)28歳 8月 江戸に入る
文久2年(1862)28歳 12月5日 間崎哲馬、近藤長次郎とともに松平春嶽(越前福井藩主)に会う
文久2年(1862)28歳 12月9日 門田為之助、近藤長次郎とともに勝海舟を訪れ門人となる
文久3年(1863)29歳 1月15日 下田寄港中の山内容堂(大鵬丸)に勝海舟(順動丸)が面談し、龍馬の脱藩罪赦免が内諾される
文久3年(1863)29歳 2月25日 正式に脱藩罪が赦免される
文久3年(1863)29歳 4月23日 勝海舟、家茂より操練所設置を命じられる
元治元年(1864)30歳 4月26日 京都見廻組が発足
元治元年(1864)30歳 5月29日 幕府、神戸海軍操練所開設の覚書を発する
元治元年(1864)30歳 6月5日 池田屋事件 
元治元年(1864)30歳 8月1日 お龍と内祝言をあげる
慶応元年(1865)31歳 3月12日 神戸海軍操練所、廃止される
慶応元年(1865)31歳 5月から7月ごろ 「社中」結成
慶応2年(1866)32歳 1月22日 京都の薩摩藩邸で薩長盟約成る(西郷隆盛と桂小五郎)
慶応2年(1866)32歳 1月23日 近藤長次郎、密航計画が露見して自刃
慶応2年(1866)32歳 1月24日 未明、三吉慎三と共に、寺田屋(現在、旅館として営業している)で襲撃される
お龍はお春という名で働いていた
慶応2年(1866)32歳 2月5日 薩長盟約の内容を記した手紙に裏書きする
慶応2年(1866)32歳 3月10日 鹿児島に到着
慶応2年(1866)32歳 5月2日 ワイルウェフ号が沈没
慶応2年(1866)32歳 6月17日 ユニオン号、門司を攻撃
慶応2年(1866)32歳 10月28日 「太極丸」を受領
慶応3年(1867)33歳 1月13日 後藤象二郎と会談(長崎の清風亭にて)し、土佐藩と和解
慶応3年(1867)33歳 1月22日 上野彦馬の写真館で写真撮影
慶応3年(1867)33歳 4月 海援隊隊長に任命される
慶応3年(1867)33歳 4月23日 午後11時ごろ、いろは丸(大洲藩から借りた)と紀州艦明光丸が衝突し、いろは丸が沈没
慶応3年(1867)33歳 6月9日 後藤象二郎と共に夕顔丸で長崎を出港し、兵庫へ向かう船中で「八策」を提示したという
慶応3年(1867)33歳 6月22日 薩土盟約が成立(京都三本木の料亭吉田屋にて)
慶応3年(1867)33歳 7月6日 イカルス号(イギリス艦)事件
慶応3年(1867)33歳 9月14日 オランダ商人ハットマンからライフル銃1300挺購入の契約を結ぶ
慶応3年(1867)33歳 10月14日 慶喜が大政奉還を上奏し、15日勅許
慶応3年(1867)33歳 11月15日 近江屋(しょうゆ屋)で中岡慎太郎と共に襲われ死亡
その後、京都東山の霊山墓地にほうむられた
お龍の墓は、神奈川県横須賀市、信楽寺内にある