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2016年12月14日 | 説教
「イエスは主である」 望月 修


 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。(マタイ五・三七)



 主イエスは、この個所の直前で、姦淫をめぐって、安易に離縁することの問題、むしろ、結婚そのものの大切さを語っておらました。結婚は、神の御前での誓約によって、成り立ちます。姦淫は、夫妻の関係を壊すだけでなく、誓約を破るものでした。
 そこで、「誓約する」とはどういうことかを、お語りになる必要が生じました。「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない」(三三ー三四)。誓約すること自体を禁じておられるように思われます。主イエスの真意はどこにあるのでしょう。
 普段は、誓うことは滅多にないかもしれませんが、大事な時に誓約が求められます。結婚もその一つですが、裁判所やスポーツの試合などでもあります。教会では、洗礼を受ける際や、牧師、長老、また執事などの任職式において、誓約が求められます。
 私たちは、何故、誓うことが求められるのでしょう。ある人は、「人間は、嘘つきで信用できないから」と申しました。それほどでないにしても、本音と建前を使い分けているところがあります。公における大事な局面で、誓うことが求められるようなったのです。
 主イエスは、「一切誓いを立ててはならない」と命じておられます。このように強く仰せになったのは、続いて、主イエスが指摘なさっておられるように、当時、「天にかけて」、「地にかけて」、「エルサレムにかけて」誓う、ということがなされていたからです。中には、自分の「頭にかけて」誓う者もいました。このような言い方をして、誓いが果たせなくても言い逃れができるようにしていました。つまり、「神にかけて」誓っていませんので、その責任は負わなくてもよい、ということになっていたのです。誓いが、人間だけの便宜的なものに成り下がっていたのです。それだからこそ、主イエスは、「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」(三七)と戒められたのであります。
 誓約は、神を呼び奉(たてまつ)り誓うことです。その事実を軽んじ、安易に誓うのは、神を冒涜することになります。旧約聖書の「申命記」に「主に対して誓ったことは、必ず果たせ」と命じられ(三三に引用)、主イエスのこの命令が「十戒」の第三戒「主の名をみだりに唱えてはならない」と深い繋がりがあると言われるのも、この事実に由ります。
 そこで、私たちにふさわしのは、誓うことよりも、実は「祈る」ことでありましょう。私たちの誓いは、自分の願いを神の了解を得ずに、勝手に聞かれるはずであると思い定めている場合がほとんどです。そのことから、その場に、神が実際におられるかどうかは、どちらでもよくなってしまうのです。そうなれば、神の御心は、全く無視されたことになります。それに対して、祈りは、自分の願いについて、神の答を得ようとすることです。少なくとも、祈りは神がいることを信じています。神に願うことによって、神のお答を知り、その御心に従おうとするのが祈りです。真実な祈りほど戦いが伴い、ついには神の御心に感謝をもって従うようになるのです。
 この部分の最後で、「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい」(三七a)と仰せになったのは、祈りの言葉としてであります。御自分において明らかになる十字架と復活による救いを踏まえて語られています。その恵みを『然り、然り』と感謝をもって受け取ったらよい、そして、その恵みを強調するために、それ以外のことは、『否、否』と言え、と言われたのであります。

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信仰の戦い

2016年12月14日 | 説教
「信仰の戦い」 望月 修


 もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。
   (マタイ五・二九ー三〇)


 主イエスがなさった「山上の説教」を続けて読んでいます。御自分に聞き従う弟子(つまり信仰者)たちへの祝福(八つの「幸い」)の言葉を語られたあと、地上での彼らの役割(「地の塩」「世の光」)を明らかにされました。そのうえで、御自分こそが旧約聖書以来の神の言葉である「律法」や「預言」を完成する者であることを宣言され、戒めの幾つかを取り上げます。これらの戒めを、どのように聞き、実際の信仰生活に生かすべきかを語っておられるのです。どれも、当時の信仰生活の様子を反映していました。
 最初に取り上げられたのは、「殺すな」という戒めでした。冒頭の個所は、「姦淫するな」をめぐってであります。いずれも、律法を代表する「十戒」にある戒めです(第六戒、第七戒および第一〇戒)。私たちは、このような個所から、主イエスが「律法」を、どのように捉えておられたかを知ることができます。わけても、これらを取り上げつつ、「しかし、わたしは言っておく」と主イエスが宣言しておられることを見落とせません。主イエスは、律法に優る者、まさしく神の子として、権威をもって、語っておられます。
 これらの戒めは、私たちがしてはならない、するならば困ったことになる、というだけでなく、背くならば、私たちは神に裁かれ、神によって罪ありとされることにあります。しかも、このような戒めが、ただ人間による解釈によって守られていればよいとされるのでなく、神の子である主イエスが御覧になられて、正しく守られているかが問われていることに気づかされます。
 「山上の説教」に明らかにされる、もう一つのことは、信仰は神の御前での生活であることであります。当たり前のように思われますが、いつの時代にあっても、人の目や評判を気にする誘惑があります。神の御前に、主イエスを救い主として信じ従う、私たちに語られているのであります。
 そこで、冒頭の句ですが、主イエスは、どうして、こんなにも厳しく、激しい言い方をなさるのでしょう。それは、私たちに罪を犯させず、神の裁きに耐えられる、信仰の戦いを求めておられるからであります。
 「ヘブライ人への手紙」は、主イエスによる救いを信じる私たちに、「気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」(一二・三ー四)と語っています。主イエスを「信仰の創始者また完成者」と仰ぎ、私たちを罪から救うために戦われたその戦いを思いみる時、私たちもまた信仰の戦いを正しく戦うことができます。
 「ヨハネによる福音書」においては、主イエスは、姦通の罪を犯した女性に向かって、このように仰せになりました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(八・一一)。私たちに代わって、罪との凄まじい戦いを経て勝利してくださり、その恵みに信じる者をあずからせてくださるのです。主イエスのおかげで、罪は赦され、復活の栄光にあずかることが約束されています。この希望のもとで、こらからのちは罪を犯さないように戦う勇気と力が与えられるのであります。
 信仰者の戦いは、神の御子の十字架において成し遂げられた罪の贖い、つまり、私たちが主イエスの恵みの中に踏み留まり続けるためにある、と言ったらよいでしょう。少なくとも、信仰者と言えども、地上にある限り、戦いを避けることはできません。主イエスを仰ぎつつ、信仰の戦いをなしてまいりたいと思います。

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2016年12月14日 | 説教
「人を裁くな」 望月 修

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。」(マタイ7・3-4)


 地上での主イエスの父親ヨセフは大工でした。ご自分の目にもおが屑が入ることがあったでしょう。傍らには丸太も置かれていたに違いありません。その時の経験が、冒頭の譬えに反映したかもしれません。主イエスは、「人を裁くな」(一節)と命じられ、この譬えを語られたのです。
 人を裁くことは、私たちが毎日しています。よくないことだと思いつつ、抱えた不平や不満を解消することもあって、やみつきになるのでしょう。私たちの生き方に深く関わる大きな問題であります。信仰者であれば、信仰者同士だけでなく、信仰を持っていない人に対しても、大切なことであるに違いありません。
 ある人は、人を裁くなということは、「主の祈り」の第五の願いに関係がある、と言っています。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」です。「主の祈り」は、既に読んでまいりましたように、「山上の説教」の中心でありました。
 私たちはいともたやすく人を裁くのですが、実は、たいへん難しいことです。自分だけがいい子になって、人を裁くことは許されません。裁く自分も問われて然るべきです。それなら、神の御前で、はじめてできることであります。
 私たちは、裁こうとしているその相手と、神の御前で、対面している時にだけ、その人を裁くことができるのではないでしょうか。神の御前ですから、裁こうとしている自分をも見なければなりません。すると、自分もまた罪があることに気づかされ、相手だけを裁くことはできず、むしろ、その人を赦すほかない、ということになるのであります。
 主イエスは、「人を裁くな」と命じられた直後に、「あなたがたも裁かれないようにするためである」と仰せになっています。これは、お互いに裁き合わないようにということでなく、「神」に裁かれないように、お互いに赦し合うことを勧めておられるのです。
 この個所を読む際には、同じ「マタイによる福音書」一八・二三ー三五を読んでみるのがよいと思います。そのところで、主イエスは、神に赦された者として、人を赦すことの大切さを語っておられます。
 私たちは、神に裁かれるはずの者として裁かれてもおかしくなかったのです。それなのに、キリストの救いによって、裁きを免れているのです。莫大な借金を負っていたのに全部帳消しにしてもらった「家来」は、キリストに罪を赦されている私たちであります。キリストを主と仰ぐ者は、人を裁くことよりも、赦すことこそふさわしのです。
 「山上の説教」に戻りまして、冒頭の個所で気づかされることは、「あなたがた」でなく「あなた」になっていることです。人のことならどんなに小さなことでも判るのですけれども、自分のことはどんなに大きなことでも判らずにいるのです。相手も、自分も同じであるというのでなく、自分の方が、よほど悪いのです。人を裁くということで、私たちがよくよく考えていなければならないことではないでしょうか。
 主イエスは、「偽善者よ」と指摘しておられます。私たち一人びとりが、神に「自分の目から丸太」を取り除いていただくほかありません。この「丸太」は、本当のことが見えていないのに裁いている私たちの「罪」を暗示しています。
 私たちの罪を取り除くために、十字架についてくださったキリストがおられます。キリストを救い主と信じ仰ぐことで、自分の「罪」を取り除いていただこうではありませんか。その信仰に神が働いてくださいます。その時には、「兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」ようになるでありましょう。

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2016年12月14日 | 説教
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」 望月 修


 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(マタイ六・三一ー三三)


 「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」
 「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。・・・今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。」
 このように語って来られた主イエスが、「だから」と言われて、冒頭の言葉を告げています。
 私たちの「命」や「体」は、神から与えられています。神は、空の鳥、野の花や草以上に、この私たちを顧み養ってくださるのです。 ところが、私たちと言えば、「命」や「体」を自分たちの力で少しでも長らえさせ保とうとしています。そのために、たくさんの物を持とうとしてみたり、地上に「富」を築こうとしています。
 しかし、私たちは、神と富との両方に仕えることができるようには造られていません。世の富や神ならぬものを、神のようにして、かえって、それらに縛られた不自由な生活をしていないでしょうか。
 「命」と「体」が与えられているのは、ただ長らえさせ保つためではありません。神から託されている使命があるのです。その使命を果たすことができるように、神の顧みと格別な配慮があります。それを無視して、「命」や「体」をただ長らえさせ保とうとするから、思い悩むのです。「信仰の薄い者たちよ」(三〇)と主イエスが指摘なさっている通りです。
 そこで、改めて(二五節で既に語られていた)、主イエスはお命じになるのです。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ」と。
 「異邦人」とは、信仰のない者を言うのです。神の顧みと格別な配慮があることを信じていませんので、これらのことをめぐって「切に」つまり<特別に>求めるのです。それに対して、神を父と仰ぐ信仰者は、「食べ物」や「衣服」のことで思い悩むことをやめ、「命」と「体」が何のために与えられているかを考えようとします。そして、与えられている「命」と「体」とを、神の栄光のために用いようとし始めるのです。
 私たちは、神は愛である、神は私たちを救ってくださる、ということを信じています。しかし、それと同じくらい、神は私たちに必要なものが何であるかをよく知っておられる、と信じているでしょうか。それどころか、私たちは、この地上で生きて行くうえで、本当は何がどう必要なのか、よく分かっていないのではないでしょうか。他の人と比べて、世間並みのことを考えて、それが必要だと思っているだけに過ぎない場合もあります。愚かな見通しや計算をやめて、私たちの父なる神は私たちに必要なものをすべて知っておられる、と信じることの方がどれだけ確実であるかです。
 そこで、主イエスは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と仰せになるのであります。「何よりもまず」とは、<ほかのことはどうでもよい、ただこれだけ>ということです。「神の国」は、主イエスのいちばん伝えたいことでした。神の支配が、ご自分において、到来し実現しているからであります。そこでは、「神の義」が貫かれています。私たちの理想や努力ではありません。神が、御子によって、私たちを救うことにあります。
 それなら、「神の国と神の義を求める」とは、神の御子イエス・キリストの十字架と復活による救いだけを求めたらよい。あとのことは、神に任せておきなさい、ということです。自分と自分の生活領域のすべてを、神の支配のもとに、何よりも神の御子による救いそのものである十字架と復活の恵みのもとに、置くことであります。

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わたしをおいてほかに神があってはならない

2016年12月14日 | 説教
「わたしをおいてほかに神があってはならない」
           望月 修

 だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。(マタイ六・二四)


 信仰生活は、富を持つことがいけない、というのではありません。富に惑わされないようにすることです。更に言えば、富をどのように用いるかです。
 富と言えるほどのものがないから、自分には関係がない、と思う人がいるかもしれません。しかし、自分が頼みとするものが、神以外あれば、それが、その人の富になるに違いありません。
 私たちには、誰にでも、必ず「主人」と言えるものがあります。それが、神であるのか、それとも、神以外のものになっていないか、ということです。財産がなくても、あるいは、あっても、自分の主人は自分であると主張する人がいます。自立していることを言いたいのでしょうが、自分の欲に振り回されているというのが実情ではないでしょうか。独立した生き方をしているようでいて、陰では他人を必要以上に気にしていたり、いつのまにか、他の人の言動に影響されている、ということだってあります。この自分は、自分の主人にさえなっていない、というのが、本当ではないでしょうか。それだけでなく、私たちは、どこかで、自分や自分たちの真の主人になってくれる人を求めているのです。
 私たち人間は、神と関わって生きて行く存在として、造られています。神を主人にして生きるとき、本当に人間らしく、また自分らしく、真の自由を生きることができるようにされのであります。
 ところが、そのように神に造られている私たちが、神との関わりを断ってしまったのです。それが「罪」なのですが、神から自立して、神にも束縛されない自由な人間になれたかというと、かえって、真の主人を失って、どう生きてよいか分からなくなっているのです。神を捨てた人間は、神以外のものを神のように頼りにする傾向を絶えず持つようになりました。その最たるものが、「富」であり、富を実現するような「もの」なのです。
 主イエスは、このような事態に陥っている私たちに向かって、語っておられるのです。もしかしたら、あなたがたは、あたかも、二人の主人に仕えるかのように、「神」と「富」との両方に仕えようとしていないか。そのように、どっちつかずの中途半端な仕え方をしていないか。しかし、言っておく。あなたがたは、二人の主人に、同時に仕えることなどできないのだ。あなたがたは、そのように神に造られていないのだ、と。
 注目すべきことは、主イエスが、「できない」と言われていることです。神と富とに仕えてはならない、それはいけないことだ、と仰せになっていないのです。そうではなくて、そういうことは、あなたがたに「できない」、と指摘されているのです。
 私たちは、何らかの富なしには、生きることはできないかもしれません。しかし、だからと言って、富を主人にすることができるわけではありません。「主人」にするとは、それに仕え、その支配のもとに、その恵みを全く頼りにし、そのお陰で生きることです。
 最初にも申しましたように、私たち人間は、主人を持たなければ、本当は生きて行けないのです。そういう私たちは、結局のところ、神を主人にするしか生きることができません。そればかりか、神を真の主人にするとき、私たちは真の自由と平安とを得ることができます。感謝することもできます。与えられた富、託されたものを用いて、他者を助けることさえ、できるようになるのであります。
 伝道者パウロも、次のように語っています。「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」(ローマ六・一六)。

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